余命五年だから引きこもりの娘を自立させてみようと思う

お好み焼きごはん

余命五年

余命が診断された。

残り五年らしい。


最近何だか疲れやすくなってきた、更年期だろうかと健康診断を受けてみたら、これだ。


気まずそうな顔をした看護師になんてついて行かなければよかったのかもしれない。

いや、そうしたって私の余命があと五年しかないのは変わらないんだ。今知れて寧ろ幸運なんじゃかいだろうか。


痛みや苦しみ等は無く穏やかに死ねて、余命がキッカリと調べられる奇病で、治療法は未だ見つかってないが、もしかしたら……と言われた。


とんでもない。

穏やかなんて嘘っぱちだし、治療法なんてあるわけない。


私の父はそうだった。


何を犠牲にしても治療法を探したのに見つからず、最後の最後は死にたくない死にたくないと言って苦しそうに死んでいった。


遺伝性は無いはずなのに、父と同じ病気に罹ってしまった。


夫には話した。

最初は信じてくれなかったけど、診断書を見せたら信じてくれた。絶望的な顔をしていた。

もう冷めたような夫婦だと思っていたけれど、まだ愛があったんだなと思った。


私は娘に話そうと思って、部屋の前に立った。


「……ねえ、話したいことがあるの」


十何秒くらい経って、気だるげに返事が返ってくる。


「なに」

「直接話したいの」


本当は今言おうと思っていたのに、勇気が出なかった。

話すタイミングを先延ばしにしようとしている。


「……ここで話して」


茶色い扉の向こうで、娘が低く、細い声で喋っている。

私は務めて明るい声を出そうとした。


「ねえ、今日は部屋から出てみない?」


出来るだけ優しく、明るい声を心がけようとして、少し上擦りかけた。


私の声を聞こえているだろう。

娘の言葉を待つ。


「…………ごめん。あっちいって」

「……そう、わかった。」


茶色い扉の向こうで娘の声がする。声がするだけで何も分からない。

表情も、全然ご飯を食べていないから痩せてしまったかどうかも、髪がどれくらい伸びたのかも。


何故、引きこもってしまったのかも。


娘が引きこもりになって、学校に行かなくなって一年が経つ。

理由を聞いても答えてくれない。

学校の何がそんなに嫌なのか、何で部屋に籠るのか。何ひとつとして聞き出すことは出来ず、解決させることも出来なかった。


共働きだからだろうか。

親の愛情が足りなかったせいなのだろうか。いくら考えても答えが出ない。


このままずっと引きこもっていたら、学校に行かないままだったら、そんな大変なことは無いと思う。


娘の為に、私は何ができるだろうか。

何も出来ないまま、私は死んでしまうの?そしたら、娘はどうなってしまうんだろう。


正解が考えつかないまま、一日が過ぎた。


朝食の乗ったトレーを持って、扉の前に立つ。

小さな傷が刻まれたドアが何よりも大きな隔たりに見えて、グッと息を飲む。朝食を横に置いて、小さくノックをした。


「おはよう。起きてる?」


返事は無い。眠っているのだろうか。

朝は私が起こさずとも起きていたくらいキッチリした子だったのに。


「今日の朝ごはん、豪華だよ〜。お味噌汁着いてるんだから!お母さん頑張っちゃった。」

「……うん」


できる限り楽しげに話すと、中からか細い声が聞こえてきた。

起きていた事に驚きながら、私は無意識に声を出す。


「……ねぇ、今日はさ、ちょっと外出てみない?」


気楽なニュアンスを含めた声色が朝の冷たい空気に溶けていく。

足元が冷気を纏っているような感覚がする。


久しぶりに言った。

半年ぶりくらいだ。


「……ごめん」

「……そう。わかった。」


それが答えだった。

言いようも表せない落胆が重い。


傍に朝食を置いた事を伝えて、階段を下がった。

どうせ、残されるのに。


娘は学校に行かなくなって、引きこもるようになってから、ご飯をあまり食べなくなった。

好きな食べ物も嫌いな食べ物も食べない。


階段を降りて、リビングに入ると夫がテレビを見ていた。

髪の短いキャスターと初老のキャスターが笑いながら、ニュースについて話していた。


「おはよう」

「……おはよう」


夫はこちらを見ようともしない。

挨拶をしたきり、モソモソと私の作った朝食を食べている。


対面に座ると一瞬視線をよこした。


