第58話 残酷な現実世界
長い長い時の中で、ある日突然、大神ゼウディアスが創造した箱庭に
しかし、間一髪のところで、大神ゼウディアスの指の隙間に大樹リリディアーヌが枝葉を這わせ……箱庭を守るテラリウムを造った。大神ゼウディアスは涙を零す彼女を憂い、数多の世界線に繋がる次元ポータルを開いたーー。
「来たれ冒険者よ。己が欲望を満たしたければ、蔓延る
スマートフォンをじっと眺めていたパキラこと坂上莉子は憂鬱そうに顔を上げた。VRシンクロゲーム神の箱庭のプロローグムービーを始めて見た時はあんなにワクワクしたというのに、今では……。ブラウザで文字を読んだだけのせいかもしれないが、思ったよりも心に響かない。
電車の心地よい振動に眠気を誘われ目を閉じると……向かいのロングシートから、はしゃぐ息子に手を焼く母親の声が聞こえてきた。
「たーくん、駄目よ。靴を脱いでーー」
「お母さん、見て見て! 小さな富士山が見えるよっ」
男の子はシートに膝を立てて、ガラス窓にへばりついていたが、急に立ち上がって飛び跳ねた。驚愕した母親が止めなさいと言いながら抱き寄せた瞬間に、カシャンと何か床に落ちる音が響いた。男の子はびっくりしたのか母親にしがみついている。
「あっ、すみません……」
「元気な坊やだこと。」
「携帯、壊れてませんか? お怪我はありませんか? 」
「そうねぇ。ーーちゃんと動くから、大丈夫よ」
「本当に申し訳ありません……。たーくん、ごめんなさいして」
「うん……。おばちゃんごめんなさい」
「まぁ、良い子ね。これからは気をつけてね」
「うん」
いつもなら気にも留めない、なんの変哲もない日常。莉子は静かに瞼を開けて、ゲームではなくリアルに自分がいるという感覚に身を任せた。
ーー休みの日にゲームしないなんて、久々かも。それだけ箱庭が楽しかったってことだよねぇ。
莉子はスマートフォンで神の箱庭の公式サイト掲示板を開いた。移動石が使えないという苦情が何件も載っているが……ログアウトできないという情報は見当たらない。
ーーブラウザのニュースにも、神の箱庭に関するものはないなぁ。単なる……バグってことなのかな? それならすぐに修正さて、みんな帰れるように……。
無事にログアウトする友人の姿を想像している最中に、莉子は急に大事なことを思い出したような表情を浮かべた。スマートフォンを両手で握りしめて、ドキドキする心臓を押さえている。
ーー私ってば、推しのリアルご尊顔を拝見できちゃうんじゃないの!? 本名も知っちゃったしぃ。ぐふっ、ぐふふ……。
パキラが現実世界で身体の確認作業をするために住所と名前を教えて欲しい。そうヨハンが言った時、ルードベキアはかなり渋い顔をした。
「マーフにお願いするのは駄目? 」
「残念ながら、マーフさんはリアルが立て込んでいるので、いつログインするか分からないんですよ」
「いや、だけどさ。個人情報は漏らしては駄目だと、ゲーム規約にあるし……」
「ルードベキアさん。そんなこと言ってる場合じゃないですよ。同じように帰れなくなった俺らのためにも、リアルの身体がどうなっているのか確認させて下さい」
こんな感じでヨハンに説得されたルードベキアから、住所氏名をゲットしたパキラはーー必死に暗記した。ゲーム内で使うスマホのメモアプリは現実世界のパソコンやスマートフォンとはリンクしていないからだ。名前を呪文のように唱えた時のルードベキアの顔は今でも忘れられない。
ーーほんのちょっとだけ? 嫌そうな顔してたけど、ツンデレさんだから、仕方ないよねっ。目と目が合えば……すぐに恋の炎が燃え上がる! はずっ。ヨハンさんに感謝感謝だわぁ。
莉子は尽きることが無い妄想に身を委ね……そんな彼女のにやけ顔を向かいのシートに座る男の子不思議そうに見つめた。
「記憶力、悪い方じゃなかったと思ったんだけどなぁ。ーーおかしいなぁ……。マップの見方が悪い? 」
スマートフォンのマップアプリには、目的地へのルートが表示されていた。莉子は何度も確認しながら、辺りをキョロキョロと見渡したが……ルードベキアこと林総司のアパートが見当たらない。
「う~ん。ログアウトしてすぐにメモをとったのに、なぜ見つからぬっ。……あ、マップでアパート名を探せばいいのか。えっと、メゾンド暁、メゾンド暁……。あった。あ~! 場所が……番地がぜんぜんここと違ぁう! もう、あたしったら何やってるんだろ」
実は近所に住んでいるというマキナも訪ねてくれと言われてたため、番地をごちゃ混ぜにして覚えてしまっていたのだ。それにしても、アパート名だけでよく探し当てたものだ。気を取り直した莉子はどうにかこうにかメゾンド暁に辿り着いた。
しかし、表札がない扉前でどうしたものかと悩み、ノックをしようとして、思いとどまるを何度か繰り返している。
