鬼滅の刃はドグラ・マグラ「ドグラ・マグラの誕生の謎を解く…の巻」
梅乃木 彬夫
第16話 六大前提
I:
『ドグラ・マグラ』を読み解く上で、まずはじめにクリアしておかなければならないことがあります。それは読み手の解釈をどこまで自由にしてよいのかという問題です。
『ドグラ・マグラ』という作品は読み手の側に立つとどんな解釈でも可能で、どの解釈が正解でどの解釈が不正解であるか判然としません。私の読み解きもそれら無限個の解釈の一つである以上、条件は同じであり、むしろ不正解である確率の方が高いくらいです。
そこで、これから私が『ドグラ・マグラ』と対峙するうえでの立脚点を、最初にハッキリさせておきたいと思います。私が読み解きの前提とするのは、次の六つの条件です。
Ⅰ 夢野久作著『ドグラ・マグラ』の内容
Ⅱ 作中作「ドグラ・マグラ」は、「誰かの夢」や「胎児の夢」などではない。また、予言書でもない。物語の中での「私」の過去の現実が記述された原稿であること。
Ⅲ 呉一郎=七号室の患者=「私」=アンポンタン・ポカン君=若い大学生の患者。
Ⅳ 呉モヨ子=六号室の患者=蘇生した少女。
Ⅴ「私」が離魂病の発症で感じとる視覚・聴覚などの感覚はすべて過去の現実であり、未来からの意識や感覚の流入はありえないこと。
Ⅵ 夢野久作は天才である。
これらの諸条件は、これから推論を展開するうえで「原理・原則」となる重要な仮説であり、本講演の大前提であるともいえます。
以後、この六つの仮説を読み解きの起点として思考を深めていくにあたって、これらの大前提を
もし、途中でこの小舟が難破するようなことになったら呉一郎と「私」は別人だったことになり、本論の主張は即、不正解となる訳です。
ここで六大前提のⅡ項、作中作「ドグラ・マグラ」は「私」の過去の現実が記述された原稿であること、について少し補足しておきますと、これにはそれなりの根拠があります。『ドグラ・マグラ』の主人公である「私」が、
「フーム……そうだろう……そうだろう。あの少女が美しいかどうかと
私は本当を云うと、この時の私の心持ちをここに記録したくない。
とありますが、この文中にある「ここ」とは、他ならぬ作中作「ドグラ・マグラ」の文章そのものを指しており、「私は本当を云うと、この時の私の心持ちをドグラ・マグラに記録したくない」と
さらにいえば、「私」が標本室で正木博士に絵巻物の実物を見せられ、最終の第六図まで見終えた場面です。ここで主人公は、
……私は嘘を記録する事は出来ない。あとから考えても恥ずかしい限りであるが、私はおしまいの方ほど急いで見た。
と告白しています。この記述も作中作「ドグラ・マグラ」が「私」の過去の現実の記録であることの根拠のひとつたり得るでしょう。
また加えて、嘘や矛盾や背反証言を見破れないかぎりは『ドグラ・マグラ』の登場人物たちが語る話は基本的に真実として信じるという性善説の姿勢で臨みました。
注解
(1)本章は以下、「第29話 さらなる謎解き」までズット、主人公Iの一人語りである。 Iは九州帝大の精神病学教室本館の大講義室で満堂の夢Q ファンを前に講演しているようなつもりで話している。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます