前編
Chapter1 取り締まり
不浄なインクは全て雨が覆い流し、過ちは涙が拭い去るだろう。
* * *
俺は濡れた手で、インターホンを押した。
被疑者が出てくるのを待つ。
激しい雨がトタンの屋根を叩きつけている。
俺たちは今、夕方の暗がりの中、川岸に建つぼろい小さなアパートメントの二階の一室、その玄関の前にいた。
土手沿いに遠くまで並ぶ街灯は、黄色やオレンジの不揃いな光をか細く点滅させていて、足まで羽織った透明なレインコートが、梅雨の湿度でワイシャツにぴったりと張り付いていた。
インターホンは返事をしなかった。
聞こえてくるのは、機銃掃射のような雨音だけだった。
俺は、後ろに控えた二人の職員を向いて、肩をすくめた。
被疑者:サイトウ・ギンザン
ドアの名札を再度確認し、俺はインターホンをもう一度鳴らす。
反応があった。部屋の中から音がした。
「荷物のお届けに上がりました」
俺は平然と嘘をつく。
ドアが少しだけ開いた。俺と年端の変わらない、三十過ぎの男が顔を出した。髭面で、整えていない髪。黒縁の眼鏡によれよれのティーシャツ。
スーツ姿の俺と、後ろに控える青い作業着の二人に目をやって、サイトウは事態を察したようだった。目に動揺が走る。
俺は胸ポケットから令状を取り出す。
「サイトウ・ギンザンさんですか? 私は
そこまで言うと、サイトウはドアを無理やり閉めようとした。俺は急いでドアの隙間に肘を差し込む。
「ふざけんな、クソっ!」
叫び声を上げて、サイトウはドアを力いっぱいに蹴った。ドアが弾けるように開き、俺は飛ばされて、鉄柵に激突する。だが、俺以外の二人の職員が、サイトウの行く手を遮っている。
「クソっ!」
サイトウは向きを変えて、今度は部屋の中へと猛然と駆け出した。
二人の職員も後を追った。
窓を開ける音が聞こえ、サイトウが二階の部屋から一気に飛び降りたのが見えた。
俺は、痛む背中をさすりながら立ち上がり、室内に入っていく。土足のまま、足跡を残しながら。
先に入った職員の二人が、ベランダから地上を見下ろしている。
「どう? 捕まった?」と俺。
「ええ」
階下を見れば、他の作業員たちがサイトウを取り押さえていた。下にも職員を配置しておいて正解だった。地面に伏されたサイトウは、罵詈雑言を発している。
「捕まえましたよ、先輩!」
部下のシュンジが、俺に向かってそう叫んだ。
俺は、御苦労、と手を小さく上げた。それから作業員二人に向いた。
「じゃあ、ちょっと悪いんだけど、車からハコ持ってきてさ、この部屋の持ち物、洗いざらい持っていっちゃってよ」
作業員二人は頷いて、部屋を出ていった。
俺は一人、部屋の中で、被疑者の部屋を見回した。
本棚にぎっしりと詰まった小説や漫画。
床に散らばる映画のパッケージ。
カビの生えたようなアナログテレビ。
垂れ流される古い海外のメロドラマ。
そして、机の上に置かれた原稿用紙の束に目が留まる。パソコンで打ったものを出力したものだろう。
タイトルと
俺はその印刷された
俺はため息をつく。靴が汚れる。スーツの裾も、だ。
この辺りは、トーキョーの中でも、地面の乾かない日はない汚泥指定地区だった。
建物と建物の間に、ぼろい木製の渡し板が張り巡らされている。俺はその上を歩いて、アパートメントの裏手へと向かった。
一階区画はかつての浸水後、打つ手なしと判断されたのか、今は誰も住んでいない様子だった。
砂利の敷かれた駐車場に出ると、シュンジが後ろに腕をとって、サイトウを地面に押さえつけていた。この悪天候の中、泥にまみれてよく働く――俺は感心した。
「逃げちゃダメですよ」
俺は、サイトウに近づいた。
「この、公僕が……」
サイトウが俺を見上げて、罵った。
俺は屈みこんで、砂で汚れた被疑者の顔を覗き込む。
「そういう言い方は良くないですよ。私たちも好きであなたを逮捕するわけじゃないんです。これは仕事なんですから」
「俺が何をしたっていうんだ? 何にも悪いことはしてないぞ!」
「したでしょう。あなたのこの小説? いや、脚本なのかな? これ、ネットに上げたでしょう?」
俺は、手にした原稿の束を見せる。土砂降りの雨に打たれて、インクが滲み始めている。
「あなたがね、自分で作る分には別にいいんですよ、自分で楽しむ範囲でなら。でもね、公開をしちゃあいけないでしょう? それにそんなことをする必要もない、今この時代には」
「……公開して、何の問題があるのか分からない」
俺は首を横に振った。
「あのねえ、サイトウさん、あなた歴史の勉強をしてないの? 創作物が人に及ぼした悪影響を知らないわけがないでしょう?」
サイトウは何も言わない。俺は濡れた原稿をめくってみせる。
「ほら、例えばこのセリフ、あなた、このセリフを自分の娘さんに言えますか? こんな恥ずかしい台詞を。こんな女の子、現実にはいませんよ」
「娘なんかいねえよ」
「別れた奥さんとまだ幼い娘さんがいるでしょう?」
「……お前らは、本当にクズだな」
俺は、サイトウの前髪を掴んで、頭を持ち上げた。犯罪者と目がかち合う。
「あんたね、バカにすんのも大概にしときなよ。課長補佐の俺が、わざわざこんな雨の中、出張ってきてるっていうのに」
俺の顔に、サイトウの唾が飛んだ。
俺は、サイトウの顔を地面に叩きつけた。立ち上がり、ハンカチを取り出して、顔を拭った。
それから、俺は湿った原稿をびりびりに破いた。
落ちた作品の欠片を思い切り、サイトウの目の前で踏みつける。奴の顔に悲壮の色が浮かぶ。
「あんたの作品は全て消す。一切残らず全部だ」
俺は吐き捨てるように言った。
「こんな妄想にいつまでも逃げ込んでいる場合じゃないでしょう。あんたみたいな人間はいい加減、もっと切実に現実を生きるべきだ」
サイトウは、うめき声を上げて、うなだれた。
「あとはよろしく。俺、今日はもうこのまま帰るから」
シュンジにそう言って、俺はその場をあとにした。
腕につけた情報端末を見ると、通知が一件届いていた。今晩から上映する映画の鑑賞案内だった。
どこかで着替えないといけないな——俺は足元の泥を見ながら、そんなことを考える。後ろで響く泣き声が聞こえないフリをしながら。
〇著作に関する禁止事項を定めた法律(以下、「著作禁止法」とする)
第三条 何人たりとも創作を行い、それを公表してはならない。
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