桜は散る。彼女とともに。

琴葉 刹那

桜の散る頃に

「ねえ、次どこ行く?」

 隣で彼女が溢れんばかりの笑顔を向ける。

 その対象はもちろん僕。大半の男子が、一度は憧れるであろう光景。しかし何かがぽっかり空いているような、別の何かが入り込んだような……一言で表すと〝変な感じ〟だった。

「その辺を歩かない?散り際とはいえ桜が見えるし」

「見納めってこと?」

「うん。そんな感じ」

 無理に笑って締めくくる。背後から「しょうがないなぁ」なんて笑い混じりの声。河川敷まで移動して、ぼんやりと桜花を見つめていると、耳元でそっと、声が聴こえた。

『咲くん』

 うっすらと眼前に浮かぶ一人の少女。次いで思い出したように、桜の香りが鼻先を掠める。……亜麻色の髪をしたあの子の名は……。

「咲斗?」

 名前を呼ばれてはっとする。見ると顔を覗き込むようにして背伸びをする、茜の姿が瞳に映った。

「ぼーっとしてどうしたの?」

 一週間前から付き合うことになった旧友が、そう問いかけてくる。

「なんでもないよ」

「そう……あっ、見て見て!船がこっち来てる!」

「……ほんとだ」

 一瞬曇る表情。しかしその後に続く言葉と顔は、いつものように元気で、僕は思わず目を細めた。

「懐かしいなぁ。よくここで見たよね」

「うん」

 童心に帰ったようにはしゃぐ彼女を横目に、僕は首を傾げる。

 あれ?さっきまで何を考えてたんだっけ?