「体は大丈夫なの?」

「全然平気。罹った(かかった)のが嘘みたい。」

「そっか」


余命が宣告されるような病気なのだから、すぐに辛い症状が出るものだと思っていたが、案外そんなことは無く。


薬などを飲まなくとも体になんの支障もない。

終盤辺りでは必要になってくるらしいが、今はまだ要らないのだそうだ。


……少し思い違いをしそうになる。

医者がああ言ってるのは大袈裟で、実際には余命なんて無くて、生きられるって。


そんなことは無いのだ。

私のお父さんが最も一般的な例で、少しづつ体が悪くなり、死ぬ。


「ねぇ」

「ん」


夫は私を見ることなく、テレビに夢中だった。


「あの子、もうそろそろ学校行かせなきゃ。ずっと引きこもってばかりじゃダメよ。」


やっと夫と目が合う。

眉はひそめられていて、瞼が少し垂れて、いかにもな顔だった。


「んー、そうかな。休ませてあげたら?疲れてるんじゃない?」


そう言ってまた視線がテレビに戻った。もう話すことは無いと言っているのと同義だ。


もう少しくらい、考えてよ。

ずっとずっと「休ませてあげたら?」で私が将来の心配とかをしても、なぁなぁで済ませて。自分の娘でもあるんだよ。

娘はもう15歳なんだよ。去年からずっと引きこもってるのに、中学三年生。今年が受験なんだよ。通信制とかあるだろって言うけど、それであの子が生きていけると思うの?


私たち、もう、一年も顔を見てないんだよ


俯くと涙が表に出てきてしまいそうで、必死に前を向いた。

私は夫に嫌そうな顔をできているだろうか。


いってきますと言って出ていった夫の声を無視して、私は一人で皿を洗った。

ゴシゴシ洗って、あかぎれになりそうな関節が痛い。表面的な痛みが中に染みてきて、関係ない所まで痛い。


視界が滲んで垂れては滲む。

湖からの景色のような目の前が、ずっと真っ暗だ。


どうするの。どうすればいいの。何が正解なの。何をすれば良いお母さんでいられるの。


このままだと私、お母さんですら居られなくなってしまう。

会社員の、韓国ドラマが好きな女性でしか無くなってしまう。「娘」が無くなってしまう。


「最近、不登校の子どもが増えているようです。」


テレビに映ったニュースキャスターの声に顔を上げる。


「不登校というのは文字通り、登校をしていない状態の事で、登校拒否や登校しぶりとも呼ばれています。」


少し斜めから見える平べったい画面に大きなパネルが写っているのが見えた。

パネルには大きな文字で「近年増え続ける不登校児 その実態」と書かれている。


私は手を止めて、泡だらけなのも忘れてテレビに近づいた。


「学校に"行きたいのに行けない"、といった児童が大半を閉めるそうですね。先生、これはいったいどういったことでしょうか?」

「いじめなどの人間関係や、漠然とした不安、自信を無くしたりして無気力になってしまった子などがいます。これはほんの一例です。そして一概にこうであると断言できないのが不登校で──」


手にまとわりついていた薄まった洗剤がフローリングに落ちる。


「このグラフの通り"学校に行きたいと思っているのに行けない"といったケースも多くあります。」


指し示されたのは子どもの声だった。

「先生が怖い」「虐められた」やけにアバウトな言葉選びだったのはテレビで分かりやすく魅せる為だろう。


あの子もそうなの?

行きたいと思っているのに出来ないの?


画面が変わって、今度は二人の男女がエプロンを付けていた。お料理コーナーに移ったんだ。


階段を昇って二階に昇る。

娘の部屋の前に食器が置かれているから、それを回収する。


目玉焼きは無いけどハムとサラダは残っている。お米に至っては殆ど食べられていなかった。

その中で、味噌汁だけが綺麗に飲み干されていた。


躊躇うことなく扉をノックする。


「学校、行きたい?」

「……行きたい。」


それが答えだった。


これから困ることがないようにしてあげたい。

部屋から出て学校に行けるようになれば、ひとまずは安心できる。


私が娘にできることだ。

今の私がしなくてはならないことだ。








「今日、体育があるらしいよ。皆でドッチボールするんだって。皆待ってるって先生言ってたし、もし難しかったら見学するだけで良いって言ってもらえたから、行ってみない?」

