音が消えたような世界で
薫木こんぶ
第1話
いつから私はイヤホンを付け始めたのだろう。
曲を作り、機械に歌わせ、ネット上で発表し広告収入を得る父の影響で、物心ついた頃には既に私の周りにはSNSや動画投稿サイト、作曲機器があった。
両親は共に音楽が大好きで、私の家ではテレビの代わりに音楽が流れていた。
洋楽やクラシック、ラップにJ-POP・K-POPからジャズ、エレクトロ・スウィングまで。
幼い頃からある意味での音楽の英才教育を受けてきて、私の頭にはいつもたくさんの音楽が流れていた。
煩わしい。
とても煩わしいのだ。別に好きな曲でも無いのに妙にキャッチーなメロディーを持っているせいですぐに覚えてしまって、その曲を両親が家で流していなくても、無音の環境にいると頭の中でサビの部分が何度も何度も踊り狂う。
ーーーねぇねぇ ねぇねぇ どうしてそんなにムスッとしてるのーーー
「……うっざ」
曲と曲の間、ほんのわずかな無音の間隙を突くメロディー。まるで教室の端にいる陰キャの申し子にいきなりタメ口で話しかけるパーソナルスペースの配慮も何も無い陽キャの申し子だ。
歩く振動で外れかけていたイヤホンを再び耳の奥に強引に押し込むと、その万全なスタンバイを待っていたかのように次の曲が流れ始めた。
耳の奥まで入れてしまったから逆に音が聴きづらい。
「めんどくさ……」
イヤホン位置の微妙な調整をして一番よく聴こえるようにする。
ーーーそう大丈夫 アイラービュー ワイドンチュー リーブフロムゼムーーー
流れてきたのはラップだ。上手くライムを刻んでいるとは思うが、歌詞はよくわからない。英語なんてもってのほかだ。
歩く速さが、刻まれるビートと一体化する。そのままリズムよく歩道橋を降りようとすると。
ふと、肩に誰かの手が乗った。
驚いて後ろを振り向くと、我らがC組の陰キャの申し子、御手洗薫子がいた。
私と目を合わせようとせず、口をパクパクと動かして、体をモジモジさせている。その金魚のような海藻のような仕草にイラッときて、低い声で言った。
「何」
目の前の陰キャはやはり口をパクパクと動かしているだけで、、今度は目をギョロギョロさせ始めた。
私はため息を吐いて無視しようとする。……と、自分の耳にイヤホンが入っていることに気付いた。
ーーー腐り果てる愛憎の底に眠る代償ーーー
相も変わらず意味のわからない歌詞のラップが流れている。
私は片方だけイヤホンを外して、陰キャの方に向き直した。
「……それでもI'll show 俺の根性So本性……」
陰キャの小さい声が聞こえる。
「七転び八起きその果てにまた転ぶも一興?」
そう答えると、はっとしたように陰キャは続ける。
「八転びさらば九起きそう何度でも立ち上がる闘志……」
「終わりよければ」
「すべてよし」
「見せてやるぜ」
「底意地」
「最後に笑うが勝者」
「故にそうさ俺の事だ!」
やっと陰キャが私の目を見る。なんの問答だよと思いながら、何で私が聴いているラップの歌詞を知っているのか疑問に思った。
「何で」
「音が……漏れてて」
「そんなに?」
「……うん」
「……」
「……」
ハイ来た陰キャ特有スキル【話が続かない】
なんなんだよと思いつつこっちから聞く。
「なんの用」
「……あっ、えっと、その……これ」
彼女が私の目の前に差し出したのは、ワイヤレスイヤホン。そういえば予備としてリュックのポケットに入れていたものだった。
雑に突っ込んだから落としてしまったんだろう。
「いいよあげる。他にもいっぱいイヤホン持ってるし、いらない」
「……え、あっ……だから……ごめんなさい」
「は?なんで謝んの?」
彼女の小さく震えた聞きづらい声にも人と話すことを怖がっているような態度にもイラついて少し荒っぽい声を出す。
「だって…うざいって……めんどくさいって言ってたし、ご…ごめんなさい話しかけちゃって。曲聴いてたの、邪魔しちゃって……」
そんなことを言った覚えは……
「あ」
そういえばそんなことを言った気がする。
だが、「……うっざ」と言ったのは頭の中で何度も流れるメロディーに対してだし、「めんどくさ……」と言ったのはなかなか定まらないイヤホンの位置に対してだし彼女に対してではない。
そもそもそんなに前から私の後ろにいたなんて気付かなかった。
「別に。最初アンタがいたこと気付かなかったし。アンタに対して文句言ったわけじゃない。イヤホン、いらないなら適当に捨てて。じゃ」
こういうモジモジしている人間と話すのは正直神経をすり減らされる。さっさと会話を切り上げて、私は歩道橋を降りていく。
もう彼女は、それ以上話しかけては来なかった。
***
ようやく6時間目が終わり、放課後になる。私は即座にイヤホンを付けて席を立った。
さっきから…いや、今朝からずっと、真後ろから見られている感じがする。幽霊とかそんなんじゃなくて、多分今朝の陰キャだ。
後ろを振り返ると、やっぱり今朝の陰キャ、薫子がこっちを見ていた。
「何」
今朝の反省を生かして、すぐに片方イヤホンを外し、いつ小さい声が空気を震わせてもその振動を感知できるように耳に神経を集中する。
「……あ、ありがとう」
「は?何が?」
私の反応が予想外だったのか、彼女は「えっ…」と言葉を詰まらせる。
「そ、その…イヤホン」
彼女の手には、大切そうに今朝のワイヤレスイヤホンが握られている。
「別に」
