○待ち望んでいたもの

 怖い、怖い、怖い、怖い!


 研究所の庭を走る私の心は、恐怖一色に染まっていた。何度も転びそうになりながら、見晴らしの良くなった庭を駆ける。どんよりと曇った空からはふんわりとした雪が落ちて来ていて、私が吐き出す白い息と混じり合う。

 やっとの思いで柵の扉にたどり着く。急いで開けようとするけど、


「嘘っ?! 開かない?!」


 いつもは開いていた扉の鍵は、今日に限って閉まっている。しかも鎖をつかってまで厳重に閉じられていた。ケーナさんの口ぶりからして、最初から私をここに招くために、閉じ込めるために声をかけたのでしょう。

 初めてケーナさんに会う直前に感じた“波”――恐らくスキル。あれで私がホムンクルスだと露見したわけだけど、誰彼構わず使用するはずがない。最初から目星をつけられていたんだわ。

 とにかく今は、どうにかして外に出ないと。押したり引いたりすると柵自体は動くのだけど、壊すことはできない。柵に絡んだ鎖が音を立てるだけ。


「誰かっ! 誰か居ない?!」


 ここに来た時とは反対。敷地の中から外に向けて叫ぶ。だけど、研究所は町の中心から離れた閑散かんさんとした場所にある。当然、こんな場所に用がある人なんかいなくて、昼間でも人通りがほとんどないことをここ数日の庭仕事で知っていた。

 研究所を囲う石壁は頑丈で、高さも3mはありそう。飛び越えるなんてできないし……。こうしているうちにも、きっと、ケーナさんが迫ってきているはず。もし追いつかれてしまえば、折角私を逃がしてくれたイチさんの頑張りも無駄になってしまう。


「誰か……、誰かぁ……」


 冷たい柵を握る手はとうに感覚が無くなっていて、赤くなっている。“向こう側”が見えるのに、どうやっても行くことが出来ない。ふと、奴隷として売られていた子供たちを思い出す。たとえ労働・性奴隷としてでも売られる前よりは良い生活を保障される。形は変わってしまうけれど、幸せな生活が出来る。それが奴隷だと思っていたのに。ケーナさんのように、物のように扱われることが多いの? 1つ1つ、大切な命だと分かっていれば、そんなことにならないはずなのに。


 ――どうして命を大切にしないの?


「どうして……っ」


 こみ上げる無力感が、もとより限界だった私の足腰から力を奪った。柵に手をかけたまま、冷たい地面に座り込む。研究所に上着を置いて来てしまったから、今の私は黒の肌着とスカートに長袖1枚という格好。雪の降る11月末には、余りにも頼りない装備だった。

 寒い。イチさんはいつもこんな思いをして、庭仕事をしていたのかしら。ケーナさんからもらった数少ない服を大切に着回して。なのに、ケーナさんはイチさんを物としか扱わなくて。

 そんなの、あんまりじゃ――。


「おや、お嬢様。こんなところで何を?」

「……メイドさん?」


 柵の向こう。見上げたそこに、メイドさんが居た。今日も優雅に淡い緑色のワンピースを揺らしている。手に何も持っていなようだし、何をしていたのかしら。


「メイドさん? ど、どうしてここに?」

「それはわたくしの言葉です。お仕事はどうされたのですか? お嬢様が意気揚々と引き受けた、怪しげな施設でのお仕事は。まさか、そうして地べたに座ることがお仕事なのですか?」


 相変わらず少しいじわるな言い方で、私を見下ろしているメイドさん。その顔にはあざけりが浮かんでいるけれど、声には別の……どこか安心したような雰囲気があった。

 ムッとするし、言い返したい気持ちもあるけれど、なぜかしら。びっくりするくらい、ほっとしてしまっている私が居る。気づけば、目頭が熱くなっていた。


「……失礼しました。少し意地悪が過ぎましたね。今はひとまず」


 メイドさんが〈収納〉からナイフを取り出す。そして、目に見えない速さで私とメイドさんを隔てる柵扉に向かって振るった。だけど、火花と嫌な音を立てて弾かれる。


「むっ……生意気ですね♪」


 そう言って今度は翡翠色の刀身を持つ、美しいナイフを取り出した。刃渡りは40㎝くらい。は深い青色で、メイドさんの髪色と同じ白金色の装飾が施されている。ひと目でメイドさんのために造られたものだと分かった。


「それって、赤竜を倒した時にも使っていたやつよね……?」

「はい。こちらはご主人様から頂いた、何よりも大切な物です。ですが、お嬢様のために振るうのであれば、ご主人様も許して下さるでしょう」


 少し懐かしむように刀身を撫でた後、再度メイドさんがナイフを振るう。耳鳴りのような甲高い音がしたかと思うと、鎖が地面に落ちて柵扉が開く。私1人だとどうすることも出来なかった“向こう側”への扉を、壊してくれる。そして、


「帰りましょう、お嬢様。そこはあなたがいるべき場所ではありません」


 ひだまりのような安心感のある笑顔でそう言って、白い手袋に包まれた手を差し伸べてくれた。

 たったそれだけで、凍えて、弱り切った私の体に熱が灯り、力が入る。


「……おや、また泣いているのですか、お嬢様?」

「泣いて、ないっ」

「んふ♪ かしこまりました」


 からかって来るメイドさんの手を取って、立ち上がる。……そう、私は死滅神。みんなが恐れる死神。いつまでも、こんなところで立ち止まってはいられない。

 目元にあった雫を拭いて、研究所の敷地を出る。少し汚れてしまった私の服をはたきながら、


「まずは一度宿に戻ってサクラ様と合流して……」


 そう言っていたメイドさんの声が不意に遠くなる。体中が熱くなり、手足の感覚がおぼつかない。この感覚は、ある意味で今の私が一番待ち望んでいたもの。職業衝動。その前兆。これで、ようやく。……そう、ようやくね。


――あの化け物ケーナさんを殺す理由ができる。


そう思っていたのに。


『イチを殺せ』


 フォルテンシアが告げた殺害対象は、思いもよらない人物だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る