神ノ箱庭
SouForest
第一部~ゲームの世界
第1話 転送!?それとも転生?
カナデは自分を抱き上げた女性を小さな瞳でじっと見つめた。頭を優しく撫でる彼女の慈愛に満ちた微笑みは心をふんわりと暖かくさせる。それなのに彼女が誰なのかまったくもって分からない。不思議に思いながら手繰った記憶の糸の先はーーぷっつりと切れている……。
そんな馬鹿な! 今までの人生は何だったんだ?
なぜそんなことを思ったのか、それすらも理解できなかった。手もこんなに小さくなかったはずだし、縫いぐるみのように抱えられるほど幼くなかったはずだ。混乱が混乱を極め、焦りが募る。しかし脳裏に新しい記憶の糸を結びつける白い手が浮かんだ途端ーー。
モノクロだったカナデの世界が鮮やかに彩られた。
緑が眩しい巨木の周りには湖のような青さの花が咲き乱れている。白いふわふわの生き物が宝石のように輝く花の隙間からぴょこぴょこ覗き、見上げた空には6つの虹がかかっていた。見惚れていると耳の長い何かが風のように駆け抜け、針のような新月から飛び出るように現れた黄金の鷲が巨木の枝に止まった。
思わずカナデは『わぁ』と感嘆の声をあげた。何もかも眩しくて美しい。太陽の日差しを受けてキラキラと輝く女性の金髪もーー。
「おかあ……さん? 」
「カナデ、もう心配しなくていいのよ。
「ずっと? 」
「ええ、ずっとよ」
その言葉にカナデは嬉しそうな顔をしたがすぐに悲し気な表情を浮かべた。ポロポロと涙を零している。
「おかあさん、ぼくの本がどっかにいっちゃったの。とっても、とってもだいじにしてたのに……」
「……大丈夫、そのうち帰ってくるわ。カナデも本と同じように、この世界のありとあらゆる場所を
「本はおさんぽにいっちゃったの? 」
「ふふふ。もしかしたら、どこかでバッタリ……会えるかも? それとーー」
「それと? 」
「その本には新しい物語が書き足されている気がするわ」
「たびのおはなし! 」
今泣いた烏がもう笑うとはこれ如何に。さっきまでグスっていたカナデは嬉しそうにキラキラと目を輝かせた。
奏は真っ暗な室内でうっすらと目を開けた。パンパンと叩かれたおでこやら頬やらがじんわりと痛い。爪でひっかかれたのか、少しだけ血が滲んでいる。すぐに起きる気になれず、ベット替わりの黒革製ソファでごろりと寝返りを打った。
今何時か分からないが……執拗に起こそうとしているところをみると、たぶんリアル時間の朝なのだろう。しかしながら起きろと言われても、眠気が取れないのだから目が明かないのは仕方ないことだ。
寝息を立てながら夢の中でそんな風に言い訳をしていると、それを許さないと言わんばかりに、今度は頭に猫パンチを食らった。
「主さま、いい加減に起きるにゃ! 」
「うう~ん……。あと5分……」
「だめにゃ! 規則正しい生活習慣を身につけないとーー」
「僕はマリモになりました」
「にゃにゃ? 」
「魔王はスルーして湖底でゆらゆら揺られます……。ぐぅ……」
猫は錆色の毛をぶわっと逆立てるとーー奏の耳にカプリと嚙みついた。疎ましそうに手で押しのけられてムカッとしたらしい。悲鳴を上げて飛び起きた奏は眠そうに目を擦っている。
「ビビ、噛みつくのは勘弁してよ……」
「最終手段を取らせたのは主さまにゃ」
「折角、楽しい夢を見てたのになぁ」
ノートパソコンには夕暮れ時の街が映っている。街灯が次第に明るくなり、宵の明星が輝く茜色の空がゆっくりと憂いに満ちた青に変化していた。
「ビビ、夕方だよ? 」
「ゲームの世界の1日は、リアルでは2時間って言ったの忘れたにゃ? 今は朝の7時にゃ! 」
「外が暗いと朝って気にならないよ。そこんとこ修正できないの? 」
「それは……健一さまに相談しないと無理にゃ」
「そっかぁ。ねぇビビ、今日はお父さん来るかな? 」
「今日は……う、うにゃぁん……」
ビビは言葉を濁した。ふさふさのしっぽは申し訳なさそうにしょんぼりとしている。実はついさっき、健一から仕事が忙しくて会いに行く時間が取れないという『ごめんねメール』を受け取ったばかりだった。寂しそうにしている息子に見せるのは流石に酷である。
がっかりさせないようにビビは言い訳を考えていたが、奏は何となく察したようだった。膝を立てて、背中を丸めている。しばらくすると、錆猫ビビのノルウェージャンフォレストキャットのような毛並みを静かに撫で始めた。
「入院している時は……毎日のように、会いに来てくれてたのにな」
