恢復

井内 照子

恢復


 喜乃(きの)は冷たく硬質なものが頬に当たるのを感じた。重たい瞼を開くと蛍光灯の光が目に刺さる。深酒をして、知らぬ間に列車に乗ったようだった。

 列車はどこに向かっているのだろうか、見知らぬ車内に不安になる。

 ドアの上にあるはずの路線図はない。

 がらんとした車内はどこか不気味に感じたが、それよりも深酒が脳を痛めつける。

 列車の揺れにめまいと吐き気が襲ってきて、どうか駅に停まってくれっと願う。

 窓の外はどこまでも暗く、車内の光は深い闇に飲まれている。どうやら列車はひどく田舎の方を走っているらしかった。


 思い返していた。なぜ深酒になったのか、どうして酒を飲むことになったのか、うまく思い出せなかった。


 数時間前、新橋にいた。

 新橋でいつものごとく酒をしこたま飲んでいた。

 いつものごとくしこたま飲む酒の理由など思い出せるわけはない。

 しかししこたま飲むまではいつもだったにしても、意識を無くし、見覚えもない列車に乗るに至る必要などあったのだろうか。


 喜乃はいつも酒をしこたま飲む。自他共に認めるウワバミには違いなかった。

今日の酒は美味かった。

 三年前から始まって、喜乃が中心の一人となって任されていたプロジェクトが一区切りして、ようやく日の目を見ることになることが決まったその祝い酒だった。

 後輩の朝陽(あさひ)や他のチームのメンバーを連れて飲みに出たのだった。

 プロジェクトの進行中にも朝陽を連れて飲みにいくことはしばしあったが、プロジェクトの進行中に飲む酒はしみったれているか、つい熱が入って説教臭くなってしまう。

 今日の酒は美味かった。

 これまでの労苦が報われる勝鬨の酒は美味いのだ。

 朝陽にもこれまで苦労をかけたと労を労った。朝陽は二年前に転職をし、喜乃の会社に入社をした。これまでの実績もあり、喜乃の部下として働くことになったのだ。

 朝陽が入社し一から手取り足取り教え込み、何かあれば言い合うようになると、自然と気が置けなくなったのだが、ある一線は超えられない遠慮というより忙しさもあった。

 それが破られたのが今日だった。


 喜乃は思い出す。

 朝陽に管を巻いて絡んだのだ。そこまではいつも通りだったのだが、今日は周囲があった。周囲は厄介であった、二人の間に入って、というより取り囲み、その関係を固めようとするものだ。

 一次会を終えると二人はみんなに見送られたのだった。

 知った人が見えなくなると、喜乃も朝陽も照れた。酒に酔っているのに、そうした感覚だけはひどく鮮明に感じるものだった。

「おれ、そういった気持ちではなくて、尊敬しています」

 朝陽の真っ直ぐなその瞳を受け止めるだけの素養が自分にないことに、喜乃は少し落ち込んだ。

「ありがとう、もったいないねぇ」

 ヘラついて、そっぽを向く自分が喜乃は惨めに思えた。

「まあまあ、もう一杯行こうじゃないか、行けるだろう、君」

「はい、ついていきます。墓場まで」


 二次会は存外しんみりしていた。

 これまでは飲みに行けば仕事の話をしていた二人であったが、ひと段落した仕事は他所にして、色々と話し合った。そうしてみると、いままでお互いを知っていたようで知らないことがたくさんあった。

 趣味や食事の好み、休日の過ごし方、日課、社会の見方、他愛のないようなことがお互いを満たすのである。

「部活上がりにみんなで啜るラーメン。好きだったんだ、高校のとき」

「その年じゃあ酒を飲むわけでもないしな」

「で、それって、体験の共有に有意味性を感じるということだと思うんだ。学業だけでもヘトヘトなのに、その後部活を頑張ったということ。部活を頑張ったから自分にご褒美をあげるということ。そのために親にどんな風に話を通したらいいのかみんなで知恵を出し合うこと。時にみんなで金を出し合って金のないやつに奢ること。そんな特別ではないのだけど、日常の中の体験の共有の拡張があって、それがなぜだか今でも時折思い出すんです。試験問題のためにやったその時ばかりの勉強の記憶は使えないし、残っていないけど、そうした誰かとの経験は今でもいつでも出せる引き出しの中にあって、今でも同じようにその日を生きるように生きている気がするんです」

「じゃあ君はまだ高校生なのかい。それともしょうもない大人なのか、私と共有するこの有意味とも言えなさそうなこの時間はどんな体験と言えるのだろう。そのラーメン屋の経験の巻き直しなのか。それとも新しい関係性のはじまりなのか」


 朝陽は煙たそうに目を細めてタバコを吸う。指先で燻る音が、周囲の騒がしさにも関わらず、喜乃の耳に響く。

 喜乃の杯が空になったのを見て、朝陽は冷酒の入った徳利を持ち上げる。朝陽は指先に徳利がかいた汗を感じ、喜乃の杯を満たそうとする。杯を満たすのに、視線が交差する。朝陽は視線の交差の後喜乃の首筋に色気を感じると、考えを打ち消す。自分の暴力的な思念を打ち消す。この瞬間はこの時はどのような体験なのだろう。


「ラーメンでも食べに行こうか」

 唐突に立ち上がると、喜乃が言う。

「どちらに」

「佐野へいざ行かん」

「なぜ佐野へ」

「なんでも」

 喜乃に他意はなかった。ただなんとなく佐野へ行きラーメンを啜ろうと思ったのだ。もしかしたら高架下の喧騒が、青竹で麺を伸ばす音を連想させたのかもしれない。あるいはラーメンの話を聞いたからだろうか。そして明日は休日だった。

 一方でそのための手段や方法などというものはちっとも考えていなかった。酔っ払いの思考というのは大体そういうものである。

 朝陽は時計に目をやる。20時を少し回ったところだった。

 スマートフォンを取り出し、路線を調べる。

 まだ電車はあるが、佐野に着くのは22時を過ぎる。

「佐野に着くのは10時過ぎるようだけれど、やっているお店はあるのでしょうか」

「行って考えてみよう。急がば回れというじゃないか」

 支離滅裂なことを喜乃は言い、朝陽を連れて立つ。


 浅草駅の売店で首尾よくビールを4缶とつまみを買い込み、揚々と特急に乗り込んだはいいが、朝陽の表情は暗い。マップアプリでラーメン店の営業時間を調べた朝陽は、全滅であることがわかった。


「やっぱりどこも空いていないようですよ」

 喜乃は缶ビールを空け、一口目を飲むところであった。朝陽は話し出すタイミングを間違ったと思ったが、喜乃は一向に気にしないようであった。

 なにより、飲み、酔い、チェイサーに買ったビールを乾いた体に入れようというところであった。

 喜乃は喉が潤うのを感じ、すっかりラーメンを食べる気など失せていた。しかし言い出した手前佐野に行かないわけにも行かない。何より、車中で飲むビールは格別である。連れ合いは意気消沈しているというより、なにやら疲れた様子であるが一向に気にならない。列車の揺れが良いと伴って、心地よいのである。


「ねえ、君は本は読むの」

 戯れる様に喜乃は言う。喜乃は黙っている朝陽の声を聞きたかった。

「ええ多少は。でも本というのは色々ジャンルがありますよね」

「そうね。どんなジャンルが好き。というか、最近はどんなの読んだの」

「一つはビジネス書でした。これはあまり僕には合わなかった。一つは詩集でした。古本屋で見つけた昔の詩人のものです。初めて手に取った気がしたのですが、以前も読んだことがあるものだと半分ほど読み進めて気がつきました。それから、その頃のことを思い出しました。一つは短編集でした。夜の列車に揺られて、成り切らない関係の男女があてもなく旅をする話です。ちょうど今日の僕たちのようでした。その短編集を読んでから不思議なことが起きます。今日のようにデジャビュというのでしょうか、その中にあった話のようなことが起こるようになったんです」

