第9話 望楼

 気がつけば、俺は帝都大橋の最上部にいた。

 帝都大橋は帝都湾の上を跨がる網のかかった上路式のアーチ橋、つまりニールセンローゼ橋というものなのであるが、そのアーチの上に、俺はいた。

 海面から橋の上までが五十メートル以上、そのアーチの上は、さらに五〇メートルはあるだろう。

 つまり一〇〇メートルはあろうかというの高所に、俺は立っていた。

 夏の夜とはいえ、ここまでの高さになると、風も強い上に肌寒い。

 ロールアップしていたシャツの袖を下ろして、ボタンを留めると、軽く下をのぞき込む。


「……」


 腹の底から何かが駆け抜けていくような感覚が上空に向かって吹き抜けていく。

 時間も時間だ、帝都大橋はもう閉鎖されていて、今は車の通行はない。

 遠くに帝都大の時計塔と、それに併設して建設されている帝都大病院の明かりが見える。


「なんで、俺、こんなところに……」


 夢、だろうか。

 けれどその夢と思うにしても、あまりにも感覚が真に満ちていて、胸の奥が懐疑に捕らわれて動かない。


「起きたか、桜庭」


 心臓が跳ねた。

 背後からの声、しかしさっき見た時にはいなかったはずだ。

 じゃあ、どこに?

 耳元で唸る風の音を背に、おぼつかない足取りで恐る恐る体を翻す。


「ここだよ、桜庭」


 帝都湾側のアーチの上。つまり、対岸。

 暗い赤髪をした、やけに凍ったような冷たい声をした男がいた。


「敷原、敷原か?」


 そんな気がして、名前を呼んだ。


「桜庭、これは録画のようなものだ。だからお前は俺を確かめたいだろうが、そこまでの時間を用意することができない」

「何言ってんだよ、録画?」


 敷原は妙なことを言って、帝都大の方面に向かって指を指した。


「帝都大の方面……?」


 さっき見たところだ、けれど、大したことは……。

 踵を返して、もう一度。

 帝都大に面した囲い型の道路には、まばらに車が止まっている。

 その中には、救急車に消防車が何台か見受けられる。

 火事でもあったのだろうか?

 ……おい。


「なんだよ、アレ」


 家が、水没している。

 大きな民家、塀の高い瓦葺きの木造建築だ。

 その瓦が、水で全て地面に流されている。

 いや、それだけじゃない。屋敷の塀の中に水が溜まっている……?

 待てよ、隣の道路まで水があふれ出して、辺りが水浸しになっているじゃないか。

 その割には、火の気配はない。

 けれど放射される水の量は、一向に減る気配がない。

 まるで、そこに本当に火事があったように、消火活動が行われている。

 ついに建物の梁が重みに耐えかねて、水平にずれて、倒壊した。

 けれど。

 なおも、放射は続く。


「敷原、アレ、なんなんだよ、おい。おいってば!」


 しかし対岸の敷原は、なんら俺に語りかけることはない。


「今、帝都では、ああいう事件が起こってる。あそこは、つい三日ほど前に火事が起こった家だった。住んでいた老爺は今帝都病院で治療中だ。だというのに、その住む人間すらいないはずの家が、“まるで何かあったように”消火されているんだ。ちぐはぐなコメディみたいにな」


 俺は思わず息を飲んだ。


「俺の予想では、何か人間の行動を惑わせるような、意図的に人間の心理に踏み込んで操るような、そんな妙なことが起こっているようにしか見えないんだ。しかもかなり広範囲に起こっていて、誰も違和感に気がつかないほどの緻密なものが」

「敷原は大丈夫なのか……?」

「可能性があるとしたら、やはり雪かも知れないが、残念ながらお手上げだ。帝都大の天文に詳しい教授陣は急にどこかへ飛んじまったからな……」


 珍しく落胆したような声色だが、影自体はピクリとも動かない。


「俺がこれを桜庭に送ったのは、どんどん頭が冴えなくなってきている自覚があるからだ。どこか意識がぼんやりして、さっきから同じことばかり考えている気がするからだ。気がつけば、同じ思考を繰り返している。ひょっとすれば、俺自身も気がつかないうちに、この事件の影響に巻き込まれてしまっているのかも知れない」


