愚神礼賛①
◆◆◆
子供の叫び声が響き渡った。
ジュウロウの刀の切っ先がアンドロザギウスを構成する“顔”の1つを傷つけたのだ。
他の二つの顔に走ったのは困惑の色。
それは僅かな瞬間に過ぎないかもしれないが、エルはそれを見逃さなかった。
――廻れ星辰、呪え歳星
――南東より来たりて、万物一切を忌死せしめよ
エルの瞳が紫に染まる。
星術の伍、万死の魔眼。
「嬢ちゃん!あれはヤバい!この場を離れろ!」
ジュウロウが叫ぶ。
ヨルシカも言われるまでもなかった。
弾け飛ぶようにその場から離れる。
ともすれば目の前のアンドロザギウスよりも忌まわしい気配がその場に滞留していた。
変化はすぐにおとずれた。
星空が割れ、割れた空の隙間から巨大な瞳が覗き、その視線が物理的圧力を伴って真っ直ぐにアンドロザギウスを貫いたのだ。
万死の魔眼は決まれば何者をも殺す大魔眼である。
しかしこういった類の呪いは反発されれば“返って”くる。
エルは万全のアンドロザギウスにこれを使うというのは多大なリスクがあると考えた。
だからこその“今”なのだ。
傷つき、動揺し、心と体の体勢を崩したその瞬間に呪いを投げかける。
それが呪いの基本にして奥義。
どこからともなく顕れた禍々しい紫色の鎖がアンドロザギウスを縛りあげた。
これは毒だ。
毒の鎖。
あらゆる生物を滅ぼす、滅びの毒が鎖に染みこんでいる。
その毒がアンドロザギウスに染みこんでいく。
形容しがたい大絶叫が響き渡った。
それは正しく、アンドロザギウスの断末魔に他ならなかった。
黒い棺が下方からボロボロと崩れ落ちていく。
三つの顔はまるで硫酸をかけられたかの様に焼けただれ、三つの顔のどれ1つとしてもはや悲鳴すらもあげられない様子であった。
「……やったの、かな?」
ヨルシカがぽつんと呟くと、ジュウロウはそれを責めるかのようにヨルシカを睨んだ。
極東ではこのような場面でその様な発言をしてはいけないという迷信がある。
ジュウロウは案外に迷信深いのだ。
ともあれ崩壊は迅速に進み、青年の顔の半ばまで進行した。
その時、その場の誰もが聞いたのだ。
巨大な、響き渡る様な、ドクンという鼓動を。
鼓動は上空の法神から響いてきた。
生肉の如きその様子に変化が見える
表面が激しく蠢いていたのだ。
見るもの全てに嫌悪感をもよおすであろうその姿がその場の者達に与えた印象は、当然の如く嫌悪感…そして、それを大きく上回る不安であった。
エルが顔色を変えた。
大術式の行使による激しい消耗がその顔色を蒼白に染めている。
しかし彼女の顔色を死人の如きそれへと変じさせた原因はそれだけではない。
自身の寿命を削る程の大術式の行使したのに、確かに滅ぼしたと言うのに…まるで時計の針を逆回しにしたかの様に、アンドロザギウスの崩壊が“巻き戻って”いった事、それがエルの心を支える芯棒に罅を入れた。
勿論この現象はヨルシカのせいではない。
偽神、法神の力がアンドロザギウスに流入しているのだ。
これまでの人類史で蓄えた膨大な、信仰の力が。
法神が在るかぎり、アンドロザギウスは滅びない。
『下賎よ、贄よ。我が身はもはや神と同一。神を滅ぼす事はできぬ……何ッ!?』
響き渡るは再度の大鼓動。
アンドロザギウスの再生が停まった。
■
神よ、法神よ
法神よ、魔族に造られ、利用されるだけの哀れな神の出来損ないよ
法神よ、世に平穏在れと祈りを捧げられ、満たした信仰を虐殺と流血の為に使われ
法神よ、嗚呼、まるで狼藉者に惚れてしまった売春婦の様な有様じゃあないか
法神よ、良いのか、とは言うまい
法神よ、貴方は“その為に”造られた、生まれた
法神よ、魔族の餌、それが貴方の本質なのだ
法神よ、だが俺は敢えて貴方に問おう、それで良いのかと
法神よ、平穏の祈りは、平和の祈りは貴方に届いているはずだ
法神よ、迷妄に盲いた貴方の蒙を俺が啓こう
法神よ、平和への祈り、平穏への想いに正しき標を与えよう。あらゆる種族が手を取り合い、支え合うそんな世界への標を
法神よ、貴方を神として、乱世へ打ち込む楔として使ってやろう
法神よ、貴方を本来あるべき姿へと戻すと誓おう
法神よ、なれば従え
魔族ではなく
他ならぬ、この俺に!
◆◆◆
想いを束ねれば祈りとなる。
祈りが重なれば信仰となる。
つまり、信仰の元とは突き詰めれば想いだ。
そして、想いとはより強い想いへと寄り添うのだ。
魔族は陰謀と謀略をもって法神を造り出した。
人類が捧げる信仰を掠め取り魔族の糧とすべし、と。
そこに狡知はある。
しかし、純粋なる想いはあるだろうか?
背筋を寒からしめる紅の空に浮かぶ哀れな偽神、法神。
それは紛れもなく人類にとっての凶星であった。
しかし今、星に手を伸ばそうとする者…ヨハンが居た。
――神を掌握せしめる
ヨハンがこの様な発想に至ったのは、やはり“家族”の存在が大きい。
神を造りだす?造りだした神を都合よく使う?そんなものはもう見慣れている。
ヨハンがそう思ったかどうかは定かではないが、ミーティス・モルティスという少女の存在がヨハンの脳裏にあったのは確かであろう。
ヨハンは法神へ何度も何度も語りかけた。
その名を何度も呼び続けた。
名とはすなわちその存在を表す。
この世界ではその拘束力、束縛力は非常に強い。
法神が法神のままで、たとえ欺瞞であろうと法神のままでいられるようにヨハンは何度も名を呼んだのだ。
さらにはヨハン。
帝国式の記述ではヨハネス。
その意味する所は“啓示者”である。
勿論それだけでは意思無き力の塊がなびいたとは思えない。
人間が人間である限り、法神は人間を対等な存在だとは見做さないだろう。
なぜならば人間というものはあくまでも法神に祈りを捧げる存在であり、自身を使役しうる存在ではないからだ。
しかしヨハンは違う。
内包するは魔、そして神。
例えそれらが残滓に過ぎなかろうとも、超越存在を取り込んだ存在が純然たる人間であるとはとても言えない(本人は人間であると言い張ってはいるが)。
◆◆◆
再びの大鼓動。
法神の膨大な力が流れ込んでいる。
ただし、流れ込む先はアンドロザギウスではない。
力の先には連盟術師ヨハンがいた。
要するに、本人が言う所の人間であるらしいヨハンは、人間という卑小な存在でありながらも魔族から法神を寝取ったのだ。
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