○あなたは……誰なの?

 少しずつ、霧が濃くなり始めた。迷宮が、崩壊しようとしている証ね。世界の輪郭がぼやけ始めて、私たちの周りにあったはずの森も見えなくなっている。


「良い、ひぃちゃん? ひぃちゃんは、ひぃちゃんなんだよ? 雫じゃないし、他の誰でもない」


 涙をこぼしながら私の顔を覗き込んで、それでも笑うサクラさん。


「だから……。だから、ね? ひぃちゃんは、スカーレットとして、ちゃんと生きないと」

「私は、私として……?」

「うん、そう! 良い? 死のうとするんじゃなくて、生きるんだよ? ひぃちゃんがシーシャさんに言ったように。生きて、生きて、生きるの」

「……? えぇっと、どういうこと?」


 霧が、どんどん濃くなっていく。もはや周りは見えなくなって、世界には私とサクラさんだけしか居なくなってしまったみたい。そんな状況で、サクラさんは私に「生きて」と言う。


「ひぃちゃん。わたしに死んで欲しくないって言ったよね?」

「ええ……」

「じゃあさ。今なら、わたしが言ってきた『ひぃちゃんに死んで欲しくない』って気持ちも、分かってくれるよね?」

「それは、もちろんよ」


 大切な人……私に死んで欲しくない。ずっと一緒に居たい。そう願ってくれるサクラさんの気持ちは、痛いほどわかる。だけど。


「だけどね、サクラさん。私は死滅神。自分の命にすがりつくことを、許されていない。フォルテンシアのために死ぬことを義務付けられているの。だから――」

「じゃあ」


 サクラさんが私の口を手で塞いで、強引に言葉を止めてくる。


「じゃあ。わたしがおまじないをかけてあげる」

「むぐむむむ?」

「そう、おまじない。ひぃちゃんがもう少しだけ素直になれる、おまじない」


 そう言って、口を塞いでいた手をどけたサクラさん。息を吸おうと私が口を開けた瞬間、


 チュッ。


 再び口をふさがれた。何とも形容しがたい柔らかさが、私の唇を覆っている。ほんのりと甘い粘液を、口の中で何度も交換する。触れ合う口から、お互いの体温が溶け合っていく。


「んぐ……?!」

「ちゅっ……ん、あむ……」

「……れろ……んん、んく……」


 周囲に何も見えない、私とサクラさん、2人きりの世界で。それはもう、長く、長く。口づけを交わしたのち、


「「ぷはぁ……」」


 2人して、口を離した。ツー……と糸を引く透明なつば。私の顔が熱いのは、上手く息が出来なかったせい? それとも、私をうるんだ瞳で見つめるサクラさんの顔が、魅力的だから?

 私のことを愛おしげに見下ろすサクラさんが、笑う。


「これが、おまじない……ううん、のろい」

「のろ、い……?」

「そう。ひぃちゃんが『死にたくない』って思っちゃう、のろい」


 私が死にたくないと、思ってしまう呪い……?


「はっ?! そういうお呪いが、ニホンにはあるの?!」


 私の問いに、一瞬だけ、呆けたような顔をしたサクラさん。だけど、すぐににやりと笑う。


「ふふん、そうだよ? しかも、今ひぃちゃんにかけたのは、めっちゃ強力なやつ」

「嘘でしょ?!」

「ほんと、ほんと。だからこの先、もし、ひぃちゃんが殺されそうになった時。死にたくないって思っちゃったり、生きようとしようとしちゃったりしたとしたら――」


 いたずらっ子みたいな笑顔で、サクラさんは言った。


「それは、わたしのせい」

「な、なな……」


 なんてことをしてくれたのかしら、サクラさんは! いつもより接吻せっぷんが長かったのも、濃厚だったのも、そのせいだったのね?!


