虹色のコウモリは嫌われる
木村ポトフ
第1話 前日譚(両性愛者を嫌う同性愛者もいる、ということについて)
「キリンやゴリラにだって、ゲイはいる。
けれど、ゲイフォビアな個体がいるのは、人間だけじゃないかな」
ゲイバーの存在意義は? と問われて、案内人ペンギンはそんな戯言を言った。
「ヤツらが同席すれば、酒が不味くなる。気持ちよく酔っ払いたい、ゲイとそのシンパのために、ゲイバーはあるんだ」
新宿2丁目、「観光客」も少なからず来る初心者向ゲイバー「AZT」で、のことだ。
案内人ペンギンは「行きたいバーがあったらリクエストしてくれ」と問うた。沖田は、ペンギンのチョイスに任せる、と返事した。そもそも東京不案内なのだ。「じゃあ、迷える子羊用に」とペンギンは「AZT」を選んだ。降りた駅は「新宿三丁目駅」と記憶しているが、「AZT」から一人で駅に戻る自信がない。
ビーフストロガノフとモスコミュールが売りの「AZT」は、カウンタ席を含めて20席ほどの中堅バーで、この日はほぼ満席だった。外は小雨で、夜になってもアスファルトから熱気が漂っていた。ネオンサインの明かりが水たまりに反射して、この照り返しさえ、まぶしかった。「さすが東京、明るい」と沖田がつぶやくと、ペンギンは「田舎者」と鼻で笑った。「AZT」店内はガンガン空調を効かせていたはずだけれど、やはり蒸し暑かった。店内にはオーナーがウラジオストクで買付てきたというポスターやらシベリア雪景色の写真やらが所狭しと飾ってあったけど、やはり蒸し暑いのだった。
店内にいる酔っ払いの半数は女性で、さらに男性の半分は興味本位のストレートと言う。「近頃のゲイは、ゲイバーに来ないんだよ」とペンギンは頓智めいたことを言った。「そもそも、新宿2丁目は、出会いの場だった。今は、ノンケと女の子しかいない。今、ゲイは、ネットで出会うからね。君と僕のように」
ここのオーナーの言う『同志』は、彼の頭の中にだけ存在するゲイだ、とまでペンギンは言う。
「脳みその中だけでなく、スマホの中にも存在する、じゃないかな」
「これは一本取られた」
そして、ペンギンは、ヒマワリの種を肴に、この日3杯目のモスコミュールを注文したのだった。
案内人ペンギン。
本名は……勘弁してくれ。
曙橋で小さな旅行代理店を営む40代。
身長180、体重80、角刈りの似合うハードゲイのサディスト。
スマホのアプリに添えられたプロフィールは、簡潔だった。
ペンギンは写真も載せていた。ダークグレイの背広、ライトグレイのシャツ、そしてくすんだワインレッドのネクタイ。サングラス等で目線を隠すことなく、しっかり顔出ししている。潔いところがいい、というのが第一印象だった。スーツとネクタイの趣味もいい、と思った。何よりペンギンは、地方在住のゲイと友達になりたがっていた。
沖田は、ペンギンの求める「友達」の条件にぴったりだった……ただ一つ、ゲイではなく、バイであることを除けば。
400キロ先の港町からヨロシク、と沖田はペンギンにメッセージを送った。
僕は、東京から1000キロ離れた街の出身だよ、という返事が返ってきた。ペンギンは福岡の出身だった。
初顔合わせは、「出会って」半年もしてからだった。
ペンギンは、その年の東京レインボー祭り見物に、沖田を招待した。
沖田も、噂に聞く……いや、ネットで見聞きするだけの祭りを見てみたかった。そもそも、新宿2丁目だの上野だの、東京の名だたるゲイスポットにも行ってみたかった。東京の繁華街は、田舎者にとって、聖地なのだ。「仙台のゲイバーには行ったことがある。東京のは未経験」と沖田は直接メールした。一度も直接会ったことがなかったのに、沖田にとって、ペンギンは、一番身近なLGBTの人物になっていた。
「未経験? なら、君の心の尻穴に、一発ぶちかますか。処女は僕にくれよな」とペンギンは下品な軽口を叩いた。「それを言うなら、処女じゃなく童貞でしょ」。沖田も諧謔まじりのメールを返信した。既読がつくやいなや、音声電話が直にかかってきた。「僕はバリタチなんだ。忘れたか?」
それだけ言うと、かかってきたとき同様、電話はイキナリ切れた。
なんだかコメカミが痛む。
電話は切れても、耳には暴力的な低音ボイスが残っていた。
言いたいことだけ言って、即切り。腹正しいこと、この上ない。けれど、そんなぶっきらぼうなペンギンに、沖田はいつの間にか惹かれていた。
結論から言うと、この約束は果たされなかった。
破ったのは沖田のほうだ。
沖田の生業は、遺影専門の写真屋だ。留守中の注文は同業他社に回すように、契約中の葬儀屋には頼んであった。けれど、連日の猛暑で、立続けに仏様が出ていた。同業他社も多忙を極めていた。休暇をとるには最悪過ぎるタイミングだった。レインボー祭りは年一回1日だけの開催である。「断腸の思いです」と沖田はメールで謝罪した。「そういうオッサン臭い言葉遣い、なんとかならんか?」とペンギンは、叱りもせず慰めもせず、「ナウなヤングにバカウケ」する慣用句の講釈を垂れた。
沖田はペンギンを真似て、直接電話した。
「面白かったです。笑いました。ちょっと苦笑いだったけど。……もう、自分らも、若くないって、思い出しました」
「そーだろー。ナポリを見てから死ねっていうけどさ。日本男児なら、2丁目や上野を見てから死ねって思うよ。いや、マジで。……レインボー祭りに関係なく、ヒマが出来たら上京しろよ。じゃないと後悔するぞ。棺桶の中で、あのとき、ペンギンの言う通り2丁目行っとけば良かったって、泣きながら灰になるんだ」
「身に沁みますよ。自分、葬儀屋付きの写真屋ですから、余計にね」
こうして、沖田は上京した。
個人商店の社長というのは、一般的に、ヒマがないものだ。けれどペンギンは、わざわざ新幹線のホームまで迎えにきてくれた。自分も個人事業主である沖田は、感謝の念、ひとしおだった。この日もペンギンはパリっとしたネイビーブルーのスーツ姿だった。得たいの知れない茶のポロシャツにループタイを合わせてきた沖田は、少し恥じた。
「いや。カッコイイと思うよ、沖田。そのスキンヘッドにボストン眼鏡」
「服の話ですよ」
「そんなにこだわるなら、袈裟でも着てくりゃ、良かったんだ」
まずは一本と、ペンギンは缶コーヒーを買ってくれた。
冷たくて、うまい。
カフェインのほろ苦さを堪能していると、何を言おうとしていたか、忘れてしまう。
「ええっと。……田舎ものだと思って、心配してくれたんですか」
「そう。田舎者のうえに、ウッカリさんだ。匿名前提のLGBTアプリで本名を漏らしちまう、マヌケだろ」
「半年も前のことを、掘り返さないでください」
「一応、初対面なのに、言い過ぎた。マジ、謝る。でも、心配したのは、本当だ」
「地図の見方くらい、知ってますよ」
「いや。そういうのじゃ、ないんだよね」ペンギンはそわそわと周囲を……駅員たちを凝視していたけれど、やがて、沖田に耳打ちした。「メールのやり取りだけじゃ、できないこと、やろうぜ」。
東京に点在する、ありきたりのハッテン場は、飽きた。せっかくだし、JR構内のトイレで、どうだ?
