一生分の『ありがとう』。

にの

第1話


夏の暑さは終わりに近づきはじめ、ようやく夜は涼しくなってきた。けれど今日は雨が降ったせいか少し蒸し暑い夜だった。

しわくちゃになったポロシャツが、汗で肌に張り付き不快感が増す。


今日も今日とて残業をしていたため、腕に着けたもう何年も使っている腕時計を見ればすでに23時をまわっていた。

日付が変わって家に着くことはざらにあるためまだ0時になっていないだけマシな日だ、と理久は思う。


住み慣れたアパートの階段を登るのも一苦労で息が上がるのは避けられない。

ようやく部屋の階に着くと、いつもとは違う光景な事に驚き、理久は固まってしまった。


「あ、やっと帰ってきた。遅かったねー」


そこには、センター分けのミディアムくらいの髪型をした女の子がいた。グレーのスウェットに黒のハーフパンツというラフな格好で、理久の家の前に座り込んでいた。


「……え、だれ」

「何それ〜笑えない冗談だよ?」

「……」

「とりあえず、開けてよ」


理久は目の前の女性に見覚えがなかった。

なぜこんなに親しげに話すのか、なぜ家の前にいたのか、なぜ……と頭の中で疑問は尽きない。そんな理久を知らないと言うように、彼女は家を開けるように急かした。


知らない女性をあげるのは如何なものか、と思ったが、何故か彼女に対して警戒心を抱くことが出来ず、理久は彼女の言う通りに家を開けて、彼女を上げた。

女性は満足気に笑っては家の中に入り、慣れた様子で洗面台へ行き、手を洗う。


「あー!またこんなに散らかして…しばらく来ないとすーぐ汚くするんだからー」


リビングを人目見るなり、彼女は理久が先日まで脱ぎっぱなしにしていた服やその辺に捨てたゴミ、食器等を片付けてくれた。その慣れた手つきに理久は動揺が隠せなかった。洗濯機を回し始めた、かと思えば今度は冷蔵庫を漁り始めて晩御飯を作ってくれるという。


「理久、ご飯作ってる間に先お風呂入ってなよ」

「あ、うん」


キッチンで料理をする彼女は、異様なほどこの空気に溶け込んでいた。この家の主は理久のはずなのに理久の方が異物感がしてしまうのは、なぜだろうか。

理久は彼女の言う通りに風呂場へ行った。


見ず知らずの人にキッチンを任せられるほど理久も不用心では無い。なのに彼女だけは、気を許してしまった。頭を洗いながらそんな事を考え始めたその瞬間、理久は彼女に対して安心しきっている自分がおかしい事に気づき、急いで風呂から出た。


髪も十分にふけていないままリビングへ向かうと、彼女は先程と同じようにフライパンと向き合っていた。


「……あ、あれ?もう上がったの?ごめんね〜もうちょっとかかるから、テレビでも見てて」


申し訳なさそうに言う彼女。


「あ、髪の毛ビッチャビチャ!ちゃんと乾かしてきなよー」


淡い色をした木目調のフローリングの床に、ぽたぽたと髪の毛から垂れる雫が落ちる。理久は、この状況に未だ頭がついていっていなかった。

そして髪を乾かし終わり、ものの数分待っていれば料理は完成し、共にテーブルについた。


「、い、ただきます……」

「いただきます」


理久はぎこちなく手を合わせた後、フォークを手に取り、皿に盛り付けられたパスタを頬張る。久しぶりにちゃんとしたご飯を食べた胃には、栄養が行き渡っていく。


「理久、最近全然ご飯食べてないでしょ?」

「……なんで、俺の名前知ってるの?」


彼女の質問に答えずに質問返しをする理久。

思わず口にした言葉に、目の前の彼女は目を丸くさせて、すぐに困ったように笑った。


「そんなの、当たり前じゃん」


テレビも付いていないまっさらな空間に沈黙が流れる。


「ねぇ、理久大丈夫?疲れすぎじゃない?」


彼女は、理久の顔をのぞき込むようにして首を傾げた。

そんな彼女に心配をかけたくないと思い、理久は何も言わずにパスタを口に入れる。

理久の言動を不審に思った彼女は、それ以降何も言わず、空になった2つ分の皿をさげて流しへ下ろす。


理久は先程の彼女の質問は答えることはせず、ダイニングのソファに腰掛ける。彼女もそれ以上の追求は無駄だと思ったのか、テレビも付いていないこの空間には、水と皿に擦り付けられる泡の音しか聞こえない。