中学に上がって間もない頃のある朝、奏は玄関でペタンと座り込んだ。立とうとしても足に力が入らない。驚いた父親に抱えられて病院に行くと、すぐさま入院生活を強いられることになった。
病名はプロミネジア。父親の親友だという医者によると、全身の筋肉が徐々に衰え、細胞が石化し……最終的にはぼろぼろに砕けて砂になってしまうという病気らしい。指定難病ゆえに治療方法は確立されていなかったが、幸いなことに進行は非常に緩やかだった。
あと何年かすれば有効な薬が出るーー。奏はそう励まされながらも、少しずつ身体の部位が消失していく恐怖に怯えた。そしてとうとう……18歳を過ぎた頃にはベットから起き上がることも、声を出すことも出来なくなってしまった。
生きているのか、そうでないのか分からない。天井だけを見つめる鬱々とした日々……奏は気が狂いそうだった。しかしそんな奏を父親の言葉が救った。
「生きることを諦めるな。父さんが絶対にお前を救ってやる」
大きな手で頬を包まれ、優しく撫でられたことを思い出すと、今でも涙が零れそうになる。奏は父親に希望を託し、未来を夢見た。
病状は年を重ねることに深刻になっていった。動かなくなった手足は砂に変わり果てた。全身の皮膚は庵治石のようになり、針で突かれたとしても何も感じない。視力はかろうじてかすかに残っていたが、ぼんやりする白い世界しか見えず、耳はなんとなく音が聞こえる程度だ。
……死神が手招きをしている。死を悟った奏は父親の温かい手を感じながら目を閉じた。
シュコーシュコーと呼吸器が響く病室で、健一はベットに横たわる
溢れそうになる涙をグッと抑え……健一は愛する息子ーー奏ーーの顔をじっと見つめた。薄く開いた目は生気を失い、空間を彷徨っている。今にも命の火が消えそうだ……。健一は左手でシャツの胸元ををぎゅっと掴んだ。
「奏、父さんが助けてやるからな」
健一はベッド脇のテーブルにボストンバッグから取り出した黒いノートパソコンを置いた。しばらくの間、キーボードをカチャカチャと鳴らしていたが、VRシンクロヘッドセットのUSBコードをノートパソコンに繋ぐと、奏の頭に自分の額を軽く乗せて目を閉じた……。
「……どうか成功しますように」
静かに目を閉じた奏は微笑んでいるように見えた。聴力はほとんどないと聞いていたが、もしかしたら声が届いているのかもしれない。健一はゆっくりと……VRシンクロヘッドセットを愛する息子の頭に被せた。
健一の瞳に『転送しますか? 』というウィンドウが表示されたノートパソコンが映った。求められるままに暗証番号を軽やかに叩いた指はエンターキーの上でピタリと止まっている。
もしも失敗したら、奏はどうなってしまうんだ……。
何を言っている早くイエスボタンを押せ!
駄目だ……。私には無理だ……。
奏を救うために今まで頑張ってきたんじゃないのか?
この方法は正解なのか? 息子の運命を私が決めていいのか?
ここまで来て迷う必要がある!!
もう1人の自分と葛藤し終えると、健一は大きく息を吸った。そしてカチっというボタンを押す音を耳にしてすぐに奏を確認したのだがーー。予想に反して何も変化がない。ファンタジー的な眩い光やキラキラのエフェクトもなければ、魔法使いや妖精のジャジャーン登場! なんて事もだ。
静かな時間は……次第に健一を絶望の淵に追い詰めていった。
「そんな……駄目だったのか? 奏、まだ駄目だ、まだ逝かないでくれ……」
奏の唇がかすかに動いた。『僕は大丈夫だよ。お父さん気にしないで』そう言ってるかのようだった。健一は膝から崩れ落ち……咽び泣いた。
「すまない、すまない奏……。すぐにプログラムを見直して修正をーー。いや、大丈夫だ心配するな。今からやればまだ間に合うはずだ。もう少しだけ、もう少しだけ頑張ってくれ。次こそは絶対に、父さんが奏をデジタル世界に送ってーー」
ふと、鈴が転がる音が聞こえた気がして、健一は顔を上げた。チリンという音が奏の身体から聞こえるーー。
「これはまさか……」
奏の首に浮かんだ数字を見た健一は目を大きく見開いた。数字が小さいため分かりにくいが、ゆっくりと静かに……奏の肉体は0と1に変化している。心から待ち望んだデジタル化現象である。健一のメンタルはどん底から急上昇し、狂喜乱舞ラインを越えるとーー天空におわす女神に頭を垂れた。
「あぁ……これで奏は、私の大事な息子は救われる」