「……ごめん」


「学校行くだけ行かない?教室の外から見るだけで良いって先生が言ってくれたよ。」

「ごめん」


「よっちゃん来てくれたよ。学校一緒に行ってくれるって、待たせるのも悪いから、とりあえず降りてこない?」

「……ごめん。」

「ごめんじゃなくて。わざわざ来てくれたのに帰すの?せめて降りてきて挨拶くらいしなきゃ」

「…………………………」

「頑張ろうよ」

「………………………………うん」


娘のか細い声が聞こえて、待つ。

中で娘は扉を開けようとしているのだろう。が、いくら待っても空く気配がない。


無意識にため息が漏れた。

それからまた待つと、キイと音を立てながらゆっくりと扉が開いた。


ゆっくり、というのは実際そうだったのかもしれないし、私の目にそう見えただけなのかもしれない。

扉に隙間が出来て中が少し覗けるようになって、それが広がっていく。中に娘の姿が見えた。


完全に開ききった時に見えた娘はパジャマ姿で、髪はボサボサだった。

前よりも随分と痩せたように見える。


「……わ」


娘を抱きしめると娘が少し肩を震わせた。

ずっと久しぶり、七十五日よりもうんと長く感じた年月で、私はすっかり忘れきっていた。

娘を抱きしめる感覚なんて、もうとっくに忘れていた。


「偉い」


肩口が濡れる感触がして、娘の顔を見る。丸い目からぽたぽた零れる涙が、一直線に落ちた。


頭を撫でる。

私たちが眠った後に風呂に入っていたようだから、髪はサラサラだった。


「とりあえず、顔洗ってきな。そしたら着替える。」

「……うん」


娘が離れて階段を降りていく。

胸がグッと締まるような熱い感覚がする。想いがどこまでも私の体に巡った。


娘がでてきた。

一ヶ月毎日話しかけた甲斐あって、なのかもしれない


そのまま娘は学校に行った。

制服を着ているというだけで、人はこんなにも感動するとは思わなかった。


帰ってきた娘に学校はどうだったかと聞いてみると、「楽しかった」と返ってきた。それが何よりも嬉しい。


その日から暫く、娘の友達に送り迎えをしてくれるように頼むと快く了承してくれた。

娘は毎日学校に通うようになった。


「学校の勉強はついていけてる?」

「うん」

「外の空気は気持ちいいでしょう」

「さわやかだね」


ご飯も食べるようになってきて、一緒に食べることもできるようになってきた。

生姜焼きをチマチマ食べる娘を眺めていると、ふと目が合った。


「……お母さんはさ」

「あ!」


お椀が倒れて中の味噌汁がテーブルに撒き散らされる。

犯人は何とも言えない顔で黙秘していた。


「お父さん、ちょっともう、今拭くやつ持ってくるから!」

「ご、ごめん」


急いで立ち上がってペーパーを取りに行く。

キッチンでペーパーを手に取った時に思った。


あの子、何を言おうとしていたんだろう。


食卓に戻ると娘はモソモソと食べていて、何か話すつもりは無さそうだった。

特に重要ではない話だったのだろうか。


次の日、部屋に呼びに行くと


「……ごめん」


娘は部屋から出てこなかった。


何を言っても「ごめん」としか言わず、テコでも出てこないから、娘の友達には帰ってもらうしかなかった。


急に、なんで。

昨日までは元気だったじゃない。


一番最初に後戻りしてしまったように感じて、どうしようもない気持ちに駆られる。

どうして出来ないの。みんなと同じようにすればいいだけの話なのに。


「早く出てこなさいよ!いい加減甘えるのは止めて!」


喉を痛めつけるような大きな声が廊下に反響する。だけども自分の耳には入らない。


「学校に行く、ただそれだけじゃない!どうして出来ないの?前は出来てたのに!」


抑えなきゃいけないのは、分かっている。

こんな大きな声を出したらダメなのに。こんな事、言わない方がいいのに。

もっと優しく言いたいのに、堪えられない。


抑えられない


鍵を開けると大きな不快な音を立てて、扉が開いた。

中は真っ暗だ。暗闇の中に廊下からの光が差し込んで、娘が見える。

うずくまって耳を塞いでいる娘が見えた。


大股で侵入すると、それに伴って大きな足音がたつ。


「うずくまってないで!」


手を掴むと娘は抵抗することなく立ち上がった。


「被害者ぶってないで!もっと頑張ってみてよ!」


娘と目が合う。

透き通るような茶色い瞳に映った自分が見えた。


「…………がんばってるよ」

「じゃあちゃんと」


「がんばって"こう"なんじゃん!!」


ビリビリと空気を突き破るような怒声が、私に正面衝突した。

交通事故のような衝撃がかかる。


「私さ!私さ!がんばってる!がんばってるよ!だけどさ、ムリなんじゃん!お母さんの期待に応えようとしても出来ないんじゃん!」


目を見開いて娘が叫ぶ。

私の手を振りほどいて、殴るように突き飛ばした。


「結構ムリしてる!だって、だって耐えられないくらい辛い!ずっと、ずっと!学校にいると息が苦しくなるし、友達に迎えに来てもらってる時は心臓止まってた!」


娘の目から雫が垂れる。


