第3章 山狩り
第1話 実働訓練
「次はシュンね。準備してちょうだい」
「はい」
駿の目の前にあるモニターにはスーツを着た紫苑が映っていた。ヘルメットを手に取り、汗に光る前髪を掻き上ている。
駿は指揮卓のモニターから目を上げると椅子をクルッと回して立ち上がった。隣には訓練指導の神酒がマグカップを手に座っている。神酒には珍しい戦闘服姿だった。
「どうしたの?」
「神酒1尉の戦闘服姿が珍しいと思って。多分初めて見ます」
「あら。似合わないかしら?」
「いえ。そんなことは。ただ、戦闘服を着るようなイメージじゃなかったもので……中隊にもあまりいらっしゃらないようですし」
「そうかしら。確かに中隊にいるよりは病院にいる時間の方が長いし、戦闘服より白衣を着てる方が多いけどね。別にフィールドも苦手ってわけじゃないわよ。だいたい演習場内で制服や白衣でいる方がおかしいでしょ」
「ですね」
由宇もそうだが、この人も階級なりの威厳はなかった。だだし、由宇と違って出していないだけだろう。この人の場合、ちょっと怖いと感じる時さえある。
駿はOD色のカーテンを手で払い、奥のハンガーエリアに入った。自分のスーツは太ももから上が前後に開いて大口を開けていた。
タラップを上がり左右のハンドルに捕まって体重を支えると、後ろ向きにゆっくりと足先を滑り込ませた。もともと駿の体格に合わせて作られているため、それだけでかなりしっかりと固定されている感覚がある。その上で腰のバックルを締め上げる。そして最後にエアーバルブに高圧空気を注入すると足の指さえ動かせなくなった。
今日の訓練は実機を使った各個の機動訓練だ。だから上半身に装備を付ける必要性はない。それでも重量バランスを考慮して防弾ベストといった標準装備は装着し小銃も持った。無線機も欠かせない。
「おっと、こいつを付けないと」
駿はNAMマイクのコードをスーツの後ろにあるジャックに手探りで差し込んだ。
普通スーツは操作というものを必要としない。足を動かすだけでいいからだ。だがモード変更などはボイスコマンドで行うようになっている。電源投入さえそうだったからコードを繋げないとスーツは足かせでしかなかった。
「コマンド・パワーオン」
駿が声にならない声でささやくと、起動はものの数秒で完了する。
「エイモックス・パワーオン。モード・ロウ」
スーツが電子音声で告げてくる。骨振動スピーカーが、顎骨を通して内耳に直接響かせるため、激しい騒音の中でも聞き取ることができる。
駿が試しに右足を上げると自分の足の重量さえ感じないほどだった。
駿が壁面にあるスイッチを押すと後ろにあるベイドアがゆっくりとせり上って行く。圧縮空気作動なので、スチームが吹き出すような音がしていた。
駿は急に差し込んできた日差しに目を細めた。同時に青草の匂いが混る熱風が駿の全身を包む。
「コマンド・モード・ハイ」
たたみ折られていたロウワーレッグが伸び、駿の体は指揮支援車の天井よりも高く伸び上がった。ベイドアを開けてなければ頭を天井にぶつけているところだ。
肩越しに後ろを見やると、外では由宇が紫苑のスーツに水をかけながらブラシで擦っていた。由宇は今までにも実働での訓練を行っていたから、今日は裏方にまわっている。
ハンドルに手をかけたままゆっくりと足を降ろす。蹄状のロウワーレッグが地面に着くと、つま先にしっかりした抵抗が伝わってきた。
「どうですか?」
飛び散る水しぶきとうっすらと滲み出た汗をキラキラ輝かせながら、由宇が尋ねてきた。
「本当に自分の足が伸びたみたいな感じ」
シミュレーターでは何度も体験していたが、実際に乗ってみると変な気分だった。
「凄いですよね。でも、気を付けて下さい。転んだら痛いでは済まないですよ」
「そうだよな。落馬するようなもんかな」
「転んでけがじゃ洒落にならないわよね」
そう言って笑う紫苑に由宇はいつにも増して真剣な目を向けた。
「あの……あまり冗談にしないで下さい。実際に事故も起きているんです」
「そうだったんだ。ゴメン、茶化すつもりじゃないよ」
由宇はコクンと頷いた。
「今の話、特に神酒1尉の前では気を付けて下さい。スーツの開発中に親しかった人が亡くなっているんです」
