第13話 空疎の照影

 病室の扉を軽くノックする。


「悠里、いいか」

「あいよ」


 病室のドアを開けた瞬間、柔らかい花びらの香りと石けんの香りが鼻孔をついた。

 涼しげな笑顔でこちらを眺めていた悠里はベッドの縁に腰掛けて、礼香にそっと左手を添えてそのままにしていた。礼香は今朝の件とシャワーを浴びて疲れたのだろう、赤ん坊が母親の手を弄ぶように悠里の指先に自らの指先を絡ませて微睡んでいた。


「……随分、仲良くなったんだな……」

「まあね」


 悠里はそっと唇の指を当てて口角を上げた。


「悠里ちゃん、しづる、帰ってきたよ」

「ん、むぅ……っはい!」


 唇の端を拭いながら、びっくりして礼香は起き上がった。


「はひゃっ……えっと、えっと……」


 礼香は俺の方を見ながら、なぜかわなわなと震えている。

 徐々に白い顔は赤くなっていき、そしてついにはベットの上でじりじりと下がろうとしたところを悠里に背中を支えられて、処理機能が限界を超えたように固まってしまった。

 悠里に視線で合図を送る。


『なんで?』


 さあ? と目線で答える悠里はどこか余裕そうで、悪いことを考えている時の少女の顔をしていた。

 それはそうと、無理にずり下がっていったせいで、下着が見えてしまっている……。

 悠里に目線と指先でこっそり合図を送る。別に気にするわけじゃないが本人が気付いてしまったらかわいそうだろう。年若いし。いや若くなくてもかわいそうか。


「あっ、えっち」

「なんで言うの?」

「へっ……はひゃいっ!?」


 そっと視線を下半身に移す礼香。気が付いてしまったのだろう驚きの余りに腰から跳ねて、体勢が一気に後ろ向きに崩れていく。

 ふわり、浮いた体を支えた悠里の腕に全体重が乗っていく――


「あたしもじゃんこれ」


 悠里は真顔で、天井を見上げるように呟いた。

 そりゃそうだよ、ってかなんで自分は大丈夫だと思ったんだよ。

 なんて言葉を言う暇もなく、悠里もろともリノリウムの床に向かって突っ込んでいった。


「あーあ……大丈夫か? 二人とも」

「いたた……アタシは大丈夫。礼香ちゃんは?」

「ははははひゃいっ!!? だいじょうぶっ、すごく大丈夫です!」

「おっけ、すぐ起こすからちょっと待ってろ」

「うええええええええっ!?!?!?!?! 大丈夫ですっ! 大丈夫だからっ」


 いや大丈夫ではないだろう……。

 無視してベッドの向こうに回り込む。

 悠里の腕に頭や首が守られたのだろう、特段新しい傷もない礼香はベッドの縁に足をかけたままの状態で仰向けになって転がっていた。


「……足もうまくベッドに引っかかってくれたみたいだな、これ以上怪我が増えなくてよかった」

「しーちゃん、あたしも心配してよ」


 地面に転がったまま、悠里は俺の方を不満げに見た。


「悠里、お前は自業自得だろ。後でな」

「あ、あのっ……見……みえま……した?」


 目尻をきゅっと細めながら、消え入りそうな声で礼香は俺に問う。

 ……見たけど、見てないと言うのが正解だろう。というか、仰向けの礼香を俺が覗き込んでいる以上今も見えているしむしろさっきよりも全体的に見えているのだが、見てないというのが正解だろう――

