12

「……あったかい」


 広場に続く階段の辺りに座って、わたしはそう呟く。


 わたしは少女の水筒に入っている温かなお茶を、飲ませてもらっていた。引き裂かれてしまったブラウスの上に、貸してもらったカーディガンを羽織って。


「それはよかったです。あ、そういえば、キミの名前を聞いていませんでしたね」

「わたし? ……ヨカ。ヨカ=リルリネア」

「へえ、ヨカちゃんって言うんですか。よろしくです、ボクはシフィア=ゼレフィールです」


 その響きに、わたしは少しだけ目を見張ってしまう。驚きを胸に仕舞いながら、そっと口を開く。


「……シフィア、さん」


 わたしに名前を呼ばれると、少女――シフィアさんは満足げに頷いた。

 わたしは思っていた疑問を、尋ねてみる。


「あの……さっきの氷は、何?」

「ああ、あれですか。ボクは実はね、ちょっとした特殊能力の持ち主なんですよ? すごいでしょう」


「……うん、すごかったわ。改めて、ありがとう」

「いいんですよー、お礼なんか。ボクがムカついたからやっただけですし」


 にっと、シフィアさんは笑う。そんな彼女を眺めながら、わたしはもう一つ質問をしてみることにする。


「……シフィアさんはどうして、こんな貧民街にいるの?」


 彼女の着ている服は、見た感じではあるけれど、そこそこ高級そうだ。彼女はどこかこの町には似つかわしくない、そんな雰囲気を身に纏っている。


 シフィアさんは少し考え込むような素振りを見せてから、へらっと笑った。


「えーと、観光ですよ?」

「か、観光!? この町は、そんないいところじゃないわよ」


「それはもう痛いほどわかってます、治安悪すぎて笑っちゃいました。というかヨカちゃんは、どうしてあんな目に遭っていたんですか?」


「……どうしても何もないわ。買い物に行こうと思って歩いてたら、因縁を付けられたのよ。ああいう目に遭ったのは、初めてだけれど」


「へえー。まあわかりますけどね、ヨカちゃん恐ろしいほど美人さんですし」


 彼女の言葉を否定する気は起きなかった。十七年も生きていれば、自分の見た目がどのくらい優れているのかは、嫌でもわかる。そうしてその特徴は――こういう町では、極めてマイナスに働く。


「それにしても、美しいものを壊そうとするなんて、とんでもない愚行ですよね? 何だか……殺してしまいたくなります」


 わたしはぞっとして、シフィアさんの横顔を見た。『殺す』というその言葉の響きが、余りにも冷たかったからだ。急に吹雪に包まれたかのような、そんな音だった。


「それはさておき」


 シフィアさんは可愛らしく微笑んで、わたしの方を見た。わたしもまた、彼女のぱっちりとした瞳と、暫くの間目を合わせていた。

 そうしてシフィアさんは頷いて、小さく首を傾げてみせた。


「ヨカちゃんって、何か定職に就いていたりはするんですか?」

「え……いや、そんなことないわよ」


 一緒に住んでいたお姉ちゃんが、働いてくれていたけれど。


 ――それはもう、昔の話だから。


 わたしは自嘲するように、ほのかな笑顔を零す。


「働こうと思っても、この町にいい仕事なんてない。多分どんなことをしても、わたしは酷い目に遭うと思う。……それが、すごく怖いの」


 水筒をぎゅっと持ちながら、わたしはそう言って口角を歪めた。


 ……撫でられた。


 シフィアさんは、わたしの頭に左手を乗せていた。そうして優しく、慈しむように、手を動かしているのだった。


「よしよし、ヨカちゃん」

「……何してるの?」

「え、なでなでですよ? こうしてもらうと、人間は安心するようにできているんです。だから、なでなでですー」


 そんな無邪気な彼女の言葉を聞いているだけで、さっき流し切ったと思った涙がまた、溢れそうになってしまう。それを堪えながら、わたしはいつものように、皮肉めいた言葉を吐く。


「……何だか、あやされてるみたい。あんた何歳よ」

「ボクですか? えーと、十六歳ですよ?」

「わたしより年下じゃない」


「ヨカちゃんはお幾つなんですか?」

「十七」

「あはは、そしたら似たようなもんですよ。一年なんて、あっという間なんですから」


 シフィアさんはそっと微笑んで、わたしのことを見つめた。


「ねえ、ヨカちゃん」

「何?」

「ボク、店を開きたいんです」

「お店……?」


「そうです。来てくれた人が心から笑顔になれるような、本当に幸せになれるような、そういう店を、ボクは開かなきゃいけないんです。よかったら、手伝ってくれませんか?」


 その申し出を聞いて、わたしはどこか呆然と、シフィアさんのことを見た。


「……そんな素敵な提案を、わたしなんかに使っていいの?」

「あらあら、自己卑下はよくないですよ? いいんです、それはボクが決めることですから」


「そもそも、わたしを誘う理由は何?」

「んー、そうですね……」


 シフィアさんは灰色の空を見上げて、少しの間沈黙する。それからわたしの方を見て、人差し指を立てて笑った。


「ヨカちゃんが、驚くほど顔がいいからですよ?」


 そのあどけない微笑みの奥には、何か暗いものが隠れているような気がした。

 多分この子は嘘つきなんだろうなと、そう思った。


 でも、それを追及するのも面倒だったので、わたしは微笑んだ。


「何それ。バカじゃないの?」

「バカじゃないですよー、バカって言う方がバカなんですよ?」


「子どもか、あんたは」

「あはは、ボクは子どもですよ? たかだか十六歳で大人扱いされて堪りますか」


 シフィアさんはそう言って、大きく伸びをした。


「ねえ」

「どうしました、ヨカちゃん?」

「……あんたのこと、シフィアって呼んでもいい?」


 わたしの問いかけに、シフィアさんは少し驚いたように目を見張ってから、にっと笑った。


「勿論、大歓迎ですよ?」


 わたしの中でシフィアさんが、シフィアになった、そんな瞬間だった。

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