Chapter31 取締官

 俺は動いた。

 手を拭くふりをして、テーブル上に置かれたナプキンを一枚取り出し、ポケットに突っ込む。ボーマンもワダさんも泣きじゃくるマチルダを向いている。

 アンケート用紙記入用のペンを手に取り、トイレへと席を立つ。トイレに入り、メモを書く。

 テーブルへ戻る途中、ボーマンたちに気づかれないように、俺は男のテーブル横で立ち止まった。

 男はゆっくりと顔を上げる。

 俺は彼の顔を横目で見ながら、そっとメモを置いた。そのメモが意味を成さないのであれば、それで構わない。そこにはこう書いてあった。


〝私も取締官です〟


 男はメモを見て、何も言わず、胸ポケットに仕舞った。俺はテーブルへと戻る。

「そろそろ帰りませんか?」

 俺はそう三人に声を掛けた。コートを着て、皆で店を出た。

 駅の改札口まで来て、俺は言った。

「すみません、マフラーを忘れたみたいです」

「え、どこにだい?」

「あー、多分さっきの喫茶店だと思います」

「取りに戻りましょうか?」

 ワダさんがついてきそうになるのを制止する。

「いや、悪いからいいよ。自分で取りに行きますから、皆さんは先に帰っててください」

「そうですか」


 三人が改札を抜けて、去っていくのを俺は見守った。それから踵を返して、今来た道をゆっくりと引き返した。

 少し行くと、先ほどの男が、別の男と一緒に物陰から姿を現した。中年でない方の男は、二十代中頃だろうか。パーマの緩くかかった黒髪と切れ長の鋭い眼、緑色のモッズコート。

「これはどういう意味だ?」

 中年の男が、俺がさっき渡したメモを手に、言った。

「そのまんまの意味です。俺は取締官です。あなた方もそうなんでしょう?」

 二人の男は顔を見合わせた。そして胸ポケットから職員証を取り出した。

「この州管轄の取締官だ。俺はナンジョウ。こいつはキタミ。あんたは?」

「俺はイチカワゲンゾウです。情報省、統制局第一課所属」

 俺は手を差し出す。相手は握手には応えない。

「中央じゃねえか。職員証は?」

「地下組織に潜入している最中にそんなもの持っているわけがないでしょう」

 ナンジョウは首をかしげながら、俺の頭のてっぺんから足先までを、ねめつけるように見る。

「何で中央がこんなところまで出張ってんだ? お前、俺たちに嘘ついてんだったら、容赦しねえからな?」

「俺の名前で検索してみてください。省報やらの記事でヒットしますから」

 ナンジョウは面倒くさそうに、キタミを向いた。察しのいい部下が情報端末を取り出して、検索をする。

「ああ、確かに……あんた、ヘーゲル=カルノサイクル試験を作った人なのか」

 キタミがそう言うと、ナンジョウが端末の画面を覗き込んだ。それから俺を向く。

「……で、そんなご立派なあんたが何でこっちに出てきてるんだ? ここはあんたらの管轄じゃねえだろう?」

「あの組織は、我々中央でも最も重要な反政府組織として、前々から目を付けていたんですよ。その内情を探るために俺が潜入捜査の命を受けて、ここにいるわけです」

「……中央がいつどこでそういった情報を手にしたかは分からねえが、俺たちにそんな情報は全く下りてきていない。あの少年が出入りしていた団体は、都内に本拠地があんのか?」

「俺が調べた限りでは、そうではないですね」

「じゃあ、何で俺たちに任せないんだ」

「この件は、府芸省審議会の直接処理案件に規定されているんです。あなた方が独自の調査でこの組織に辿り着きそうになったのは、正直驚嘆に値します」

 ナンジョウとキタミは再び顔を見合わせた。俺は、審議会の名前を使ったことを若干後悔したが、仕方がない。ナンジョウが続ける。

「ハッキリ言って、信憑性がない。あんたが仮に本当に、このイチカワゲンゾウだとしよう。いや、恐らくそうなんだとは思うぜ? でも、だ。そのあんたが実は裏切っているってことだって、あるかもしれないじゃないか」

 思ったほど馬鹿でなさそうだった。俺は頭を掻く。しばらく考えてから、こう答えた。

「まあ、あなた方の仰ることももっともです。もしよろしければ、うちまで来ませんか? うちには審議会からの特命書と今回の件にかかる証拠をお見せできるかと思います」

「……特命書?」ナンジョウは後輩を向く「どう思う、お前は?」

 キタミは俺から視線を離さずに、答えた。

「まあ、俺たちの方が有利な立場にはいますし、こいつの言うことが嘘だったとしても俺たちが損することはないと思います。だから、いいんじゃないですか? 確認しにいってやっても」

「……あんたの家はどこにあるんだ?」

 俺は今住んでいるミナトミライの住所を伝える。

 ナンジョウがキタミに指示して、車を回させた。暗いグレーの車体でスモークがかった窓を備えた車だった。乗る者に威圧感を与えることを目的にした設計だった。

 俺は言った。

「一本、電話をさせてもらえませんかね」

 ナンジョウは、どうぞ、と手を差し出した。

 俺は二人から少し距離を取って、情報端末を取り出した。そして、自宅にいるリイに電話をし、これから自宅に向かうことを伝える。

 ナンジョウが俺に近づいてくる。

「もういいか?」

「ええ、大丈夫です」

 俺は、端末の位置情報確認システムを密かに起動させた。用心に越したことはないだろう。

 それから、ナンジョウに小突かれるように押されて、俺は車の後部座席に乗り込んだ。キタミが鍵を回し、エンジンがかかると、車は静かに走り出した。

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