「私は死滅神なのよ?! 殺されなくちゃ、いけないのに!」


 そうでないと、使命を果たせない。何もかも足りない私が、ずっと死滅神であり続けてしまう。次に生まれるはずの優秀な死滅神が、生まれてこない。人々が私をまっとうに恨むことが出来なくなってしまう。


「そうだね。でも残念。その呪いが解けるまで、ひぃちゃんは死ねませ~ん」


 睨みつける私なんて怖くない。そう言うように、サクラさんがそっぽを向く。


「で、でも大丈夫よね? のろいってことは、解く方法もあるのでしょう? 早く教えなさい!」


 呪いには、古今東西、必ず解く方法がある。さっさとそれを教えてほしいと言う私に、サクラさんはぶんぶんと首を振る。


「嫌です~」

「どうして?! 最後って言うなら、どうしてそんな、ひどいことをするのよ……っ」


 死ぬことができない。使命を果たせない。そう思うと、涙があふれてくる。なんだかんだ言って、サクラさんは私の職業ジョブについて理解してくれたと、そう思っていたのに。


「ま~た泣くんだから、この子は、もう」

「触らないで! 嫌い! 意地悪するサクラさんなんて、大嫌い!」


 腕の中で暴れる私を、それでもサクラさんは強引に抱き寄せてくる。どれだけ抵抗しても、彼女が私を解放することはない。それでもどうにかもがいていると、サクラさんの心臓の音が聞こえてくる。トクン、トクンと、規則正しく拍を刻むその音を聞いていると、自然と、気持ちが落ち着く。

 そうして、冷静になって、思い出す。彼女が悪者になろうとするとき。それは彼女なりの照れ隠しだと言うこと。何か意図をもって、のろいをかけたはず。


 ――そして、自惚うぬぼれでないとするなら。きっと、私のため……。


 いつだって、サクラさんは私のことを想ってくれていた。彼女が、最後の最後に意地悪をするわけがない。少し考えれば分かることなのに、私はいつもみたいに感情的になって、しかも、言ってはならないことを言ってしまった。


「あ、う……嘘よ! サクラさんが嫌いって言うのは嘘で本当は大好きなの!」

「あははっ! ひぃちゃん、めっちゃ慌ててる! でも、うん、そんなの、とっくの昔に知ってる」

「ほ、本当に? きっとサクラさんが考えている以上に私はあなたのこと――」

「分かってるから、大丈夫だよ、ひぃちゃん。呪いの解き方も、ちゃんと教える」


 私を抱いたまま、耳元で、優しく語りかけてくれるサクラさん。気付けば視界は霧に包まれていて、何も見えなくなった。すぐそこにあるはずのサクラさんの顔も、髪も。何も、見えない。

 けれど、私に触れるサクラさんの柔らかさと温もりだけは、まだはっきりと感じることができた。


「ねぇ、ひぃちゃん。呪いの解き方を教える前に、1つ、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」

「な、なに? 何でも言って!」


 本当にこれが最後なのだとしたら、サクラさんが今から口にする言葉も、最後のお願いになる。これまで彼女から受けてきた恩を考えると、どんな願いでも釣り合わない。だから、私は死滅神の名に懸けて、何でも言うことを聞くつもりよ。

 抱き合っているのに、お互いに顔はもう見えない。だからこそ、サクラさんを抱く腕に力を込めて見せると、サクラさんがフフッと笑う。そして、文字通り最後のお願いをしてきた。


「これ。ひぃちゃんの家にあるわたしの勉強机に入れといて欲しいんだ」


 そう言って、私の手の中に何かを握らせるサクラさん。感触からして、間違いない。


「こ、これ……私たちが渡した指輪?! どうして?! どうしてこれを返すの?!」

「私が消える時、ひょっとしたら、無くなっちゃうかもしれないから。だから、ひぃちゃんに預けとくね」


 濃くなっていく霧が世界を包み、私の意識も包み込む。外に出れば中にいる間の記憶を失う異食いの穴。私の中にある記憶が、次々にこぼれ落ちていく感覚がある。

 前回も味わったけれど、今回は少し違う。


 なぜか、サクラさんとの記憶も、1つ、また1つと消え去って行く。


「え、嘘……どうして?! な、何が起きているの……?」


 言っている間も、サクラさんとの大切な記憶思い出がこぼれ落ちていく。それこそ、まるで最初から存在していなかったかのように。


「あれ……? サクラさんとの思い出が……」

「……そっか。そう、なるんだ」


 やっぱり、と、そう言って。サクラさんが私を抱く腕に力を籠める。


 ――どうして?! どうしてあなたは、そんなに落ち着いているの?!


