Chapter9 ワダ・コマドリ
ヨコハマの地下組織に潜入するために、俺はひと月以上の時間をかけて準備をすることにした。そもそも、映画がどうやって作られるのか、それすらも俺は知らなかった。こんな状態の奴が、一体どうして地下組織に入りたがるというのか?
さっそく俺は国立国会図書館に行き、閲覧制限が科せられた本を借りてくる。映画製作について書かれた大型書籍である。夜、枕もとで読み、俺は酷い頭痛に襲われる。
まさかとは思っていたが、本当に人の手で映画なんてものを作っていたのか。それもホンの数十年前までの話だ。調べれば調べるほど、俺には理解が出来なかった。
まず、制作にあたって、携わる人間の数が多すぎる。
簡単に書き出したって、製作者、監督、助監督、撮影監督、音響監督、脚本家、衣装、音楽、美術、記録、その他諸々。そして、これらに合わせて俳優が何十人。
こんな大所帯で、何か一つの物を作るなんて狂気の沙汰だと思った。どう考えたって、関わる人間の思惑が、一つに収れんするとは思えない。完成に向けて動いていくうちに、バラバラになることは必至だ。しかし、文句を言っても仕方がない。この仕事から逃げることは、出来ない。
俺は、映画の勉強をする一方で、自分を偽るための準備も始めた。地下組織に潜入する際の偽りの身分である。
手元には審議会が用意してくれた地下組織への紹介状があったが、自分の素性を明かしては、活動が出来ない。
また、組織内での立ち回りを考えれば、俺は絶対に制作者の立場にならなくてはいけなかった。アキラの脚本を使い、国家のための映画を、文句を言わせず、作らせなくてはいけない。
それらを考慮すれば、俺は映画を作れるだけの金持ちで、国家からは自由な人間に見せる必要があった。金も手段もある。どんな人間にもなれるだろう。まだ時間はある。
そして、もう一つ。地下に潜るための大事な準備があった。
俺は再び、情報省管理局へと向かった。
前回来た時と同じ入り口を通り、玄関ホールを抜けていく。今回はエレベーターには向かわず、一階の、ある区画に足を運ぶ。
広大なフロアの奥の奥。狭い廊下のその先に、ひっそりとその場所はあった。
小さな看板が隠れるように掲げられている。
そこは史料保管室だった。
入り口の自動ドアに情報端末をかざし、中へと入る。
予想通りだった。職員が一人、カウンターに腰かけて、本を読んでいた。リイを家に残してきて正解だった。
その女性職員は、俺が入ってきたことに気が付いて、顔を上げた。
暗い室内灯のせいもあるのだろう。黒い長髪に映えるその肌は異様に白かった。彼女の赤茶の目に、不審の色が浮かぶ。
俺は自身の情報省の職員証を見せる。腰を浮かせて、彼女は顔を近づける。
「……こちらに何の用で?」
声がうら寂しく、室内に響いた。職員は彼女一人だけのようだった。
「映画のコピーを貰いたいんだ」
「映画? うちの職員ならオンラインで観れるでしょう?」
「いや、そうじゃない。アキラの映画ではなくて、それ以前の映画を観たいんだ」
彼女の眼が少し見開く。
「嘘でしょう? アキラ以前の映画を?」
「ああ」
「何故?」
「……観るのに理由がいるのかい?」
俺は口ごもりそうになる。
理由は言えない。
そう、俺は地下組織潜入の下調べとして、ここに映画のデータを貰いに来たのである。
彼女は俺の顔をまじまじと見る。
俺は、ごまかすように笑みを浮かべる。
それから彼女は、小さな声で言った。
「あなたも、映画が好きなんですか?」
返答に詰まる。とんでもないと言いそうになったが、寸でのところで堪え、そして察した。
彼女は、この閑職に一人寂しく配属されている彼女は、きっとアキラ以前の映画が好きなのだ。
「あなたも?」と俺。
彼女は、自分の発言が間違っていたことに気が付いて、顔を伏せた。
「いえ、何でもありません」
「いや、いいんだ。最近、昔の映画のことが気になり始めてね。ちょっと勉強してみようかと思って、寄ってみたんだよ」
彼女は俺を見上げる。
「ど、どんな映画を?」
「貰う前にさ、ちょっと相談なんだけど」
「え、ええ、何でしょう?」
「ここでコピーを貰ったことは秘密に出来たりするのかな? 何か手続きみたいなものは必要なの?」
彼女はちょっと考え込む。
「いえ、大丈夫ですよ。内密にしておきます」
「ありがとう。やっぱりまだ少し恥ずかしくてね。観たくても、周りの目が少し気になって……」
「分かります、その気持ち!」彼女が身を乗り出す。「で、何か希望はありますか?」
「うーん……全然分からないんだよね。そうだな、とりあえずまずは二十本……いや、三十本くらい適当に見繕ってもらうことは可能かな?」
「三十、ですか?」
「やっぱり多いかい?」
俺としては、組織に潜入するまでに百本以上は観ておきたかった。一日あたり三本の映画を消化すれば、一か月後には九十本を見終える計算だ。妥当な鑑賞数だろうと思った。
「いえ……ですが、そんなにすぐに選ぶのは……」
「難しい?」
「うーん……良い映画があり過ぎて……どう絞ったらいいものかと」
「大体で良いんだけど? 観ていて当たり前の、有名どころな奴をさ。それにまた借りに来るつもりだし」
彼女は腕を組んで考え込む。そして、一分後に言った。
「そしたら、ですね。ちょっと提案なんですが、明日またお越しいただくことは可能ですか?」
「ここにかい?」
「ええ」
「大丈夫だとは思うけど」
「せっかく、映画が好きな人に来てもらったんです。どうせなら、厳選したものをお渡ししたくて……」
「いや、いいよ。そんなことまでしなくても。まだ好きかも分からないし……」
「じゃあ、なおさらですよ。キチンと選ばせてください。こんな大仕事ありませんよ」
俺は室内を見る。
うす暗い蛍光灯に照らされて、キャスター付きの大型書棚が列をなしている。奥の方は暗すぎて、様子すら伺えない。普段は人なんか微塵も来ない部署なのだろう。
彼女がどういう理由でこの部署に飛ばされてきたのか、おおよその理由は見当が付く。アキラ以前の作品を観ることは犯罪ではない。だが、普通の人は観ない。アキラが完璧な物語を作ってくれるこの時代に、そんな歪な物語を好むことは、世間的に受け入れられてはいない。ただ変わり者のレッテルを張られるだけだ。
「分かった。じゃあ、明日またここに来るよ」
俺は彼女の熱心さに折れた。
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは変だろう」
「そうですね、失礼しました。あと、あなたの部署とお名前は?」
「イチカワだよ。部署は——」
俺は、適当な部署名を伝える。今ここでわざわざ取締官だと名乗る理由はない。彼女に不審の念を抱かせる必要はない。
「私は、ワダです。ワダ・コマドリ。よろしくお願いします」
そう言って彼女は手を差し出す。
ひっこめる気配はない。
俺は仕方なく握手を返した。
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