◆◇◆◇

「見て見て!公園だよ!」

 昔よく遊んだ、河川敷下の公園。それを見て、さっき以上に声を上げる茜。どうやら懐かしさが天元突破したらしい。

「こら。大声を出すと、子供たちが吃驚びっくりするだろう?」

「あっ、……ごめんなさい」

 やってしまった。

 そんな表情をして、バツの悪そうに謝る茜を、子供たちは無害と判断したようだ。

「え、え」

「「「おねーさん、あーそば!!」」」

 子供たちに囲まれ、茜は戸惑いつつも「どうしたらいい?」と僕を見る。それに対し僕は、「行ってきなよ」と小さく両手を動かす。

「……じゃあ少しだけね」

「「「やったあ!!」」」

 子供の頃、二人で一生懸命考えた信号遊び。僕らだけの暗号。

 茜は少し笑みを浮かべると、子供たちにより一層の笑顔を向ける。

 是を告げ、「何して遊ぶ?」と、彼らに問う茜を見送ると、僕はベンチへと腰を下ろした。

「ふぅ」

 久しく動かした体は、小さく軋みを上げている。中高ともに帰宅部の僕にとって、長時間歩くという行為自体がツライ。

 暫く視線を宙に彷徨わせて、両腕をだらーんとぶら下げる。

 力無き量の瞳に映るは、鬼ごっこをする子供たちと、彼らに混じって明らかに手を抜いている短い黒髪の少女。

 速度の加減が難しいのか、加速や走り出しがぎこちない。そしていくら本気でないといっても、陸上部員である茜に、勝てる子供なんているはずもなく……。

 鬼となった少年が、茜を追いかける足を止めた。次いで辺りを見回すと、近くで見物していた男の子をその視界にとらえた。

 そちらへ向け猛然と走り出す少年。狙われるとは思っていなかったのか。あっけなく男の子は捕まってしまった。

「捕まった〜」

「俺あっち探すから向かうよろしく」

 なるほど。どうやらこれは増え鬼だったらしい。

 少年は数で抑え込む気のようだ。

 狙いに気付いた茜が、注意を引きつけようと姿を晒す。しかし、賢いことにそれを無視して、少年たちは別の子に狙いを定めた。

「ちょっ」

 手加減について考えていたくせに、余裕がなくなっていく茜。その顔が正に百面相で、とても面白い。

 滑り台などの遊具から離れるように、茜は真ん中に陣取る。奇襲を警戒しているようだ。

 最初に鬼だった子はなかなかに運動神経が良いようで、一人、また一人と捕まえていく。

 気付けばほとんどの子が鬼になっていた。

「よし。それじゃあ——かかれーーー!!」

 少年が号令をかける。転瞬、襲い掛かるは幾人の子供たち。対する茜は、もう恥も誇りもなく、全力で走っていた。

「——多いっって!!!」

 何やら悲鳴が聞こえるが、そう簡単には捕まるまいと、僕は茜以外の生存者を探す。記憶が確かなら、あと一人いるはずだ。

「見つけた」

 いたのは奥に聳え立つ、桜木の裏だった。とてもイイ性格をしているようで、乱闘中の方向を見ては、ケタケタと白い歯を剥き出しにしている。

 人間観察もほどほどに、僕は桜の方を見た。

 散り間際ながらも、精一杯咲き誇る華。それ可憐と言い表すに相応しき様相——

『羨ましいなって。だって***なんだもん』

 しら、ない。

 脳裏に浮かぶは見知らぬ少女。薄ピンクの傘の下で、幹に手を当てている。舞い散るというのは、羨ましい行為だと。自分には出来ないことだと。

 泣き出しそうな声で語る、彼女の名は……

「はい、タッチ」

「……え……?」

 見れば僕の額に掌を当てる、茜がいた。

「いつから自分は参加していないって、錯覚していた?」

 彼女から見ると、今の僕は大層間抜け面を晒していることだろう。

「最後の一人が見つからないの。協力してくれない?」

「……ああ。それなら」

 そんなことかと、持ち直した僕は真っ直ぐに木へと近づいていく。慌てて顔を隠すがもう遅い。裏手へと回り、その背中に手を伸ばして——

「タッチ」

 僕は最後の一人を捕まえた。

「よく見つけたね」

「まあね」

 端的に返答すると、僕は時計台を見やった。

「そろそろ帰ろうか」

「え?あ、もう六時。ごめん、私たち帰るね」

 僕らは「「「ばいばーい!」」」と、子供たちに見送られて公園を出る。

 チラッと後ろを見て収めたのは。

「……」

「咲斗?」

 訝しげな目を向けてくる親友を無視して步を進める。

 頭の中では、桜の木に刻まれた『幸』の字が、ぐるぐると回っていた。

◆◇◆◇

「はぁ」

 家に帰ってきた僕は、ベットへと仰向けに倒れ込む。

(疲れた)

 スマホを開いて時刻を確認。現在時刻六時半。外はまだ明るい。

 夕飯の支度でもしようかと思ったが、心地良い睡魔が襲ってきた。

(少し、だけ……)