「いきなり、生臭いなあ」「なあ、沖田。僕と君、どうやって友達になった?」
そう、それはスマホのアプリでだった。今の沖田とペンギンのように、「ただの友達」になるケースも少なからずあるだろうけど、大半の利用者のいう「出会い」は、肉体関係前提のものだろう。
「地元では、どうやってたんだよ」
「あまり、意味、なかったです。だって、メンバーがほとんど入れ替わらなかったから」
いつでも、どこでも、どんな出会い系を使っても、知った顔ばかり。田舎では、ゲイの入れ替わりがほとんどない。仙台に行けば、東北他県や関東からの流入が、少しはある。けれど、そういう新人さんに限って「バニラ」ばかり、らしい。
「又聞きの情報だから、詳しくは知らないですけど……」
「バニラか。沖田は、手と口でするの、嫌いなのか?」
JR駅構内のトイレは、結局人の出入りが激しくて、ペンギンは「行為」を断念した。「ゲイ向けのラブホなんか、ないんですか?」。沖田は再三確認したけれど、ペンギンは言葉を濁し、トイレでいたすことに、固執した。
「ホームグラウンドに、連れていってやる」。
竹ノ塚という駅で降りて、てくてく歩く。森林に囲まれた大きな池が綺麗な公園だ。ここかしこにいる年配たちを横目に、ペンギンはまっしぐらにトイレに向かった。ガタイのいいスーツ男と、貧相なスキンヘッドの二人組は、悪目立ちしていたと思うけれど、ベンチに集う老人たちは、プラスチックの将棋盤と勝負の行方にしか、関心なさそうだった。
少しばかり屋根高く、少しばかり饐えた臭いのする建物にたどり着く。目的のトイレだ。古びた外観に驚いたが、中に入って、さらに驚いた。おそらく、ゲイの人たちのものと思われる卑猥な落書きがびっしりと書き連ねてあったのだ。
「サクっといこうぜ、サクっと」
ペンギンは沖田の尻を推して、小汚い個室に入った。
「ひざまずけ」
さっきまで優しかったペンギンの口調が、いきなりドスの聞いたものに変わる。質問は許さない、とペンギンは高圧的に命令する。沖田が渋々ひざまずくと、今度は「ベルトを外して、スラックスとパンツを膝まで下げろ。いや、その前に、お前もズボンとパンツを脱げ」。
床のタイルが汚かったので、ズボンを脱げるのは、ありがたかった。けれど、靴下とスリッポンだけになると、さっきまであんなに暑かった個室が、ひんやり感じる。
「くわえろ。それから、自分のをしごけ」
これは、覚悟していた命令だ。
パンツが膝まで下がるや否や、ペンギンはいきなりペニスを沖田の口に突っ込んできた。心の準備をしているヒマがなく……いや、口の準備をしているヒマが、なかった。
「歯、当たっちゃいました。ごめんなさい」
沖田は、モゴモゴ、そんなことを言った。ペンギンは、聞いちゃいなかった。たぎる支配欲の前には、痛みなど、些細な事、なのだろうか。
セックスで、胸を触ったり尻を撫でたりという前戯があるように、フェラチオそのものにも、「前戯」みたいなものはある。亀頭をくわえたり、竿に舌をはわせたり、だ。けれど、ペンギンは、その手の一切合切を拒否した。沖田の両耳を掴んで固定すると、ひたすら腰をピストンさせた。「本当は、髪の毛を掴むんだけどな」。自分の快楽のみを、ひたすら追求するのだ。ほどなくして、ペンギンは果てた。沖田は、ようやく相方のペニスをまじまじ見学する機会を与えられた。ゴホゴホ、咳き込みながら、沖田は言った。
「これが東京の洗礼ってヤツですか」
「それを言うなら、真正サディストからの洗礼ってヤツだよ。それに、沖田。まんざらでもないみたいだ」
乱暴なペンギンの腰使いに応じるため、沖田は自分のをしごいているヒマは、ないはずだった。けれど、ほとんど触っていないはずのペニスは、はち切れんばかりに、屹立していた。
ペンギンがサディストとしての一面を見せたのは、このトイレでだけ、だった。
「スッキリした。さて、案内案内」
一般的な観光案内には載ってない、観光スポット。
ノンケの人には、なんの変哲もない公園や映画館、河川敷が、ゲイにとっては知る人ぞ知る穴場になっている。電車での長い移動の間、そんな、一般人には見えてない世界の話を、した。ペンギンは言う。
「何もゲイに限らんだろ。ありきたりの風景が、アニメファンにとっては聖地巡礼の地だったり、宗教家にとっては禁断の忌地だったりするのと、同じだ」
「なるほど」
「場所に意味を与えるのは、どこまでいっても、人間だ」
「なるほど……ペンギン、実は説教するのが好き?」
「そりゃあ、まあ、真正のサディストだから」
東京は広く、夕暮れが遅い夏だというのに、予定を消化しないうちに、夜になった。
「酒、飲もうぜ」
ペンギンは喉をグビグビ鳴らした。
東北在住で既にオッサンの年齢に達している沖田には、上野の場末の居酒屋で飲む、という選択肢も捨てがたかった。ペンギンが500円玉でコイントスをし、結局二人は新宿2丁目に足を向けたのだ。
ペンギンは新宿2丁目の歴史に詳しいだけでなく、この「AZT」というバーの来歴についても、詳しかった。「AZT」はオーナーを次々に替えながら、半世紀余りゲイにアルコール類を提供してきた老舗だった。
「AZTっていう名前自体は、先代のオーナーがつけた名前だ」
さもありなん、と沖田はうなづいた。バーの内装やメニューやBGMを考えれば、ゴーゴリだのプーシキンだの、ロシア風に改名してないのが、不思議なくらいだ。