 いや、俺は見てない。見てないことにした。


「……全然。ほら、抱っこするから掴まれ」

「へっ!? うそ……」

「他にどうやってベッドまでの段差超えるんだよ。ほら」

「は……はいっ……」

「よっこい、せ」


 礼香の体をベッドに下ろす。


「しーちゃん、あたしも抱っこして~」

「重たいからヤだよ……」

「えっ」


 俺はそのままベッドの隣のパイプ椅子に腰掛けると、ベッドサイドに置いておいた紙袋に手をかけた。


「朝飯買ってきたんだ。遅めだけどな。今朝の様子じゃ、昨日もロクに食べてなかったんだろ」

「……はい」

「悠里のもちゃんと買ってきてあるぞ。調べ物ついでに三隅堂まで車出してきたんだ」

「えっほんと?」

「ああ」

「しーちゃん、君っていい男だね。やっぱりモテるんじゃない?」

「モテねえよ」

「あっ……あのっ……」


 礼香はもぞもぞと腰まで掛け布団を引き上げながら、何か言いたげにしていた。


「?」

「?」

「あの……でもとっても優しくって、とっても真面目で、とってもかっこいい……と思いますよ」


 ――礼香は目線を外しながら、小声で確かにそう言った。


「ああ……そっか、ありがと」

「う……うん、そうだよね、コイツいいヤツだもんね、ハハハッ」


 なぜかぎこちなさそうに悠里は言って、紙袋を俺から取り上げた。


「悠里ちゃんお腹減ってたの! 朝ご飯、みんなで一緒に食べよー!」

「なんだよ悠里、急に」

「そんなことないよ! 悠里ちゃんはいつでも元気だよ! やる気元気悠里って言ったらアタシのこ」

「言わねえよ」

「……はい」


 ……一瞬の沈黙の後、悠里は礼香に紙袋の中身を見せて選ばせ、次に俺にその紙袋を渡した。


「珍しいな、いっつも最初に一番多く取っていくのに」

「……重いって言った」

「言ったっけか……それで怒ってるのか?」

「言ったけど、怒ってない! ちょっとお散歩してくる! 元気が有り余ってきたので!」


 カツンカツンと足音を鳴らしながら、悠里は怒って病室から出て行った。


「……変なヤツ」

「あの、いただきます」

「ああ、俺も食べようかな。頂きます」


 メロンパンを咀嚼しながら、ぼんやりと外の景色を眺める。


「飲み物、いろいろ買ってきたけど何がいい? あ、コーラは悠里のだからダメだけど」

「えっと……。どれがおいしいですか?」


 ラベルをペタペタと触りながら、ペットボトルをしげしげと礼香は眺める。


「あんまり、こういうの飲んだことないのか?」

「弟と暮らしてた頃は、そんなに余裕もなかったから……。飲み物はお水ばっかりで、こういうの、全然知らなくって」

「……そっか。これとかどうだ? MSオレンジ」

「いただきます……わっ」


 ……口に付けた礼香は、急に咽せて口元を抑えていた。


「大丈夫か?」

「けほっ、こほっ……こ、これ、なんだかピリピリしちゃって」


 ……微炭酸だが、そんなにびっくりするものだっただろうか。


「炭酸、初めてなのか?」

「こんな味だったんですね……変なの」

「他のにするか?」

「……ううん、もう一回飲んでみます」

「……ごゆっくりどうぞ」


 どうせ、時間は急がないのだ。――本当か? それに確証はない。けれど今考えるべきコトではないだろう。


「おいしい……です。蕾にも分けてあげたいな……」

「……ああ」


 鈍い返事を返した後は、ほとんど会話もなかった。


「おいしかったです……ごちそうさま」

「ごちそうさま」

「落ち着いたか?」

「はい……あの、朝はごめんなさい。私、感情に任せてしづるさんに酷いこといっぱい言ったから」

「……それはもういいいよ。俺も悪かったんだから。それより、色々聞いてもいいか?」

「……はい。御薗礼香は、ちゃんと答えるってお約束します」

「わかった、じゃあまず一つめ。昨日、抜けだして三咲浜に行ってたのはどうしてなんだ?」

「それは……日課だからです」

「日課?」

「はい。お父さん――もうほとんど顔も覚えてないんですけど、言われたことを守ってるんです」

「その、三咲浜に行くのが日課で、言われたことなのか?」

「いいえ、これ、見て下さい」

「……」


 礼香は懐から小さな蒼く透き通った硝子のようなもの――曇りや淀みのない水晶の塊のようでいて、しかし色の付いた鉱石――に軽く網の目に縄を縛り付けてネックレス状にしたものを取り出した。


「これは――なんなんだ?」

「わかりません。でも、この石に何か意味があるってお父さんは言ってました。『毎日これを持って、夜の星が綺麗に映るところに行ってお祈りしなさい。そうすればお願い事が叶うから』って言ってて……だから、昨日も行ったんです――きっと、これがなんとかしてくれるって思って――」


 ……弱りに弱って、石頼みってとこか。本当になんて言うか……あの時彼女を助けたのが俺で良かった。きっと他の大人なら一笑に付しちまって終わりだったろう。


「そっか、それで行ったのか……えっ、ひょっとして今までもずっとしてたのか? 一日も欠かさず?」


 礼香は小さくこくこくと頷いて、ピンクの目で俺を確認した。


「……」


 女の子がたった一人で深夜の砂浜で、毎日こんなことしてたって言うのか――


「……別に、家からなら三咲浜がとっても遠いっていうわけじゃないんです。自転車でだいたい20分くらいですし。だから、毎日蕾が寝た後にそっと出ていって、それで三咲浜に向かってたんです。明るい道も通ってましたし――怖いことは何回もありましたけど、でも、毎日お願いしていればきっと叶うって言われたから。それに、お父さんのことで覚えてるのって、本当にそれだけだから。お父さんと私の最後の繋がりだって思うから」


 石をぎゅっと抱きしめて、礼香はそう言った。


「その、お父さんの記憶っていつくらいまであるんだ……? 不躾で悪いんだけど、できるだけ詳細に教えて欲しくってさ。ひょっとすると探すのに手伝ってあげられるかも知れないしさ」

「えっと……本当に全然覚えてないんです。でも、えっと、えっと――。何歳だったかとかもわからなくって、でも……あの、その、えっと……あのぉ」


 礼香は急に膝を立てて抱え込むようにして布団を抱き寄せた。


「……?」

「あの……えっと……。あの……」

 まごまごと言い淀みつつ、礼香の頬には少し朱が混じって血液の色が透けて見えた。

「な、なんだ……? なんか悪いこと、俺言ったかな?」

「ううん、えっと、違うんです。あの……これから私が言うこと、笑わないで聞いてくれますか?」


 余計に訳がわからない。こんな質問でまるで裸でも見られたような反応されたら、こっちが困惑する。


「全然笑わないけど、どういう、ことなんだ?」

「あの……お父さんのことで覚えていることがもう一つあるんです。あの、これはお父さんの友人だって人が言ってたことなので、しづるさんには信じられないことかも知れないんですけど――」

「あ、ああ」

「お父さんは、“魔法使い”だったらしいんです」

「は――?」

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