「独り暮らしだって言ってたよね……。ノックしても出てこないだろうし、どうしよう……。先にマキナさん
「あの、どちら様でしょうか? 」
ふいに声をかけられて、莉子は思わず『ひゃっ』という声を上げた。慌てて左手で口を押えて振り返るとーー白衣を着た医者らしき男性と看護士姿の女性が立っていた。
「あ、あの、私、怪しい者じゃありませんっ。坂上莉子と言います。実は林総司さんに頼まれてーー」
「総司の知り合いなんですか! 」
「は、はい。ゲームの世界で友達なんです。それで、身体が無事か確かめて欲しいって言われてーー」
「ゲームですって! あの子は……総司は、まだゲームの中にいるんですね? 」
「あの……」
「私は総司の叔父でして、医者をやっている中条と言います。訪問診察のためにここに来たんですよ」
「え? じゃあ、マキナさんの、あ、えっと中条悟さんのお父さんですか? 」
「悟をご存じなのですか? 」
「はい、ゲームの中で、何度かお会いしたことがあります」
「ーー息子は……悟は、総司と一緒にゲームの中にいるんですか? 」
「いえ、えっと……。悟さんは、ログアウトしているって聞いてます」
「ログアウトしている? ……じゃあ、何でーー」
莉子は目頭を押さえている中条を不思議そうに見つめた。いざという時はマキナに助けを求めてくれと、ルードベキアに言われていたのだが、何かあったのだろうかーー。
「あの、悟さんは……」
「……すまないね。診察してくるから、少し待っててもらえるかな」
鍵を開けた部屋に中条が吸い込まれていく様子に、莉子は慌てた。咄嗟にドアノブを掴み、閉まるドアの隙間に足を挟んでいる。
「待ってください! 総司さんに、身体がどうなってたか伝えたいので、私もお願いします! 」
しばらくの間、中条は何か考えるような表情を浮かべていたがーースッとドアを開けた。
「……分かりました。では、どうぞ」
部屋に入った莉子は声を呑んで、持っていたバッグを足元に落とした。総司はVRシンクロヘッドセットを装着したまま、ぐったりと介護ベッドに横たわり、管や点滴に繋がれていた。口元に酸素マスクが取り付けられ、顔の右半分は黒い痣で覆われている。
看護師にパジャマのボタンが外されて露わになった総司の胸にも、黒い痣が広がっていた。莉子は想像すらしていなかった彼の姿に呆然と立ち尽くした。
「この痣は……」
「打撲痕のようにも見えるんだが……よく見ると、痣の表面に0と1の数字のような青い文様が浮き上がっているんだよ。私はVRゲームの影響だと思っているんだ」
「あの、感染症か何かじゃないですよね……」
「それについては調べてーー。総司? 総司! 」
総司の身体が突然、痙攣を起こした。慌てて処置をしようとする中条の眼前で、総司は痣から浮き出た帯状の数字に、ものすごい勢いで身体全体を侵食され始めた。やがて彼は0と1だけで人間を作った3DCGのような姿になり……身体のあちこちが弾けるように消えていったーー。
中条は咄嗟に総司の身体を抱えたが、パジャマだけが腕の中に残った。
「そんな……。お前までいなくなってしまうのか……」
介護ベッドの上に転がったVRシンクロヘッドセットを見た莉子はーーその場に座りこむと、胸元を押さえて嘔吐した。小刻みに身体を震わせ、顔を引きつらせている。
「な、何……? 何で消え……」
「大丈夫ですか? こちらへ」
看護師は総司が消える瞬間を見ていたのにも関わらず、気丈にも莉子を介抱しようと動いていた。中条もすぐに我に返り、莉子に駆け寄った。
「救急車を呼ぼう。ここで少し安静にーー」
「だ、大丈夫です」
すぐにここから離れたい! 莉子の魂がそう叫んだ。妄想から生まれたミニミニパキラも『早く逃げろ、家族が待つ家に帰れ! 』と、大声を出している。震えながらも何とか立ち上がった莉子は、靴を履いてドアに手を伸ばしたがーーはっとしたようにくるりと振り返った。
「あのもしかして、悟さんも消えてしまったんですか? 」
「私の娘が……悟の妹になりますが、目の前で悟が消えたのを、目撃したんです……」
莉子は立ったまま、また吐いてしまった。暗くなっていく視界の中で看護師と中条が何か叫んでいたが、莉子の耳には届かなかった。
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「莉子、大丈夫か? 」
「お父さん、お母さんっ! 」
病院のベッドで両親が来るのを待っていた莉子は泣きながら母親にしがみついた。母親は幼子のように甘える娘の頭を優しく撫でている。
「莉子、大丈夫よ。お母さんたちが来たからね」
「帰りたい……家に帰りたい。お母さん、お父さん、私、家に帰りたい! 」
