閑話:人業と人形㊦

 ■


 ジャハムは博愛主義者ではない。

 彼が愛するのは孫娘のイリスのみ。

 面識の無い他人を救う為に身を張る程におめでたい性格はしていなかった。だからまるで村を守るように村人たちの先頭に立ち、どうみても人間ではない者達と事を構えるというのはジャハムの望む所ではなかった。


 彼がアズラの村を訪れたのは、単に旅路の途中にアズラがあり、そこで小休止を取ろうと思ったから…それだけだ。

 この村にジャハムの知り合いはいないし、勿論イリスの知り合いも居ない。


 しかし、とジャハムは思う。

 イリスは、愛すべき孫はどうやら村を見捨てる気はないらしい。


「大丈夫だよ、マリーベルお姉ちゃん!」


 イリスの明るい声が響く。

 そしてやはりぐるりと首を回して魔軍たちを見据えた。

 先ほどの声の主とは思えないほどのその瞳は濁っている。

 ギシャールは殺意と敵意が有毒な気体となって、自身が率いる魔軍に向かってくるかのような圧を覚えた。


 明から暗、光から闇への急速な転換。

 異形達への "威嚇" の後、イリスは笑顔を浮かべ背後を振り返った。


 そこにいたのは少年を掻き抱くようにしている金髪の女性だ。

 女性といっても成人しているかどうかは怪しい所だが…。


「マルコ君、お姉ちゃんに抱き着いちゃって!なんだかかわいいね!」


 その声色は天真爛漫と言っていい程に明るく、陽の気に満ちていた。マリーベルとマルコはこの村の姉妹だ。


 ジャハムが旅に必要な物資を村で買い込んでいる間、手持無沙汰となったイリスがマルコと知り合い、そしてその姉であるマリーベルとも親しくなった。


 ■


 イリスはジャハムの腰を強くだきしめ、祖父を見上げる。


「おじいちゃん、マリーベルお姉ちゃんとマルコくんを助けてほしい。このままじゃあの人たちにひどい目に遭わされちゃうよ。この村の人たちだっていい人ばかりだし…。いいでしょう?私も頑張るからっ」


 ジャハムはその言葉にやや考え込む。

 やがて、一つの方針が定まった。

 祖父という生物は、孫という生物には絶対に勝てない様に出来ている。


 ──話し合いでひいてくれるなら良いのだが。あの子は勿論、儂も荒事は得意ではない…


 その時、ギシャールが冷笑を浮かべて言った。


「殺せ」


 傍らに立っていた大鬼族の戦士は頷き、殺意で瞳をぎらつかせる。戦士の唸り声と共に、ジャハムとイリスに向けて襲いかかった。

 丸太の様に太い腕からくり出されるこん棒は、ジャハムの様な老人などかすっただけで吹き飛ばしてしまうだろう。


 横殴りの暴威がジャハムに迫る。

 しかし次の瞬間、その大鬼族の首が地に転がっていた。

 血しぶきを上げて倒れゆく大鬼族の肩には、まるで子供が肩車をしているかのように、イリスが乗っている。


 彼女の口からは陽気な歌声が溢れ出ている。


「小人のハンス、ハイ、ハイ、ホー♪」


「ハンスは愚かで怠け者、ハイ、ハイ、ホー♪」


「おやおや、ハンスよ、歩くことすら面倒かい?気づけば肩に、そっとハンスが乗ってるよ♪」


 可愛い歌声を飾るのは夥しい流血であった。

 その可愛らしさとは裏腹に、血の海が広がっていく。

 暗影が舞い踊り、異形の戦士たちが次々と倒れていく。


 しかし、ギシャールは容赦なく魔軍を煽り立てる。

 彼とて長年帝国軍や冒険者ギルドの追手から逃れ、時には交戦し、これらを退けてきた強者だ。眼前に立つ老人と少女が常人ではない事は元より分かっていた。だからこそ、休む暇なく攻めたて、疲弊させようと考えたのだ。