 僕は静かに、意識を飛ばした。

◆◇◆◇

「綺麗だよね。ここの桜」

 オレンジ色に染まった、河川敷下の公園。そこで一本咲き誇る、満開の桜花。その傘下で、桜幹を指でなぞる少女に、僕は声をかけた。

「……だれ?」

 少女が感情を宿さない瞳で僕へと問う。

「僕?名倉咲斗。きみは?」

「……知らない人に教える名前はない」

「至極真っ当な返事だね」

「そう思うなら放っておいてくれない?」

「そういうわけにもいかないかな」

 少女が片眉を上げる。口を開き紡ぐは「どうして」という疑問の声。

「君が哀しそうに見えたから」

 その答えに、少女は「お節介な人」と小さく零す。

 その様子はやはりどこか哀しそうで、それでいて諦めが滲み出ていた。

「よく言われる。けど、やっぱり放っておけないんだ」

 両手を上げ、戯けるように僕は言う。

 『放っておけない』。

 即ち、衝動的なものであると。やりたいからやるのだと。

 言っておいてなんだが、随分身勝手な言葉だ。

「私に関わっても、時間の無駄だよ」

「時間の価値は自分で決めるべきだと、僕は思うよ」

 幾分か棘の取れた少女の言に、自論を返す。

 言っても聞かぬと悟ったのか。

 少女は、沈黙を以て場を収めた。

「……」

「……」

 ひゅう、と風が吹いては花弁が舞う。淡い桜色が、不思議と夕焼け空にマッチしてよく映える。

 次に口を開いたのは、あれから二十分後のこと。

 日が沈み始めた頃だった。

「……帰らないの?」

 再び上がる少女の問い。それを受けて、僕は破顔した。

「それはお互い様じゃないのかな」

「私はいいの。普通じゃないから」

「なら僕も普通の子じゃないから問題ないね。これから門限を破ろうとしている、悪い子だから」

「今帰れば悪い子にならずに済むよ」

「言っただろう?放っておけないって。僕は一度口にしたことは破らない人間なんだ」

「現在進行形で破ってるのに?」

「親に勝手に決められただけで、守るとか言ってないからセーフだよ」

 次々と飛び出す、言葉の応酬。互いが互いの理屈を持っているが故に、止まらない。

「——そういうことよりも、さ!」

 僕は断ち切るように、声に力を込める。

「僕、家も学校も東側でさ。この公園は近くだから知ってるけど、街の西側って、あまり知らないんだよね」

 ——だから案内してくれないかな?

 戯言を宣う僕に、少女は目をぱちくり。次の瞬間、浮かんだのは紛うことなき呆れ顔だった。

「あなたは、私がそれに応じると思うの?」

「さあ?君の名前すら知らない僕にはなんとも。……だけどここで黄昏ているだけなら、僕の『お願い』を聞いて欲しいかな」

 『願い』。

 その単語にぴくりと身じろぎする。連動するかのように揺れ動く、黒水晶の瞳。

 口を閉ざす少女。再び漂う静寂。

 流れる風が僕の聴覚を支配し、少女の亜麻色のロングヘアを靡かせた。

「……いいよ」

 風に流された一音を、僕の耳が拾う。

「ありがとう。……改めて、名倉咲斗。よろしく」

 もう一度自己紹介をする僕へ向けて少女が苦笑。暫くして紡がれたのは、泣きたくなるほどの優しい声。

「……私はユキ。桜舞悠生。よろしくね」

 これが僕と、ユキの出会いだった。

◆◇◆◇

 桜。

 それは、春に咲き誇っては散っていくモノ。

 河川敷沿いのとある公園。その片隅で咲き誇るそれを、私は眺めていた。

(……羨ましい……)

 自分が望んで止まないことを、いとも容易く行う有機物に嫉妬してしまう。

 罹った呪いを思うと、陰鬱の一言。

 いったい叶うのはいつになることか。

「はぁ」

 私はもう何度目とも知れないため息を吐き出すと、顔を見上げ、桜の花を見上げた。

 眼に入ると同時に思い出すは過去の出来事。

 家族でお花見に行ったときのことだった。

『ここら辺にする?』

『うん!ここならさくらがたくさんみえるもん!』

 ザ、ザザー。

『おかあさん!これおいしい!』

『本当?ありがとうね』

 ザ、ザザーッザザザ。

『おとうさんのみすぎ!そんなにおさけのむんだったらおいてくよ!』

『あらあら』

『い、いや悠生。もうちょっと!これ一杯だけ』

『だーめ!』

 ザザー、ザザー。

『おにいちゃんこっちこっち!』

『今行くから待ってろよ!』

「けほっ」

 私は口元を押さえつける。

「けほっ、かほっ、ごほっ」

 次々と咳が込み上げる。

(息が、苦しい……!)

