夏の日。
花江鈴架
最高の気分だった。心がゆっくりと満たされてゆく。それはまるで砂時計の砂がゆっくりと解けて落ちてゆく時のような、はたまた波打ち際に木の枝で描いた拙い絵が波に攫われてゆく時のような。初めてのようにも、遠い昔の記憶のようにも感じる不思議な感覚。
風が頬に心地よい日だった。
カレンダーを捲るごとに夏めいてゆく窓の外の景色を見ながら、りんごジュースのコップに手を伸ばす。コップは結露していて机に丸い跡を残した。
風の音を聴きながら窓の下の庭に目を落とすと、今年もマリーゴールドが綺麗に咲いたようだった。花言葉はなんだったかな。まぁ、どうでもいいか。
目を覚ます。小さな欠伸をしてカーテンを少し開く。シャーッという音。起き抜けの目に太陽の光が刺さる。ニアは反射的に目を閉じた。
日ごとに夏めくこの景色を見ていると、自分だけどこか取り残されているように感じる。まだ朝なのに外はもう暖かかった。
学校につくとクラスメートの机に一輪の花が刺さった花瓶が置いてあった。窓際の後ろから三番目の席。
「あ、おはよう」
早くから学校に来て談笑していたグループのうちの一人がニアに声をかける。いつもはニアを含めた六人でよく話していたのに今日はひとり、足りない。
「あれ、どうしたの」
机の上の花瓶を指さすと四人はかすかに振り返った。
「あぁ、あれ。昨日殺されたらしいよ、あの子。」
キノウ、コロサレタラシイヨ。一瞬何を言ったのか聞き取れなかった。あまりにも、平然としているから。人が死んだならもっと怖がったり、昨日のいつ頃にどこで具体的に何があったのかとか、探ったりするのが普通なのだと思っていた。
「怖くないの?犯人は誰だとか。どうしてこうなったのかとか。」
四人は「うーん」と首を傾げる。
「私、サスペンスには興味無いからなぁ。」
困ったように眉を下げながら、彼女はそう言った。他の三人も同調して苦笑する。鳩尾の辺りに生まれた違和感が不信感と一緒に膨らんでゆく。嫌な汗が出る。ひらりと揺れるカーテンの内側で昨日と同じ一日が流れていた。
それより後はニアが何と言おうと、放課後になっても四人の反応は変わらなかった。
「っていうか、どうしてそんなに気にするわけ?もしかして、ニアが殺した?」
「私は殺してない。会っただけ」
冗談だって、と笑う三人。その後ろで美化委員だから萎れた花を棄てていいかと訊く生徒がいた。教室は自分以外、異様なまでに無関心で、その全てにニアは拒否反応を示した。そういえば昨日まで美化委員は亡くなったあの子だった。
空いてしまった穴はすぐ他の誰かによって補完される。生きるというサイクルはそういうものだ、と言ってしまえばそうだけれど、それではあまりに残酷な気がした。
放課後、いつもの駐輪場。何故か同じところに停めないと気が済まなかった。自分だけのこだわり。それを今まで理解してくれた友達は本当に少なかったけれど。
水筒のお茶を一口、口に含んで鍵を自転車に差し込む。錆びかけた鍵穴。鍵につけた小さなクマのキーホルダー。これは確か誰かに貰ったものだ。誰だったかは思い出せないけれど。
鍵を回そうと力を込めた瞬間に、後ろから声がした。
「ねぇ。」
いつも一緒のグループで話している彼女。そういえば今日はやけに無口だった。
「なぁに?」
ニアが笑うと彼女は表情を強ばらせた。胸の奥の違和感。何かに喩えようとも言葉は浮かばない。ただ漠然とした、嫌な感じ。
一息ついてから、彼女は口を開いた。にあもそれをじっときいていた。
最終下校時刻はとうに過ぎ、二人だけになった駐輪場で蝉だけが二人を見ていた。彼女の話を聞きながら、ニアは不意に小さかった頃のことを思い出していた。
なにか辛いことがあるとすぐに泣き、母親が飛んでくるのを待っていた。子供ってそういうものだけれど、いつからこんなに息苦しくなったのだろう、と改めて考えると悲しくなった。
ニアはいつも追い詰められていた。
辛いときに「辛い」と言える。ただそれだけのことができたら、もっと楽だったのだろうか。
ニアが顔を上げると彼女は言う。
「ニアは頑張ってるんでしょ。分かるよ」
『分かるよ』を強調した言い方に、「だから私の言い分は通っていいのだ」という確かな主張を感じた。憐憫と同情の意を含んだ軽くて安っぽい言葉。そんな言葉は、欲しくない。分かってなんか、ない。
「でも私の方が辛いのだけれど。なんで分かってくれないの」
彼女がため息のように零す。瞬間、何かが切れた。無意識に強く握った掌には爪が食い込んで血が滲みそうだった。胸の底からどうしようもなく湧き出たその感情は歯止めが効かなくて溢れ出した。
だからもう仕方がなかった――
もたつく手でやっと玄関のドアを開ける。
もう十分苦しんだ。楽になっていい筈だから。息を吸うごとに苦しくなって涙が出そうになる。酸素が上手く回らなくて思考が追い付かない。落ち着かないと。
ふらつく足取りで冷蔵庫のリンゴジュースをとってコップに注ぐ。部屋は薄暗くカーテンの隙間から光が漏れていた。コップの中の透き通る黄色を見ていると不思議と少し落ち着いた。頬を撫ぜる乾いた風。ガラスのコップの冷たさが手に伝わる。
それを机に置いてニアは窓の傍に座った。深く息を吸う。もう苦しくなかった。
むしろ――
夏の日。 花江鈴架 @charlotte-belle
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