ケマリデイズ

ぬの

 

 建仁けんにん2年(1202)

 正月

 

 10日

 鞠始まりはじめ布衣ほい(狩衣)を着て鞠庭に立つ。参加したのは北条五郎時連ときつら紀内行景きないゆきかげ、富部五郎、比企ひき弥四郎時員ときかず、肥田八郎宗直むねなお大輔房源性たゆうぼうげんせい加賀房義印かがのぼうぎいん。120回ののち310回。


 12日

 隼人佑はやとのすけ康清入道(三善みよし入道善信ぜんしんの弟)が、去年庭に植えたかかりの木がいい感じになっているというので、前回と同じ面々で蹴鞠。500回。


 14日

 大炊助おおいのすけ源義重(八幡太郎義家朝臣の孫なのだ)が亡くなった。きのうは父の命日だった。

 

 28日 

 卯の刻に大地震。辰の一点に、朝日に二重の輪がかかって見えた。

 

 29日

 掃部かもん入道(藤原親能ちかよし、亡き妹の乳母夫めのと)の家で、蹴鞠の予定だったから支度していたら、尼御台あまみだい(母)が二階堂行光をよこして止めにきた。源氏の遺老が死んでからまだ二十日もたってないのに、遊び歩いていては人の誹りを招くという。

 いわれるだろうなとは思っていたが本当にいわれた。

 まず蹴鞠は遊びじゃないのだが、母上はそこがわかっていない。それに人の誹りがどうとかいうより母上がどう思っているかをいえばいい。でも母は蹴鞠を遊びだと思っている。

「蹴鞠については人がなんというかは問題ではない」

 としかいえなかったが、その日はとりやめにした。


 2月


 2日

 京からの使者。

 先月の23日に正三位に叙されたことを知る。


 20日

 相模の積良つむらのあたりに古い柳があって、名木ときいたので、御所の鞠庭に移植することにした。北条五郎(叔父だが七歳しかはなれていない)と六十人くらいで行く。行景(院にお許しをいただいて京から招いた鞠の名人。鞠足まりあし!)にも来てもらう。


 21日

 帰ってすぐ柳を御所の石御壷の中に植えた。

 行景はあまりいい木ではないという。(だれだいいっていったやつ)


 27日

 鶴岡八幡宮の別当(尊暁そんぎょう。曾祖父源為義の孫)に、行景たち鞠足を饗応させる。蹴鞠を見たいといわせて懸りの木の下に立つ。300回達成して帰る。


 29日

 僕卿(祖父源義朝のことだ)の沼浜の旧宅を解体して、亀谷かめがやつの栄西律師の寺に寄進する。

 尼御台の夢に僕卿があらわれて、ずっと海辺にいると、漁師の漁の業を見るのがつらいから、寺のなかに移築して六楽を得たい、といったそうだ。その夢のことを善信に記させて栄西律師に送ったという。

 大官令たいかんれいの広元がいうには、六楽とは「六根の楽」のことではないか、とのこと。


 3月


 8日

 御所で蹴鞠のあと比企判官はんがん能員よしかず。乳母夫)の館に行く。思うところがあって比企の館からは遠ざかっていたのだが、「庭木の花が見頃なので」と、以前から誘われていて断りきれなかった。

 なにかあるだろうなと思っていたがやはり酒宴の席で「微妙」という舞女と引き合わせられた。

 歌も舞も堪能だがわけがありそうで、判官が私に直接きけというからきいたのになかなか答えない。何度かきいてやっと、身の上話をはじめた。父親が讒言ざんげんのために奥州に追放され、そのあとで母親も死んで、ひとりで生きてゆくために七歳から身につけた芸なのだそうだ。今、奥州へむかう途中だという。判官の目にとまって私の饗応に召しだされたのだろう。

 奥州には使者を遣わして父親のことを調べるように命じ、微妙は鎌倉にとどまることになった。

 そのあとは夜もすがら飲んで、鶏が鳴くころに帰った。


 14日

 蹴鞠。いつもの面々で360回。250回。

 永福寺の多宝塔供養にも行く。乳母だった人の冥福を祈るためだ。導師は栄西律師で、布施などは尼御台が用意してくれた。


 15日

 今日は一日中蹴鞠。(123回、120回、120回、240回、250回)

 そのあとで尼御台が来て、微妙の芸を見る。微妙は奥州に遣った使者が戻るまで尼御台のところで待つことになってつれていかれた。


 4月


 13日(月忌)