「じゃあ今日は帰るね?」


皿洗いが終われば、彼女は一言そう言ってすぐに玄関に向かった。なんとなく放っておけなくて理久は彼女を追うように、玄関へ向かった。


「じゃあね、明日も来るから」

「ねぇ、なんで、そこまでするの?」


靴を履く彼女に声をかける。

彼女は理久の言葉を聞いた途端、悲しそうに一瞬眉を下げたが、その次の瞬間には満面の笑みに変わっていた。


「理久の彼女だからに決まってるじゃん」


じゃあね、と言って彼女は玄関を開けて外へ消えた。


ただポツン、と玄関に取り残された理久は慌てて彼女を追いかけようと玄関を開けるが、外には、もう、彼女はいなかった。


次の日、耳元で鳴るスマホの目覚ましで目を覚まし、朝の準備をしてから車で会社に向かう。会社に着いても、働き始めてもいつまでも彼女のことが頭から離れなかった。


「〜でよ、彼女がな!?って、おい!理久?聞いてる?おーーーい」


今は昼休憩で、同期の光太と昼飯を食べているという事を完全に忘れていた理久は、目の前に現れたドアップの光太の顔で正気に戻る。


「うおっ!」

「なんだよ〜ぼーっとして。昨日の残業が響いてんのかぁ?……でもにしては、、昨日より顔色いいけどな。あ、さては、新しい彼女でも出来たかよこのやろ!」


1人勝手に暴走して喋り出す光太に、軽いげんこつをいれる。


「ってぇな!」

「そんなに強く叩いてない」

「十分痛いですぅ。なんだよ〜聞いてもいいだろ?新しい彼女くらい。お前にとっちゃあれ以来の嬉しい出来事だろーが」


なぜか勝手に彼女ができた事にされるが、あながち間違っていないので否定はできない。

光太の言う、あれ以来が何を意味しているのかは皆目見当もつかないため、無視。


「俺の話はいいんだよ、お前だろ?彼女が出来たって言うのは」

「そーなんだよ!聞いてくれるかー?」


うん、なんて言わなくても勝手に喋るのがこの男。


それから午後の仕事を終えて、今日も2、3時間残業して、帰路に着く。


そして、昨日の宣言通り、彼女は昨日と同じそこに…玄関前に座り込んでいた。

理久を見るなり、安心したような顔をしては笑顔を見せる彼女。


「遅かったね、お疲れ様」


労りの言葉を言った彼女は早く開けてよ、と言わんばかりにドアノブに手をかける。カバンの中から鍵を取り出して鍵を回す。

ガチャりという音ともに彼女は、理久が入るよりも前に扉を開けて中へ入った。


「ねぇ、今日何食べたい?」

「え、っ。な、何でもいい……」

「ふふ。じゃあ私の得意料理作っちゃお」


家にはいるなり、そう言った彼女。

昨日と同じように手を洗ってからキッチンへ行き、冷蔵庫から色々取りだして、手際よく料理を作り始めた。


_彼女の得意料理は、確か…グラタンだった。


…あれ、なんでそんなこと知ってるんだろ。



ふと思った彼女の事を頭から払い除けるように頭を横に振り、理久は昨日と同じく、スーツを脱ぎ捨てては風呂へ直行。昨日よりは長めに入っていたせいか上がった時には、料理はすでに出来上がっていた。


「お、上がった?じゃあ食べよ!」


彼女の目の前には、きつね色にやかれた食欲をそそるようなグラタンがあった。

理久は、先程思った物と同じ食べ物が出てきた事は、偶然だと思いたかった。


早く早く、と促す彼女に釣られてテーブルにつくと理久は、食べながらもずっと言いたかった事、気になっていたことを思い切って話をする。


「なぁ」

「ん?」


首を傾げながらも、食べる手は止めない彼女。

逆に今は、それが安心した。

…あ、また。安心してしまった。


「……俺さ、お前のこと知らないの。最初に会った時から誰かも分かんねぇのに、家に上げてもいいほど安心してるし」


言葉にして初めて頭で理解するというのは、本当にあると思う。彼女の隣が安心している自分がいるのに、いやでも気づいてしまった。


「お前なら心を許してもいいと思ってしまうんだ…なんだこれは…!お前は、なんだ、?」


自分でも喋ってるうちに、何を言っているのかがわからなくなってきた。

理久は何が言いたのか、何を言えばいいのか分からなくなり、静寂が部屋を包んだ。


自分は相手を知っているのに、相手は自分のことを覚えていない。こんな不思議な状況で、彼女は何を言うのだろうか、と理久の心臓は正直バクバクだった。正直、最悪の場合は殴られることも覚悟の上だった。

