第12話 クローズドタイムライクカーヴ

 桜庭しづるは、焦っていた。

 夏の晴天極まる中、酸欠になりそうな程に蒸せかえる車中をクーラーもかけずに、ある場所に向かってひた走っていた。

 三咲町は、地形的に高低差が激しい。海浜に面しており、湾内にあることから年中高温多湿になりやすい。

 けれど桜庭しづるの額を伝っていた汗はそういった自然の汗と明らかに同種のものではなかった。

 冷たい汗――腹の底から冷え切るような、薄ら寒い脂汗だった。

 桜庭しづるには歯車のようなものが見えていた。視覚的にではなく直感的に、この世界が今まで自分の生きてきた世界と何かが違うことを理解し始めていたからだ。何かがズレてしまった感触、軋んだ歯車の向こう側に見える風景が明らかに曲がっていた。


「ぐ……」


 ハンドルに額を擦りつけ一つ呻いた後、車のドアを開いて炎天下に踏み出した。


『まあ、一時間くらいはゆっくり外で休んでて。昨日もあんまり眠れなかったんでしょ』


 悠里の声を反芻しながら、しづるの脳内はあることでいっぱいになっていた。


「まずは調べないと……な」


 冷房の効いた図書館の中は、ほとんど誰もいなかった。

 時間の遡行――今まで起こった歴史の中に、今三咲町で……世界でおこっていること? に近しい出来事はなかっただろうか。UMA、タイムマシン、未来人、なんでもいい。なんでもいいから、何か引っかかりになるような出来事はないだろうか。俺ではきっと解決できないだろう、専門家ではない。でも何かヒントになりそうな足がかりはないだろうか。

 しづるは天文学の書架を上から下まで、ゆっくりと見回しながら歩いていた。殆どアテはないと言ってもいい。一体どれくらいの人が人生の中で時間の巻き戻りなんて調べたことがあるだろうか? 当然ながら難航は必至だった。


「なにか、お探しなんですか?」


 司書だろう、同じ書架からじいと離れようともしないしづるが迷っているとみて、近寄ってきたのだ。


「ああ、いや。ちょっと、時間とか星とかについての本を探してて――」

「もっと細かいテーマとかあります?」


 半歩進み出しながら、司書の女性はしづるに問うた。


「ええっとぉ……時間の巻き戻り――なんですけど」

「ああ、そうでしたか。じゃあこっちの方ですかね。そういうのはこういう文庫タイプで探すより、科学雑誌で探した方が早いしわかりやすいんですよ」


 テキパキと歩く司書にしづるは付いていくと、司書は雑誌のコーナーから数種類の科学雑誌のバックナンバーを的確により分けて近くにテーブルの上においていく。

 その慣れた手つきにしづるはやや驚きつつ、タイトル上には時間のことなどほとんど記載されていない雑誌の一冊を捲ると、中綴じのコーナーには『時間の巻き戻りは起こりえるか? 最新物理学の観点から解説!』というタイトルがある。しかもちゃんと挿絵まで付いており初心者に優しい仕様になっている。その精確さにしづるは面食らった。


「す、すごいですね。本の中身とか全部憶えていらっしゃるんですか?」

「そんなことないですよ。大体だけです」

「だいたい……ですか」


 謙遜した様子もなく司書は雑誌を引き出し終わった。


「ええ、大体は。それにしても小説家志望の方ですか? 珍しいことを調べに来られましたね。」


 やや早口で小声だが、司書の声色にはさっきより若干人間味が帯びていた。


「いえ、そういうのじゃないんですけど」

「じゃあSF映画でも見られました?『星の声』、最近映画公開されましたもんね。私も見に行ったんですけど。すごく好きなんです。皆瀬録春先生の小説」


「いや、それはまだ見てないんですけど」

「そうですか、つい熱くなってしまいました」


 しづるは冷たい声色のまま熱く語る司書の表情が変わらないことに若干の違和感を覚えつつ、なんとなく彼女がこの話題について詳しそうだな、と感じ取った。


「ごめんなさい、私熱くなるといつもひとりでに話し始めちゃう性格なんです。なので不快に思われたでしょう。お詫びします。ぜひごゆっくりどうぞ」


 抑揚なく一息で言い切った司書は踵を返した。


「あっ、えっとすいません……司書さん」

「”ミツビシ“でいいですよ。どうされました。」

「ミツビシさんって、時間とか空間が関わるSFものとかお好きなんですよね? じゃあ時間がちょっとだけ巻き戻ってから進むとか、時間が巻き戻ってまた同じところに戻ってくるとか、そういう展開の小説とか、あるいは宇宙の物理法則だったり、量子論だったりって知らないですか?」