ほどなくして、入院するのは嫌だと、ごねてごねてごねまくった莉子は帰宅することに相成った。喜び勇んで両親と手を繋ぎ、安堵の笑みを浮かべていた。だが、病院のロビーで中条に呼び止められ、不安気な表情に変わった。
「……中条先生、何でしょうか? 」
「莉子さん、神の箱庭は頻繁にプレイしていますか? 」
「えっと。あ、はい……」
「できれば……しばらくのプレイしない方が良いと思います」
「……はい」
「それと、ご両親にですが、もしも……、もしもの話ですが、お子さんが1日たってもVRゲームの世界から戻ってこなかった場合はーー絶対に、ヘッドセットを頭から外さないで下さい」
「わ、分かりました」
「絶対に、外さないで下さいね。ーー何かあった時はご連絡ください」
中条は念を押すように力強く言った後、3人それぞれに名刺を渡した。母親は心配そうな顔で莉子を見ている。
「莉子、倒れたのはゲームのせいなの? 」
「……違うけど。ゲームはもうしない」
やっと自宅に戻って来た莉子は自室のベッドに転がるVRシンクロヘッドセットをすぐさまクローゼットにしまったーー。しかし、ホッとしたのも束の間、総司が消えたあの瞬間が、突如フラッシュバックした。莉子は震える身体を抱えながら慌てたようにベッドに潜り込み、身体を小さく丸めた。
「あの出来事、スタンピートたちに伝えた方がいいのかな……」
「でも、伝えたら……苦しむかも」
「助けたいけど……人の事よりも自分の事を考えた方が良い? 」
「自分が危険を冒してまで、箱庭にログインする必要ってーー」
莉子は自問自答を繰り返し……ぼろぼろと涙を流しながら答えを出した。
「ごめんなさい、ルードベキアさん。ごめんなさい、ピート。ごめんなさい、みんな……。ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……」
救急車のサイレンが3階建てのアパートの敷地内に止まった。バタバタと慌ただしく救急隊員がストレッチャーを抱えて通路を走り、206号室のチャイムを鳴らした。
「こっちです、その、ぐったりしてて……。それで、変な痣があって……」
「奥ですか? 失礼します」
「や、約束をすっぽかされたと思って、部屋に来たら……こんなーー」
気が動転している若い女性を救急隊員の1人が大丈夫ですよと優しく声をかけた。ストレッチャーを抱えたもう1人の救急隊員が1LDKの部屋の奥へ進み、布団の上でぐったりしている男性の脈を取り息をしているか確かめると、すぐに人工呼吸と心臓マッサージを始めた。
「AED下さい! 」
「え? あっくん? うそ、あっくん!? 」
「彼女さん、ごめんなさい、ちょっと下がってもらえますか。危ないですよ」
「あっくん! あっくん! 」
電極パッドの取り付け作業をしていた救急隊員の足に何かが当たった。VRシンクロヘッドセットが絨毯の上に転がっている。救急隊員は気に留めることなく、それを端に避けーーAEDのボタンを押した。
この日の夜はあちこちの街で救急車のサイレンの音が響き渡っていた。いつも以上にどこの病院も慌ただしい状況になっているようだった。医師である中条も近所付き合いがある顔見知りからの直通電話を受けていた。
「息子さんが倒れているんですね? え、身体に黒い痣が? ーーもしかして、VRシンクロヘッドセットをかぶってますか? そうなら、取らないでください。絶対ですよ! すぐに伺いますから」
急いで連絡を受けた家へ駆けつけたが、患者はすでに死亡していた。身体には総司と同じような黒い痣が全身に広がっている。彼の母親が泣き叫ぶ声を聞きながら、中条はVRシンクロヘッドセットを手に取り、気丈に振る舞う彼の父親に話しかけた。
「あの、新藤さん。これを外したのはいつでしょうか? 」
「せ、先生んとこに電話をする前に……。いけなかったでしょうか? 」
息子が言った通りだと中条は悟った。VRシンクロヘッドセットを外してはいけない。中条は駆け付けた警察官にこの事を伝えたが、後日ニュースで注意喚起をされることもなく、事件として取り上げられることもなかった。
ゲーム会社の方はというと、電話をたらい回しにされた挙句、折り返すと言ったっきりで音沙汰がない。なぜこんな危険なものが放置されているのだろうか。憤りを感じた中条はスマートフォンを力強く握りしめた……。
この日の夜、倒れたプレイヤーの近親者の中には、VRゲームマニュアルをしっかりと読んでから対応した者もいた。そのおかげで何人かは、ヘッドセットを被ったまま……現実世界でひっそりと生き残った。
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