 四足歩行の魔獣、彼らが"犬"と呼ぶ存在が地を這い、イリスに襲い掛かる。しかし、イリスは片手でその首を捻じ切った。


 浅黒い肌を持つ耳長の女性が矢を放つが、それはイリスの首に突き刺さる寸前、彼女の小さな指によって捕らえられる。イリスは足元に転がっていた石を手に取り、それを耳長の女性に向けて投げつけた。石くれは女性の腹を一瞬で貫き、血と内臓が飛び散る恐ろしい光景が広がった。


 ■


 連盟の5本目の杖、【人業使い】ジャハム翁。


 彼の術は単純だ。

 木細工を造る。

 そこへ命を吹き込む。

 それを操る。

 だが、その逆…つまり命を造り替えて木細工へ仕立てる事も出来る。彼の手がずぶりと肉体へ沈み込むと、そこから段々と肉体が木へと変質していくのだ。造りかえられた命は意識を残したまま彼に永久に操られる。


 しかし、彼の孫娘であるイリスは彼の手で創り出されたジャハムの願望の具現であり、特別製といってもいい。

 イリス人形こそがジャハムの術の根源。


 ジャハムの願望は愛する孫と自身の平穏な日々を過ごすという非常に平和的なものだが、それを乱す者に対しては"根源たるイリス"が排除に動く。それは一種の防御反応であり、例えば期せずして火に触れたら、凄い早さで反応して手を引くように…イリスはジャハムと自身の平和を乱す存在がいれば、可愛い孫という仮面を捨てて瞬時に殺戮マシーンと化すのだ。


 イリス人形は単純に強い。

 大木を引き千切り、大岩を素手で砕き、目にも映らない速さで機動する。帝国騎士の精鋭一個師団でも鎧袖一触で葬り去るだろう。この強さはジャハムの根源の強さを意味する。

 ジャハムは二度と孫娘を喪いたくないのだ。


 喪わない為の強さ。

 つまりは、愛である。


 イリス人形の全身をジャハムの祖父としての愛が包み込んでいるかぎり、彼女を破壊する事は非常に困難だろう。

 なにせ、ジャハムが危うければ危うくなるほどにイリス人形はひたすら強力になっていく。ジャハム自身には大した戦闘能力はないが、その愛の結晶であるイリスは違う。


 思いや覚悟、強き意思が力となるこの世界に於いて、愛とは極めて強大な力だ。

 しかし不安定な力でもある。

 それは愛とは注ぐべき、捧げるべき相手がいてこそ初めて機能するものだからだ。

 相手がいる事が前提…それはつまり、相手次第では愛が喪われる事もあるという事だ。


 だがジャハムの愛は自身の中で完結している。

 彼の愛の対象だとおぼしきイリスは、まるで意思があるように見えるがその実、ジャハムの願望が具現化したモノである。


 "イリス" には自律した意思があるように見えるが、それはあくまでもそう見えるだけで、実際の所はジャハムの知る生前のイリスを忠実に模倣した存在だ。


 ほかならぬイリス自身も自分が生きている、自分の意思を持っていると信じてはいるが、結局の所はそう思い込んでいる、あるいはそう振る舞えと制御されているだけの哀しき木人形に過ぎない。


 つまり、ジャハムは他者を愛する際にしか発されない献身的な、狂気的な愛を実は自分自身に注いでいるのだ。

 イリスがジャハムの願望の具現であるなら、そこに向ける愛というのは自分自身に向けているのと大差がない。


 それは余りにも哀しい愛の形だが、"力の源泉"としてみるならばより完成度を高めたと評価すべきだろう。


 愛を注ぐべき相手に愛を注ぐ事が力の産出に繋がるとして、しかし注ぐべき相手次第ではその愛も枯れてしまう。

 それが愛の弱点、不安定さだというのに、注ぐべき相手が実は自分であるというのは、"ジャハムの愛"に強固な不可侵性がある事を意味する。


 一体、この世界の誰がその様な愛を侵し得るだろうか?