息を詰めてしまうほど、私は、私は初めて見た。こんな風に叫ぶ娘を。


「ごめん、ごめん、本当にごめん。でも、私、ムリだよ。もうがんばれない。」


もう一度目が合った。

大きく見開かれた目が歪んで、口元も歪んで、まるで笑っているようだった。


「もうがんばれない!!」


絹を裂く悲鳴のような怒号と同時に、娘はタンスの上の写真立てを床に叩きつけた。

小学生の時の娘と、私と、夫が割れて、破片が飛び散る。


娘は机の上に重なった教科書も、飾られたぬいぐるみも、本棚の本をなぎ倒して、雄叫びのように泣いた。


崩れて、膝を着いた娘が天井を見上げて泣く。


私はそれを唖然として見ていた。

現状を認めたくないと言うように追いつかない感情が、私を責め立てる。


まるで劇場でスクリーンを見ているような感覚だ。

目の前の苦しそうな娘が役者のように、非現実であるように見えてしまう。遠くに聞こえる物音。私が存在していないような感覚。全て全てが私から乖離していた。身体が無くなる。


全てがスローモーションの中、夫が部屋に駆け込んできて、娘を抱きしめたのが、流れていた。


「大丈夫、大丈夫」


夫が娘を抱きしめながら背中を擦る。娘は抱きしめ返さなかった。ただ泣いている。


「ママ」


私に顔を向けることなく、夫が言った。


「頼むから、ちょっと出てってくれないか」


────そこからの記憶がない。


いや、間違いだ。

記憶にはある筈なのに、思い出せない。どうしようもなく、思い出せない。白紙がそこにはあった。


私はベットでぼうと時間を無為に過ごした。


扉の向こうから娘の泣く声が、徐々に徐々に収まっていくのを聞きながら、だけども声は私の中に入る感覚が無い。私は空っぽだった。


暫く経って、扉が開いた。

闇夜のような部屋の中に、月明かりのような光が差し込む。


「ママ、起きてる?」

「……起きてる」


夫が部屋に入ってきて、私は上体を起こした。


「今は疲れて休んでる。部屋にいるよ」

「うん。……ごめん」


何について謝っているかは明白だったから、夫は何も言わなかった。


もう何を考えればいいのか、分からない。


「ママ、こっち向いて」


夫に呼びかけられて、前を向く。

いつになく真剣な顔をしていて、こんなの、付き合ってきた頃以来かもしれない。


「とりあえず、場所を変えよう。」


手を引かれて、私は立ち上がる。

そして手を引かれるまま、私と夫は近くのファミレスに入った。


煌々と照らされる店内で、見目良くするための工夫が華やかに彩られていた。


ファミレスでご飯を食べるなんて、何時ぶりだろう。

娘が学校に行けなくなってからだろうか。


私はただ、ぼんやりとメニューを見ることしか出来なかった。目が滑る。


「ママ、俺が選んどくよ」

「あ、うん。ありがとう。」

「あの子には家で好きに食べてって言っといたから、俺たちはここで食べちゃおっか。」


え、それって。

あの子が何か食べると思ってる?絶対食べないよ。一人なの?

何か危ないことしたら。


「もう十六になるんだし、大丈夫だよ。」


そんなことどうして言えるの。

あの子のこと、見てないくせに。


「本題に入っちゃうけど、最近のママちょっとおかしいよ。」


夫が見つめてくる。

黒目だけが別の生き物のようにギョロりと動いてるように見えて、目を逸らしたくなった。


夫は普段通りだった。

普段通りなのに、私が勝手に歪んで見ているんだ。


「あの子、頑張ってると思うよ。それに今すごく辛い時なんだと思う。」


分かってる。分かってる。


急に出来るようになれ、なんて虫がいいなんて。私は押し付けすぎてるって。あの子は、今、辛いんだって。分かってる。


「俺らが支えてあげなきゃ。少し休ませてあげよう」

「……いつまで?」


あの子は若い。確かに若いけど、人の時間なんて限られてる。


あの子が二十歳になる時、貴方は四十八。

あの子が三十歳になる時、貴方は五十八。


貴方が働けなくなるまでに、あの子が自立できるようになると思う?自動的に?


あと五年すれば、私は、あの子の事も貴方の事も支えることなんて出来ないのよ。


「……いつかは分からないけど、でも──」


プラスチック製のコップがテーブルで跳ねる。軽い音がリズミカルに鳴った。


中に入っていたお冷が広がっていく。私の顔に跳ねた水は冷たい。


「それじゃあダメでしょう!!」


馬鹿みたいに大きな声だった。

本当に、馬鹿みたいに。怒声らしく喉を痛めるような嗄れが入って、レストランの中に響いた。


「いつか!?いつかっていつ!?二十?三十?それじゃあ遅いのよ!!」


カッとなって立ち上がる。

夫よりも高い位置で見下ろす私は、夫が何よりも無責任で、小さい存在に見えた。


「もう中学三年生!今行かなかったら高校なんて選べない!」

「つ、通信とかに行けば……」

「通信に行って何とかなるのは一部だけ!気楽な気持ちで行った子達がどれだけ苦労しているのか、知ってる!?それに行ったとして、あの子が外に出られなきゃ意味がないのよ!」