「今朝は…ちゃんとお礼言えてなくて」
もしかして、今朝からずっとこっちを見ていたのは、ワイヤレスイヤホンのお礼を言う機会を伺っていたから?ちゃんとお礼をって、陰キャはそんなことをうじうじ気にしてるの?めんどくさいな。
「よ、よかったら…その、イヤホンの付け方、教えてくれる……?」
その発言に思考が固まった。イヤホンの付け方?そんなの、耳に押し込むだけじゃん。え、何言ってんのこいつ。
「上手く…つけられなくて、すぐ外れちゃうの。あと、これ…どうやって音楽聞けばいい?」
はぁああ?と思わず気の抜けた声が出そうになった。
「なんかアンタ、御手洗って苗字からしてお嬢様感出してたけどホントにお嬢様なんだ。それとも私のこと馬鹿にしてる?」
「そんなことないよ!ごめんなさい…誤解させちゃって……でも、その、私…イヤホン付けるの親から禁止されてるから…」
イヤホンを付けることが禁止って、どんな家庭だ。
「耳が悪くなるって…言われて…」
高校生になってもイヤホン禁止で、しかもそれを律儀に守ってきたからイヤホンの付け方も音楽の流し方もわからないと。物心ついたときには隣に音楽とイヤホンがあった私には到底信じられる話じゃなかった。
「貸して。…まず、イヤホンの電源を入れて、設定からスマホと繋ぐの。噓でしょ設定開けないんだけど。もしかして機能制限かかってんの?」
「あ…ママに設定はいじっちゃダメだよって……」
呆れてものも言えなかった。高校生にもなってそんなことすら許されないとは。やっぱりお嬢様のご家庭はひと味もふた味も違う。
「ん」
丁度外していたイヤホンの片方を渡す。
「…え?」
彼女は困惑した様子だったけれど、説明するのもめんどくさいから彼女の肩を引っ張って後ろから手を回し、彼女の右耳にイヤホンを押し込む。
「……っ!」
途端に彼女の瞳がキラキラと輝いて、まるで新しい何かを発見したかのような笑顔を見せる。
「ぁ……うわっ…はわぁああ…ぁ……」
彼女はしばらく呆けたような顔で、言葉にならない声を発していた。
「……すごい」
音楽が鳴りやんだとき、彼女の頬は紅潮していて、心なしか息も荒くなっていた。
「すごい!すごいよ、耳元で、おっきく音楽が聞こえて…全部聞こえる!歌に隠れてた後ろのサウンドも、ちっちゃくて低い、なんか…すごい音も!」
興奮しているようで、彼女の声は大きくなっていく。
「音って、こんなにたくさんあったんだ!」
まるで世紀の大発見をしたかのように意気揚々と語る彼女に私は圧倒された。
「…すごい、言葉じゃ表せないくらいすごい。こんなにたくさんの音が絡み合って、一つの曲ができてるんだね!」
目の前の陰キャが、何故だか輝いて見えて。
「え……当たり前じゃん何言ってんの」
そんなような、彼女のテンションを下げそうな言葉しか言えなかった。
「如月さんは知ってたの?たった一つの曲をこんなにたくさんの音が構成してるなんて…」
「そうじゃないと、曲なんてつまらないでしょ」
「すごい…すごいね!初めて……私、初めてイヤホンで音楽を聴いたの!」
「……うん」
「ありがとう!こんな、こんな素敵な体験ができるなんて思わなかった…」
大袈裟じゃない?イヤホンで音楽を聴いたくらいで普通こんなに喜ばないでしょ…そんな風に思いながらも、彼女の新鮮なリアクションが面白くてもっと見たくなってしまった。
私はリュックの底からもう一つ有線イヤホンを取り出し、彼女のスマホに付けてあげる。それからイヤホンを彼女の両耳に入れて、ミュージックのアプリから彼女のプレイリストを流した。
「音が……右と左で、流れてる音が違う!」
そんな当たり前のことで驚く彼女がなんだか愉快で。
「ふっ……何?もしかして今度は立体音響で驚いたりする?」
「音が、離れたり、近づいたり…また離れた!あれ…もしかしてこれ、前から後ろに、音が流れてる!電車に乗ってるみたいだよ!すごい!」
最初私に会ったときは、怖がっている様子だったのに今ではすっかり楽しそうで。
「……羨ましい」
自分でもその一言を発した事実に驚いた。なんで、彼女のことを羨ましいなんて…
「ねぇ、如月さん!如月さんのこと、なんて呼べばいい?私のことは薫子でいいよ。良かったら仲良くしよう」
「え…ああ、別に、なんて呼んでくれてもいいけど。……名前で呼ばなければ」
「わかった!如月さん、今日はありがとう。初めてイヤホンで音楽を聴いて…すごかった。世界にはまだ、こんな未知の体験があるんだって!」
わくわくしたような様子で薫子は笑う。
「大袈裟。世界とか未知の体験とか、アンタってまるで箱入り娘じゃん」
私もつられて頬が緩む。すると、彼女の目が赤くなって。
「え、何アンタもしかして泣いてんの?」
「違うよ…まだ泣いてない。でも、すごく嬉しくて。ほんとにほんとにありがとう。こんな感覚、味わったことない」
こんな当たり前のことで喜べるなんて、幸せな人。皮肉交じりにそんなことを思ったけど、口には出さなかった。
スカートを翻し、私は教室の外へ向かう。
「私もう帰るから。そのイヤホンで好きに音楽聴きなよ」
「うん!ありがとう。如月さんと仲良くなれたみたいで良かった。前から気になってたから」
前から気になってた、か。その言葉に引っかかりながらも、深くは追及しなかった。
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