「——けほっ、はー、はー」

 咳が止まれば過呼吸に陥る。過去に学んだ、止めようのない出来事。

 五年以上経った今ならと思ったが、変わっていない。いや、変われていない。

 しかしそれも当たり前。

 自分があの時から変わっていないのだから、症状が出て必然の事——

「——あああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」

 私は幼子が駄々をこねるように叫び散らした。

「はぁ、はぁ、はぁー」

(やっと収まった……)

 私は眼前の幹に手を預ける。もたれかかるなんて真似は、汚れるからしたくない。

 十分ほど経つと、少しずつ体に力が戻ってきた。

 私は幹から手を離したが、何となくその手の指先で幹の線をなぞる。

 そうやってぼうっとしていたときのことだった。

「綺麗だよね。ここの桜」

 声がした。

 耳にすっと入り込む、優しい声。

 不思議と溶け込むように馴染んでくる、温かい声が。

「……だれ?」

 返すのに少し時間が必要だった。

 何故なら、自分に話しかけてきたということが、理解できなかったから。

 人に話しかけられるという感覚が、年単位で久しいことだったから。

「僕?名倉咲斗。きみは?」

 名前という、最も大切な個人情報を当たり前のようにばらした、中性的な顔立ちの少年が私に問う。

 それに私は「知らない人に教える名前はない」と言った。

 ……かなり棘のある言い方だが、私はもう、人との関わりなんて欲していなかった。そんなもの、欲しいとは思っていなかった。

 暗に『どこかに行って』と言った私に、少年は何度も言葉を募る。

 それに私は。

 説得を試みて。

 押し黙って。

 意地を張り。

 最後には、彼の提案を受け入れた。

 こんなに話したのは、いったいいつぶりだろう。

 人と関わるのは、いったい何年ぶりだろう。

 そして、なんだろう。少しだけ、楽しくて。温もりがまた、近くにあって。

 そんな感覚は、単なる勘違いかも知れない。けれど——

 ——けれどもう一度だけ、陽だまりの方に行きたくて。

「改めて、名倉咲斗。よろしく」

(それはもう聞いた)

 半ば無視のような行動をしたが故の『改めて』。

 にも関わらず、無粋な感想を抱いた自分に苦笑する。

 次に開いた口は、思ったよりも軽かった。

「……私はユキ。桜舞悠生。よろしくね」

 これが私と、咲くんの出会いだった。

◆◇◆◇

「西側にこんな大きいお祭りあったんだ……」

 思わずそう呟く。

 隣では、懐かしそうに目を細めたユキが、中心に位置する太鼓を眺める。

 ユキが案内してくれたのは、とある広場。そこで、大きなお祭りが始まっていた。

 道中、どういう祭りなのか訊くと、ユキは呆れ顔を僕に向けた。

『どの地区でもやっているよ?〝名与え祭り〟。なんでもこの街には昔神社があって、そこの神主さんに、赤ちゃんが生まれたら、名前をつけてもらってたんだって』

 少し世間知らず過ぎだよ。

 取ってつけたような最後の言葉が、地味にグサッとくる。

 こちとら万年帰宅部の引きこもりなのだ。塾など人並み程度には外に出るが。

 それは果たして引きこもりと言えるのだろうか、と自問自答していると、哀愁に浸っていたユキが、突如はっとし

「案内するね。まずあっち」

 と気恥ずかしそうに歩き出す。

 その時僕の手を握ったのは、意識したことかそれとも無意識か。

 先程までいたからか。桜の香りが舞い上がり、ぼうっとしてしまったのは内緒の話。

 恥ずかしさと共に、僕は促されるままに歩き出した。

「まずはここかな」

 最初に案内された屋台は、金魚掬いだった。祭りの際、そういう屋台が出る所もある、ということは小説などから知っていたが、東側……というより僕の住んでいる地区にはないため、存外新鮮な気持ちだ。

「やってみていい?」

「ご自由に」

 冗談めかしたその態度にくすっと笑うと、僕は出店の主らしきおじさんに、代金を渡した。

 すると店主はニマニマと口元を歪めて、口笛でも吹くのかといった雰囲気を纏った。

「彼女かい?別嬪さんだね〜」

「違いますよ」

「こりゃいいとこ見せないとな」

(……話を聞かない……)