しかし、彼女から出た言葉は予想とは全く違うものだった。


「……そっか。そうだと思った」

「……は?」

「だって。会った瞬間私の事誰?って言うし、理久の名前呼んだらめっちゃ驚いた顔してたし。うん、でも、そっか。うん…理久から話してくれて嬉しいよ」


何かを噛み締めるような彼女の言葉に、胸が、心臓が痛んだ。心臓のあたりのシャツをギュッと掴み、痛みに耐えた。


今日も皿を片付けて、明日も来るね、と言って彼女は去っていった。

それからと言うもの、彼女は毎日のように現れては「遅い」と笑って、ごはんを作っては帰っていく日がしばらく続いた。




「理久〜はよー」

「光太か。おはよ」

「お前ー最近調子いいなー?」


彼女がご飯を作りに来てからというもの、光太の言う通りなぜか仕事の調子も体調もいい。


「…知らない女が家に来てくれるんだよ」

「………………は?お前バカじゃね?」

「なんでだよ」


急に立ちどまり、だいぶ間を開けたかと思えば急な暴言を理久に吐き捨てる。


「いや馬鹿だろ!?知らねぇ女を家にあげるとか、まじで馬鹿だろ!?は!?そいつ、名前は?」

「しらねぇ」

「……ストーカーじゃねぇの?」

「違うと思う。なんか、すごい馴染みがあるんだよ」

「……大丈夫かよ……」

「…名前も何も知らねぇけど、アイツのそばに居たら安心するし、何よりあいつの飯なら食える」


また、安心。

彼女=安心という方程式でも出来そうなくらい、理久の心はみたされていた。

そんな満足そうな理久の顔とは正反対に、理久の話を聞いていた光太は至って真面目な顔、というより神妙な面持ちをしていた。


「お前、それ…」


前にも同じこと言ってなかった?





光太のその言葉が、その日は一日中頭から離れなかった。

アパートに着くまでに答えは出てこなかった。


「今日は早いね!おかえり」


彼女は今日もいた。光太のせいで、1日モヤモヤとしていたが、彼女を見たらそれもなくなった。今日も今日とてご飯を作ってくれる彼女。最近はご飯を食べている間は、2人の思い出話をしてくれるようになった。

理久とここに行った、とか理久は何が好きだ、とか。彼女から出る話は全部「理久」から始まる。それがまた嬉しいと思ってしまう。


楽しそうに話をしていた彼女だったが、急に口を閉じたため不思議に思った理久は彼女の顔を見た。彼女は、あの言葉を言った時の光太と同じ顔をしていた。


「…そういう思い出って、無くしてから気づくんだよね」


意味深な彼女の言葉に、箸が止まる。


「どういう意味だ?!」

「…ねぇ、理久。まだ、思い出せない?」

「……は?」

「もう、本当は、分かってるんじゃ、ないの」


そう言う彼女の目には、たくさんの涙が浮かんでいた。涙を流さないように必死に堪えていた。


そんな彼女を見て、あぁ、そうだ。と思ってしまった。


分かってる。気づいていた。知ってた。


でも、分からないフリをして、気づいていないフリをして、何も知らないフリをした。

彼女に何を言わせているんだ、と情けない気持ちでいっぱいになった。




俺は高校生の頃にずっと片想いをしていた女の子がいた。結局その子に告白する勇気もなく卒業を迎えてしまったが、社会人になった今。

奇跡とも呼べる確率の低さで彼女と同じ会社で同じ部署に配属された。

もうこれは神様からの最後のチャンスだと思い、初恋でもある彼女に今度こそ俺から告白をした。するとどうだ。彼女も高校生の時から俺と同じ思いだったという。大人になってようやく初恋が実り、晴れて恋人になった。


彼女は子供が大好きで、よく困っている子供を見れば迷わず助けるし、近所の子供と一緒に遊んでいるのをよく見かけた。子供に交じって全力で大人気なく遊ぶ彼女は、とても健気で可愛らしかった。