駿は紫苑と顔を見合わせると、ゆっくりと頷いた。
「なるほど洒落じゃないってことだな」
「はい。だから気を付けて下さい」
「了解」
由宇にはああ言ったものの、シミュレータにはない風を切る爽快感を味わうと、自然と顔の筋肉が綻んだ。
燃料電池だけを使用したパワーセーブモードでは歩くことしか出来ない。それでも一歩が大きいため普通の人間が小走りに走りよりも速かった。それだけでも十分に爽快だった。
サーマルバッテリーを使用したフルパワーモードではそれこそ飛ぶような速さだ。
東富士演習場の一角を借りた実働訓練は出来上がったばかりのスーツのテストとフィッティングを兼ねて行われていた。シミュレータは高機能だったが、やはり実機を使用してみると、駿はずいぶんと違いを感じていた。
「フルパワー・ラスト・サーティセコンド」
スーツの電子音声が駿の内耳に警報を響かせる。
全力で走っていた駿は徐々にスピードを落とす。サーマルバッテリーが切れると出力が下がる。サーマルバッテリーが切れる前に速度を落としておかないと前につんのめることになるのだ。
電子音声がパワーセーブモードに移行したことを告げると、駿は無線で報告した。
「ハーフムーン、こちらシュン。フルパワーでの走行訓練終了。異状なし。これから戻ります」
「了解。戻ったらサーマルバッテリーを交換してラスト行くわよ」
駿は土煙に霞む指揮支援車に向けて歩きだした。
「了解」
黒い火山礫が踏み締められて金属的な音を響かせる。駿は身震いした。
いよいよピルミリンを使った実働訓練を行うのだ。
シミュレータで疑似的な反応促進状態は何度も体験している。だが実際に使用するのは適性検査の時以来だった。それに心臓の脇に埋め込まれた自動投薬装置を使うことも初めてだった。
思わず右手を心臓の上に置いた。致死量の数倍にも及ぶ猛毒が心臓脇に埋め込まれていることを考えると、ぞっとしない気分だった。
指揮支援車に着くと、鹿山が交換用のバッテリーを準備して待っていた。両腰にあるリッドを開けて使用済みのサーマルバッテリーを取り出す。作動直後なので直接触れれば火傷するほど熱い。
駿は新しいバッテリーを挿入すると、無線のスイッチをVOXにした。
「バッテリー交換完了。準備OKです」
駿は20式小銃を握る両手に力を込めた。
「了解。ピルミリンの使用可能時間は六百秒、サーマルバッテリーと同じよ。時間はたっぷりあるから、最初はゆっくり動いてみてね」
六百秒ということはジャスト十分だ。戦闘行動を考えるとそれで足りるのかと不安になるが走るだけの訓練では十分すぎる時間だった。
「了解しました」
「演練項目は全力走行と急発進及び急停止。思うように動ければそれでいいわ。何か質問は?」
「演練項目を消化したら他のことをしても良いですか?」
「何をしたいの?」
「ジャンプはどうです」
「かまわないけど、最初は小さいジャンプからにしなさい。全力のジャンプでは建物の2階の窓に入れるほどになる。もし着地に失敗すると脳を損傷するわよ。跳ぶ時も激しい踏み切りじゃなく、ストロークを大きく取るようにしてね。なるべく衝撃を和らげるように、スーツのおかげで、体は強化されても、あなたの頭の中にあるのは豆腐と変わらないってことを忘れないで」
いきなりの脅し文句に尻込みしそうになるが、なるべく多くの動きを体験しておきたかった。駿のスーツは機動性が高く設計されていたし、射撃が苦手な以上、そのマイナスを動きでカバー出来るようにしたかった。
「それとピルミリン使用中は自分の体の使い方にも気をつけて。随意運動の速度が神経反射を上回ってしまうことがあるから、スーツで保護されていない部分、腕や首を無理に使うと痛めるわよ」
「了解。何事も段階的にってことですね」
「そうよ。他になければ、自分のタイミングで始めなさい。こちらはもうモニター態勢OKだから」
駿は深く息を吸うと静かに告げた。
「はい。じゃあ行きます」
そしてピルミリンを注入させ、サーマルバッテリーを活性化させる。
「コマンド・ドーズ。コマンド・モード・フルパワー」