勉強だって人より遅れるし、学歴的に下だし、単位制だから必ず外に出て誰かと活動しなきゃならない時がある。


絶対に苦労してしまう。

偏見に押しつぶされてしまうかもしれない。


「通信制卒で、女で、仕事なんて限られてる!」

「大学に行けば」

「行くにしても先ずは高校!今頑張って少しでも良い高校に入れば出来ないことないだろうけど、できるように見える!?」


私の耳に入るのは、私の怒号だけ。

冷静な所が止めろと言っている。感情的になっても意味ないって。


周りの人達みんなが、私達を、私を見ている。


「貴方は娘を思ってるんじゃない!ただ責任から逃れてるだけよ!」


言い切ると、私は息を吸った。

吸って吐いて、少しづつ心が落ち着いていく。でも、ぐちゃぐちゃだった。


店内はシンと静まり返っている。


「私が死んだら、貴方ぐらいしか娘を想えない。私が死んだら、娘が頼れる人はきっと貴方だけになる。私が死んだら、貴方だけで娘を支えていかなきゃならないの。」


ようやく夫の顔を見た。

見てようやく気がついた。視界が歪んでいる。


私、泣いてる。

夫の前だけでは泣かないって決めてたのに。


「私、あと五年で死ぬのよ。」


静かな声だったように思える。

私を見つめる夫の目が信じられなかった。


脱力して座る。

体の全てが奪われたような感覚すらしてきて、私は目を閉じて涙を拭いた。


脳内が空っぽだった。

その中に少しづつ記憶が満ちていく。過去が満ちて、私を癒そうとするのが分かった。


そのどれもが、今は味気ない。

興味が無い訳では無い筈なのに、砂を噛むように不味かった。


「…………ごめん」


私か夫、どちらかが声を出すまで、随分と長い時間がかかったように思える。

目を開けることは出来なかった。


私も謝らなくてはならないとは思っても、口に出せない。


「俺、俺。……ごめん。俺なんもしてなかったな。ごめん。」


夫の声が潤んで、言葉が滲んでいく。


てっきり大きな声を出したことを咎められるのだと思っていた。

ファミレスでする喧嘩じゃなかったのに、こんな事して、目立ってしまったから。


夫の態度は、そんな私の考えとは裏腹だった。


「今日こそは話さなきゃならないって、ずっと思ってたんだ。あの子に無理をさせすぎたら、いつか壊れてしまうだろうから、俺たちで見守ろうって。」


夫が、喋ろうとしてる。

娘について何かを喋ろうとしているのが、何となく新鮮に思えてしまった。


話そうと、思ってたんだ。


「でも、俺は結局しなかった。結局、ママを責める事しかしなかった。」

「……」

「俺、ママの事なんも考えてなかったんだ。それどころか、あの子のことすら考えてなかったんだ。それってさ、ただ逃げてるだけだったんだよ。」


苦しげな顔をして、夫は言った。

今、自責の念に駆られているのだろうか。


「でも、ママの今のやり方だと、あの子に負担をかけすぎてるとも思う。だけど、このままにして苦労するのも、あの子だ。」


途切れ途切れに、夫は考えながら喋る。

私は夫の言葉を一つたりとも聞き逃さないようにした。ジッと眼を見つめて、ジッと話を聞く。


「俺はあの子が辛く苦しい思いをしているのが、嫌なんだ。放置するのも、無理に解決しようとするのも、ちゃんとした解決策にはならないと思う。」


考えてくれていたんだ。

娘に興味が無いのではなくて、言うタイミングが掴めなくて。

ずっと私と話そうとしてくれていたんだ。


「一緒に考えよう。二人で、やっていこう。すまなかった。」


私と合う黒い瞳がきらりと輝いた。蛍光灯の明かりに反射した明かりが私の目から中に入りこむ。


ゆっくりと頭が下げられた。


「考えてくれるの?」

「うん、一緒に考えて、支えていこう。」

「また娘と積極的に話してくれる?」

「もちろん。」

「もう、何もしてないのに何か言ってきたりしない?」

「ご、ごめん。もうしない。」


慌てた夫の顔が面白くて、私は少し笑った。

まるで付き合ってた頃のような顔だ。


「ずっと逃げてばかりで向き合ってこなかったのに、虫がいいって思うかもしれない。けど、俺も力になりたいんだ。一緒にまたやっていかないか……?」

「うん、うん……一緒にやっていこう。」


私たちはその後、店員に謝罪して家に帰った。

店員はあからさまに嫌そうな顔をされた。それもそうだ。申し訳ないことをしてしまった。


車の中は静かだったけど、それで良い。

前のように嫌な沈黙の不快感は無く、その代わり、もう大丈夫だというような確信にも似た安心感を感じる。


家に帰った時、中は暗かった。

もう夜中だ。娘も眠っていると思い、私は静かに娘の部屋の前に立つ。


