あの日

私はいつものように車通りの少ない坂のガードレールから身を乗り出し、下の空き地を見下ろしていた。十五メートルほど下にあるその空き地には夏の日差しを浴び、青々と雑草が生い茂っている。私が死んでからおそらく一年ほど経過したのだろう。私はあの日、崖から落ちて死んだ。しかし俊哉という名前や二十八歳であった等、生前の記憶はあるのだが、なぜ崖から転落したのかが思い出せない。最後の記憶は空き地で仰向けになって倒れていたことだった。落下した後、体は動けなかったが、曇った夜空が視界に映っていた。それから気が付いたら崖の上のガードレールにもたれかかっていた。それから近くを車が通りかかった時、私は道路の真ん中に立ち、車両に向かい両手を振ったが、私の体をすり抜けていった。初めは夢かと思ったが、一向に変わらない景色や体に傷がない事から幽霊になったのだという結論に至った。それからというものの、腹も減らなければ、眠くもならず、ただガードレールから崖の下を覗いている。どうも崖から離れる気が起きないのだ。


 気分転換に道路わきの民家の庭で休もうとした時、女性が一人、歩いているのを見かけた。右手に花を抱えている。毎日ここにいるが、車やバイクが通るだけで、人が歩いているところは初めて見た。さらにその女性には見覚えがあった。私の母だ。私の記憶と比べ、白髪は増え、どこかやつれている印象がある。息子を亡くしているので無理もないと思った。母は私がよくもたれかかっているガードレールに花を置き、鞄から煙草を一箱取り出すと、花の隣にそれを置いた。私が生前よく吸っていた銘柄だ。それから母は花の前にしゃがみ、一分ほど手を合わせた。

「俊哉が死んで今日でもう一年ね」

ガードレールに両手をのせながら、母はつぶやいた。どうやら私は死んでから今日で一年たったらしい。ある程度予想していたが、幽霊になった時も夏で、同じように崖の下には雑草が生い茂っていた。私は思わず母の肩にそっと手を置いた。けれど実体を持たぬ私の右手は、母をすり抜けていった。けれど何かを感じたのか母はそのまま独り言を続けた。

「もっと早く気が付いてあげればよかったのに。きっと強い子だったから誰にも言えなかったのよね」

生前の私はお金に困っていた。確か不動産投資に失敗して数百万の借金があった。死に物狂いで働けば返せる程度だったが。


「俊哉、しおりさん。本当に私がふがいなくてごめんなさい」

しおり、母の口からその名前が出るまで私は忘れていた。生前の恋人である。だが、その顔を思い浮かべようとしても、輪郭に黒い靄がかかってよくわからない。彼女が私の死と何か関係があるのだろうか。

「俊哉、そろそろ母さんは、しおりさんのお墓に謝りにいかないといけないからね」

母はゆっくりと立ち上がり、遠い目で崖の下を覗いた後、坂を下って行った。

「ちょっと待てよ。しおりが俺の死と何か関係があるのかよ」

私は思わず母の背中に叫んだ。当然私の声は聞こえない。

「くそっ。一体なんなんだよ」

私は自らの真相を調べるため、坂の上にある生前の家に向かおうと歩き出した。

 

 三歩ほど歩いた時、冷たいものが右足にまつわりついた。何かに触れられている感覚に私はぎょっとして足元を見ると、雪のように白い手が右足首をつかんでいた。そしてそれは二メートルほどの長さで、ガードレールの下から伸びていた。しかしそこにあるのは腕だけではなかった。

「おまえのせいだ」

人間の頭のようなものが、同じようにガードレールの下から私を睨んでいた。しおりだ。顔は真っ黒でわからないが直感でわかった。

それが誰であるかを理解した途端、私の視界は歪み、失われた記憶が、脳になだれ込んできた。

 

 私は生前、金に困っていた。そのため自分の家に来たしおりに金を貸してくれと要求した。今までも数回彼女から借りており、初めて断られた。私は、焦りと怒りで彼女の細い首を絞めた。横たわる死体を見ると私は冷静になった。どう罪から逃れるのかとか、やっぱり自首するのかを考えながら同じ場所をぐるぐる回っていた。その後、急に静かになった隣の部屋を不審に思った隣人が警察に通報したのか、家に警察が訪ねてきた。私は二階のベランダから逃げ、あてもなく熱帯夜の町中を走り出した。結局あの崖で警察に追い詰められ、一か八かでガードレールを飛び越えた。それが真相だ。

 

 しおりに何か言葉をかけようと思った時、強烈な力で私の右足は引っ張られた。そのまま私は崖の方に引きずられ、掴んでいる手を振りほどこうにも指が金属の爪のように足に嚙みついてどうにも動かない。私の体はガードレールをすり抜け、一年前と同じように宙を舞った。

「やめろ! やめてくれ!」

迫りくる地面に私はぶつかる覚悟をして目をつぶった。しかし一向にぶつかった感じはしない。しかし体は落下している。

「どうなってんだ」

恐る恐る目を開けるとそこは一面の暗闇だった。他に色のない世界だ。終わりのない闇に私はこれは人を殺した罰なのかもしれないと感じた。やがて私は思考をやめ、永遠の暗闇の中に溶け込んだ。

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