しかし、ある日のデート中。


小学生くらいの少年が、大切そうに持っていたカードが車道へ飛ばされてしまった。余程大切なものだったのか、横から走ってくる乗用車に一切気づくことなく、道路に飛び出した。

目的の物を拾った少年は、歩道に引き返そうとしたが、突っ込んでくる車に気づきその場に固まってしまった。

それを、見ていた彼女が、少年を助けたのだ。


結果、少年は無事だったが彼女は即死だった。


あまりに残酷で淡白な別れ方に、納得が行くはずもなく、彼女が助けた子供を逆恨みしそうになった。けれどそんな事を彼女は望んでいないことは分かっていた。

だから、この辛い気持ちを忘れるべく、彼女の事も彼女への気持ちも彼女の持ち物も何もかも全部……忘れようとしたのだ。


「……ぁぁ……」


思い出してしまえば、涙が止まらなかった。

泣いているのが悟られないように顔を上に向けて腕で目元を隠すが、どうやら彼女にはバレていた。


「ふふ、理久泣いてるの?」

「……うるせぇ……」


彼女は、俺を慰めるように頭を優しく撫でてくれる。その感触があまりにもリアルすぎて、まだ彼女がこの世にいて、目の前に座っているのではないかと錯覚してしまう。


彼女の手を取り、そのまま立ち上がる。


「ごめんな…愛理…」

「名前っ…!…く、苦しい、痛いよ理久!」


思いが溢れすぎて、愛理を潰す勢いで抱きしめてしまった。再会して初めて名前を呼ぶのがこの瞬間になるなんて、誰が想像出来るだろうか。

彼女の名前は愛理。子供が大好きで、少しだけ天然でおっちょこちょいだけど、素直で可愛らしい彼女。


「……ありがとなぁ、俺のために会いに来てくれたんだよな…!」

「うん……うんっ…!」


ここで手を離してしまえば愛理は居なくなってしまう。そんな気がしてならなかった。


「愛理、愛してる…!ありがとう」

「うんっ…!私も、理久の事、ずっと愛してるから…!理久、無理しないでね、体に気をつけて。元気でね」


涙ぐむ愛理につられて、俺の目からは涙がとめどなく流れる。

そのまま名残惜しむように、ゆっくりと手を離せば目の前にいたはずの愛理は、消えていた。


「……ありがとう。愛理」


家に1人、愛理の感触を忘れないようにと自分の肩を抱いて嗚咽を零しながら、一生分の『ありがとう』を、届くはずのない彼女に伝えた。





次の日、光太からの鬼電で目が覚めた。

今日は休日だからゆっくり休もうと思っていたのに、まさか光太に阻害されるとは思わなかった。


「……んだよ」

「おはよーさん。相変わらず寝起き悪ぃなー」

「……何の用だ」

「いやさ、昨日言ってたお前の言葉が気になってよ、ずーっと考えてたんだよ。で、それを今全部思い出したってわけ。で、電話してみた」


スマホの向こうの光太はドヤ顔をしているのだろう、と容易に想像出来るほど声にキレがいい。朝が弱い理久からすれば、それは多少なりとも迷惑の他ないのだが。


「……きるぞ」

「おおおおお!?待て待て!」

「…なんだよ?」


光太のせいで目が覚めてしまい、寝転がっていた体を起こしてベットから降りる。


「…相変わらず機嫌悪いなぁ……彼女の惚気だろ?ただの。前に可愛い彼女が出来たーって言ってたもんな。最近は俺の話ばっかりですっかり忘れてたわ〜はは!」


呑気なものだ。こちとら光太のせいで一日中モヤモヤが消えなかったというのに。光太には彼女が事故に会って亡くなった事は言ってないため、光太は未だ俺には彼女がいると思っている。彼女が亡くなってもこうして生きていられるのは、記憶を封じた事もあるが何よりも光太の存在が大きかったりする。今回も、俺の事を心配しえ気遣っての事だろうと思い、変な言い回しをした件は許す。

また今度、日を改めて電話ではなく直接、光太には愛理の事を話そうと思っている。



しかし、朝から電話をかけてきたことは許していない。そんな意味を込めて特段、冷たい声を放つ。


「……それだけ?」

「…それだけだよ!じゃあもうついでに俺の彼女の惚気を聞け!」

「……」


うん、と言わずとも話すのがこの男。

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