ボイスコマンドを発すると適性検査の時と同じように突然全身の毛が逆立つような異様な感覚に襲われた。同時に頭の芯には氷が突き立てられる。
そして周囲が粘液に包まれたように動きをにぶらせた。
最初はゆっくりと歩きだし、徐々にスピードを上げる。走るというより重力の少ない月の上を跳びはねているような感覚だった。ただ手足は重く駿が思ったようには動いてくれなかった。呼吸も苦しい。
おかげで爽快感はかけらもなかった。
トップスピードに到達すると、そのまま十秒ほど走り続ける予定だった。網膜投影で視界内に表示させているタイムカウントは遅々として進まない。十秒が一分にも感じられた。
全力走行を終えるとそのまま急停止を試みる。以外とこれが難しかった。
ダチョウのようなスーツの足は後ろ向きには蹴り易かったが、前向きに地面を蹴ることには向いていないらしい。
逆に急発進と横への動きは簡単だった。ただし地盤の弱いところでは土をえぐってしまい足がもつれかける。それでも反応は簡単だったしスーツの脚力はくずれかけた体勢を支える十分なパワーがあった。
シミュレータが優秀なせいなのか、駿は早くも退屈さを感じていた。
駿が三度目の急発進からトップスピードに乗せた時、それは不意に視界の隅をかすめた。ほとんどのものが止まったような世界にあって、それは意外なスピードで駿から遠ざかろうとする。それでもピルミリンとスーツで速度を高めた駿ほどではない。その茶色の物体は夏毛に覆われた野兎だった。
もしかしたら捕まえられるかも。
そう思った駿は黒い火山礫を蹴り上げた。
直線での速度は十分だった。むしろ速度を調整しなければならない。
野兎はジグザグに進路を変えて逃げる。さすがにすばしこいが、駿の目には進路を変える前の体重移動さえ見て取れた。駿は次第に野兎との距離を詰めて行った。
駿の動きは獲物を追い立てる狼のようだった。
そして間近に寄ると、駿は足が長いおかげで足元に手を伸ばすことが難しいことに気が付いた。
それでも、大きく踏み込んで腰を落とせば何とか届く範囲だった。
野兎の動きを読んで一気に踏み込むと、体を捻り右手を伸ばした。ボーリングのボールを投げるようなフォームだった。
親指が柔らかい首元に触れると右手を握り締める。駿は確かな手ごたえを感じて体を起した。
そして減速するために体重を後ろに移すと、間延びした神酒の声が響いた。
「何・し・て・る・の!止・ま・り・な・さ・い!」
「ヤバ」
駿はゆっくりと速度を落とすと、足を止めた。
「コマンド・ドーズオフ」
血中に中和剤が注入され、毛が逆立つような感覚は序々に消える。それまでおとなしかった野兎が手の中で急に暴れだした。
腰を落とし、野兎を放してやる。
「シュン、異常は?」
いつもはおっとりした調子で話す神酒が叫ぶように言った。
「無いです。大丈夫です」
「あなた何やったの?」
「兎がいたので捕まえました」
「……」
神酒は絶句していた。
駿を指揮支援車に呼びつけると、神酒は十分以上に渡って一方的にまくし立てた。
そして、駿以上にぐったりして彼を解放すると、指揮卓に肘をついて頭を抱える。
「全く……。何を考えてるんだか知れないわ」
「びっくりしましたね。急に左右に走るものだから……」
横に立っているのは由宇だ。
「段階的にって言ったばかりだったのに」
開発中の事故を知っている神酒は、本気で駿を心配した。
「でも、凄い動きでした。あんな動きが出来るんですね。私もやってみなくちゃ」
そう言った由宇を神酒が睨み付けた。
「もちろん段階的にやります。いきなり無茶はしません」
「そうね。限界性能も確かめておかないといけないわね」
神酒は大きなため息を付くと、マグカップのコーヒーを胃に流し込んだ。
「報告も書かなくてはいけないわね。何かの役に立つかもしれないし」
神酒がマグカップを置くと、指揮卓の隅にある衛星電話が鳴った。
「はい。神酒1尉です」
「私だ。緊急で全員を帰還させろ。情報によると、近々何か動きがありそうだ。所沢に戻って待機だ」
電話は水島からだった。
「了解しました。5時間で帰ります」
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