 椀とポイを手渡されながら、小声で会話。

 話しかけられた時、椀を落としそうになったのはここだけの話。

 僕はチラッとユキを流し見ると、水槽に向き直りいざ開戦。

 ……そして十分後。

「……」

 ゆらゆらと水面が揺れる。その屋根の下に悠々と居座るは、十分前から一匹と減らない金色の魚。

 ……そう、一匹たりとも減らない。

「……どうして……?」

 僕が茫然自失となる中、店主は真ん中にそれは見事な大穴の空いたポイ計三つと、未だ水しか入っていない椀を見て笑いこけている。曰く

 ——がははははっ!!!ちよっ、ま、坊主下手過ぎだろ!やっ、やばい腹が——待て待てっ!これ以上は止めとけ!今が一番傷が浅いから!待て!早まるな!落ち着け——ってくはははははははは!!!?一瞬いっっっしゅんで壊しやがった!そんな水に浸したら破れるに決まってんだろ!まっ、マジで腹がよじれ——

 とのこと。

 ユキはどうリアクションを取ればいいか迷っているらしい困り顔だ。……肩が震えているのを、見逃しはしないが。

 ユキが歩み寄ってくる。そして僕の耳元で

「お手本を見せてあげる」

 そう呟くと、いつの間にか持ち直してニヤニヤ笑う店主に、「私もいいですか?」と問いかける。

「彼氏の敵討ちってか。愛されてるねぇ」

 一瞬顔を赤らめたユキだったが、無視してスカートのポケットを漁る。

「あっ」

 何かに気付いた様子のユキが、困ったようにキョロキョロ。それに対し、僕は一歩前に出て。

「一回分お願いします」

 言うが早いか、百円玉を二枚差し出した。

「それじゃ、敵討ちよろしく」

 ユキに一言告げ素早く下がる。性悪店主から好奇の視線を向けられるが無視。

 ポイと椀を受け取ったユキは、水槽へと目を向ける。——刹那。

 パシャ。

 水切り音が辺りに響く。金魚が跳ね上がり、その先には黒縁の椀。吸い込まれるように椀へと落ちていき。

「こんな感じに」

 ユキが僕を見ながら言う。

「金魚の下に差し込む感じでやればとれるよ」

 明らか参考にならない技術を見せられた僕は、どう反応すればいいのだろう。

 誰か教えて欲しい、切実に。

 ユキはとった金魚を「飼えないから」と水槽に戻すと、「やる?」と僕へ視線を向ける。

 それに僕は時計を見るふりをして

「時間がないし他のとこ回ろう」

 別の屋台に行こうと促そうとしたときだった。

 ひゅううううううぅぅぅ、パン!