 しづるの質問にミツビシは眉をしかめた。


「随分……専門的なことを聞かれますね」


 眼鏡の奥で、ミツビシの切れ長の目がしづるを射貫いた。


「細かい話はできないんですけど、そういうのを探してるんです。力になって貰えると、嬉しいんですけど」

「……」


 厚い縁取りの黒縁眼鏡をくいとあげたミツビシは、机の上に置かれた雑誌の中の一つを手慣れた指先で瀟洒にめくり、一つの見出しを指でなぞった。


「いいですよ。私も専門家というわけじゃありませんが、知っているだけ、教えてあげますから。そこに座って下さい」


 ミツビシは自然にしづるの椅子を引いて座らせると、そのはす向かいに座って同じ雑誌を眺めて語り始めた。


「――時間が同じところを繰り返すと言いましたね。ちょうどそんな内容のものがあります」

「!」


 しづるは驚いてミツビシの表情を眺めた。それにかまうことなくミツビシは説明を始めた。


「クローズドタイムライクカーヴ、というものをご存じですか?」

「クローズドタイム……ライクカーブ?」

「クローズド・タイムライク・カーヴです。日本語にすると――時間的閉曲線と言います。素人のようですし、語弊を生むことを覚悟で簡単に紹介します――

 時間というのは、必ず同じところに戻ってくるようにできているんです。どのような過程を辿ったとしても一定の結末になるように調整されている――何者かによって結果が決まっているかのようにです。親殺しのパラドクスは――ご存じ?」

「……もし時間を遡って自分の親を殺そうとした場合、絶対に殺せないように因果が曲がって殺すことができなくなるって話ですよね」

「ええ。これはどうしてかというと、時間的閉曲線があるからです。時間的閉曲線が必ず同じところに戻ってくると運命を決定づけているから、自分の親は例え殺す手段があり、どれだけ決死の状況に追い込んだとしても絶対に殺せない。物理学的に不可能、ということになります。ですが、これは最も有名な仮説の一つに過ぎません」

「……そうなんですか」

「ええ。もし親を殺してしまったら、どうなるかは分かりますね」

「自分は生まれない、けれど生まれているという未来が確定している。パラドックスが起こる――」

「そうです。時間のほつれが矛盾になります。存在するはずのないあなたが存在してしまったのですから。でも、それを解決する方法も同時に存在します」

「それは――なんです?」

「親を殺した時のあなたと同じ存在が、同じ時間の同じ場所に切れ目なく存在できればいいんですよ」


 しづるは、キョトンとミツビシを見た。

 親を殺した時と同じ存在が、同じ時間の同じ場所に切れ目なく存在できればいい?


「なにを……」

「例えば、あなたの存在をAと置きましょう。あなたが過去に行ってしまった瞬間、この世界からは一旦あなたという存在Aはいなくなってしまい、この世界の時間は一旦止まります。そしてあなたは自分の親を殺してしまいました。これで因果は崩壊してしまいました。この世界の未来には、あったはずのAという結果が消滅してしまったからです。では、この世界はこのまま因果を崩壊させてしまったから存在できなくなってしまうのでしょうか?」

「それは……できないんじゃないですか? だって俺はその世界で存在できなくなってしまったじゃないですか」

「そうですね。そう考えるのが普通です。ですが、あなたはあなたでありながら、あなたの存在はAでもあります。 Aがないなら、Aを作ればいいんです。Aという情報が欠けてあなたがいなくなってしまったが為に存続できなくなってしまった世界は、Aという存在を別の因果で組み立てて、Aという情報を作り出してしまえばいいんです。あなたと全く同じ考え方を持ち、あなたと全く同じ経歴を持ち、あなたのように振る舞う存在を、あらゆる因果を調整してA’として作ってしまえばいいんです。そうすれば、結論としてあなたは未来の変わった世界で存在し続けることになります」

「でも、そうしたら親を殺した俺はどうなるんです? どこにも行き場がなくなるじゃないですか。時間は同じところに帰ってこなきゃだめなのに――」


 あっ、そうか。

 しづるは、ここで理解した。帰ってくる必要がないのだ。

 もし親を殺して同じ時間に戻ってきたとしても――そこにいるのは俺じゃない。Aじゃない俺になって戻ってくるだけなんだ――。


「理解、なされました? それが時間的閉曲線の仮説のもう一つです。多次元宇宙解釈とかもありますが、そっちは説明する必要もないほど簡単なものですから。その本でも目を通してください。」

「は、はい」

「お気に召されましたか。これ以上に聞いておきたいことは?」

「いえ、ありがとうございます」

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