「人名出すなら、スターリンとかレーニンとかじゃないのかよ、沖田」
「共産主義の政治家って、まだ、生々しい感じがして。歴史になり切れてないでしょ」
「沖田は、昭和の男だなあ」
「それより、話の続きを」
「先々代の恋人が、エイズで亡くなったんだ」
今は、定期的に薬を服用すれば、発症を抑えられるようになった。
しかし、先々代が経営していた当時、エイズは確実に死に至る病だった。
「当初は、神様から同性愛者への天罰だ、とまで言う下道もいた。差別の極致だよ。ゲイだけに発症する性病、しかも治療法がない死病。こんなに記号論的な病、ないと言っていいくらいだった」
ゲイに科せられたスティグマ。
そう、当時はLGBTなんて言葉を知る人は少なかったし、たたでさえ過酷な同性愛差別があった。感染力は弱いと、政府広報は口を酸っぱくして宣伝していたけれど、カミングアウトしていた人たちは、小学生のイジメのように黴菌扱いされた……。
「田舎では、そこまで劇的な差別はなかったと思います。というか、そもそも皆、隠して生きてきましたから」
「ふふん。沖田。君がエイズ差別に鈍感でいられたのは、田舎暮らしで、カミングアウトしてなかったから、だけが理由じゃあるまい?」
「何が言いたいんです?」
先々代が恋人の看護に一生懸命なのを知り、常連たちも協力を申し出た。ただ、一致団結して、とまではいかなった。
「裏切り者が出たんだよ、沖田」
「裏切り者?」
「バイだ」
バイの連中は、次々に離脱していった、とペンギンは憎々し気に語る。
「女性の恋人を作って、ノンケのふりをしはじめた。中には、結婚して、LGBTから卒業すると、ほざいたヤツもいた」
「……バイだから逃げた、というわけじゃないと思いますよ、ペンギン。そいつら卑怯者が、たまたまバイだった。バイだから、ノンケに紛れる逃げ道があるから、皆が皆、逃げ回るわけじゃない」
「ご高説、どうも。逃げ道がなくて、死にゆく仲間を看取りながら、差別と戦わなくちゃならなかった、当時の常連たちに、是非聞かせてやりたいセリフだぜ」
「……ペンギン」
「すまん、沖田。言い過ぎた。君には関係のない、昔話なのにな。ただ、一言、言わせてくれ。単なる敵前逃亡なら、常連たちも、こんなに目の敵にはしなかったさ」
「と、いうと?」
「差別主義者と一緒になって、古巣のゲイバーを攻撃してきたバイがいたんだ。ヤツは、当時普及しはじめていたSNSとかで、噂を流し出した……あそこの店長は、エイズ感染者だ、うんぬんってな。もちろん、デマさ。店長の恋人がエイズだから、店長もエイズに違いない。確かに、蓋然性はあるかもわからんが、穴だらけの三段論法だ。けど、『ウソをウソと見抜けない』連中には、劇的に効き目があったみたいだ。例の裏切りバイは、新宿中の居酒屋・バーをハシゴして、悪評を流しもした。結果、先々代の店は潰れた」
グラスが空になっているのにも気づかず、沖田は熱心にペンギンの物語るストーリーに聞き入った。バーテンダーに言って、ペンギンは二杯のブラッディ・マリーを注文した。
「まあ、飲みながら、聞け。血生臭い店の来歴を語るときには、ふさわしい酒だろ。カンパイ」
グラスのふちをチンと合せ、ペンギンはいっきに半分ほど飲み干した。沖田もペンギンの真似をした。
「……店名について、話そう。AZTというのは、世界で初めて開発されたエイズ治療薬の名前だよ。熊本大学の満屋裕明教授の業績だ。失意の先々代から、彼を応援をしていた常連の一人が、このバーを譲り受けたんだけど、その時の条件に、店名を変えること、というのがあったそうだ。そのままの店名にしておくと、亡くなった恋人を思い出してしまうから、らしい。新オーナーは、先々代のような悲劇が二度と起きないようにと願いを込めて、そして、エイズとともにやってきたスティグマがエイズとともに去っていくようにと祈願して、エイズ新薬の名前を店名にいただいた、という」
「……その、裏切り者のバイは、どうなりました?」
「一度、常連連中が結託して、日暮里の路地裏で袋叩きにした、と聞いたな。彼は、自分のことを、十二使徒の首座シモンペトロに譬えていたそうだ」
ペテロには『ペトロの否認』という有名なエピソードがある。キリストに「鶏が鳴く前にお前は三度私を知らないと言うだろう」と予言された。その予言通り、拷問尋問をされているキリストを目の前に、「あの人のことは知らない」と三度しらばっくれてしまう、という話だ。現代の法に照らせば、これは緊急避難の一種だから、彼の嘘は悪とは言い切れない。だから、自分も悪くはない、とくだんのバイは釈明したという。
「緊急避難的だから、悪くない、か」
「そう。ペテロは裏切りはしたけれど、結局は初代ローマ教皇になった。いずれ自分も受け入れられると、薄気味悪い笑みを浮かべていたそうだ……なんだい、沖田、同情かい? 君はバイだから、少しは心を動かされるかもしれないけど、裏切られたゲイのほうは、たまったもんじゃない」
「シモンペドロの自己弁護は受入れられた。けれど、バイのそれに耳を貸す人は、いなかった」
「イエスキリストはその後復活したけれど、一度潰れたゲイバーの復活なんて、ムリだからさ」
「一番の悪は、ノンケの差別主義者です」
「そうかもしれない。けれど、これはLGBTというコミュニティに関わる問題でもある。コミュニティの一員として利益を享受していながら、肝心なときにバックレる、という法はないよ」
「はあ」
