第3話 防衛医大病院
防衛医大病院と言っても神酒が車を向けた先は人気のない小さな建物だった。専ら研究に使われている棟のように見える。
淡いクリーム色の壁面はところどころにヒビが入り、滲み出した汚れが壁面に流れた痕を付けている。
そうした年を経た痕跡は確かにその建物を不気味なものにしていた。だがそれ以上に玄関以外の窓が全くないという事実がその建物を不気味に見せていた。
立ち止まり壁を見上げていた駿に神酒は言った。
「どうかした?」
「いえ。何でも」
彼女は入口のロックにカードキーを差し込むとテンキーを中指で押す。小さな電子音が鳴ると、彼女は肩で体重をかけて鋼鉄製のドアを開けた。
「怖い?」
彼女は壁面と同じクリーム色に塗られたドアを片手で押さえていた。
「そうですね。ちょっと」
駿は慌ててそのドアに手を添えると、内部に足を踏み込んだ。
普通の病院は服を脱いでも寒くない程度に冷房を抑えてあるものだが、そこは少し肌寒いくらいだった。
そのことが病院が不可避的に持つ不気味さを助長している。それに加えて微かだが何やら獣のような生臭い匂いが鼻についた。
「こっちよ」
神酒に続いて入口右にあった二階に続く階段を上がる。目の前には第十八研究室と書かれた部屋があった。
彼女はその手前を右に折れ奥に進む。駿もすぐさまその後を追った。その時、研究室の左にかかった表札に小さく神酒と書かれた文字を見つけた。
特殊作戦群に所属していながら、病院に研究室を持っているのだろうか。
「入ってちょうだい」
廊下の突き当りまで進むと、神酒は左側のドアを引いた。
「入ります」
誰かが居る事を予想して駿は腹の底から声を出した。だが、そこには歯医者にあるような機械的な椅子があるだけだった。
当然ながら部屋の中にも窓は全くないため、さながらレントゲン室のようだった。
「掛けてちょうだい」
神酒は、その一つしかない椅子を指し示すとにっこりと笑った。予断無く見たなら、恐らくやさしげな笑顔と言えただろう。しかし、今の駿には返ってそのやさしさが気味悪く見えた。
「ちょっと待ってね」
そう言うと、彼女は別室へと続くドアを開け、その向こうに姿を消した。そしてワゴン押しながら再び姿を現した時には、制服の上から白衣を羽織っていた。
「では、これから行う試験について説明するわね」
「はい」
駿は軽口でも叩きたい気分だったが、それだけの余裕は無かった。
「教育隊で全員に行ったパッチテストは覚えているかしら?」
「腕に何か貼り付けて数字に丸をつけたやつの事でしょうか」
駿はそのテストを良く覚えていた。我ながら良く出来たと思ったからだ。一分間のテストの後に隣の同僚を盗み見ると、彼の結果は駿の半分にもなっていなかった。それに試験中にひっくり返って医務室に運ばれた奴が少なくとも三人はいた。
「そう。うすうす感じていたかもしれないけれど、あれはいわゆるパッチテストではないの」
彼女は右手で左ひじの辺りを押さえ、少し俯きながら言った。
「ある薬物に対する反応と適性を調べるための簡易テストだったのよ」
「そして、これから行う試験はその本試験という訳」
彼女は駿の反応を待つように、そこで一息入れた。
「一つ聞いてよろしいですか」
「ええ、いいわ」
駿にも分かっている事は、この試験結果で自分の職種も配属先も決るであろうということだった。
「試験に合格すればどうなりますか」
彼女は再び妖しい笑顔を見せると余裕たっぷりに答えた。
「私たちの部隊にあなたを招待する事になるわ」
「特殊作戦群ですよね」
「そうよ」
彼女は手首を口の辺りに持ち上げて答える。その仕草の一つ一つが妖しい雰囲気を醸していた。
「逆に、落ちたらどうなりますか」
「それは知らないわ。おそらく、無関係という関係になるでしょうね」
駿は深呼吸を一つすると、シートに深く掛け直した。首に掛けた銃弾のペンダントを握り締める。
駿は自らの手で復讐を果たすため、直接に戦闘を行う部隊への配属を望んでいた。特殊作戦を行う部隊なら、それ以上望むべくも無かった。
「分かりました。頑張ります」
それを聞いた神酒は満足そうに笑った。
「基本的に適性テストだから頑張っても頑張らなくても、成績に大した差はでないのよ」