「こんなの、嫌……嘘よ! あり得ない!」

「あっ、お別れする前に、ちゃんと『死ねない』呪いの解き方、教えないとね」


 霧に中、感覚が遠くなって、サクラさんの手触りが消える。あふれる涙と一緒に、少しずつ、少しずつ、私の中からサクラさんが居なくなっていく。


「嫌! 嫌よ、待って……! 待ってサクラさん!」


 涙をぬぐっても、ぬぐっても、記憶の消失は止まらない。


 まだ、タントヘ大陸に行ってない。大迷宮。不思議なことが大好きなサクラさんなら、きっと喜んでくれるわ。


 ウーラに行っていない。生誕神のフィーアさん、可愛くて、良い子なの。


 ユリュさん。人見知りだけど、サクラさんならきっと仲良くなれるわ。


 ナグウェ大陸は知ってる? あなたと同郷の人がたくさん居るのよ? 


 イーラに来て欲しいわ。死滅神が長い年月をかけて創り上げた、理想郷なの。


 魔法少女が好きなのよね? なら、魔法使いの町ファウラルも好きになってくれるはずよ。


 リアさんを紹介したいわ。ちょっとえっちだけど、素直で優しい、私の自慢の姉妹なの。


「フィッカスも、エルラも、ウルセウも、ディフェールルも……。まだまだ行ってない場所が、たくさんあるのに!」

「どれくらい先になるか、分からないし、こっちに来て、また会えるかどうかも分からないんだけど――」


 センボンギサクラさん。出会ってすぐに感じた懐かしさは何? メイドさんの反対を押し切ってまで、私が彼女と一緒に居たいと思えたのは、どうして?


「お願いだから、待って! あなたに紹介した人が居るの! メイドさんって言って、私の自慢の従者なのよ?! ククルも居るわ! いつも鳥車を引っ張ってくれる、可愛いくて頼りになるポトトなの!」

「――次に会った時。またわたしに、その指輪を渡して欲しいな! それが、呪いの解き方だから!」


 泣きながら笑うような声で、私に呪いの解き方とやらを教えてくれる、女の子。




 ――……この声のぬしは、誰?




 死滅神である私に指示を出すなんて、良い度胸じゃない。その不遜ふそんな顔を見てやりたいけれど、あいにく、霧が濃くて何も見えない。


「それじゃ、ちょっくら地球に。……行ってきます、ひぃちゃん!」


 なぜか再会を誓う大切な挨拶を私に向けて言った、誰か。彼女の気配が、遠ざかっていく。ひぃちゃん? 私の名前は、スカーレット。「ひ」なんて、どこにも入ってないわ。……なのに、どうしてかしら。何度も、何度も、そうして名前を呼ばれたような気がする。名前を呼ばれるだけで、私のちっぽけな胸が満たされる。身体が、この声のぬしを欲している。


「待って……待ちなさい! あなたは……誰なの?!」


 もう、返事が返って来ることはない。その代わりに。


「大好き!」


 彼女は、言う。どこまでも卑屈ひくつで、弱くて、寂しがり屋で。そのくせ頑固で、意地っ張りで。理想だけは高いくせにぐぅたらするから、口先だけになってしまうことも多い。

 何より、死滅神として。沢山の命を奪い、たった1年と少しで1059もの死を積み上げる。『死神しにがみ』と呼ばれ、人々にみ嫌われる私を。


「愛してるよ、ひぃちゃん!」


 愛してくれる。こんな私でも、生きていても良いのだと、そう言ってくれる。いつだってそばに居て、支えて、助けてくれた彼女を。


「私、も……」


 続く言葉は、だけど、ついぞ届かないまま。私の意識は落ちていくのだった。

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