「それにヤツは、シモンペドロと違って、明確にノンケの側に立って、差別に加担したわけだしな。いうなれば、シモンペドロじゃなく、イスカリオテのユダだ」
「……なんだか、その裏切り者じゃなく、自分が説教されているような気がします」
「すまん、沖田。バイを目の前にしてると、色々と説教したくなるんだ」
「それに真正のサディストだから?」
「違いない。よく、覚えていたな」
ペンギンは苦笑いし、沖田はトイレに立った。
「カウンターの脇を通って、右に曲がった奥だ。トイレは二か所にある。黄色いオシッコをしたいときは、白いドアを使え。黒いドアのほうは……今は、開けるな」
手を洗っていると、女性客の一人が、入れ違いに入ってきた。
黒髪ロングのスーツ姿で、パっと見、どこぞの社長秘書を思わせる。さっさと用を足せばいいのに、なぜか沖田の横顔をじーっと凝視する。
「……なんでしょう?」
「石巻から来た方ですよね」
そうだ、と沖田は答えた。
「ゲイじゃなく、バイの人」
そうだ、と沖田は重ねて答えた。
「てか。あなた、誰ですか?」
「ごめんなさい。私も今、石巻在住なんです。スーツ姿の人が、大声でしゃべってたものだから、盗み聞きするつもりはなかったんですけど、自然、耳に入ってきちゃって」
「観光で、東京に来たんですか?」
「実家が春日部なんです。あ。埼玉にある街です」
「それくらいは、知ってます」
なんだか、無礼な感じの人だ。
しかし、石巻の人か。
たまたま、同じ街から来た人間を見かけて、話しかけてみたくなった。そういうことだろうか。女性は、そわそわしながら、沖田の手洗いを待っていたが、やがて言った。
「実は、相談にのって欲しいことがあるんです。あの、今ここでなくて、石巻に戻ってからでいいんですけど。私、今、レズビアンのストーカーに会ってて」
「ちょっと待って。あなた、いきなり、何を言い出すの?」
「だから、レズビアンのストーカー被害です。半年前に別れた恋人が、今ごろになって、復縁を求めてきて、しつこいんですけど……」
「ちょっと、ちょっと、ストップ」
彼女は、ペンギンと同じく、一度話し出すと止まらないタイプらしい。沖田が落ち着かせようとすると、唇を尖らせた。
「情報整理のために、こちらから質問させてもらっても、いいですか?」
「……どうぞ」
「元恋人のレズビアンにストーカーされているってことは、あなたもレズビアンですか?」
「違います。バイです」
「周囲にカミングアウト、している人?」
「違います」
「じゃあ、話はここで終りですね」
出会ったばかりの赤の他人に……というか、通りすがりの酔っ払いに相談するような内容じゃない。
「というか、無防備、無警戒すぎる」
知りえたプライバシーを悪用されないとも限らない。言っちゃ悪いが、LGBTの人、という自覚が足りないのでは?
「じゃあ、誰に相談しろって、言うんですか」
「警察」
「イヤですよ。警察に、偏見に凝り固まった異性愛者が、いないとでも? それこそ、色眼鏡で見られて、事件に関係あるかどうか分からないことを、根掘り葉掘り、聞かれるに決まってます」
「偏見があろうがなかろうが、警察ですよ?」
「カミングアウトしているお巡りさんでもいれば別ですけど、異性愛者はしょせん、
異性愛者です」
「じゃあ……宮城県内で活動中のLGBT団体にってのは、どうです? 規模が大きな、半ば公的存在になっているNGОなら、この手のトラブルに対処するのも、お手の物、と思いますが。それこそ、異性愛者に不躾な質問をされずに済むし」
「その、ストーカー女、現にLGBT団体の幹部なんです」
世間は狭い。
その、ストーカー女が所属していないLGBT団体に相談を持ちかけたとして、「同業者」同士の情報交換を通じて、いずれは本人に相談内容がバレないとは、限らない。
「あれもダメ、これもダメじゃ……」
「それからもう一つ、大事なことがあります。彼女はレズビアンで、私はバイだってことです」
「どういうこと?」
「LGBT団体と関わりを持ったことが、ありますか? ゲイオンリー、あるいはビアンオンリーな団体はともかく、全部かかえの団体には、そのう……発言権に差があるんです。たいてい、ゲイの意見が一番通りやすく、次にビアン。バイは、最後です」
「それは被害妄想というか……ひがみじゃないの?」
「違います」
「それが本当だとすると、差別と戦うはずのLGBT団体にも、差別というか、ヒエラルキーがあるってことになるけど。肩身の狭い思いをしてるのに、バイは抗議したりしないのかな」
「ええっと。ヒエラルキーっていうのは、誤解です。同性愛だから意見が通りやすくて、両性愛だから軽く見られるっていうわけじゃ、ありません。皆を守るために、どれだけ身体を張ったか。矢面に立ったか。LGBTに対する献身の度合いと、自己犠牲の精神の結果、皆が耳を傾ける度合いが違ってくるとか」
「その論法だと、バイは、ゲイやビアンの背中に隠れて、のうのうとしているイメージになっちゃうけど」
「心あたり、ありませんか? というか、さっきスーツ姿の人、そういう話を、していませんでした? エイズから敵前逃亡するバイの話」
「ああ」
「私、カミングアウトしていないから、身近に相談できるLGBTの人がいません。一応、同じバイの恋人がいるにはいますけど、ノーテンキというか、この手の話をすると、逃げちゃうタイプっていうか」
それこそ、典型的なバイ、ということか?