【人業使い】の人業とは、人の業を意味する。

 それすなわち、愛。


 神聖不可侵の愛の前では、あらゆる障害は塵と化すのみ。


 ■


 ギシャールは絶句し、口の端からよだれを垂らした。


 引きつれている部下が、たった一人の少女に次々と惨殺されていく。しかも幹部級の大鬼族の戦士まで。その戦士は歴戦の帝国騎士の数人は同時に相手にできる程に業が練られているにも関わらず、少女人形はまるで紙かなにかを引き千切るかのように戦士の首を毟り取った。


 そんな光景を見せられれば焦るなという方が無理な話だった。


 ──ええい、仕方ない!あの二人を出すしかあるまい…


 ギシャールは二人の"特別製の部下"を呼び出した。

 目と口を縫い付けられた男女、どちらも年老いた姿だった。その二人はギシャールの両親だ。彼等はギシャールに殺害され、そして動く剥製へと変えられた。だが、死者であるはずなのにその肌色は余りにも艶めいている。



 "艶め肌" のギシャールは生と死を弄ぶ。

 自然の摂理では、一旦息絶えた生物の魂は天へと帰すものだが、彼はその歪な技巧で魂を欺く。


 肉体が依然として生命を宿しているかのごとく手を加え、霊魂を身体に縛り付ける。


 だから彼が作った剥製は決して死ぬ事はない。

 心臓を突かれても首を切られても死ぬことはない。

 なぜならば命が、魂が体から出ていかないのだから。

 塞がれた目と口は魂がそこから逃げない様にという呪術的な意味を持つ。


 形あるものはいずれ滅びるというが、ギシャールの"作品"には強い不朽の願いが籠められており、その強度は鋼鉄などといった比ではない。


 かつて彼はゲンツとオーシアという二人の騎士を作品に仕立て上げたが、しかしそれらは帝都の治安維持隊の長、ドムドドン・アッパーヘイルにより破壊されてしまった。

 だが当時は彼も術師として未熟だった。

 しかし今は違う。

 魔族に与し、彼等の業を学び、磨き上げた彼の業は本当の意味での不朽という概念を作品に付与するに至る。

 破城槌の直撃でも破損しない彼の作品は、正しく脅威と言えるだろう。


 ギシャールが自慢げに言う。


「見よ、彼らこそが我が至高の創造物。力任せの打撃も、鋭利な斬撃も受け付けぬ。命と死を司る真の造形師だけが施せる奇跡。我が"作品"は永遠に生き続け、不朽の名を刻む……その娘には驚かされたが、彼女も叩けば砕け、斬れば裂け…死が襲えばただ黙って受け入れねばならぬ筈。貴様等に勝機は」


「うるさいっ」


 その瞬間、イリスの不機嫌そうな声が響き渡り、ギシャールの父の剥製は頭頂部から股間にかけて真っ二つに切り開かれた。イリスの手刀が、空気を割る音と共に容赦なく振り下ろされたのだ。

 速度を極めたイリスの手刀は空間に間隙を作り出し、空気がその間隙を埋めようとする。


 風が巻き、ギシャールの頬を撫でる。

 ギシャールはただ慄然とした面持ちでその場に立ち尽くしていた。


 ギシャールの両親の剥製は、いわば彼の根源であると言えるが、しかし根源の純度が違った。


 支配欲では、芸術がなんたらとかいう御託では、"愛"の障害足りえない。根源と根源がぶつかれば相克し、弱い方が砕け散るというのは術師の常識だが、その常識が正しく働いた結果である。


 ■


 マリーベルとマルコ、アズラの村人らはその様子を戦慄とともに見つめていた。


 数日前突然訪れた老人と少女の二人連れ。

 孫娘に色々なものを見せてやりたくて旅をしているという老人を、アズラの村人たちは温かい笑みと共に迎えた。


 ジャハムの孫娘であるイリスは明るく、快活で、年も近そうなマルコ少年とすぐに仲良くなった。

 しかしイリスが懐いたのはマルコの姉であるマリーベルだ。


 アズラの村に生まれ育った少女、マリーベル。

 彼女の印象的な特徴は、蜂蜜色に輝く髪の毛だ。

 マリーベルには弟のマルコがいて、ふたりきりで日々を過ごしている。


 しかしそこには親の姿はない。

 彼女の両親は流行り病によってこの世を去ったのだ。


 アズラの村の村長は彼女を哀れに思い、彼女にいくつかの特別な扱いをしてきた。しかし、特別扱いというのはやがてマリーベルの首を絞めることにもなりかねない。だからこそ、彼女には簡単な仕事を与えて、生活に必要な食料などを与えていた。


 ともあれ周囲の手助けもあって、マリーベルと彼女の弟は飢えることなく最低限の生活を送ることができていたのだ。

 アズラの村は助け合いを佳しとしている。

 彼女が病に倒れた時も、村の人々はお金を集めようと差し出せる限りの財貨を提供した。しかし、その前にマルコが突然イスカの冒険者ギルドへと駆け込んでしまったのだが。


 ・

 ・

 ・


 村には他にもマリーベルと同じ年頃の娘たちも居たが、イリスは不思議とマリーベルだけに懐いた。


「私マリーベルお姉ちゃんのこと好きだなぁ、だってほんの少しだけ、お爺ちゃんと同じにおいがするのだもの!マルコなんかのお姉さんはやめて、私のお姉さんにならない?」


 イリスがそんなことをいうと、マリーベルは複雑そうに笑った。

 老人と同じ匂いがすると言われて嬉しい者は余りいないだろう。

 ましてやマリーベルは年頃の少女だ。

 案の定マルコが文句を言う。


「イリス!君さぁ、おじいさんと同じ匂いってのはないんじゃないの?いや、ジャハムさんは優しい人だとおもうけど…」


 イリスは腰に手を当て、マルコの顔を見て鼻で笑った。


「マルコ君はだめね!それににおいっていっても匂いのことじゃないのよ?私匂いとか分からないし。それに…ああ、うーん、でも…君もすこしだけ。ほんの少しだけおじいちゃんと同じにおいがするね」


 イリスの言葉にマルコは"えっ"と叫び、おもわず自分の服の匂いを嗅いだ。少し汗臭いだけで、おじいさんの匂いなどというけったいな匂いはしない…はずだ。


 いぶかしむ様子のマルコに、イリスは淡い笑みを向けた。

 自分でも何がなんだかわからずに、胸が熱くなる。

 顔に血が集まってくるのがマルコにも分かった。


 そんな様子をマリーベルはほほえましい様子で見つめていた…


 ■


「イ、イリス…」


 それはマリーベルが発したのか、マルコが発したのかは分からない。震え、慄いた声色には困惑と恐怖が多分に浸み込んでいた。


 ある日、空の色が突如として血のように暗く沈んだ。

 冷たく薄気味悪い雲が空を覆い尽くし、邪悪な巨人が地上に向かって指が突き指すかの如き竜巻が、遥か彼方に佇んでいた。


 村人たちは根源的な恐怖に怯え、保護を求めてイスカの冒険者ギルド、または帝国の代理人として滞在している役人の元へ赴くかを真剣に考慮していた。


 しかしどちらの道を選んでも、それは金銭的な犠牲あるいは貴重な時間を割くという二者択一の難題を村人たちに突きつけた。村人たちは本能的に時間の浪費が命の浪費に繋がると感得し、村の総意がギルドへの依頼に傾く矢先の出来事だった。


 村の猟師が、人間らしさを剥ぎ取られた肉の塊と化して広場に放り込まれたのだ。森の奥深から飛び出したその赤黒い肉塊は、無慈悲に広場へと突き落とされた。血と肉の断片が乱れ飛び、恐怖と混乱が村を飲み込んだ。何人かが脱出を試みたが、すぐさまその試みを断念した。暗闇に溶け込むように村を取り囲んでいた影たちがその理由だった。


 マリーベルとマルコは村長に家に隠れていろと言いつかっていたが、ジャハムとイリスが家に訪問してきていない事に気付く。


 滞在中、ジャハムは樵の元へと赴き、端材をもらって木工品を作り、イリスはマリーベルの家に遊びに行くというのが日課であった。日の傾きからして、普段ならイリスが遊びにきてもおかしくない頃だ。毎日の様に来ていたのだから、今日も来るはず。


