愚神礼賛②

 ◆◆◆


 バリバリという不協和音が響いた。

 アンドロザギウスが歯を軋らせたのだ。


 不死の機構は崩れ去った、だから何だというのだ?

 膨大な信仰の力をたかが人間風情が扱いきれるはずはない。

 少なくとも自身が力を振るい、この場の者全てを鏖殺するまでに扱いきれる筈はない。

 アンドロザギウスはそう考え、そしてその予想は正しい。


 法神を鞍替えさせたからといって、ただちにヨハンがその力を十全に行使する事は出来ない。

 少しばかり人外の領域に足を踏み入れてしまったからといって、ヨハンが所詮人間である事には変わらないからだ。

 その証拠に、ヨハンは蹲り脂汗を浮かべている。

 流れ込む力を御しきれないでいるのだ。

 確かにアンドロザギウスの不死性は否定した。

 行使できる力に上限を設けた。

 それでも魔族が魔族であるかぎり、人間が人間であるかぎり生物としての歴然とした格差がそこにはある。


 アンドロザギウスはしかし、もはや嬲るような真似をしようとは思わなかった。

 侮らず、見下し、魔族としての力で全力で殺す。


『אש לעזאזל』


 シンプルにして強大な“魔法”だ。

 ドス黒い炎がアンドロザギウスの周囲に環状に発生し、全方位へ地獄の炎が拡散していく。

 ただの炎ではない。

 極めて高温で、そして粘りのある炎だ。

 一度その身に受ければ骨まで焼きつくされるであろう。


 ジュウロウとヨルシカは一目でその危険性を感得し、全力で逃げの一手を打ち脱兎の如くその場から離れた。

 両者共に炎を切り裂く程度の業前はある…あるが、しかし


(“アレ”は斬れない…ッ)


 ヨルシカは急いでヨハンの元へ向かい、その体を抱え上げ、結界を展開しようとしていた聖職者達の元へと駆け寄った。

 穏健派も過激派も、ヨルシカ達を追い払おうとはしなかった。

 理念、主義の違いはあるだろう。

 だがしかし、今この場においては頼れる…かどうかはわからないが仲間同士だ。


 一同を十重二十重に光り輝く結界が取り囲む。

 しかし、迫る黒い炎は次々に輝く結界を破砕していった。

 魔族の全力の魔法が人間如きの結界で防ぎきれるはずも無い。

 ギルバートやエルといった実力者達もなす術はなかった。

 いや、エルならば、と思うが彼女の消耗は激しすぎる。

 後1度、大きい星術を使うならばいま少しの猶予が必要であった。


 最外郭で両手を突き出し、全身から魔力を絞り上げ結界を構築・維持していた聖職者達の一人の至近まで黒炎が迫ると彼は後ろを振り向き、その場の者達に笑顔で告げた。


「信仰を示してきます。少しでも勢いが弱まればいいのですが」


 その青年は穏健派の聖職者であった。

 四等審問官エド。

 特異な力もなにもない、少し体術が得意でちょっと法術が使えるただのエドだ。

 彼が命を賭けた所で黒炎はその勢いを些かも弱める事はないだろう。

 だが、彼が命を賭ける事自体ではなく、それに付随する意味ならば功績大であると言えた。


「エド、下がりなさい。アイラはここで死ぬつもりはありませんでしたが仕方ありません。後の事は任せました」


 アイラの纏う火精が激しく踊った。

 エドが、穏健派のみならず過激派のもの達も、炎に照らされるアイラに眼を奪われる。

 ドライゼンだけがただ一人、深い悲しみをもって見つめていた。

 彼はアイラが死ぬつもりである事を理解したのだ。

 炎と親和性のあるアイラであるならあるいは何とかなるかもしれない。

 紅い光がアイラの胸に収束していった。

 その光は炎よりも色濃く、そして美しい。

 アイラの命の色だ。


 ドライゼンにとってはアイラは妹のようなものである。

 死なせたくはなかった。

 だが、こういう状況で一体自身に何が出来ると言うのだろうか?