「なんだか、分かるような気がします」
「ゲイに対して、筋立てて反論するバイの人なら、LGBT団体の女幹部ストーカーも、撃退できるんじゃないかって」
「買いかぶり過ぎだ。そもそも、相談にのる義理も理由もない。自分は、ボーイフレンドに会いに上京してきた、一介の観光客なんだから」
「せっぱづまってるんです」
女性は、沖田の手を、ギュッと握った。
固い感触に手のひらを開いてみる。名刺だ。
「杉田紫乃」
彼女は、高校教師らしい。
「……あんまり遅いから、トイレで倒れでもしたのかと思って、来てみれば……沖田、僕をさしおいて、ナンパかい?」
「んなわけ、ないでしょう」
「じゃあ。逆ナンだ。モテるね、沖田」
「違いますよ。彼女も石巻の人で……偶然、同郷の人と会ったもんだから、ちょっとした立ち話が長くなっちゃっただけです」
「ほほう」ペンギンは、妙な流し目を杉田にくれた。「失礼なこと言っちゃって、ゴメン。酔っ払いの嫉妬だよ、許してくれ」
杉田は2人に目礼すると、そそくさとトイレを出ていった。
「自分らも、戻りましょう」
「おしっこ」
「じゃあ、先に行ってますよ、ペンギン」
「違うよ、沖田。黄色いオシッコじゃなく、白いオシッコ。沖田、君のケツを使いたい」
沖田はペンギンに命じられるまま、黒いドアのトイレに入った。
「AZTの暗部、いや、先々代からの置き土産だね」
そこは多目的トイレのように広く、けれど車椅子で出入りするように設計されたのではない、トイレだった。裸の蛍光灯は薄暗かったけれど、漆喰の白壁にぼんやり明かりが反射して、涼し気に見える。バーのおしゃれ空間とは一線を画す、楽屋裏のイメージ。何より、音がしない。BGMが流れてこない。空間全部が沈黙したようだ。……昭和の昔から、タイムスリップしてきたようなトイレだ、と沖田は思った。
「便器のそばのシャワーは、肛門の中をキレイにするためのものさ。ウオシュレットじゃ限度があるからね」
「ここって……」
「ハッテンバ。やり部屋、いや、やりトイレ。クルージング用。言い方は色々とあるけれど、要するに、ゲイがセックスをするための、それ専用のトイレなんだよ。沖田、バニラでは物足りないって言ってただろ。ケツを貸せよ」
「新宿2丁目のゲイバーって、皆、この手のトイレがあるんですか?」
「まさか。今でこそ、AZTは女性・ノンケ大歓迎のミックスバーだけど、先々代のころは、ハードゲイ以外立入禁止だった。新宿2丁目でも、とんがってたゲイバーなんだよ。その、古き良き時代の遺産さ」
「すみっこの車椅子は、カムフラージュのもの?」
「違うね。四の五の言ってないで、さっさとパンツとズボンを脱げ。浣腸は換気扇下の戸棚の中、ローションはトイレットペーパーストックの陰に……あった、あった。さ、準備だ」
言われるまま、浣腸する。
腹こそゴロゴロしているが、便意はない。
待っている時間が、とてつもなく長く、とてつもなくマヌケに思える。
沖田は、ふと、遠い目になる。
女性が、たとえばホテルでセックスのための下準備をしている時と、ウケがこうして肛門洗浄している時の心境は、同じだろうか、と。
「沖田、なんだいそれ」
「エッチな期待ではち切れそうになっているのに、そんな自分を客観的に見ている、もう一人の自分が、いるんです」
服を脱ぐとき、シャワーを浴びるとき、ノンケ男子は、これからする行為で頭がいっぱいで、他の心配をしている余裕なんて、ない。けれど、ノンケ女子のほうは、どうやら色々と考えるようだ。
「エッセイだの漫画だの、あくまで女性が書いた読み物からの、情報ですけどね。……腋毛の剃り残しはなかったか、とか、今日の下着はダサくなかったか、とか、胸が小さくてガッカリさせないかな、とか」
「試験に臨む、学生みたいな気分になる?」
「たぶん。女性にも色々あるでしょうから、思い悩む内容も、色々なんでしょうけど。でも、一言で言えば、セックスに対する不安ってことに、なるかな、と」
「ほう。で、その不安とやらが、バイにもある、と」
「バイに、というより、ゲイセックスをするときのウケのほうに、でしょうね。こう……浣腸して、ウンチを垂れていると、思うわけです。自分は、今、一体、何をやってんだろって」
「何って、セックスのための下準備だろ、沖田」
「いや、あの、そういう即物的な手順確認的な意味ではなくて、もっと形而上学的な、自分への問いというか……」
自分と同じ感じ方をするゲイ・バイも中にはいるかもしれない、と沖田は映画を見たりマンガを読んだり、ずいぶんと、この「腸を空っぽにするシーン」を探し漁ったものだ。けれど、便座に腰を下ろして思い悩むシーンはおろか、肛門セックスをするというのに、浣腸シーンさえ描写していない映画マンガ等が、いかに多いか、気づいた。
「そりゃ、まあ、なあ。ノンケ向け漫画に翻訳すりゃ、すぐに分かることだろ。女の子が一生懸命腋毛処理している漫画、君、読みたいと思う?」
「だから、そうじゃなくて。内面描写の話ですよ。身体の手入れそのものを問題としているわけじゃ、ありません」
「結局、何が言いたい、沖田?」