 なのに来ない。


 マルコはかつて村を飛び出して、マリーベルを助けてもらうように単身イスカへと向かった時の勢いそのままに家を飛び出した。

 マリーベルも慌ててマルコの後を追う。


 そして絶句する。


 ジャハムとイリス、二人が村の入口に立ち、見るも恐ろしい怪物たちに向き合っていたのだから。


 ■


 馬鹿な、とギシャールは内心で叫んだ。

 口には出さない。

 言葉は言霊ともいう。

 恐れを、怯えを口に出せばそれが現実となり、"格付け"が済んでしまう事も往々にしてある。

 特に魔術師同士の闘争であるならば、例え眼球を抉り出されたとしても勝利の気概を喪ってはならないのだ。

 ビビった方が負けるというのはこの世界の常識である。


 とはいえ、しかし。

 不朽の"傑作"が余りにもあっけなく破壊されてしまった事に、彼の理性は理解を拒んでいた。


「ごめんね、壊しちゃった。でも、おじさんもすぐに壊れるよ。お揃いって素敵な事だよね?私の靴下はお爺ちゃんとお揃いなの。色の事だけど」


 イリスが下からギシャールを見上げて言った。

 瞳の奥には何かが渦巻いている。

 熱く、激しく、昏く、悍ましく、そして尊いものが。

 それはギシャールの知らないものだった。

 そう、愛である。


 ──この娘から離れなければ!


 ギシャールは逃げることを決断した。世界は広大であり、子供の似姿を取ってはいても、その実、強大な力を秘めた人外だったりしたなんて言う事は枚挙に暇がない。


 彼の目の前にいる少女も、おそらく同様の存在であるに違いない。ギシャールはそう考えた。


 しかし足を動かそうとしたその瞬間、彼は胸に異物がめり込んできたのを感じた。嘔吐しかねない程の強烈な不快感はギシャールの足を数瞬その場に留めてしまう。


 不快感の原因は何かと彼が自分の胸を見た時、疑問は氷解した。


 ──手だ


 そう…皺だらけの、日に焼けた手が胸にめり込んでいた。

 手首まで入り込んでいるにもかかわらず痛みはない。

 ただただ不快な感覚だけが在った。


 眼前に居たのはジャハムだ。

 右手が突き出され、ギシャールの胸に埋まっている。

 ジャハムは一切の言葉を発しなかった。

 しかしその身から発される妖気を浴びたギシャールの総身は、震えを抑える事ができなかった。


 ジャハムの右眼が妖しく光る。

 内心透徹、精神を抉り透かし見る魔眼。

 彼はこの眼を通して"とあるモノ"を視るのだ。


 根源的な恐怖がギシャールの脳裏を浸食しつつあった。

 死ぬだけならまだいい、しかし果たして本当にそれだけで済むのだろうか?


「お、おま、え」


 ぎゅうっと胸の中の手が何かを掴む感触で声が詰まる。

 心臓などといった臓器ではない。

 ギシャールはもっともっと大切な何かを掴まれた様な気がしてならなかった。ただ一体残っている彼の母親の剥製を動かそうと魔力を発するも、大岩に息を吹きかけるが如し…全く反応を示さない。


 ギシャールが剥製を繰(く)る事が出来るのは、彼の根源的な欲求が力を与えているからだが、しかし今となっては不可能な事だった。なぜならジャハムが彼の根源を掌握しているからだ。

 他者の根源を掌握し、弄び、対象自身が木人形になりたいと"心から願わせる"。


 ジャハムの術の対象となった者は、己が最も大切にしているモノを忘れて木人形になる事を希い、己自身の力で奇跡を起こし、木人形へと変質していく。


 極めて悪辣で、人を人とも思わぬ外道の魔術師…それがジャハムである。悪辣さでも、その純粋さでもギシャールはジャハムに劣っていた。


 ギシャールは意識を明瞭に保ったまま、自身の胸から全身に広がっていく茶色の波涛を見た。彼の生っ白い肌の色が、やや浅黒く変色していく。勿論日に焼けたわけではない。組成そのものが変質していっているのだ。


 手が引き抜かれるのと同時に…肉体が縮み、一体の老人の木人形が地面に横たわっていた。


 ばきり、と音がする。

 イリスが踏み砕いた。


「さあ、お掃除の続きをしないといけないね!」


 元気の良い、明るい声が響き渡る。

 異形の襲撃者達も、村人達も名状しがたいモノを見るような目でジャハムとイリスを見つめていた。


 ■


 夕暮れ迫る刻限。

 ジャハムとイリスは手を繋いで街道を歩いていた。

 空は薄暗い。


 夜が近いからではなく、別の理由からだ。

 いまや西域の何処にも安寧の場はないだろう。


「あーあ、折角仲良くなれたと思ったのにな。私だって頑張ったんだよ?」


 イリスが不満そうにボヤく。

 ジャハムは二度、三度と頷くが応えを返さない。


 ギシャールを喪った魔軍の残党はたちまち混乱に陥った。


 恐慌し、突撃を敢行する者

 慄き、逃走を図る者

 畏怖し、その場に立ちすくむ者


 その全てがイリスに葬られた。

 アズラの村人たちは彼等をまるで怪物を見るような目で見た。

 村を救ってくれたという感謝の念は、それ以上の恐怖で覆いつくされた。それはマリーベルやマルコとて例外ではない。


「何で"お友達"にしちゃだめなの?」


 イリスが問う。

 ジャハムは少し空を見上げ、先ほどの事を思い返した。


 §§§


「お掃除おしまいっ!…あれ?どうしたの?マリーベルお姉ちゃん?マルコも。お姉さんの後ろに隠れて、かっこ悪いんだぁ~」


 血塗れのイリスは軽やかな足取りでマリーベル達に近づいていった。マリーベルは目に涙を浮かべ、しかしマルコを背にかばいながら言い放つ。


「こ、こないで!!こ、こ、この、化け物!」


 もはや、マリーベルの目にはイリスが怪物にしか映っては居なかった。事実として彼女は怪物なのだから無理もないが。


 イリスの姿が可愛らしい少女だというのが更に良くない。


 その姿で悍ましい怪物の五体を笑いながら引き千切る光景は、アンバランスさもてつだってか、異形の軍勢よりも遥かに不気味で、村人たちの恐怖を煽りたてた。


 助けられたのだから、せめて礼くらいは言って当然だと思う者もいるだろう、しかしそんな人間社会で培った常識などは、死という根源的な恐怖の前では容易く吹き飛ぶ程度のものに過ぎない。


 マリーベルの怒声を浴びたイリスはきょとんとした表情を浮かべ、

 次の瞬間には触れれば壊死する程の冷たさを瞳に漂わせた。


 ひっ、と後ずさるマリーベル。

 しかし背に弟を庇っているためか、逃げようとはしない。


「そっかぁ、でも私たちはお友達になるって約束したよね。大丈夫だよ、お爺ちゃんに任せれば…マリーベルお姉ちゃんもマルコも "お友達" になれるよ」


 イリスはそういってジャハムを見上げた。

 愛する孫娘からの視線を受け、ジャハムは頷く。

 そして右眼の魔眼で二人を視界に捉えると…


 ──う、動けない!?


 マリーベルは自身の体がいう事をきかなくなっている事に気付いた。マルコも同様だ。

 指一本動かす事が出来ない異常事態。

 だが、これは彼女達が動けなくなっているのではない。

 彼女達の本心、本音が"動きたくなくなっている"のだ。


 "艶め肌" のギシャール程に練達した魔術師であるなら、直接触れられでもしない限りはこの様な迂遠な洗脳紛いの業からは逃れる事が出来ただろうが、何の心得もない少年少女程度ならば、ただ視るだけで心を弄ぶ事がジャハムには出来る。