 風が強かったが、掃部入道の亀谷の家で蹴鞠。今日は伯耆少将ほうきのしょうしょう(藤原済基なりもと、掃部入道の孫)が入る。持仏堂の庭の木の下でやったが、南風が吹いて回数はのびなかった。


 27日

 蹴鞠。暗くなってからは火を灯し、小鞠を持って来させてやったら120回いった。

 見ていた行景に「天賦の才をお持ちです」といわれた。

(弓を始めたときにもそういわれたのを思いだした。)


 5月


 2日

 兄弟の領地争いは、これからは是非に従って和解すること。


 5日

 鶴岡の神事はいつもどおりで、奉幣ほうべいの使者は北条五郎に勤めさせる。


 10日

 三浦の海辺で笠懸かさがけの射手を十騎選ぶ。


 20日

 御所で蹴鞠。伯耆少将と北条五郎は脚気気味で足の具合が悪くて見証けんぞ(立ちあい)。今回は六位進盛景ろくいのしんもりかげに入ってもらう。それから細野四郎と稲木五郎。あとはいつもの面々。220回、520回。


 30日

 早河庄を中分。その地を預かっている土肥弥太郎遠平の知行を停止して、田、百四十町六反を箱根神社に寄付。


 6月


 1日

 遠州(母方の祖父、時政)が、夢のお告げで故三郎宗時(石橋山の戦で討死したという伯父)の菩提を弔うために伊豆に行った。墳墓堂は桑原郷にあるという。


 25日

 尼御台が御所に蹴鞠を見にくる。蹴鞠は連日やっているが、行景のような鞠足を、母上はまだご覧になったことがない。蹴鞠がただの遊びではないことをわかってもらう好機! 夕立があったがすぐに晴れたので始めたが、木の下には水たまりが。すると壱岐判官知康いきのはんがんともやすが、着ていた直垂ひたたれかたびらを脱いで、それで水を吸わせた。

 申の刻から始めて、交代しながら360回。


 夜は東北の御所で酒宴をし、微妙を呼ぶ。

 知康はここぞとばかりに鼓を打った。(鼓判官の異名を持つ)それから酒が回ると、北条五郎に酒をすすめてさんざん持ち上げておいて、実名の「時連」が下劣だなどといい、私に改名するよう命じろという。なにをいいだすのかと思えば、「連」とは「貨銭かせんをつらぬく」意か、「歌仙かせん貫之つらゆき」をしたってのことか、いずれにしろふさわしくない、と、いいたかったらしい。

 どうするのか見ていたら、五郎は連の字は改めるという。いいのか。


 26日

 尼御台はきのうの鼓判官を、思い上がったけしからんやつといって帰っていった。法住寺ほうじゅうじ殿の合戦はあれのせいで起きたとか、謀反人として倒された叔父や大叔父にも取り入られようとしていたのにとかいう昔の話は、途中からきいていなかった。

 五郎は名前を「時房」と改めることになった。

 五郎の元服のとき、加冠役かかんやくを誰が勤めるのかわからないまま式を始めて、その場で父が、三浦十郎義連よしつらに役を与えたときいている。義連がもっと昔、三浦の酒宴の席で、宿老ふたりが乱闘寸前の喧嘩になったのを、叱りつけて黙らせた功に、そのとき報いたのだという。そういう話が、宿老たちは大好きだ。

 亡き父は、五郎には三浦十郎義連のような家子いえのこになってほしかったのだろう。


 7月


 16日

 遠州が伊豆から帰ってきた。


 17日

 狩猟のために伊豆へ出発する。五郎はつれていく。

 鶴岡八幡宮では道中の無事を祈願する祈祷をしてもらう。


 23日

 鎌倉に帰る。


 29日

 蹴鞠。120回、450回。


 8月


 2日

 京都から使者。先月の22日に従二位に叙され、征夷大将軍に補任される。


 父は大将軍になるために、朝敵を倒し奥州を領土とした。私はその職を引き継いだだけで、歴戦の宿老から見れば、狩猟しか知らないのに征夷大将軍だ。

 もしもこの世から朝敵がいなくなれば、われらのすることは都の警固と、領地争いの相論の是非を裁定することぐらいだろう。

 五郎が名を時連から時房に改めたのも、時宜にかなっていたのかもしれない。

 今の院は武芸も堪能でいらっしゃるが、和歌や蹴鞠にもなみなみならぬ力量をお持ちであるという。

 われらもいつか鞠の庭に招いていただける時がくるかもしれないではないか。


 5日

 奥州に遣わしていた男が帰ってきた。微妙の父はすでに死んでいたという。


 15日

 放生会ほうじょうえに参宮。

 夜になって、微妙は栄西律師の禅房で出家した。法名を持蓮じれんと改め、父の後世を弔うという。

 尼御台は持蓮を憐れみ、深沢の里に住むところを与え、そこから持仏堂に参るようにいいつけたそうだ。これからは、故右大将うだいしょう家を父と思いなさいとでもいいたいのだろう。持蓮はどこか亡き姉に似ていたかもしれない。