 花火が上がった。

 最初の一発を皮切りに、大小次々と打ち上がっては消えていく。久方ぶりの花火に、僕は思わず見惚れてしまった。

 ——綺麗だね。

 そう声をかけようとした時だった。

「はー、はー」

「ユキ?」

 ユキが過呼吸に陥っていた。

 突然のことで思考が緩慢になる。声はか細く、花火の音も相まって、僕しか気付けていない。動かないといけないのに、何か大きな力に止められているかのように動けない。

「はー、はー、……ごめんね」

「ユキ!?ユキ!!」

 その言葉を最後に、ユキは走り出した。

◆◇◆◇

 ——やってしまった。

 私はひどく後悔する。

 いける気がして。

 どこか兄に似ている彼と一緒なら、大丈夫な気がして。

 ——それでまた、失敗した。

 思い出深き場所には近づかない。

 何故なら思い出してしまうから。

 夢のように幸せだった頃を、思い出してしまうから。

「ここ、かぁ」

 気付けば公園に戻ってきていた。

 私はまた、桜幹に手を添えて目を瞑る。

 聞こえてくるのはやっぱり、死ぬなという声で。

 生きろと身勝手にも言う誰かがいて。

 それでやはり、目的もなく彷徨う。

 『悠久に生きて欲しい』。

 それ故の、〝悠生〟。

 その言霊は、私を縛る。

 〝死ぬ〟という選択肢すら奪うそれは、もはや呪いだ。

「ゔ、ひっぐ」

 あの事故さえなければ。

 自分は、まだ幸せでいられただろうか。

 分からない。判らない。

 ただ一つ解るのは、私が、私だけが理の外で生きているという事だけだ。

「ひっぐ、ううぅ」

 涙が止まらない。堰を切ったように、溢れ落ちる。

 両手を覆ってもまだ、止まらない。

 そうやってしゃがみ込んだ私の耳に届いたのは。

「——やっと見つけた」

 どこまでも優しい声だった。

◆◇◆◇

「どうして……」

 目元を赤く腫らしたユキが問うてくる。

 悩みはしなかった。その答えを、僕は一つしか持ち合わせていない。

「言ったはずだよ。……僕はお節介なんだ」

 ニッ、といった、明らかに場違いな笑みを向ける。

 次いで紡ぐは、悩める人間に対する常套句。

「一人よりも二人。……巻き込まれた人間がいた方がいた方が安心するだろう?」

 直球に巻き込めとう僕に、ユキは吹き出した。

「……それを言うなら『相談相手がいた方が』じゃない?それに巻き込むって……普通巻き込んだら罪悪感が凄い出ると思うんだけど」

「そうだったっけ。まあ相談だと少し他人事みたいなとこあるし、巻き込むの方がいいでしょ」

 堂々と戯言を宣う僕に、ユキは破顔。

「本当に、お節介な人。……ねえ」

「ん?何かな?」

「咲くん、って呼んでもいい?」

 予想外の言葉に思わず詰まる。しかし

「いいよ」

 そう許可を出した。

「ありがとう」

 顔に親しみのある笑みが浮かぶ。

 しかし次の瞬間には、宿すモノは切なさへと変わった。

 まだ僕と同じくらいの少女が、何を背負っているのか。僕は知らない。

 もしかしたら、人知の及ばぬ悩みかもしれない。

 僕なんかが聞いたって、気休めにもならないかもしれない。

 けど、それでも。

 誰かが叫んで。

 誰かが足掻いて。

 誰かが嘆いて。

 誰かが唄って。

 ——そして刹那を生き抜かんと、命を燃やす。

 願いを果たさんとする。

 意地を貫き通そうとする。

 そんな人を見ると。

 どうしても、体が強く脈打つんだ。

 高鳴るんだ。

 ——力になりたい、って——

◆◇◆◇

「……私はね。死んでいるはずの人間なんだよ」

 私はぽつりと語り出す。

「もともと、普通の女の子だった。ただおしゃれして、読書して、遊んで……時々、お兄ちゃんを振り回す。そんならどこにでもいる存在」

 淡々と。されど激情を乗せて私は云う。

「でもね。神様は私に〝普通〟を与えてはくれなかった。——中学二年生の時にね。事故にあったんだ。……家族全員で」

 言霊というモノを知っているだろうか。

 あれは確かに存在するのだ。

 私が今、無情の熱を灯しているように。

 言葉が口から出て、止まらないように。

「海難事故でね。船に乗っていた人はみんな死んじゃった。——私を除いて」

 なぜ生き残れたのか。

 大人も、子供も、みんな死んだ中、なぜか私は生き残った。

 それはいったい何故——。

「薄暗い海に包まれてさ。目が覚めたら——」

 ——この公園にいたんだ。

「……え、」

「もちろん私は戸惑った。けど、ここのベンチに座ってたおじさんがラジオを聴いてて。それでこう流れた」

『昨夜八時ごろ。***船が難破。乗客五十三名全員が、死亡しました』

 流れ出た言葉には、身に覚えしかなくて。

 私は、悟ってしまった。

 ——いなかったことになってるって。

 戸籍も、何もかも調べて、出した結論。

 〝存在の、抹消〟。

「時に咲くんは、『名は体を表す』って、知ってる?」

 唐突にそう、語り出す。

「私の名前は〝悠生〟。〝悠久を生きる〟と書いて悠生ユキ。この名前が、きっと原因なんだと思う。……目を閉じるといつも浮かんでくるの。みんなの声が。死ぬなっていう、家族の声が」