 そして、ゆっくりとジャハムの手がマリーベルの胸にのばされ…触れる前に止められた。


 "におい" だ。

 ジャハムにとって、無視できないにおいがマリーベルの根源から漂っている。


 魔眼の縛鎖が緩められ、マリーベル達はその場に尻もちをついた。


『私、死ぬんだ』


 マリーベルがそう思った瞬間、脳裏に一人の青年の姿が像を描いた。あの日、もうこの先の命を諦めかけていた、あの時。


 ──不愛想な印象を受けた "彼" は、危険な森に一人立ち入り、命を救ってくれた


 マリーベルも本心から助けを得られるとは思っては居ない。

 しかし、それでも人にはいざという時になれば口に出してしまう相手というものがいる。


 ある者にとってはそれは父親であったり、母親であったり、またある者にとっては師であったり。

 そして、マリーベルにとっては…


「助けて…ヨハンさん…」


 マリーベルの口から漏れた名前。

 漂うにおい。


 ジャハムの眼がカッと開かれ、凝視ともいうべき濃密な視線がマリーベルに注がれる。


 ・

 ・

 ・


 かつて、連盟術師のヨハンはマリーベルの病を癒す薬の原材料を手に入れる時間を稼ぐため、彼女にちょっとした励ましの言葉をかけた事がある。


『見た所、もって三ヶ月ももたないな。この冬は乗り越えられないだろう。しかし俺が依頼を遂行するまでには数日あれば十分だ。あなたは治る。森は危険だそうだな、魔物化した猿がでるのだとか。だが俺は視線1つで人間を石にかえる悪魔も殺したことがある。猿がなんだというのか。問題はない。だから悪化させないようにしっかり休んでいることだ』


「私……助かるのでしょうか……?」


 マリーベルがか細い声でヨハンに尋ねた時、ヨハンは大きく頷き、少女の手を握りながら言った。


『当然助かる。最短で1日以内、遅くても4日、5日といったところだな。どうあれ1週間もかかるまい。消耗をさけ、養生をする。きつい労働をするとかではなく、しっかり数日寝ているだけで治る。簡単な事だ。出来るな?』


 病は気からという。

 これは迷信ではなく、実際にそうなのだ。

 他者を害するもっとも単純な呪いは、対象に自身が呪われている事を伝える事だ。

 例えば悪口。悪口を聞かされたら嫌な気持ちになるだろう。それが延々と続けば体調を崩す事もあるだろう。


 これが原初の呪いである。


 優れた術師はその逆も出来る。

 自身の言葉に説得力を持たせ、その気にさせる。

 どれだけの説得力を持たせる事が出来るかは本人の生き方が反映される。

 自身が確固とした信念に基き、誰に憚る事のない振る舞いをしていると自覚していればその分強い力が宿る。その効果は詐術と言うには余りに大きい。


 事実、マリーベルはヨハンの言葉で心を励まされ、暫し容態が安定した。


 ・

 ・

 ・


 そう、かつて期せずしてヨハンがマリーベルにかけた呪い…いや、祝福はいまだに彼女の精神世界に滞留していたのだ。


「ああ、そうか…ふむ…」


 ジャハムが何かを感得したように頷き、一人ごちる。


「イリス。諦めなさい。友達はまた今度作りなさい。さ、暗くなってしまう前にここを発とう。どうにも血腥くていかん。港町イスカが良いかな。あそこは新鮮な魚がとれるからの」


 ジャハムは不満気なイリスを宥め、アズラの村を去っていく。


 ──おっさかなさん、おっさかなさん


 ──どうしておぼれずおよげるの


 イリスのどこか調子が外れた歌が村に響く。

 アズラの村人たちは、何か奇妙な心地でジャハム達の背を見送っていた。


 §§§



 そうじゃなあ、とジャハムは口を切った。


「儂のな、まあ…親しい者があの娘さんを気に入っているようでの。儂は、というか、儂らは出来る限りその辺りは邪魔しないようにしとるのよ。誰かから命令されているとかではなくての、皆、同じようなものを抱えた連中じゃから…仲良くしなきゃあなと儂は思っとる。マルケェスあたりは喧嘩をしないように、一緒に旅したりはしないようにと言っておるがな…。まあ、あのハゲ坊主はきっとろくでもない事を考えているんじゃろうなぁ」


 ふうん、とイリスは納得しているのかしていないのか分からないような様子で返事をする。


 そんなイリスを、ジャハムはただ穏やかな目で見つめていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る