○『9月11日』

「お帰りなさいませ、お嬢様。お待ちしておりました」


 今朝は怒っていたはずなのに、帰宅した私をいつもと変わらない様子で迎えてくれたメイドさん。


「え、ええ。ただいま。……あれ、メイドさん。怒っていないの?」


 外靴から上履きへと履き替えながら、慎重にメイドさんに聞いてみる。


「……? いえ、怒ってなど居ませんよ?」


 そう答えるメイドさんは、本当に何も気にしていないように見える。……あれ、もしかして私の勘違い?


「本当? 今朝、何かピリピリしていなかった?」

「朝、ですか? ……あぁ、なるほど。そう言えば、忘れん坊なお嬢様にわたくしは腹を立てていたのでした」

「あ、うぅ……。やっぱりそうよね。私が何か怒らせてしまったのなら、ごめんなさい」


 思い出したように眉を逆立てたメイドさんに、私は胸に手を当てて、謝意を示す。


「……理由も分からずに、謝るのですか?」

「ええ。頑張って色々考えてみたのだけど、今日がメイドさんにとって何の日なのか、思い出せなかった。これは、そのことに対する、謝罪よ」


 あなたの“大切”を覚えていなかった。そのことに対する謝罪であることを口にした私に、だけど、メイドさんは怒りの表情から一転。翡翠色の瞳を覗かせて、少し驚いたような顔を見せた。そして、


「なるほど……。わたくしにとって大切な日だと考えるから、お嬢様は今日が何の日か分からなかったのですね」


 と1人で何かを納得してしまった。


「メイドさんにとって大切な日じゃないのね。じゃあ、やっぱり、フェイさんにとって大切な日だったとか?」


 いずれにしても、何も思い出せない私。申し訳なさで、メイドさんの顔が見られない。視線をさまよわせ、結局いつものようにうつむくことしか出来ない。そんな私の耳に聞こえてきたのは、メイドさんの怒りの声でも、呆れる声でもなくって。


「ふふ、うふふふっ!」


 笑い声だった。予想外の反応に、私は思わず顔を上げる。そこには見惚れるくらい可愛らしい顔で笑うメイドさんの姿があった。


「え、えぇっと……。メイドさん?」

「い、いえ、失礼しました。なるほど、自分を軽んじ、その分他者を重んじる。まさにお嬢様らしい理由で、思わず笑ってしまいました」

「……? それって、どういう……」


 そしてひとしきり笑い終えると、メイドさんは自身の目端に浮かんでいた涙を白い手袋で覆われた指で払う。そして、そのまま、状況を飲み込めずにいる私の手を優しくとった。


「め、メイドさん? 急にどうしたの?」

「ふふっ、らしくないですよ、お嬢様。あなたなら、匂いで気づいてしまうかと思ったのですが?」

「匂い……?」


 緊張のせいで匂いどころではなかったけれど、改めて鼻をヒクヒクさせてみると……。


「晩ごはん……これは私の好きなブルのステーキの匂いと……。スープは今が旬のナールを使ったものね。それに、ほんのりと焼き菓子の匂いも……。多分、牛乳を使ったクリームのケーキね?」

「正解です♪ それでは、参りましょうか、スカーレットお嬢様」


 そう言って、メイドさん柔らかく私の手を引っ張っていく。


「行く? どこへ……?」

「決まっています。日々を一生懸命に生きるあなたをしたい、祝いたいと願う。そんな温かな人たちが待つ場所です」

「私を、祝う……? それって、どういう――」


 メイドさんが私の手を引いて、廊下の突き当り……リビングダイニングと玄関とを仕切る扉を開く。同時に、パンッパンッと何かが弾けるような音が何度か聞こえて来て――。


「『「「お誕生日ククルクゥクおめでとうククルクゥ(ございます)!」」」』」


 メイドさん、ポトト、サクラさん、リアさん、ユリュさん。そして、お手伝いさん達。みんなの嬉しそうな声が、居間の出入り口で固まったまま動けないでいる私に浴びせられたのだった。




「おたんじょうび……? おたん、じょうび……。あっ、お誕生日!」


 時間をかけてみんなの言葉を噛み砕く。誕生日。そう言われてようやく、今日、9月の11日が私の誕生日だということに気付く。


「そっか……。今日、だったのね」

「はい。今日、9月11日はお嬢様がこのフォルテンシアで目覚めてから1年の節目になります」


 たった1年。されど、1年。目覚めてからずっと、ずっと。メイドさんを始めとするみんなに支えられた1年でもあった。死滅神だから、いつ殺されてもおかしくない。赤竜、ケーナさん、ヘズデック、金属の蛇……。最近だと、シャーレイ。色々やらかして、死にかけたことも数えきれないけれど、それでもこうして、1年間無事に生きてきた。そして、何より嬉しいのが……。


「ここに居るみんなが、私がこの世に生まれたことを祝って、喜んでくれている……?」


 メイドさんが、ポトトが。サクラさん、リアさん、ユリュさん。普段はお礼を言ってばかりで、ほとんど接点のないお手伝いさん達まで。みんなが笑顔で、私のことを祝ってくれている。


 ――こんな、私を。


 失敗ばかりで、成功してもすぐに調子に乗る。力もないくせに、一丁前に正義感だけは持ってしまっていて、考え無しに突っ込んではみんなを巻き込む。こんな、迷惑ばかりかけて、「ありがとう」の言葉以外ではろくに恩返しも出来ない。そんな、どうしようもなく弱くて、ちっぽけな私を。