「この、肛門洗浄の時の哲学的懊悩をトコトン突き詰めれば、いかに逃げ道が開かれているバイだって、逃げなかったって思うんです。肛門洗浄っていうのは、どんなにブザマで不潔でも、同性愛セックスのためには、避けて通れない行為です。エイズへ対処したときだって、同じでしょう。バイとして、罹患したゲイを手助けしながら、自分は何をやってるんだっていう、自問自答をするかもしれない。けれど、LBGTとして、避けては通れない生き様、と気づくと思うんです」
「沖田、バイにとって、肛門洗浄と、エイズのゲイを助けるのは、同義なのかい?」
ケツの穴と一緒にされたくねえよ、とペンギンは続ける。沖田は聞かなかったふりをして、答えた。
「真のLGBTになるための、通過儀礼って言ってるんです」
「ほほう。ヘタレのバイだって、いつかはゲイみたいな一人前になれる、と?」
「なれます」
「沖田、それは希望的観測ってヤツだよ」
「どういう意味です?」
「バイは、裏切るさ」
「一方的決めつけですよ」
「いんや。バイは、絶対裏切るんだ」
「……ペンギン」
「なあ、沖田。何やってんだろ、て冷めた自分から、チンポが欲しい発情オスへは、どうやったら、切り替わるんだ」
「ええっと……ローションで、揉みほぐしてもらうときかな。たいていは、指三本くらい入ると、受け入れ態勢完了、です」
「よっしゃ。便座の上に両腕ついて、尻をこちらに向けろ。足を伸ばして、しっかり上げんだぞ。僕が余計な雑念は、忘れさせてやる。沖田、君は、今この瞬間のために、わざわざ上京してきたんだろ」
「はあ」
「気のない返事だなあ」
ペンギンは、沖田の尻の穴に指をつっこみながら、自分のをしごいていた。
「十分くらいで、いけるか?」
「うーん。十五分くらい、ですかね」
「沖田。待ってる間、手持無沙汰だし、さっきの話の続きをしようか」
「哲学的肛門洗浄の話、ですか?」
「何を言ってんだ。AZTの歴史、だよ」
先々代の恋人がエイズで倒れ、バーも倒産した顛末は、語った。
「次は、先代が店を潰した顛末だ」
「ひょっとして、また、エイズで……」
「違うさ。というか、逆さ。先代は、エイズと戦って勝ち抜いた英雄になった。先々代の介護話も、美談としてバーの宣伝に一役買った」
「いい話じゃ、ないですか」
「ああ。一時期閑古鳥が鳴いたバーに、常連客以外の連中も戻ってくるようになった。新規の客も多かったさ。けれど、なぜか、いの一番に敵前逃亡したはずのバイが戻ってきて、大きな顔をし出した。常連客たちをさしおいて、窮地のバーを支えたのは自分たちだって、主張し出したんだ」
「……サギですね」
「ああ。連中にとっちゃ、風向きが真逆になったもんだから、そうするしかなかったのかもしれん。バーのオーナーが変わるころには、エイズ差別への糾弾が盛んになり始めていた。そう、ゲイ差別への反動で、今度はノンケ連中が非難の的になりつつあったんだ。バイは……あいつらは、厚顔無恥だった。先々代のころには、ノンケと一緒になって差別しまくってたくせして、とゲイは当然責めた。同族同士でコップの中の争いはやめよう、とバイ連中は懐柔に走った……中には、沖田、君みたいに尻を貸しまくって、ハードゲイのグループにちゃっかり混じるヤツさえ、いた……」
「自分、そういう目的で肛門洗浄したんじゃ、ありません」
「ああ。言い過ぎた。とにかく、言いたいことは、簡単だ。差別がキツいときはノンケのふりをして、差別糾弾が流行すれば、LGBTに戻る。イソップ童話のコウモリだ。いや、イソップ童話じゃ、その後、動物からも鳥からも相手にされず、洞窟にこもるんだが、LGBT界のコウモリには、そういう反省もない。それどころか、鳥を空から追い出して、ちゃっかり居座ろうとする……」
「そういう、比喩だけじゃ分かりませんよ、ペンギン」
「復習だ。エイズ差別が盛んだったころ、敵前逃亡したバイ、ノンケのふりして非難から免れたバイどもを、常連客のハードゲイ連中が責めた話は、したな?」
「しましたよ」
「バイの反論……というかAZTの乗っ取りの経緯を話そう。ヤツらは、この、ハードゲイ・オンリーだったバーに、他の属性のヤツらを引き入れて、ひっかきまわした。つまりだ、AZTがエイズ差別の標的にされて、先々代が恋人を失ったのは、ハードゲイの連中が、他のLGBTを差別し毛嫌いしたからだって、言うんだ。でも、これ、順番が逆だろ」
「はあ」
「でも、常連ハードゲイたちは、バイとのディベートで負けた。なんせヤツら、バイ女性、ビアン、ノンケ男女、女装者と、次々に味方を連れてきたからな」
「敗北したハードゲイたちは、どうなんったんです?」
「AZTの常連たちは、カミングアウトしていないのが、ほとんどだった。バイの味方をしにきたビアンの一人が、そんな常連たちと知合いだった。同じLGBT仲間だ、常連たちが隠し通してきたことを、秘密にしておくってのが、常識ってもんだろ? ところが、そのビアンは違った。常識、なかった。彼女自身、カミングアウトして生きてきた人で、アメリカで、あっちの女性と同性婚までした人で、何かしら含むものがあったのかもしれん。もちろん、そのビアン女性が、直接秘密を漏らしたってことじゃない」
「じゃあ……」
「自らカミングアウトして生きろ、としつこく口説いたそうだよ」
櫛から歯が欠けていくように、常連たちは、一人、また一人と、AZTを去った。女性客お断りのはずのバーに女性客が入ってくるようになると、一人を除いた全員が、ぱったり姿を見せなくなった。
「まあ、ゲイオンリーのゲイバー、この新宿2丁目界隈には、いくらでもあるからね」