「……お母さん?」


中から声が聞こえる。

娘の声だ。


「ごめんね、起こしちゃった?」

「ううん、大丈夫。」


嘘ではないのだろう。

声は寝起きにしてはハキハキしている。眠れないのだろうか。


「ご飯は食べた?」

「なんか冷蔵庫入ってた煮物食べたよ。」

「美味しかった?」

「にんじん美味しかった。」


私はそっかと答える。


「今日は、ごめんね。」


私は、この子が何に苦しんでいるかを知りたい。知って、力になりたい。


「ママ、貴方に酷いこと言っちゃった。ごめんね。」

「……こっちこそごめん。私が頑張れてないから……」

「それは違う。頑張れてるんだよ。頑張りすぎちゃうくらい頑張ってるのに、私は見ようとしてなかったんだ。」


教えてくれないと悩むなら、まず、自分のことを明かさなくてはならない。


「ママね、小さい頃、クラスの女の子にイジメられて学校行きたくないなって思った時期があったの」


小学生の時だ。

遠い記憶なのに、今でも朧げながら思い出せる。


「男の子からはランドセル押されたり、「ブス」って言われたりして、女の子には無視された。すごく、悲しかったよ。」


突き飛ばされた時、コンクリートの地面で擦りむいた膝の痛みは忘れられない。

あの時、私は一人ぼっちだった。


親にも言えなくて、ずっと独り。


「だからね、もし、同じような理由なら言って欲しい。同じような理由じゃなくても、ママは、力になりたい。」


心からの言葉だった。

どうしようも無いくらいの気持ちが乗った言葉は、娘に届いただろうか。


イジメられてなら、三人で対処法を考えよう。学校の先生に言ったり、引っ越したり、色々。


でも違うなら、また三人で考えさせて欲しい。

私もパパも、力になりたいんだから。


「ねえ、良かったら教えてくれない?何が辛いのか。」


口にした途端、心臓が跳ねる。

言った。ついに言った。昨日今日で、言った。


今まで何度も聞いてきて、何も答えて貰えなかった。


だけど、今日こそは大丈夫な気がする。根拠の無い自信がそこにはあった。


「………………あの……あのね」

「ゆっくりでいいんだよ。焦らなくていいの。」


数分ばかり、娘は言葉を巡回させた。


「私ね、イジメられてた訳じゃないの」


その言葉にホッとする。

でもこれで終わりじゃない。


私は娘の言葉を待った。

次第に、娘の声が潤んで、苦しげになっていくのが、辛かった。

今すぐにでも抱きしめてあげたいくらいに、私は娘を大事に思っている。


「私、神経質すぎるんだって。完璧主義すぎるんだって。……キモいんだって」

「ママはそう思わない。」

「ママは私の事好きだから」

「パパも思わないよ」

「パパも私の事好きだから……親の欲目だよ……」


そう言われてしまうと何も言えない。

少し複雑な気持ちで私は黙った。


これ以上なにか喋ってしまうと、娘の勇気を台無しにしてしまうような予感がある。


「私、悪いこととか、許せないし。ルールとか破れない。「ちゃんとする」しか出来ない。」


娘は確かに完璧主義だった。

保育園の時から絵を描く時間に泣いてしまったり、食べるのが遅いと泣いてしまったりしていた。テストも間違えたら家でやり直す。


少し、潰されないか心配ではあった。

娘の良いところでもあるが、完璧主義であるのは大変だろう。

でもその考えは甘かったのだろうか。私は大雑把だから、娘の気持ちがあまり良く分かっていなかった。


「それがどうして……「キモい」に繋がるの?」

「……みんなが、正義感強すぎてキモいって……」


正義感が強い。

中学生の子どもにはウザったく見えるのだろう。大人だってそう思う人は多い。

でもそれは、悪いことでは全くない。


娘は弱っている人、攻撃されるような人に優しく接せられる子だ。攻撃する人に立ち向かおうとする子だ。

少なくとも、私にはそう見える。


「それで、行くのが嫌になったの?」

「…………それだけじゃないと思う。でも、私、わか、わかんない。」


嗚咽が漏れて、声が霞むように消えかける。

咳を零す。

何を言っているのかも分かりずらいくらいの動揺的な語りだった。


娘の名を呼んだ。


「私は、誇りに思う。思ってる。貴方はよく頑張ってるよ。たぶんね、疲れちゃったんだよ。」


過剰なまでにゆったりと言葉を紡いだ。

選ばれた言葉達は何もかもが足りない。


「今日、部屋に入った時、机の上を見た。教科書とかノートとかあって、勉強頑張ってるんだって思ったよ。今辛いだろうに、頑張ってるんだって。だから去年のテストで良い点数取れたんだね。……私は、私は……何も分かってなかったんだね」


