○今こそ「とっておき」の出番だわ!

「ふざけるな!」


 圧倒的な感情が乗せられた声に、私の怒りなんて簡単に吹き飛ばされてしまう。冷や水を浴びせられたような、とは、まさに今の私のことを言うんじゃないかしら。そう考えてしまうくらいに、今の私は冷静になってしまっていた。

 声を発したのは、私じゃない。でも、この部屋には私と、サクラさんしか居ないはず。じゃあ、今の声は……。


「サクラ、さん……?」


 薄暗い寝室。ベッドで向かい合う私とサクラさん。未だに俯いたままのサクラさんに、私は改めて目を向ける。と、その時になってようやく、私はサクラさんの両肩が震えていることに気が付いた。


「そんな悲しいこと、言わないでよ、ひぃちゃん……」


 項垂れるサクラさんの下に、ぽたり、ぽたりと広がる小さなシミ。


「さ、サクラさん? あなた、泣いてるの? ど、どうして……。ど、どうしよう?!」

「あ~、もう、最悪……っ。泣きたく、無かったのになぁ……」


 私に顔を見せないようにしながら、ぐしぐしと目元をぬぐうサクラさん。それでも、シーツを濡らす水滴は止まらない。やがて、涙が止まらないと悟ったらしい彼女。


「ひぃちゃんのせいだ! ひぃちゃんが、馬鹿だから……!」


 どこか悔しそうに言って、シーツをぎゅっと握りしめる。どうしてサクラさんは、泣いているの? どうして私、唐突に馬鹿にされているの? 何が何だか、全然分からない。ただ、私の愚かさがまた、サクラさんを傷つけてしまったのは事実。

 怒りの感情が吹き飛ばされて冷静になった私の頭と口が、謝罪の言葉を紡ぎ出そうとする。


「ご、ごめ――」

「悲しいに決まってるじゃん!」


 私の謝罪の言葉を遮って、サクラさんが感情のままに叫んだ。勢いに飲まれて言葉を引っ込めてしまった私の隙をつくように、サクラさんはなおも言葉を続ける。


「悲しいし、苦しいに決まってる……! 本当は、ひぃちゃんと離れ離れになんて、なりたくない……!」


 涙が作るシーツのシミを大きくしながら、サクラさんが口にした言葉。それは、当初、私が問いかけようとしていた質問に対する答えだった。つまり、サクラさんはチキュウに帰りたくないということ。


 ――私たちと、ずっと一緒に居たいということ!


 サクラさんが、私たちを家族や親友のように大切に思ってくれている事の証明であるような気がした。


「サクラさん!」


 声を弾ませた私に「でも」とサクラさんは続ける。


「でもね、ダメなんだ。わたしは、ひぃちゃんのそばに居るべきじゃない」

「ど、どうして? べき、べきじゃないなんて、サクラさんが決めることじゃない! 私が決めることよ!」


 誰と一緒に居たいのか。それは本人が決めることで、他人にとやかく言われることじゃない。サクラさんが私たちと一緒に居たいとそう言ってくれるのなら、異食いの穴になんて行かなくて良い。痛い思い、辛い思いなんてしなくて良いの。


「サクラさん、ずっと私たちと一緒に居ましょう!」


 想いが届くと信じて差し出した私の手を、それでも、サクラさんはやんわりと手で払い退けた。優しく、それでいて、確かな拒絶だ。


「……ごめん。じゃあ言い方を変えるね――」


 この時なってようやく、サクラさんは顔を上げる。その表情は、笑顔。だけど、いつもの彼女が見せる快活で、はつらつとしたものじゃない。何かを諦めるような、痛みに満ちた笑顔のように、私には見えた。


「――わたしは、ひぃちゃんのそばに居たくない。だから、あっちに……。地球に帰らないといけないんだ」

「そんな……っ!」


 さっき、確かにサクラさんは言ったわ。離れ離れになりたくないって。なのに、すぐに反対のことを言う。声や表情から推測するなら、どちらが本心かなんて誰の目にも明らかなのに。