0と1の数字になった奏はVRシンクロヘッドセットに吸い込まれるように消えていった……。ベットにはパジャマが取り残されている……。感極まって泣きながらも、健一は嬉しそうに微笑んだ。
「奏……新しい世界で幸せになれるように祈ってるよ」
あの時、あの瞬間に『神ノ箱庭』に転送されなかったら、死神の手を取る羽目になっていたかもしれない。そう思うと背中に冷たいものが走った。奏は耳の奥に残る優しい父の声を思い浮かべ、逃げないように両手で覆った。
「怖くない、怖くない……。僕にはお父さんがいる……」
「主さま? 何してるにゃ? 」
「あっ、ビビ。えっと、これはその……。あ、そうだ。お父さんにメール送ろうかなっ」
「待つにゃ! 文面が『会いたい』ばかりだと、恋するアレ的すぎて相手を困らせてしまうにゃ。冒険が楽しかったとか、友達が出来たとかいう息子が父親に喋るような話を書くにゃ」
「ええ~? でも夜になっちゃったし、出かけるのはヤダなぁ……」
「でもだけどだってのDワードは却下にゃっ。さぁ顔を洗ってーーってかこの部屋、生活感なさすぎにゃ。そろそろ住居らしくした方がいいにゃん……」
ビビは奏の頭上から薄暗い四角い部屋を見回した。ど真ん中に小さな木の机が置かれ、その上にはノートパソコンが乗っている。その他はベット代わりにしている黒革ソファーしかないーー。
「殺風景すぎるにゃ……」
「う~ん……。これ以上は思いつかないんだよ」
「他に欲しい家具は無いにゃ? それとソファーじゃなくて、ベットで寝て欲しいにゃ」
「ベットは絶対ヤダ! 入院してる時のことを思い出すから」
「……じゃあ、顔を洗う洗面台を作るにゃ」
「病院にあったものしか知らないからヤダ」
「台所やお風呂とかはどうにゃ? 」
「料理したことないから台所がどんなものか分からないよ。それとお風呂は必要? この間、アイテムを使えば服も身体も綺麗になるって、言ったよね? 」
ああ言えばこう言う奏はイヤイヤ期の幼子のようだ。父親に会えないがゆえに、いじけているようにも見える。そうこうしているうちに……1通のメールが届いた。
「にゃにゃ! 主さまっ、健一さまが、昼の予定がキャンセルになったから、11時に会いに来るっそうだにゃっ! 」
「え!? 本当? じゃあ、街で一緒にご飯食べたいっ。ビビ、メールの返事にそう書いてくれる? 」
「おけにゃっ。ランドルの街の教会で待ち合わせって送るにゃん」
「ビビ、ありがとう! お父さんに会えるの楽しみだなぁ」
「にゃふふふふ」
奏に抱き着かれたビビは嬉しそうに目を細めたーー。
ナビゲータービビの本当の姿は赤い宝石が付いた指輪だ。SF映画に出てくるようなロボット的な聞き取りにくい声をだったため、主である奏の創造力に任せて新しい身体を手に入れた。だがいまだに腑に落ちないという顔をしている。
美しいものを希望したというのに、蓋をあけたら猫だったからだ。しかも会話の語尾には『にゃ』が付く。
「主さま、この語尾はいつ直してくれるにゃ? 」
「可愛いからそのままでいて欲しいな」
「か、かわいい……にゃ? 」
「うん、すっごく可愛いよっ」
そう言われると……満更でもない。やはり可愛いは正義だ。こうやっていつも奏に丸め込まれてしまうため、ビビはだんだんとこのままでいいかと思い始めている。ビビは気恥ずかしさを隠そうとしているのか、可愛らしい頭を奏のわきの下に埋めた。
「ビビ、すっごく幸せで嬉しいんだけどぉ。顔を洗いに街に行こ? 」
「え、なんで洗面台を作らずに、街でするにゃ……」
ビビはぽすっと顔を上げて、不可思議なものを見るような目を奏に向けた。奏の考えがさっぱり分からないと言った感じである。そして『ビビといろんな場所に行きたいから? 』という言い訳がましい返事には説教ーーではなく、目元口元を緩めた。
「そ、そんな事言っても駄目なんだからねっ、にゃん」
「えへへ。ねぇビビ、今まで行ったことがない街に連れて行ってくれる? 」
「もちろんにゃっ。ナビゲータービビにおまかせなのにゃ」
「ありがとうナビゲータービビ! 縮めるとナビビビだねっ。ーー名前、変える? 」
「激しくお断りですにゃ! 」
愉快そうに笑った奏は帽子のように頭に乗っていたビビを腕に抱えると、幸せそうに……柔らかい毛に顔を埋めた。『猫吸い止めるにゃ』と猫パンチを食らうまで。
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