 ――1つだけある


 ドライゼンが“それ”に思い至るまでには長い時間を必要としなかった。

 ふっと口の端に笑みを浮かべ、タイを直す。

 そして迫る黒炎を見つめていた。


 やがて黒炎が最後の結界壁を破壊する。

 破壊の速度は荒野を焼く野火の如く迅速なものだった。

 アイラは黒炎を破る為に力を、そう、魔力と言う“力”も命という“力”も収束していったが間に合いそうにはない。


 アイラの表情が歪む。

 中途半端に力を解放しても迫る黒炎を打ち消せないであろう。

 その時、静かにアイラの目の前に躍り出た者がいた。


『顔無しの』ドライゼン。


 ――丁度良かった。消える以外の家族孝行というものをしてみたかったんだ


 ドライゼンの声が響き、アイラの頬に柔らかい風が吹きつけたかと思えば黒炎の大部分は消えていた。

 アイラの目の前には少し草臥れたタイが落ちている。


「ド、ドライゼン……」


 アイラが呻く様にその名を呟いた。

 彼は消えたのだ。

 “家族”を害さんとする黒炎を諸共に。

 彼自身の存在そのものを代償として。

 術は強き想いに応える。

 ドライゼンは最期に彼の望む術を産みだし、消えた。


 ともあれ、勢いがここまで減衰すれば黒炎が幾ら脅威であっても、後はアイラでも打ち消せる。

 アイラの目が見開かれ、涙が一粒大地に落ち、蒸発して消えた。

 そして炎の輪が彼女の体から発せられ、黒炎に食いついたかと思えば対消滅していく。

 ドライゼンが黒炎の多くを道連れにしてくれなければこうはいかなかった。


 ひとしきり黒炎を消滅させた後、アイラはふらりと倒れ…る事は無かった。

 ギルバートの念動がアイラを優しく抱きとめ、その場に横たえる。


「瀬戸際で永らえたか、忌々しい狂信者め。だが助かった。礼を言おう」


 ギルバートはキッとアンドロザギウスを睨みつけた。

 憤怒が彼の体を真紅の雷のように充ち満ちていた。

 彼にして出所のわからぬ憤怒であった。

 敵対勢力の一人が命を投げ出した所で自身が怒りに震える必要は無いはずだ。

 だが、心とは合理ではない。


 ギルバートは疲弊した肉体にもかまわず、両手を突き出し、彼にしては珍しく憤怒の相で自らの掌を組み合わせた。

 大地が震える。

 自称王の矜持をかけた全霊の念動が大気を軋ませ、アンドロザギウスを締め上げているのだ。

 その出力たるや、これまでの比ではない。

 意味不明の怒りが彼の力を底上げしていた。

 アンドロザギウスの胴体である黒い棺が軋みをあげる。


 全力を振り絞るギルバートの目からは血の涙が流れ、歯の何本かは強くかみ締められた影響で罅がはいっていた。

 だが彼は力を緩めない。

 なぜなら、ジュウロウ、ヨルシカ。

 2人の剣士が復讐の念に燃え、駆け出していたからだ。


 そしてギルバートの背後のかすかな気配。

 エルが青色吐息で立ち上がっていた。


 ――ま、廻れ、星辰…南西より来たりて、蜃気呼び込み、万物、いっさい、を、熒乱せしめ、よ…


 星術の、参。


 ◆◆◆


 迫り来るヨルシカとジュウロウに向けてアンドロザギウスが魔法を解き放つ。

 ギルバートの念動で体は動かせずに逃げられなくとも、口は動かせるのだ。


『נשימה נמקית』


 射程距離こそ短いが、周辺一体の生物を壊死させる腐敗の吐息だ。

 距離を取られれば途端に無害となってしまうが、相手から接近してくる分には致命のトラップとなりうる。


 案の定と言うべきか、アンドロザギウスの目の前で2人の剣士は崩折れた。

 それも全身を腐敗させ、ガスで体を膨れ上がらせ…パァンと弾けて肉片が飛び散った。

 ニタリと笑いを浮かべる老人の顔と青年の顔。赤子の顔は“殺され”、しゃれこうべとなっている。


 さて残りは、とエル達に目を向けると、アンドロザギウスの至近で声が響いた。


「…一つの太刀」


 男の声だ。

 男、つまりジュウロウの声である。

 アンドロザギウスの眼前で腐れて果てたはずの剣士。


 銀閃が弧を描き、老人の顔を絶ち割った。

 皮肉気な薄笑いを常としていた彼の表情は、この時ばかりは凄絶で。刀を振り切ったその横顔は霜が差したかの如きまさに氷相とも言えるものであった。


 続く刹那、ヨルシカの気で溢れんばかりの剄打が青年の顔面を打ち抜く。

 丹田より捻り出した発氣は横向きの螺旋を描き、循環する。そうして練りに練られた氣の高まりを掌に宿したヨルシカは、さながら小型の太陽を掌中に収めたかのような輝きを放っていた。


 アンドロザギウスの残った2つの顔はほぼ同時に破壊されたのだ。そしてこの事実はアンドロザギウスの滅びの条件を満たす事にもなる。


(だが、まだ終わらぬ!法神よ、我が贄よ!力ヲ…寄越せェエエエ!!)


 アンドロザギウスの潰れた顔が一斉に空を向いた。

 目が見えなくとも其処に力が在ることが分かる。

 しかし、幾ら力を求めても流れ込んでは来なかった。

 その時、暗冥の闇の中、アンドロザギウスは確かに聞いたのだ。


 自身を嘲弄するかのような響きを帯びた、忌々しい声を。


 ――今、どんな気持ちだ?


 過激派、そして穏健派の聖職者達に護られながらヨハンが汗を流し、蹲り、力を御そうとしている。

 人では扱い切れぬ巨きな力が流れ込む苦しさは筆舌に尽くし難い。それでもなおヨハンはその口の端に笑みを湛えていた。


 アンドロザギウスの胴体、黒く禍々しい棺に罅がはしる。

 三つの顔は溶け、しゃれこうべを晒す。

 瞬間、棺が砕けて散った。

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