第1話   明日は大事な日

 教員試験に合格し、先輩教師からあれやこれや教えてもらい、大変過ぎないかと不安に思う気持ちと、これからの教師生活に早く飛び込みたいというフレッシュな期待感で、気持ちが落ち着かなかった。


 新米教師としての初の赴任先は『高望み小学校』という、少々校名の響きにマイナスなイメージがぬぐえない学校だった。都内とは思えないほど緑豊かで大きな山をいくつも背負い、校内案内のパンフレットには「サル・クマ・イノシシ・モモンガ・ウサギ・リスが出ます」と記載されていた。


 さらに、たまたまご高齢な教師を多く抱えた影響か、去年は体調不良で突如入院されたり、教鞭を振るうのが難しいと医師から判断されて突然辞めたりと、職員室がてんやわんやだったという。


 今年も、あまり若い先生を引っ張ることができなかったそうで……去年の二の舞になりそうだと、先輩教師からグチられて、新人の里山も修羅場の続く日々が乗り越えられるだろうかと不安になった。


 そんな心情とは裏腹に、運命的なもので強く引き寄せられたかのように、様々なことがとんとん拍子に決定し、良いアパートも見つかり、高望み小学校の先生方にご挨拶に伺った際は、年齢問わず明るく情熱的で、どんどん前に進み続けていく積極性のある方々ばかりで、びっくりした。


 里山は尻込みしていた自分を恥じた。起きるかどうかわからない修羅場に震えるよりも、飛び込んでみるしかない。教師としての評価、経歴、それから生徒たちと親御さん方との関係は、自分自身がこれから作り上げるしかない。弱気になっている時間すらもったいないのだと、気がついたから。


「よし、やるか!」


 職員室を出た先の廊下で、ほっぺたを両手でパンと叩き、気合を込めた。たまたまそれを見ていた小学生たちが、里山のマネをして、自分たちでほっぺたをペチペチ鳴らしながら笑っていた。


 春休みでも、図書館とグラウンドだけは生徒に解放している少学校だった。



 隣のデスクの先生から、思い詰め過ぎるなよと助言された。体と思考のリズムが崩れると、若くても不調に陥いるという。その助言は、里山に痛く沁みた。担当する一年生クラスの入学説明会もまだなのに、鬼のように詰め込まれたスケジュール表に、早くも心と体に重圧がのしかかっていたのだ。


 今年からまた学校教育の方針が変わり、小学生のうちから学ぶ科目が増えた。早い段階で、いろいろなジャンルの勉学に触れて、慣れていく事は重要である。その最初の一歩を踏めるように、生徒たちの背中を優しく押し、興味の幅を広げること……はたして、生徒たちに興味を抱いてもらえるほど楽しく教えられるだろうかと、里山は思い悩むようになっていた。



 入学式の五日前のこと。里山は必要書類の準備に追われていた。古いコピー機がエラーを吐くたびに、自分も吐きそうになる。


「あら? 里山先生、お顔が暗いですよ。マスク越しとはいえ、元気なお顔してないと、生徒や親御さんたちが不安がっちゃいますよ」


 そう声をかけてきたのは、三児の母でもある教頭先生だった。最近、緊張で眠れていないのだと正直に話すと、お酒でも飲んで、早めに寝なさいと言われてしまった。


 初日から気合を込めたい反面、あんまり自分を追い詰めるものではないと、里山は思い直した。


 まだ何も始まっていないというのに。これから全てがスタートするというのに。ストレス値だけフライングしてどうするんだと、己にツッコミを入れた。



 里山昇さとやまのぼるという名前は、里山自身も気に入っていた。子供の頃からテストに名前を書くときに、努力という名の登山道を、地道にコツコツ登ってきた成果を見せる時だと、張り切っていた。


 その価値観は、今でもあまり変わっていない。


「明日は入学式だ。ある意味で、一つの頂上だな」


 一年二組。初めて生徒と、顔を合わせる日。書類上の写真のように時間停止している姿ではなくて、動き回り、走り回り、授業中も楽しくおしゃべりし、掃除道具を振り回してチャンバラするであろう、里山のクラスの生徒たちだ。


 缶ビールのタブに人差し指をかけて、小気味良い音を鳴らした。大事な日の前に酒など、という罪悪感が無いわけではなかったが、大事な日だからこそ緊張して一睡もできないことが多い里山にとっては、深酒さえしなければ、むしろ明日のための睡眠薬だった。


 いつも緊張して眠りが浅くなりそうな時は、一缶だけ飲んで、ぐっすり眠る。不良教頭からのアドバイスもあって、タブを開ける際の罪悪感がずいぶん軽くなった。


 男独りが暮らすには充分すぎる広さの1LDK、しかしお家賃は納得のいく額で、まるで里山がここに赴任するのを、この土地が待っていたかのような、そんな錯覚さえ覚える、のどかな夜だった。


 入学式を含め、いろいろな支度したくで、帰るのが遅くなったにもかかわらず、里山は満たされていた。


 リモコンを片手に取り、テレビを適当につけてみる。何か面白い番組は無いかと、リモコンのボタンを適当に押し始める。


「タブレットで好きな配信しか観ないからなあ……たまには、バラエティーでも観るか……。若い芸人やタレントってのは、いつの間にか現れてるからな」


 赴任先の「高望み小学校」は、ここから一キロほど離れた場所にある。高望み町という地名を、そのまま校名に付けたそうだが、その響き的に、当の子供たちはどう思っているのだろうかと里山は気にしている。


 どんな夢も叶う確率は低い、というようなマイナスなイメージを潜在意識に植え付けられはしないだろうかと、少し心配していた。


「……まあ、その辺は、教師俺たちがマイナスイメージを払拭できるように、夢を応援する大人の一人として子供たちに接していくしか、ないなぁ」


 何が起きるか全く予想できない、こんな時代だけれど、抱いた夢を自ら否定せずに、そして抱いた夢を叶えるために、勉強し、突き進んでいってほしい。そして、こんな時代じゃ難しいかもしれないが、好きな「大人」になってほしい。


 口には出さないし、子供たちに強要はしない。だけど、それが里山の願いだった。


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