『クルールッル ククルルゥ!』

「おめでとう、ひぃちゃん!」

「おめでとうございます、スカーレット様」

「お、おめでとうございます、死滅神!」


 みんなが、祝福してくれる。彼女たちが向けてくれる言葉が、笑顔が。私には、一緒に居て良かったと、そう言ってくれているように思えて。


「あ、あれ……?」


 気付けば、視界が涙でぼやけていた。町を歩けば遠巻きにされ、時にはにらまれ、石すら投げられて。最近は公平に命に接するためのすべを考えて、感情を失くそうかと思っていた。直近だと、ハグルさんの純粋な好意を受け止めきれなくて、本当は痛む胸を見ないようにして、考えることを放棄して、逃げ出そうとして。あまつさえ、心なんていらない。そんなことを言って、取り返しのつかないことをしようとしていた。

 だけど。……だけど。


 ――そんなわけ、ない……っ!


 今こうして湧き上がる想いを。受け止めきれずに溢れる涙を。この温もりをくれるみんなに対する感謝を感じるための「心」を、失って良いはずがない。相手の想いを受け取る機構。それが「心」なのだと、改めて思い知らされる。例えホムンクルスである私が持っているこの心が、人が持つ心の模造品なのだとしても。ちょっとしたことで悩んで、苦しくなってしまう、紅茶カップくらいちっぽけな心だったとしても。

 私は、折角もらった他者と共感する機構を捨て去るわけにはいかない。捨て去っては、いけないのね。


「ぐすっ……。ど、どうしよう。涙が、止まらないわ……っ」


 私の、紅茶カップくらいしかない心が受け取るには、あまりに大きすぎる祝福。温かさをみんなが次々に注いでくれるせいで、全然涙が止まってくれない。こんな情けない姿、みんなの前では見せるべきじゃないのに。上に立つ者として、凛として、堂々としていないといけないのに。


『ルッ ルルッ ル~ ル~ル~♪』


 祝ってくれるポトトの歌が。


「ほんと、ひぃちゃんは泣き虫だなぁ……」


 サクラさんの優しい声が。


「スカーレット様。リアが涙をお拭きします」


 リアさんの気遣いが。


「し、死滅神様?! あ、あわわ……」


 ユリュさんの心配が。

 そのどれもが、温かくて、温かくて。すぐに心の紅茶カップが溢れてしまう。これまでもたくさん苦しい思いをしてきた。だけど、今は……。


 ――幸せ過ぎて、つらい……っ!


 痛む胸を抑えてみるけれど全然苦しさは消えてくれなくて、涙も全然止まらない。むしろ涙の量は自分でも信じられないくらいに増えてしまって、気付けば嗚咽おえつも漏れてしまっている。


「ぐすっ……えっぐっ……」

「お嬢様は常日頃から『自分なんか』と。そうおっしゃいますが。これを見てもそうおっしゃるのであれば、いよいよ救いようがなくなってしまいます」


 そう言って、私に小さなタオルを差し出してくれるメイドさん。だけど、みんが溢れさせた温もりを受け止めるには、そんな小さな布切れじゃ全然足りない。私はすぐそばに居るメイドさんに駆け寄って彼女の大きな前掛けを借りることにする。

 顔をうずめて涙を止めようとする私を、メイドさんが止めることはない。常であれば「情けない」なんてお小言だったり、「可愛らしいですね?」なんて揶揄やゆする言葉だったりを飛ばしてくるメイドさん。だけど今日は、優しい手つきで私の頭を撫でて、優しい声色で言うの。


「お誕生日、おめでとうございます、レティ。生まれて来てくれて……。わたくしのそばに居て下さって、ありがとうございます」


 一緒に居たいと思っていたのが私だけではないと。こんな足りないだらけの私でも、彼女のそばに居ても良いのだと、そう言ってくれる。

 だけど、自分でもどうしようないくらいに卑屈を自覚している私は、今、メイドさんが言ってくれた言葉を素直に信じられない。空耳なんじゃないか。妄想なんじゃないか。そう思って、涙で霞む視界でメイドさんの顔を見上げる。すると、目を細めて私を見下ろす翡翠色の瞳と目が合う。


「どうかこれからも、すこやかに。あなたらしく、努めてくださいね、スカーレットお嬢様?」

「メイドさん……。メイド、さん……っ! うわぁぁぁ!」


 胸元に居る私を見て、優しく笑いかけてくれるメイドさん。彼女のお日様の匂いに、私は全力で顔をうずめる。もう我慢はしない。嬉しい涙、感謝の涙は、きちんと流していきたいから。……だけど少し恥ずかしいから、こうして顔は隠させてもらうけれど。


『クルールッル?!』

「あ~っ! メイドさんがまた良いところ持ってった! ひぃちゃん、サクラお姉ちゃんの胸も空いてるよ~!」

「メイドさんばかりはダメです。リアも、スカーレット様を甘やかします。ついでに、ご奉仕です」

「え、えとえと……。じゃあ、はスカーレットお姉ちゃんの抱き枕になりましゅ!」


 お世辞だなんて、考えない。全部私のためなのだと、都合よく考えることにする。だって人の好意を受け取れないような、そんな“心無い人”にはなりたくないから。


「みんな、ぐすっ。みんな……。ありがとう……っ!」


 とにかく、今はただ。みんながくれる、私の身には余る優しさを素直に受け取って、甘えることにした。

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