娘のか細い声が聞こえた。

何を言っているのかは理解しきれなかった。


「これからは、一緒に頑張ろう。一人だけで頑張り続けるんじゃなくて、一緒に。ママもパパも、支えるから。」


娘の声が聞こえた。

涙でかき消されそうな潤みと、確かな言葉だ。


ガチャリと金属が動く音がした。

これは


「お母さん、開けていいよ。」

「……え」


私はドアノブを見た。

丸いそれは指紋が着いている。光を鈍く反射して、私の顔を写す。


「いいの……?」


情けない声が出ているとは思った。

だけども変えることが出来ない。大人としては情けない。親として少し笑えてしまうような、不安そうな声。


中からぐぐもった微かな笑い声がした。


「うん、いいよ。開けていいよ。お母さん。開けていいよ。」


息を飲んで、手をそっと、ドアノブに当てた。

回す勇気が出ない。怖い。私が出来るのだろうか、この子の未来を良いものにできるのだろうか。


ここに来て、怖くなってしまう。

自分を信じきれない。


「お母さん、一緒に頑張ってくれるんでしょ?……大丈夫だよ。私は、すぐダメになっちゃうほど、子どもじゃないよ。」


ゆっくりと、ドアノブを回す。

掴んだ手が、ゆっくりと。


ガチャリと音を立てて、何よりも簡単に、扉が開いた。


部屋の全貌が見えた。


淡い電気で照らされた部屋はキレイで、普通だった。

娘が立っている。娘の顔が漸く見えた。


真っ赤な目、腫れた瞼。

泣いて泣いて疲れてしまった、小さいあの子を思い出した。あの時よりもずっと背が高くなって、顔も少し大人びたように思える。


娘の目から涙が、溢れて零れる。


手を伸ばした。

何よりも簡単に、抱きしめることが出来た。


視界が滲んでも、視界に映る光景は鮮明だった。

ああ、言わなきゃならないことが沢山ある。沢山あるのに、何も言えない。ただ抱きしめることしか出来なかった。


泣く声がする。








娘はカウンセリングを受けることにした。

自分で色々と調べていたようだ。


何回か病院を変えたが、今の先生が一番娘に合っているらしい。


娘は少しづつ、できることが増えていった。

高校も通信制のワンデイという週に一回勉強を教えて貰える形式にして、そこで友達を作れるようになるまで変わった。


中学の友達のよっちゃん達に謝ったりもしたらしい。

責任感の強い娘らしいなと思う。結局、友達とは関わることは無くなってしまったが、お互いに蟠りは無く終えられたらしい。スッキリとした顔をしていたから、もう大丈夫だろう。


声も顔色も明るくなって、元気になっていった。

この前はパパと二人だけで映画を見に行ったらしい。ママはホラーが苦手だから誘わなかったと言っていたが、パパも大概ホラーが苦手だ。パパが二人で出かけたいから強がったのだろう。