自分のバーが、いつのまにかミックスバーになったことに絶望して、オーナーも去った。最後まで残った常連がAZTを譲り受けることになった。こうして、ミックスバーなんて大嫌いなのに、ミックスバーを経営するはめになった、新オーナーが誕生した。
「……そんなにイヤなら、店を譲り受けたタイミングで、ハードゲイ専用に戻せばよかったんじゃ」
「最初に言ったろ。今じゃもう、ゲイバーにゲイは来ない時代なんだ。ネットの中でモスコミュールは飲めないけど、チャットもできれば、お互いのモノを見せっこだって、できる。いい、とか、悪いとか、じゃなくて、そういう時代になったってことだろ……沖田、指、三本入るようになったぞ」
「はい」
「全然触ってないのに、前もビンビンになってやがる。沖田、リバじゃなかったっけ」
「そうですよ」
「どんだけ前立腺を鍛えたら、こうなるんだよ……というか、いつか君が、誰かの尻を掘るところ、見てみたい気がする」
「ペンギンは、尻、貸してくれないんですね」
「僕は、バリタチだ」
尻の穴は、括約筋がガードしている入り口が一番キツク、ペニスは、亀頭のある先端部が一番太い。最初の「試練」さえ乗り越えられれば、あとはスムーズにいく。
「毎回、処女を破られてるみたいな、気分」
「こんな経験豊富な処女が、あってたまるか」
トイレ片隅の車椅子の利用法を、ペンギンは教えてくれる。
「僕が腰掛けた上に、座れ。結合したまま、上手にな」
車椅子の手すりには、足枷がついていた。黒いレザーのバンドで膝を固定されると、正面から結合部が丸見えになる。
「手首は背もたれの後ろだ」
手錠にてつながれると、沖田は全く身動きできなくなる。
「これが、拘束プレイってヤツですか、ペンギン」
「マゾを楽しませるプレイには違いない。けど、拘束プレイじゃない。露出プレイ」
「はい?」
沖田が考えるヒマもなく、ペンギンは車椅子の両輪をせわしく回して、トイレを出た。やめてくれ、と沖田が叫ぶ間もなく、車椅子は、カウンター前、店内全部の席から、丸見えの場所に来ていた。
「ペンギンーッ」
アルコールのせいか、それとも「露出ショー」に興奮したせいか、顔を真っ赤にした女性たちが、近づいてきた。ニヤニヤ笑いながら、沖田の顔を覗き込もうとする。スマホで写真を撮る。さきほどトイレで会った杉田もいた。顔を横に背けてはいたけれど、視線はしっかりと沖田の股間に向けられていた……。
耳元でペンギンの声がする。
「沖田、やっぱりマゾだな。衆人環視で、こんなにビンビンになるなんて」
「せめて、写真は勘弁って、野次馬どもに言ってください」
「何を言ってるんだ。撮られて、嬉しくて仕方ないくせに」
「いくらペンギンが真正のサディストだからって、やりすぎですよ、これ」
「何を言ってるんだい、沖田。これは、SMじゃないよ」
「え?」
「単にバイが嫌いだから、さらし者にして、イジメてる。それだけさ」
「そんな」
「でも、安心しろ。バイのことは嫌いだけど、憎くはない。君をさらし者にするのは、僕流の愛情表現でもある」
「そんな愛情表現はいりません……てか、ピストン、ストップしてくださいよ」
「それをいうなら、止めて欲しくない、だろ」
「……こうやって、さらし者にされるくらいなら、正統派SMプレイのほうが、なんぼかマシです」
「正統派か……よし、やろう」
なぜかペンギンは杉田を指名した。
「そこのねーちゃん。そう、トイレで立ち話した、君。僕の真正マゾを、喜ばせてくれるかい?」
野次馬に視線を一斉に注がれ、杉田は渋々、車椅子の前に立った。
「その黒いハイヒールで、この男のチンポを、思いっきり踏んずけてくれ。あ。高さが足りなくてスカートの中が見えそうっていうなら、テーブルの上に腰を下ろして、踏んずけてくれて、いいから」
「……これ、ハイヒールじゃありません。パンプスです」
「別にどっちでもいいよ。パンプスだろうがスニーカーだろうが、サンダルだろうが」
「でも、今日は雨降りだし、泥がついてて、汚いです」
「汚い。なら、なおさら、彼が喜ぶよ」
なおも杉田が躊躇していると、じれったいなあ、という声が後ろから上がった。頭髪を短いスポーツ刈りにした年齢不詳の女性がいた。真っ青な口紅の唇に、やたら細い煙草をくわえている。白いTシャツにジーンズという肩の凝らない恰好をしていたけれど、おあつらえ向きにハイヒールをはいていた。
「マゾの喜ばせ方、教えてやんよ」
スポーツ刈り女性は、踏んずけるというより、乱暴に蹴る感じで、沖田を悶絶させた。そして彼女を皮切りに、酔っ払い女性客たちが、次々沖田の股間を踏んずけたり、蹴ったりした。沖田の顔は、涙と鼻水でグショグショになった。けれど、誰もがそれを歓喜の印と見ていたようである。見かねた杉田が、ハンカチで顔を拭ってくれた。
「大丈夫ですか。苦しいですか?」
杉田の呼びかけけに、ペンギンが答えた。
「苦しいに決まってるじゃん。射精寸前なのに、寸止めされて。出そうで出ないって、ものすごく苦しいんだよ。あー苦しいなー。刺激が欲しいなー。誰か、股間を踏んずけてくれないかなー」
わざとらしい、棒読みだ。
杉田に聞かせるため、というより沖田を挑発するためのセリフには、違いない。
沖田は、あえて、その挑発に乗ることにした。
「杉田さん。踏んずけてください。いや、蹴ってください」