「それでその話はどうやって終わるの」

「そうそれが知りたくなりますよね。話にははじまりがあって終わりがある。話には順序があって、それが逆さになったりする」

「そうね」

 喜乃は杯を煽る。つられて朝陽も杯を煽り、つまみを口に入れる。飲み切らないうちに朝陽は続ける。

「二人は列車に揺られて、僕たちのように酒を酌み合うんです。こんなビールなんかじゃなくて、用意周到にクーラーボックスを用意していて、それにいろいろな酒が入っている」

「酒飲みってこと」

「そう。それから酒飲みのつまみは何と言っても、おしゃべりです」

「そうね」

 喜乃はゾッとする。後ろからありもしない視線のようなものを感じた。

「いまゾッとしたのでしょう。そうなんです。二人はおしゃべりをする中で神の視点を感じ始めるんです。神の視点というのは三人称のことで」

「知ってる、つづけて」

「それから大したことは起こらない。いろいろな酒が入っているクーラーボックスを持っていると話したけど、酒ごとに話があって、その話が続いていく。女の用意した体に見合わないクーラーボックスは二重底になっていて、その底には赤ん坊の死体がある。二人の許されぬ愛の末の逃避行だったんです。でもそうしたことはいくら酒を飲んでも話はできない。だってそうでしょう。そうした秘密の一つや二つはあるものですよ。だから二人はお互いの知り合った心のうちを神に見透かされたように感じる、つまり罪の意識を覚えながら列車に揺られて、酒を飲み、おしゃべりをしていたというわけなのです」

「私も酒のつまみに小説を少しは読むけど、それは誰の作品なの」

 もう中身がないのか缶を振りながら朝陽が答える。

「それが思い出せないんですよ、だから話をした」

「そういうことってあるよね。どうしても思い出せないこと。思い出せないことを忘れた頃に思い出す。そうそう、電車で知っているような気がする人を見かけて、お風呂に入ったらその人が取引先の重役だったなんてことがあって、粗相をしなかったかしらなんて焦り出す、そんなこと」

「その本、読みかけだったんだけど、酔って置き忘れたのか無くしてしまって、本屋で探すのに困っているんですよ。今度一緒に行きませんか。本屋に」

 朝陽の耳が赤くなる。

「その前に終えなくては行けない仕事があるけど、いいだろう。つまりデートの誘いと受け取っていいのかな」

「はい」

 夜な夜な、酔っ払って用事もない佐野に特急に乗って行き、帰れなくなるそんな二人なのにと喜乃は吹き出しそうになる。ラーメンはないが、飲み屋の一つは空いているだろう。そこで飲んであわよくば朝まで止めてもらい、それで帰るので良いだろう。喜乃はスケジューリングを済ませて、また朝陽とのおしゃべりに興じることにした。


 翌朝は快調であった。予定通り喜乃は居酒屋で目を覚まし、朝陽の顔に朝陽が差すのを見た。手洗い場の冷水で顔を洗い、シャツで拭った。鏡に映った自分の顔に哀れみを感じなくもないが、これでもそれなりに人生を悔やむことはあっても、前を向けないわけではない自分を誇らしく思えるのだ。朝陽を起こし、コンビニで簡単に朝食を済ませた。

 帰り道に備えてしこたま買った酒類は朝陽に持たせた。

 意気揚々と列車に乗り、喜乃は一杯やってトイレに立った。戻ってまた飲み出した後からすっかり思い出せないのだった。


 喜乃はふと人肌の温もりを感じ、横を向く。朝陽が座っている。ほっとしたと同時に疑念が頭痛と襲う。なぜ朝陽が。朝陽は物言わず、喜乃の左手を握っている。手首には金属的な硬質さを感じた。


 安心は即座に警告に変わる。


 どうやったら逃げ出すことができるのか。繋がらない思考が視界とともに揺れ動く。


「目を覚ましたんだね」


 喜乃は朝陽の声をうまく捉えることができない。

 同じ人物が同じ音で、全く違う響きの声を発したのだ。

 違う。

 自分の受け止めが変わったのだ。


「見覚えがあるでしょ、この列車」

 喜乃は今一度車内を見回す。見覚えのない車内が広がっている・

「僕、この列車でずっと見ていたんです。あなたは僕の憧れだった。でもあなたは死んでしまった。あんなに簡単に壊れるなんて知らないから、もっと大切にできたらと悔いました」