そして娘はアルバイトを始めた。

給料がいいから工場にしたらしい。同じことを繰り返す状況に虚無を感じているらしい。でも楽しげだ。


「げほ」


強い咳を繰り返して、喉が痛む。

体がだるい。立ち上がるのも一苦労だ。


娘はあと一年で卒業する。

卒業したら就職するそうだ。やりたいことが出来たのだという。


今、娘は幸せそうだ。


私にはあと三年しかない。


でも、もう思い残すことはないだろう。


目を閉じてベッドに寝そべる。

まだ、娘にはバレていない。このまま隠しきるべきか。それとも。


脳裏に記憶が蘇る。

小さい頃の娘の記憶だ。保育園で絵を描いて、満足いかなくて、泣いて。何を描いたのか見せてもらうと、私とパパの絵で。もっと可愛く描きたかったって。


初任給で、私とパパに贈り物をしたいんだそうだ。何を買うのかは内緒なんだと。


ああ、死にたくない。

死にたくないよ。


娘より早く死ぬ物だとは思っていた。

でも、こんなのって。こんな早く死ななくてはならないなんて。


目を擦っても止まらない。

生きていたい気持ちが、溢れ出す。


生きたい。生きたい

出来るなら娘の結婚式にも出たい。孫にだって会いたい。愛したかった。


ああ、でも、幸せだ。








私は病院に入院することになった。


今は歩けるし、普通のように見せられるが、ここから急激に悪くなることが多いのだそうだ。

正直言って、これ以上はキツいものがあった。体が動かないのだ。


言わなくてはならない。

言わなくてはならなかったのだ。もっと早く。


もっと早く言えば、あんなに取り乱したりなんてしなかったろうに。


娘と喧嘩した。

私が余命僅かだと信じられなかったのだろう。喧嘩と言っても一方的だったけれども。


部屋から啜り泣く声がする。


私には何も出来ない。

私ですら、私に対してどうすればいいのか分からないのだ。


パパが俺に任せてと言ったから、私は眠った。


次の日、家が荒れていた。

どう荒れていたのかと言うと、なんというか、もう泥棒に入られたのかと思うほどだった。


リビングで話し声がする。


「お母さん、カイロあると楽なんだよね?二十個くらい持ってく?」

「いや、うーん。三十個くらい持ってこうか……」

「そんなには要らなくない?十個でいいよ。」

「じゃあ何でパパに聞いたの……?」


そっと開けると、リビングの中で、娘とパパが準備していた。


「ママ、海好きだから望遠鏡持っていこっか。」

「天体観測の奴は大きすぎるから小さいのにしてくれないか?入らないよ。」


娘が「大きければ大きいほどいいでしょ」と言いながら天体観測に使うような望遠鏡をカバンに詰めようとしている。


もしかして大きければ大きいほど性能が上がると思ってる?

海見るだけなら変わらないよ。


何だか笑えてきてしまって、私は隠れて部屋に戻った。

泣けてきたのは、笑いすぎたせいだ。


その一時間後、起きた私に娘は海に行こうと提案してきた。パパも一緒にって。

二人とも真っ赤な目だった。


私は何も知らないフリして頷いて、海に行った。


車でくだらない話をして、着いた海は、何よりも綺麗だった。

キラキラ輝く水面は透き通っていて、隣には娘が座っている。


「ねえ、お母さん。本当に死んじゃうの?」

「うん。死んじゃう。」

「そっか」


波の音が届く。潮風に髪が揺られた。


「昨日はごめんね。取り乱しちゃって」

「しょうがないよ。しょうがない。」

「うん。そうかも」


娘が私を見る。

ようやく目が合った。


「お母さん、ありがとう。私ね、今ね、幸せだよ。これからも幸せだよ。お母さんのおかげだよ。」


うん、そうだね。幸せなんだね。


娘は泣いて、そして死んで欲しくないと言った。


どうしようもない。どうしようもないんだ。


私は娘を抱きしめて言った。


「貴方を世界で一番愛せて、私は幸せだったよ。世界で一番愛してるよ。」


娘はうんと言って、私を抱きしめ返す。


そのまましばらく過ごして、海を見ていると、パパが隣に座ってきて、娘にラムネを私に白湯を手渡した。


海を見ながら飲むそれは格別で、何よりも良い思い出になった。









それからしばらくして、私は、病室のベッドから起き上がれなくなった。

目が霞んで、耳も遠くなって、体は言いようがない怠さを持っている。


毎日娘とパパが来てくれるけど、私は、二人の顔が十分に見えない。

だから、よく顔を触って確かめる。


柔らかな感触の頬、瞼、輪郭をなぞって確かめると、そこにいる感覚が強くなる。


「 あ、来たよ。今日は成人式だから、振袖着てるんだ。すっごく綺麗だよ。」


パパがそう言いながら、私の手を握る。

そうか、今日は成人式なのか。


「ママ」


娘の声が聞こえて、手を伸ばす。

私の手に触れる。なぞっていく。


柔らかい頬、瞼、輪郭。

娘がそこにいた。


よく目をこらす。

華やかな赤に、白い花が咲いて、娘を輝かせていた。


「綺麗でしょ?」


ああ、綺麗。本当に、綺麗。


大きくなったね。


私の手を誰かが握る。

パパか、娘か。きっと娘なのだろう。


「成人したんだ。もう大人になったんだよ。」


そうね。もう大人になった。

もう、私が居なくても大丈夫ね。


「俺らの娘はこんなに綺麗になった。もう、安心だ。」


パパの声がする。


ああ、でも、心配だ。心配で堪らない。


もうママが居なくても、本当に大丈夫?

何かあったらパパに相談するのよ。パパは貴方の味方だから。


私も、いつでも貴方の味方よ。


「ありがとう、お母さん。お母さんのお陰で、私、今幸せだよ。大好きだよ。」


私も、私も愛してる。


これから大変なこともあるでしょう。

辛いことがあって、それでも乗り越えて。


幸せになって。


世界で一番愛してる。

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余命五年だから引きこもりの娘を自立させてみようと思う お好み焼きごはん @necochan_kawayo

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