おそらく、杉田のキックを食らわない限り、ペンギンは足枷を解いてはくれないだろう。股間への打撃が苦しいのも確かだけど、車椅子に同じ姿勢で縛りつけられているせいで、膝だのヒジだのの関節も、痛んできている。
バーテンダーが誰か、男性従業員が、ストローをさしたコップを持ってきてくれた。沖田が懸命に吸うと、冷たいウーロン茶が口内に流れこんできた。
一息ついたところで、股間に強烈が痛みが走る。
沖田は、気絶した。
「……痛くて失神したのか、射精があまりに気持ちよくて失神したのか、分からんな。まあ、さすが真正マゾだ……」
ペンギンの嘲笑う声が、どんどん遠ざかっていった……。
「兄ちゃん、そろそろ起きたほうがいいゾ」
肩を揺さぶられて、沖田は目を覚ます。
またしても、トイレの中。
外は既に明るくて、朝日らしい日差しが、床を照らしていた。都会のど真ん中というのに、スズメの大きなさえずりも、聞こえる。
「ここは……」
壁一面にびっしりと卑猥な落書き。見覚えがある。昨日、新幹線で到着後、ペンギンに、いの一番に連れてこられたトイレ個室に違いない。なぜか、パンツとズボンをはいていないことに、気づく。尻の穴がやたらヒリヒリする。キツネにつままれた気分だ。便座の陰には、上京時持ってきたカバンが置いてあった。スマホも財布も、財布の中身もなくなってはいなかったけれど、なぜかパンツとズボンがない。
「まずい。このまんまじゃ、トイレから出られない」
沖田を起こしてくれたのは、生成りの作業着姿の初老男性だ。沖田がまず例を述べると、「カモられたんだよ、アンタ」と彼は親切に教えてくれた。
「田舎のイモ男をだまくらかして、自分の好みのマゾに育てる。ここ10年くらい、何度となく同じことをしているよ、あの男は」
「あの男」
「ペンギンのことに、決まってるだろ。あんた、ヤツにたぶらかされた人なんだろ」
そうだ、と沖田は答えた。
「ペンギンと、知合いなんですか?」
「まあね。詳しくは、聞かないでくれ。私は、通りすがりのゲイだ。先代のころ、AZTの常連だった。ペンギンがまたしても、カモをAZTに連れ込んだっていう情報を得たもんだから、もしやと思って、見に来たんだよ」
「……あんなにヒドイ人だとは、思ってもみませんでしたよ」
「真正のマゾには、大好評のプレイらしいけどね」
「自分、エムじゃないです。というか、SMプレイとしてやったんじゃない、と言われました。バイが嫌いだから、いたぶった、と」
「そうか。あんた、バイか」
「それより、自分のズボンとパンツ、どこにいったか、知りませんか?」
「知らん。おおかた、AZTのゴミ箱の中じゃないかな。スマホは残ってるんだろ。あんたがペンギンに泣きついて、いたぶられて、無茶なプレイを強要されるまでが、プレイのうちだ」
「無茶なプレイって……」
「パンツが欲しけりゃ、公園をうろついている浮浪者に金を払って、フェラチオさせてもらえ、とかな。場合によっては尻を使ってもらえ、とかな。もちろん、画像を送れ、と言われるだろな」
「最低だ。というか、衛生上の問題が……」
「それは、私にではなくて、ペンギンに言えよ」
「あの。助けてもらえませんか。謝礼、出しますし。パンツを買ってきて欲しいんですが」
「イヤだ」
「え」
「ペンギンほどじゃないけど、私も、バイ、嫌いなんだよ」
助けを呼ぼうにも、石巻から新幹線で駆けつけてもらうわけには、いかない。東京に知人なんていない。よしんばいたとしても、パンツとズボンを買ってきてもらうほど、親しい人はいない。沖田が今までカミングアウトしてきた人は、見合い話を持ってきてくれた、ごく親しい知人や親戚だけだ。そして、その人たちすら、実際には余所余所しい関係である……なんせ、見合いを断る口実として、カミングアウトしてきたのだから。
最後の手段……ペンギンに泣きつく……の前に、一縷の望みをかけて、沖田は昨日会ったばかりのバイ女性に、連絡をとることにした。幸い、名刺は財布に忍ばせてあった。
「そういう事情ですか……パンツとズボンですか……まあ、いいですけど……お買い物代行料は、高くつきますよ?」
杉田の望むまま相談にのり、杉田の望むまま、ストーカー女を退治すると、約束させられてしまう。
「サイズが合わないと困りますし。ゴム入りのジャージを買っていきましょう。パンツは、どうします? ボクサーパンツ? それともブリーフ?」
どんなのでもいいから、はやく、と沖田は電話を切った。
掃除係の人に見つかったら、変質者として、警察に通報されてしまう。
一息ついたところで、最後にと、ペンギンは電話を入れた。
「……ほほう。そうか。AZTの常連たちに助けてもらったのか。残念」
「いや、ペンギン。元常連さん、助けてくれたんじゃなく、起こしてくれただけですよ。自分がバイだって告げたら、下半身裸の自分を放って、立ち去りましたから」
「それは仕方ない。バイっていうのは、どこに行っても、誰にでも、嫌われる運命にあるんだ」
「誰にでもって……そんな、バイを嫌うのは、ペンギンたちだけですよ」
「ほう」
「ノンケの中にゲイフォビアはいても、バイフォビアな個人がいるのは、ゲイの中だけじゃないかな」
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