寛解

瑠璃立羽

トラウマ

 

 俺は、佐々木恭太郎……しがない、お笑い芸人、のはずだ。この間までは。

 

 目の前でファンの女性が死んで、視界が真っ赤になったあの日から一ヶ月。

 

 俺はずっと自室に引きこもっていた。

 

 あの日の俺は情けなくも気を失ったが、偶然通りがかった人が救急車を呼んでくれたらしく次に目が覚めたのは病院のベッドだった。

 最初は記憶が曖昧だったが、病院に来た警察官から話を聞かれて完全にフラッシュバックしてしまった。もう一回ぶっ倒れて退院が一日伸びたことは俺がもう少し元気になれたら笑い話にできていただろう。

 でも俺は弱かった。無事退院できたのは良かったがまず外に出るのが怖くなった。あの道を通るのも嫌だが、曲がり角にまたあの人が立っていたらと思うと身が竦む。そんなこと、ありえないのに。

 次にインターネットを見るのが怖くなった。あの事件以前はエゴサをちょいちょいやっていたのだが、今はなんて言われているのかと思うと怖くてできない。SNSのトレンドもネット記事もあの事件を思い出してしまうのが怖くて見れない。それに、俺の事件もニュースになっているだろう。そう思うとますます見れない。

 俺が直接殺したわけじゃない。警察官にも犯人だと疑っているわけじゃありません、と遠慮がちに言われた。でも……俺のせいで死んだのは明らかだ。俺がもっとうまいこと話せていたら、あの女性も死を選ばなかったかもしれない。あのカッターにたとえ俺の指紋が付いてなくても、俺とあの人との関係性がただの芸人とファンでも、俺が死に追いやったのは確実だ。それを責める人もいるだろうし、なんとかできなかったのかと問う人もいるだろう。俺もなんとかできなかったのだろうかと何度も考えた。そんなことしても時が戻るわけがないのに。

 バイト先にはしばらく休ませてください、とだけ連絡した。他の人にも連絡しようとしたが……やっぱり責められるかもしれないという恐怖でできなかった。善慈にも連絡できていない。あいつなら、責めるどころか気にすんなや! と背中を叩くだろう。けど俺はもう、無気力で人間ではない何かに成り下がっていた。漫才どころか人前に立つことなんてもう、できない。

 

 今日も布団にくるまり動物園や水族館の動画を延々見ていたら、急に玄関のチャイムが鳴った。通販も何も頼んでいない。どうせ勧誘か何かだろう。

 だが、今日のチャイムはしつこかった。

 ──ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

 流石にここまでくると近所迷惑だ。もし隣の人が怒鳴り込んできたらどうしよう。手足が震える。俺が玄関を開けさえすればチャイムの主も気が済むだろう。俺はよろよろと玄関に向かった。

 ドアスコープを恐る恐る覗くと、明るい日差しと共に見覚えのある金髪とアホ面が全面に広がっていた。盛大にため息をついてドアを開ける。

「……お前、なんやねん……」

「なんやねんてなんやねん! ひどいやんかぁ、せっかくお見舞いに来たげたのにぃ」

 しつこくチャイムを鳴らしていたのは紛れもなく善慈だった。ずかずか部屋に押し入って、勝手にくつろいでいる。どう見てもお見舞いに来た人間の態度ではない。善慈の長い手足は狭い部屋に押し込められて窮屈そうに見えた。

「あのさ……長いこと連絡してなくて、ごめん。あの、まだ、漫才、できる気がしなくて……こんだけ休んでんのにネタも全然」

「はぁ〜? そんなん見たらわかるやん。オレがそんなつまらんこと言いに来たぁ思ってんの? ひどいわぁ、お見舞いに来た言うてんのに」

「ごめん…………」

「ほんまお前、おもんないやっちゃなぁ」

 善慈がヘラヘラ笑う。相方が面倒な事件を起こして自分の劇場の出番も減っているはずなのに、こいつは何も変わらず笑っている。それに救われるような、より情けなくなるような……俺はその場にへたりこんだ。

「だいぶ参ってんねんなぁ」

「当たり前やろ……お前とは違って、繊細やねん……」

「ツッコミも覇気ないわぁ。大丈夫かいな」

「大丈夫やないに決まってるやろ……」

「アハハ、そらそうや」

 善慈がふと部屋の隅に目をやる。一瞬ゴキブリでもいるのかと思ったが何もいない。蝿でも飛んでいたのだろうか。すると急に善慈が俺の目の前に回り込んできた。俺の顔を覗き込んでくる。

「な、なんや」

「お前さ〜、全然寝てないんとちゃう? 目の隈やばいで」

「まぁ……そうやな……」

「うーわっ、お前髭似合わへんなぁ。剃った方がええで」

 思わず顎に手をやる。無精髭なんか人に見せたことなかったのに。指の腹にちくちくと刺さる感触がする。まさかこいつにだらしなさを指摘される日が来るとは。もう一度でかいため息が俺の口から漏れた。

「よーし。ほな、寝といてなぁ」

 善慈がニヤリと笑う。すると、急に視界が何かに遮られた。何事かと思ったが、すぐに善慈のそのでかい手で目を塞がれたのだと気づいた。

「な、何すんねん」

「だから寝ときやって言うてんねん。ねんねん〜ころりよ〜、なんつって」

「そんなんで寝るわけ……」

 反論しようとしたが、なぜか、意識がとろんとぼやけた。今まで寝ようと思っても寝れなかったのに。こんな、ことで、ねおち、なんて…………

「お前はなーんも知らん。なーんも覚えてへん。ええな? はい、おやすみ〜」

 善慈の気の抜けた声を聞きながら、俺は眠りに落ちた。

 

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