第7話

「そんなに沈痛な面持ちをなさらないでください。分かりました、ヘイムス王国へ行ってきます。父上」


 九歳の子供とは思えない程素直に承諾した。


 受け入れたクラウスがまず向かったのは、従兄妹であるアナ王女のところであった。


 アナ王女の私室へ入ると、彼女は美しい白銀の髪を垂らしながら一人では不釣り合いな程に大きなベッドに腰掛けて本を読んでいた。


 小柄な体躯のため、脚は地に着かずベッドからぶらりと垂らしている。

 クラウスは何も言わずにアナの座る横へ腰掛けた。


「アナ。ごめん、俺はヘイムス王国に行かなきゃ行けなくなった」


「――……いつ、まで?」


 清潔な室内に、優しい鈴の鳴るような――涼やかな声が響いた。


「わからない」


「そうなんだ。仕方ないこと、なんだよね」


「ああ――あともう一つ」


「何?」


「今までは王女であるアナに、無礼な発言もしてきた。――いえ。してきましたが、他国へ行く以上、王女への不敬とも取られかねない態度は矯正するべきだと父から叱責を受けました。これからは言葉遣いを改め、アレクサンドラ王女とお呼びさせて頂きます」


「……それ、他人行儀だよね。表情も硬い。……宮廷の大人みたい。不自由そう」


「従兄妹同士と言えども、主従の境界はつけるべき。自分でもそう判断しました。……ですが、外に現れない心の内は、何一つ変わりません」


「――そう。なら仕方ない。私も妥協する」


 蛋白にそう返したアナ。


 クラウスとアナの間に沈黙が流れ――アナはベッドに腰掛けるクラウスに、すすすっと近づき――やがて肌と肌が触れあうほどに近づいた。


 どれほどそうしていただろうか。


 アナはスッと立ち上がると――。


「付いてきて」


 クラウスの手を取り、悠然と歩き出した。


「どこへ?」


「秘密の場所」


 王城の廊下を歩いていると、倉庫のような場所に入り――置いてある荷物をどかすと、隠し階段が出てきた。


 そのままクラウスに有無を言わさず階段を降りると、長い地下道に至った。


 地下道を進みいくつもある扉のうち、一つの扉をアナが開けると――そこは外に繋がっていた。


「――これは隠し通路、ですか?」


「そう」


 何かあったときに抜け出すための隠し通路が王城にはいくつかあると聞いていたが、実際に眼にするのは初めてだ。


 一緒に手を繋いだまま外へ出ると――夕焼けに染まった眩い世界が二人を迎えた。


 風が運んでくる潮と草原の香りが鼻腔を爽やかにくすぐる。


 夕焼けに染まる丘や大海は、心を洗い流すように癒やしてくれる美しい風景であった。


 ――ぐう。


「お腹、すいたね。……クラウスが」


 アナがお腹を押さえ、心なしか切なげにそう呟いた。


 あくまでお腹が空いたのはクラウスであって、自分はそれに付き合ってあげるという体裁をとっている。


 基本的に無表情な彼女の細かい感情の機微を理解するのは、中々に難しい。


 時刻は夕暮れ刻で、最も空腹となっている時刻だ。


 クラウスは辺りを見廻すと――アナント名産のリンゴの木が眼に入った。


 野生の木だからか、実の色はあまり良くない。

 だが、果実には違いが無い。


 クラウスは一端繋いでいた手を離すと、素早く木に登ってリンゴの実を一個採ってきた。


 手を離してから、アナの手が名残惜しそう宙を彷徨っていたため、クラウスはすぐにその手を握り直してやった。


 クラウスがリンゴを一口食べると、少し苦いが食べられないほどではなかった。


 毒味を終えたリンゴをアナへ差し出す。彼女は少し迷った後に受け取り、小ぶりの可愛い口を一杯に開けて咀嚼した。


 皮の部分から食べようとしたが、硬くて食べられなかったのか――クラウスが口をつけた果肉の部分を食べ進めていく。


「別に、頼んでないよ」


「頼まれてもいません。私が勝手に採りたかっただけです」


「そう。なら仕方ないね」


 手を繋いだ二人を――丘から見える広大な大海原を、夕焼けが緋色に染める。


 しばし互いに沈黙して、美しい自然の風景に胸の中心から全身が癒やされる。


 アナの白銀の髪に夕陽が乱反射する姿が、彼女の幻想的な美しさを引き立てていた。


 ――やがて水平線に沈みゆく夕陽をともに眺めながら、アナは言った。


「――絶対に、帰ってきなさい。約束」


 口調こそ命令調でキツいが、彼女は引き締まったクラウスの身体に、そっと優しく身を寄せた。


 それは口で気持ちを表現することが苦手な彼女の、精一杯の感情表現行動。


 もの悲しい内心を、行動として表していた。


「勿論です。約束しましょう」


「なら、許してあげるよ」


 表情も変えないが、声色はほんの少し嬉しそうに弾み、すりすりとクラウスの胸に顔を擦り付けてきた。


「私は、あなたの騎士になります。貴方を御守りする協力な力を、異国の修練で手に入れてきます」


「――そう、頑張ってね」 


 繋いだ手に、きゅっと力が入って指を絡めてきた。


 黄昏時――僅かな夕焼けが草原を燃えるような緋色に染めていく。


 クラウスは、また帰る場所――彼の心を独占するアナの元へ。


 自分にとって望む『自由な楽園』へきっと帰ってきてみせると決意した。

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