Chapter29 ホリー・マーチン
「アレ、脚本の交渉に使う材料のつもりだったんですか?」
帰りの電車にて、聖夜の混雑の中、彼女と二人になった時、ワダさんは小声で俺にそう尋ねた。
「何の話だい?」
「ホリーにあげた腕時計ですよ」
俺は隣に立つワダさんを見る。見返す瞳を見る限り、もう酔っ払ってはいないようだった。
「そんなつもりはないよ」
「そうですか」
「あんな時計を一つあげたくらいで、彼の気は変わらないんじゃないかな」
「まあ、それもそうか」
「映画の結末が、彼の案にならなかったときに、慰めくらいにはなるんじゃないかと思ったりはしたけどね」
「傲慢ですよ」
「彼は若いし、一生懸命だし、純粋にプレゼントだよ」
ワダさんの目が大きくなる。
「何だよ」
「意外と良いところ、あるんだなって。本当に」
「意外とって言うなよ……」
「割と真面目に言ってるんです。私、最初にイチカワさんに会ったときは、少し怖いな、って思いましたから」
俺は彼女を見た。彼女も俺を見返した。
「今はもう大丈夫ってことでいいのかな」
「ええ」
「そいつあ良かったよ」
「今度是非、みんなで映画でも観ましょうよ」
「ビオスコープでかい?」
「もう少し少人数で。私の家でもイチカワさんの家でも」
俺は家にいるリイのことを考えた。観ている間、どこかに行っていてもらえるのだろうか。まあ、どうにでもなるか。
「いいよ。映画のチョイスは君に任せるよ」
「ホラーにします」
「それはダメ」
「何だ。残念」
俺の降りる駅に電車が到着した。ワダさんと別れる。
乾いた星の瞬く高い空の下、吐く息が白く、寒さにコートの襟を立て、俺は家に向かい、歩を進める。先ほどまでのバカ騒ぎはどこか遠くへと行ってしまったようで、辺りは海に沈んだようにまっ静かで、飲んだ酒のぬくもりは、体の奥の奥の方、そこに微かに残っているだけだ。
薄暗く頼りない灯をたたえる電柱の行列。
几帳面に刈り込まれた路肩の枯れた植え込み。
革靴の下に感じる舗装路のざらつき。
明日の朝は霜が降りるなと、俺は一人ごちる。
黄色く煌々と輝く高層マンションのエントランス。
白とグリーンの大理石の床。
茶色の革の一人掛け用ソファ。
真っ赤なエレベーターに乗り込み、オレンジ色に点滅する階表示。
青いタイルが敷かれた廊下を進み、真っ黒なブランド財布から鍵を取り出す。
ドアにカギを差し込んだ時、俺は気が付いた。
俺は、恐ろしいことに気が付いてしまった。
家に入る。起きていたリイが俺に声を掛ける。俺はろくに答えない。
靴を脱ぎ、コートを掛け、俺はそのままベッドに入った。
俺は、ショックを受けていた。そんな風になるつもりは微塵もなかった。俺は嫌悪していたはずだ。俺は、俺は。
俺は、ビオスコープを、あのメンバーたちを、大事に想い始めていた。
映画製作が楽しいと、俺は思ってしまったのである。
そして、年が暮れ、新年を迎えてから数日後、ホリーが亡くなった。
死因は自殺だった。
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