 持蓮は古郡ふるごおり左衛門尉さえもんのじょう保忠と通じていたそうだが、保忠が甲斐に下向しているあいだに出家してしまった。


 16日

 鶴岡に参宮はしなかったが馬場の桟敷さじき流鏑馬やぶさめは見る。


 18日

 午の刻に鶴岡若宮の西回廊に鳩がとまり、そのままずっとそこにいるので、僧たちがこの鳩のために問答講一座を修し、法楽を行うのを見に行った。遠州と大官令がついてきた。ほかにも見物が多く集まった。

 鳩は酉の刻に西方に向かって飛び去ったという。


 21日

 蹴鞠。いつもの面々で250回、130回。


 23日

 江間えま太郎が三浦兵衛尉ひょうえのじょう義村の娘と結婚した。

 北条五郎が、三浦からもらった名を改めたのを気にしてなのか、太郎は、わが父の一字のついた「頼時」の名を改めたいという。

 太郎はわれらが鞠を始めたころは見証として加わっていたのだが、去年の大風で被害が出てからは、江間に行くことが増えて鞠会まりえには来なくなった。


 24日

 甲斐から帰った古郡左衛門尉保忠が、微妙の出家を知って、問いただしたいことがある、と亀谷に押しかける騒ぎになった。尼御台は結城七郎朝光ともみつを遣わして保忠を宥めさせた。


 27日

 保忠が、栄西律師の弟子たちを打ち据えたと知った尼御台は、今度は朝光と義盛(和田左衛門尉さえもんのじょう侍所さむらいどころ別当)を遣わして保忠を叱責させた。


 9月


 9日

 鶴岡の祭礼に参詣。


 10日

 三嶋社の祭礼には江間四郎(太郎の父)に行ってもらった。

 こっちは朝、昼、夕で蹴鞠蹴鞠蹴鞠。

 270回、160回、280回、230回、130回、390回、550回!

 鞠足を京から招くと決めて、そのお許しがおりたとき、修練のために100日の蹴鞠をはじめた。見証の助言のおかげで、あのときの記録は950回だ。はじめて500をこえて、700までいったときは、夜中に月や星のように光る物が降ってきたという騒ぎになった。

 よくない物だという声が多くて、それからは500ていどでやめるようにしている。


 11日

 荏柄社の祭礼には大官令に


 16日

 蹴鞠。230回、160回のあと、火灯し頃に石御壷に行景を呼んで小鞠で勝負する。150回までいったところで知康が座を立って、鞠を打ち落としてしまった。

 は? と思っていたが、あとで行景がいうには、知康は、このまま勝負がつづくと、どちらが落としても恥となるから、あえて自分が鞠を打ち落としたのだそうだ。それから行景は、知康のふるまいは礼儀を欠いたものではない、と、尼御台にも伝えてもらうように弁明しにいったという。


 21日

 伊豆と駿河の狩倉に向かう。

 数百騎をひきつれて勢子せこを定め、内に控える五名のほかは、外に控えさせる。弓矢は射手の十人にのみ持たせる。その十人は、

 和田兵衛尉常盛・榛谷はんがや四郎重朝・和田平太胤長・海野小太郎幸氏・望月三郎重隆・小坂弥三郎・鎌田小次郎・笠原十郎親景・仁田四郎忠常・工藤小次郎行光。


 29日

 鎌倉に帰ってきたが、仁田四郎忠常の館で終日小笠懸こかさがけをする。忠常が懸物を十種、百品献上した。その十種のうち九種までを、射手たちの命中した矢の数に応じて褒美として与えた。


 10月


 3日

 駿河から帰る。


 8日

 時雨が細く降りつづいているのを見ていたら、隼人入道の庭の木が、いい色に染まっているだろうと見たくなって馬を跳ばす。晴れてから蹴鞠をしたが、水たまりが多くて厄介だった。


 29日

 御所の北の中庭に植え込みをつくった。すべて松で、北条五郎、和田左衛門尉、三浦兵衛尉、山口二郎有綱(兵衛尉の兄弟)に二本ずつ用意させた。

 行景が、松の良し悪しを見て、有綱の松に難をつけると、有綱はほとんど顔色を変えて、「私にだけそんなことをいうとは不審だ。京下りの方々にはこのようなことがよくありますが、不当、不当」と二回いった。

 行景はなにもいわずにこの二本も並べて植えた。


 閏10月


 1日

 由比浦でいつもの笠懸の会。射手は十騎。


 13日(月忌)

 鎌倉の諸堂の僧侶を御所に呼んで饗応する。


 15日

 諸国の守護人が、定められた諸事以外の雑務に介入しているという訴えが多くあり、今日の審議でやめるように通達させる。それでも違反する者は職を解任すると厳命。奉行は広元朝臣。


 11月


 9日

 鶴岡の御神楽で善進士ぜんのしんし宣衡のぶひらが「庭火にわび」の曲を歌ったそうだが行かなかった。昔神楽の秘曲のあとで光る物が降ってきたときは瑞兆だとよろこばれたんだそうだ。


 11日

 快晴。善哉ぜんざい(三歳)が、鶴岡で初めての神拝の儀。神馬二頭を奉納し、比企三郎、仁田六郎がこれを引いた。


 12月


 19日

 雪が七寸積もった。

 鷹場を見に山内庄に行き、夜になって帰るとき、亀谷あたりで知康が古井戸に落ちた。乗っていた馬が急に騒いだせいだという。御所までつれていって小袖二十領を与えた。


 24日

 卯の刻に地震と、雷鳴が三回。


 建仁3年(1203)


 正月


 1日

 晴れ。風は静かだった。午の刻に鶴岡に参詣。回廊から遥拝して帰る。


 2日

 晴れ。一幡いちまん(長男。母は比企家の娘)が、鶴岡宮に奉幣。神馬二頭を奉納。

 御神楽を行うと、巫女を介して八幡大菩薩の御託宣があった。

「今年中に関東で事がおきるだろう」

「若君は家督をつぐべきではない」

「岸の上の木は、その根がすでに枯れている。人はそれを知らずに、梢を頼りにしている」


 これは託宣ではなく比企への警告ではないのか。私はもうずいぶん前から、比企の館を避けているのに。

 御行始おなりはじめで隼人入道の家に行き、鞠始をする。鞠をしているあいだは、さっきの託宣のことも考えずにいられる。

 鞠を始めたばかりのころは、めずらしさもあって見に来る者も多かったが、われらがあまりに夢中でやっているので、できない者はすぐに興味をなくしてしまった。鞠だけではないが、この楽しさはやっている者にしかわからない。

 その夜はそのまま隼人入道の家に泊まる。


 3日

 隼人入道の家から御所に帰って的始まとはじめ


 20日

 今日も隼人入道の家で蹴鞠。250回、120回。

 北条五郎は北条の者から私を監視するためにつけられたのかもしれなかったが、蹴鞠の才のあることがわかってからは、私同様に鞠会を楽しんでいる。

 蹴鞠を呪詛に使っているのではないかなどと勘繰るやつがいるそうだが、そんなのは実際にやったことがないからいうのだ。

 誰かを呪おうなどと思っていたら、つづくものか。われらの鞠が、百も二百もつづくのは、鞠のことしか見ていないからだ。そのあいだは鞠を見、蹴る者の足を見、鞠の音を聞き、声をあげ、鞠を受け、それを高く蹴り上げ、落ち来る鞠を、次の者が受けやすいように、ゆったりと落ちるように蹴る。そのくりかえしだ。

 最初はうまくいかなくても、修練をつづければあるていどはできるようになると思うのだが、どうもわれらの親たちや、家督をつぐのが決まっているような者は、失敗を笑われるくらいなら死んだほうがましだとでも思っているのではないか。そういう私がそうだったのだが。

 失敗するのはあたりまえだ。失敗を笑われることなんかどうだっていい。蹴鞠がつづいているあいだはそう思っていられる。


 2月


 4日

 江間四郎の助けを得て、千幡せんまん(弟。十歳)が鶴岡宮に参詣。神馬二頭を奉納し、結城七郎とところ右衛門うえもん太郎光季みつすえが馬を引いた。次期将軍か。あの御託宣をいいことに、年が明けてから北条のやりかたが露骨になっている。(五郎は変わりない)

 今にして思えば、太郎が「頼時」の名を改めたいと申し出てきたのは、私とのつながりを断たせようとする江間四郎の計らいだったかもしれない。今は「泰時」があれの実名だ。


 11日

 建久三年に炎上してから再建されなかった、鶴岡八幡宮の塔の地曳祭を始める。遠州と大官令がつき従う。惣奉行は大夫属入道たゆうさかんのにゅうどう(善信)。


 16日

 いつもの面々で蹴鞠。


 3月


 3日

 鶴岡で一切経会いっさいきょうえ


 4日

 隼人入道の家で蹴鞠。


 10日

 急な病となり寝付いていると、駿河の片上御厨かたかみのみくりやを、太神宮領に寄進するとよい、という夢のお告げがあったので、武田五郎信光の所務を停止して寄進する。奉行は大官令。


 14日

 回復したので沐浴もくよく。夢のお告げは万能である。


 15日

 永福寺の一切経会のあとの舞を見に行く。あたりの桜がやけに綺麗に見えて、帰りに行政ゆきまさの二階堂の山荘に寄った。晩鐘の鳴るころ御所に帰る。


 26日

 隼人入道の家で、いつもの面々と蹴鞠。伯耆少将は見証として控え。


 4月


 3日

 鶴岡の祭礼には江間四郎を奉幣の使者とする。


 21日

 いつもの面々で蹴鞠。


 5月


 5日

 鶴岡臨時際に参詣。


 18日

 伯耆少将と、右近将監うこんのしょうげん親広ちかひろ(大官令の子だが、先年亡くなった内大臣ないだいじん通親みちちか公の猶子となっていた)とともに、尊暁の坊で蹴鞠。


 19日

 阿野法橋全成あののほっきょうぜんじょう(亡父の弟で千幡の乳母夫)に、謀反の風聞があり、日付が変わるころに御所内に監禁した。武田五郎信光が生け捕りにし、宇都宮兵衛尉ひょうえのじょう朝業ともなりの預かりの身とする。


 20日

 全成の内室の阿波局あわのつぼねに、尋問することがあるため御所に参るよう、比企四郎に尼御台のもとに行ってもらう。だが尼御台は、阿波局が今回の件で知っていることはないといって差し出さなかった。


 25日

 全成を常陸に配流。


 26日

 予定していた狩猟のため伊豆に行く。


 28日

 今回の狩の安全を祈願させている鶴岡宮の僧に、政所まんどころから布施。


 29日

 私が留守のあいだに、隼人入道は、行景、富部五郎、源性、義印らを集めて蹴鞠をしたらしい。それでいい。


 6月


 1日

 伊豆奥の狩倉に着く。

 伊東崎という山中に大洞があり、和田平太胤長たねながに中を検分させる。巳の刻に入り酉の刻に戻ってくる。穴の行程は数十里で、中にいた大蛇にのみこまれそうになり、それを斬り殺してきたという。それなら鱗のひとつも持ってこいといってやった。


 3日

 富士の狩倉に着くと、そこにも人穴と呼ばれる大きな谷があった。こんどは仁田四郎たち六人に入ってもらう。また大蛇がいたとかいうときのために重宝の剣を持たせたが、その日は日が暮れても戻らなかった。


 4日

 巳の刻に仁田四郎が帰ってきた。六人に行かせたのにふたりしかいない。

 行きついた先には大きな河があり、河の向こうの怪しい物の霊気のために四人が死に、それの声にしたがって剣を河に投げ入れて帰ってきたという。

 おもしろがって仁田を行かせるのではなかった。

 土地の古老がいうには、そこは浅間大菩薩の御在所で、今まで中に入ってその地を見た者はいないそうだ。


 10日

 鎌倉に帰る。


 23日

 下野にいた阿野法橋全成を、八田知家ともいえに命じて誅殺させる。


 24日

 京にいる全成の息子の誅殺するよう、相模権守さがみのごんのかみ(源仲章)と佐々木左衛門尉さえもんのじょう定綱さだつなに命じる使者を上洛させる。


 30日

 辰の刻に、鶴岡若宮の宝殿の棟の上に唐鳩がとまっていたが、急に地に落ちて死んだという。


 7月


 4日

 鶴岡八幡宮の経所と下回廊のつなぎめの上から、鳩が三羽、かみつきあって地に落ち、一羽が死んだという。


 9日

 鶴岡八幡宮寺の閼伽棚あかだなの下で、頭の切られた鳩が見つかる。


 鳩を殺した者は私を殺したいのだろう。


 18日

 御所で蹴鞠。

 北条五郎時房、紀内行景、富部五郎、比企弥四郎、肥田八郎、源性、義印らが来る。

 彼らとの蹴鞠はこれが最後だった。

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ケマリデイズ ぬの @teruinu

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