「ど、どうして? どうしてそんな私でもわかる嘘を言うのよ?!」

「噓じゃない! これもわたしの本心なの!」


 2人して涙を流して、見つめあう。このまま感情的に口論するだけじゃ、いつまでたっても平行線だわ。サクラさんの本心なんて、聞けっこない。長続きはしない怒りという感情が引いた後の冷静になった頭を働かせて、私はサクラさんの心を隠しているだろう言葉を追求することにした。


「私のそばに居るべきじゃないって、どういうこと?」

「……言いたくない」


 目を逸らして、唇を尖らせるサクラさん。普段の私なら、踏み込むべきじゃないって自分に言い聞かせて「そう」と流していたところでしょう。だけど、いま、この時を逃せば、もう二度と彼女の本心を聞くことなんてできないかもしれない。


「どうして言いたくないの?」

「嫌だから」

「馬鹿言わないで。私は理由を聞いているの」

「わたしに答える義務なんて、ないもん」


 もん、だなんていう子供のような言葉遣い。それは、彼女が意固地になっている時の言動だと、私はこれまでの付き合いで知っている。その頑なな態度の奥にある感情こそが、私の聞きたいサクラさんの本心なんじゃないかしら。


 ――だったら!


 私は“あの時”からずっと温存していたあの権利を、今こそ行使することにした。


「……そう。じゃあ『何でも言うことを聞く券』を使わせてもらうわ」

「なんでも、いうことをきくけん?」


 なにそれ、と言わんばかりに私を見るサクラさん。


「パリの収穫での勝負……。まさか忘れていないわよね?」

「……あっ」


 マヌケな声を漏らして、まさに今思い出したという様子。私はあの権利を得たときからずっと、この時のために使おうと温存していたの。言ってしまえば、とっておき。これを使って、私はサクラさんが必死に隠そうとしている想いを聞き出すことにする。

 ベッドの上で膝立ちになり、腰に手を当てて。


「ふんっ。もちろん、ただの口約束だもの。約束を反故ほごにしてもらっても構わないわ。でもあなたが約束を軽んじたその瞬間、私たちの間にある全ての約束も、つながりも、絆も、言葉も。全てが薄っぺらくなること、理解しておくことね」


 私は、ベッドに両手をついた状態のサクラさんを見下ろす。……なんて。表面上は強気で言っているけれど、私の心は恐怖で震えている。膝立ちを維持するのも、かなり辛い。

 さっきも言ったように、話したくないことをわざわざ話させる〈自白〉のスキルのような強制力なんて、どこにもない。本当に、ただの口約束でしかないの。じゃあ、約束をする上で大切になってくることと言えば、信頼。一緒に積み上げてきた時間と信頼が、約束に「義理」と言う名前の強制力を持たせてくれる。


 ――つまり、もしサクラさんがこの約束を反故にしたとするなら……。


 私は、サクラさんの“大切”になれなかったということ。彼女の信頼や親愛を勝ち取れなかったわたし自身の責任だわ。職業ジョブという繋がりがあったメイドさんの時とは違う。正真正銘、0から積み上げた、強固な関係があるのかどうか。そんな賭けだった。


「サクラさん、お願いだから聞かせて? どうしてあなたは私の側に居たくないの? 居るべきじゃないって、そんなことを言うの?」


 私とサクラさんとで積み上げて来た大切な「時間思い出」を信じて問いかけた私に、サクラさんは再び、顔を伏せる。だけどそれはこれまでと違って、逃げるような雰囲気をまとった動作じゃない。自分を奮い立たせるための仕草のように見える。

 私も膝立ちを止めて、サクラさんのつむじを見つめる。結局、サクラさんが顔を上げることは、無かったけれど……。


「わたし、さ……」


 言葉を選ぶように、たどたどしく、震える声で。だけど、勇気をもって。自身の負い目を……罪を告白した。


「わたし、雫を殺しちゃったんだ」

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