 目元が赤く染まり、涙が溜まる。

 言葉は願いとなって神霊に届き、言霊となって人に影響を与える。

 ああ。なんて理不尽なことだろう。

 この〝願い〟はもう、〝呪い〟だ。

「私は、死ぬことができない……!」

 涙が止まらず、滴り落ちる。

 力なく崩れ落ち、ただただ泣き崩れる。

 そんな私に、一つの言葉が降り落ちた。

 ——なら変えればいいだろう?

◆◇◆◇

「かえ、る?」

「願いはより強い力に倒れる。現実であれ、暴力であれ」

 ある少年は、空を自由に飛びたかった。しかし彼には翼がなかった。

 ある男は腐敗を正したかった。でも彼には力がなかった。

 で、あるならば同じこと。

 ——より強い願いで、塗り潰してしまえばいい。

「……無理だよ」

 ユキが言う。

 それに僕は返す。

 無理じゃないと。

 願いが神を動かし、神はユキを生かした。

 しかしその願いが変わったなら。

「今から君の名は——」

 たった一つの言霊。

 ただ一言、紡ぐのみ。

 やめろという声が聴こえる。

 しかし、そんなものは知るかと。

 胸中にて吐き捨て、僕は宣言した。

「——〝ユキ〟だ——」

◇◆◇◆

「……幸」

「気に入らないかい?」

「ううん。いい名前。……語感を守ってくれてありがとう」

「どういたしまして」

 ユキの体が、雪解けのように白い粒子となっては溶けていく。

「ねぇ、咲くん」

「ん?」

 呼ばれて少し首を傾げる。

 そんな僕に、ユキは恥ずかしそうに言った。

「目を瞑って」

「?」

 疑問符を浮かべながらも、言われるがままに目を閉じる。すると——

「ん、」

 唇にナニカが当たった。

「!?」

 驚きのあまり、より一層固く目を瞑る。

「ありがとう。一夜だけの、私のヒーロー。来世では——」

 耳元を掠めた言葉が、そこで途切れる。そんな中、桜花の香りが、何かの残滓のように空を舞う。

 目を開けた時には。

「……あれ。なんでここにいるんだろう?」

◆◇◆◇

 目が覚めると五時だった。

(なんだか、長い夢を見ていた気がする)

 起き上がると、なぜか無性に外に出たくなって、僕は外に出た。

 衝動に任せ、何も考えずに歩いていると、昨日来た公園にたどり着いた。

「……」

 僕はそこで、ぼうっと桜を見る。

 枝を彩る花弁は、もう大半がどこかへと消えてしまい、寂しげにポツンと立つ桜を。

「あれ?咲斗?」

 背後から声をかけられ振り向くと、茜が小走りに駆けてきていた。

「おはよう。ランニング?」

「そう。でもちょっと休憩」

 茜がベンチへと腰掛ける。僕も隣に座ると、春風が流れた。

『咲くん』

 耳に吸い込まれる言葉。すっと鼻先を掠める桜のにおい。

 知らずと零れ出す、言葉。

「ユキのにおい」

 人間とは忘却する生き物だ。

 それには様々な要因があり、人知の及ぶところではない。

 思い出も、感動も、忘れては『今』で埋め立てる。

 でも、それでも。

 体は、心は、魂は、決して忘れない。

「雪?桜じゃなくて?」

 もう桜でさえ散り間際だというのに、何を言っているのかと茜が言う。

 それに僕は、空を舞う最後の華を見つめ、桜のように笑い、こう云うのだ。……一抹の寂しさを乗せて。

「いいや。ユキのにおいだよ」

 と——。


 




 

 

 

 

 


 


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