それでも駿は表情を引き締め、ただ肯いた。
「では、試験方法の説明と準備に入るわね」
彼女は駿の緊張を楽しんでいるかのようだ。駿はこの人はサドに違いないと思った。
「先ほども話したとおり、これはある薬物に対する反応を診る試験よ」
そう言いながら、彼女はワゴンのトレー上から注射針を取り上げ、椅子についた装置から伸びるチューブに取り付けた。
「左手を出してね」
そしてゴムのチューブを駿の左腕に巻きつけると、針を駿の腕に刺そうとした。
「あの」
駿は右手を上げて神酒を制しながら言った。
「神酒1尉がされるんですか?」
彼女はちょっとだけ驚いたような表情を見せた。
「あら、安心してちょうだい。私は医官でもあるのよ」
医官で特殊作戦群と言うのが腑に落ちなかったが、そう言われてしまうと、駿にはそれ以上口を挟むことは出来なかった。
「試験は、その薬剤を静脈に注入しながら行います。試験の開始は私が隣の部屋から指示するわ」
駿は黙って肯いた。
「そうしたら七尾2士はこのタッチパネル上にペンでタッチしてくれるだけでいいわ」
神酒は注射針を刺しながら説明を続けた。
「タッチするのは、次々に位置を変えて現れる星印よ。同時に丸も現れるから、確実に判別すること。速度よりも正確性に留意してね」
「それだけですか?」
神酒が言葉を切ったので、駿は確認の言葉を挟んだ。
「そう。これだけよ。時間はかなり長く感じると思うし、感覚に違和感を覚えると思うけれど、画面に終了の表示が出るまでは絶対に続けてちょうだい」
「分かりました」
駿の返答を確認すると、神酒はタッチパネルを駿の目の前に移動させた。
「心の準備はいいかしら?」
隣の部屋に移動した神酒の声がスピーカーから響いた。
「はい。いつでも」
駿は、短く答えるとタッチペンを構えた。画面にはカウントダウン用の数字が浮かんでいた。
「では、始めるわ」
神酒の声が響くと、画面のカウントダウンが始まった。
十、九、八……
数字が六になると、突然全身の毛が逆立つような異様な感覚に襲われる。同時に、頭の芯は氷を突き立てられたかのようだった。
画面の数字が三を切ると、カウントダウンは止まってしまったかのように進まない。
だがカウントダウンが止まったわけではなかった。自分の時間感覚がおかしいことに駿も気づいていた。
画面上の数字が一になり、それが消えると星と丸が画面上に現れた。すぐさま星をタッチすると星と丸が位置を変えて表示される。駿は次々に星を消していった。
やがて、異様な感覚が現れた当初から感じていた腕の重みが増してくる。早く次の星をタッチしたいのに腕が付いてこないのだ。
それに何やら呼吸も苦しい。腕しか動かしていないにもかかわらずジョギングをしているかのようだった。
その時、神酒は隣室で何枚ものモニター画面を見つめていた。
小さなモニターには駿が映る隣室のカメラ画像、心拍数などのバイタル、駿の目の前にあるものと同じ星と丸が表示されている。そして中央のモニターには駿がタッチしている星の数がカウントされていた。
そのカウンターは、まるでスロットゲームのように目まぐるしく変ってゆく。一の位は判別不能で神酒の目は、十の位をやっと追える状態だった。
同時に表示されている平均反応時間は百分の一秒単位だった。
「記録、抜かれちゃったわね」
神酒が話しかけたのは、彼女の隣に立つ一人の少女だった。丈の短いスリムジーンズにパステルピンクのTシャツ、そしてショルダーホルスターにはチーフス・スペシャルが収まっていた。
「私の記録なんて……」
少女の目は輝いていた。
「でも、すごいです」
神酒にはその輝きが期待なのだと分かった。彼女も同じように期待を抱いていたからだ。
それでも自分の気を引き締めるように言葉を継いだ。
「問題はここからよ」
彼女の細いしなやかな指がキーボードを叩く。
「ピルミリン濃度百五十パーセント」
そして、両の手のひらを組むと額にあてて隣室のモニター画像を見つめた。
「お願い。耐えて」
神酒の隣でそうつぶやいた少女は、自分の心臓を抑えつけるかのように右手を握り締めていた。
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