「いったい、なんの」


 声になったのか不確かな声が吐き気と共に喉を震わせる。

 興味を持つな、喜乃は自分に言いつける。

 逃げることを考えないといけない。


 朝陽は喜乃を見つめ返し、笑みを浮かべる。

 信頼を瞳に滲ませ喜乃を見つめる。


「あなたは生きていた。いや、彼女があなたになった。社で初めてあなたを紹介された時、僕はようやく見つけたと確信した。次は大事にしよう。壊さないようにしないといけないと思い慎重に近づいた。それで昨日、ようやく回ってきたんです。その機会が。その時を待っていたんです。ずっと。用意はできていました。大きなクーラーボックスは要りません。仕事鞄で十分だった。それでようやくこうして一緒にいることができる」

「この後はどこに」

「どこって、二人の家に行くんですよ」

 決まりきったこと聞かれ、心外だというかのように、朝陽は喜乃の顔を見た。


「好きだったんだ、高校のとき」

「私は彼女じゃない」

「でも終わってしまった。だから、今またあなたとこうして愛を育みたいと思っているんです」

 駅が近いのか列車は減速する。喜乃は渾身の力を込めて朝陽の右手を引き、組み伏せる。

「なぜ無駄な抵抗を」

「鍵を出しなさい、さもないと肩を外す」

「わかりました…」

 朝陽は左手で臀部のポケットから手錠の鍵を取り出す。見せつけるように鍵を振り、ニヤリと笑い放り出す。

 鍵は落ち、床を滑る。

 喜乃は何ら躊躇せず朝陽の肩を外し、体を反転させながら朝陽の前方に回り鍵を足で引き寄せた。

 朝陽は悶絶しながら抵抗しようとする。

 喜乃は重たくなった朝陽の腕を引き手錠を外した。

ようやく余計な重たさと無縁になった喜乃は、悶える朝陽を蹴り上げる。朝日には抵抗する意志は無い様であったが荷物を取り上げ、手錠で左手と右足を背部で押さえた。


 まもなく、駅に着くと搭乗員が二人に駆け寄ってきて、また走り去っていった。

 遠くからサイレンが聞こえる。

 喜乃は薬が抜け切らない体をベンチに下ろすと、また意識は遠のいていった。


 喜乃が病院で目を覚ますと、刑事が待っていて、いくつか質問をされた。素直に答えると、また聞きたいことがあったら聞きにきますと刑事はそそくさと帰っていった。


 数日の休みの後、喜乃が会社に出社をすると同僚からは同情され、上司からはなぜか叱責を受けた。

 喜乃は不貞腐れて喫煙室に篭ることにした。しばらくやめていたのだが、休み中にまた吸って、何となく続けてしまっているのだ。

「大変だったみたいだな」

 喜乃と中学高校と同じだった同期の土井(どい)がやってきて、そう声をかける。

「心配したぞ、ついにしょっ引かれるんじゃないかって。昔のお前を知っていたら、どういう目に遭うかわかるんだが、完全な情報収集不足だな」

 私が傷つくことを誰も望まないようなことを言うのに、なぜ私はその言葉に腹が立つのだろう。喜乃は無言のまま土井を睨め付ける。

「くわばらくわばら。でもな、おれ、好きだったんだ、高校の時。お前のその目で見つめらるのが。お前男に混じって練習していただろう。それで、試合ときにその目で、見られると、もう負けているんだ。なんというか強さを知った気がしたよ。絶対に敵わないそんな気持ちになるものな」

 喜乃はタバコの火を乱暴にもみ消し、喫煙室を出た。


 好きだったんだ、高校のとき

 いく日かが重なり、思い出され、恐怖と失望が混じりあい、喜乃襲う。


 喜乃は社屋を出て空を仰いだ。晴天の空の陽は無慈悲に降り注ぎ、頬を落ちる水滴を腕で拭い、喜乃はまた歩き出した。

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