 敷原の姿が、どんどん霞んで、見えなくなっていく。


「おい、待てよ」


 対岸に渡る細い鉄骨に足をかける。


「桜庭、これをお前に送ったのは、昨日の段階で、お前が一番“普通”だったからだ。他のところでは、かなり深刻な問題が起きていた。昨日は誤魔化したが、実のところ、現在帝都病院は完全に機能を停止している。だから、桜庭に確認したかった。聞いたところだと、今は三咲町の方面は何も起きてない、もしくはまだ捌けている段階っていうところなんだろう。であれば、桜庭、お前はまだこの事件の影響を深く受けていない可能性が高い、だから、今から推論を話す」


 敷原の声が遠くなっていく。

 鉄骨を恐る恐る渡っていた足が、駆け始める。


「敷原、お前、何言ってるんだよ、わかるように、話せよ!」

「もしこれが誰かに引き起こされた事象だという前提で話す。そうでなければ、もうお手上げだ。もし俺がこんな事件を引き起こすとしたら、自分の周りの被害は避ける。でなければ、自分が困るからな。そして第二に、犯人がいたと仮定するのであれば、きっとこの事件で起きてる現象そのものが目的じゃない、この現象をトリガーにして、何かを起こすのが目的のはずだ。よほど自殺願望がなければな」


 敷原の声が、さらに遠くなって、風が一陣吹き抜けた。

 足元が揺らいで、重心が利き足にのしかかる。


「うわっ」

「桜庭、これが最後の推論だ――」


 消えていく声、視線を戻した瞬間、さらに吹き込んできた風で。

 足下から鉄骨が消えた。


「は」


 体が浮き上がって、地面に向かって、コンクリートの地面に向かって、自由落下していく。


「う、うおあああああああああああああああああああああああああああ」


 手を伸ばしても、もう鉄骨には届かない。

 遠い空はどこか靄がかかって、重苦しく月の光を遮っている。

 激しい風切り音が耳元を劈く。

 浮遊感が胃の腑をせり上がって、どこまでも、どこまでも地面に向かって吸い込まれていく。

 どこにも光はない、ほの暗い空気の膜の下、コンクリートの盤面の上。

 死ぬ。

 このままでは、死ぬ。

 だというのに、もう、手が伸びない。

 手を伸ばそうとしているのに、躰が縮こまっていく。

 死ぬ。

 そう思った、その瞬間。


「キャッチ」


 落ちていく俺の手を、誰かが掴んだ。


「はっ」


 急に景色が変わった。

 見慣れた天井と、白くて柔らかな指。

 虚空に延ばした俺の手を掴んでいたのは、悠里だった。


「しーちゃん、起きたの? 魘されてたよ」


 汗で張り付いた前髪を払って、悠里はタオルを額に当てた。

 薄暗いリビング。

 真白い壁紙が仄黒く染まって、夜色に染まっていた。

 俺の眠っているソファに、悠里は腰掛けている。

 ぼんやりとした頭に、敷原の言葉が浮かぶ。

 夢、夢か。


「どんな夢見てたの? ずっと手をばたばたしてたけど。悠里ちゃんがいなくなっちゃう夢でも見てた?」

「……わからない、夢っていわれて、夢を見てた……」


 小首を傾げて、悠里は俺の顔をのぞき込んでいる。


「なにそれ。へんなの」

「確かに、変だな……」


 そこまで言って、俺はデスクトップのパワーランプが点きっぱなしになっていたことに気が付いた。


「そうだ……昨日、敷原からメールが来てたんだ」


 帝都で奇妙な現象が起こっていること――それと電話の件……。


『お前が何も影響を受けていないのは、なぜだ? そう考えたとき、二つの可能性が浮かんだ。一つは単純に“この事象に対して、何らかの身体的、精神的要因で抵抗を持っていること”。そしてもう一つは“お前がこの事件について関わり合いのある人物にとっての重要人物で、お前がなんらかの理由で“必要”であるからだ』


 本当に、妙だ。

 一字一句、鮮明に覚えている。


「それにしても、なんで起きてるんだ? もう……三時近いぞ」


 窓の外には、低い月が寝台に寝転がったように架かっている。


「……だって、せっかく一緒にいるのに、一人じゃ寂しくって。えへへ」


 恥ずかしそうにそっぽを向いた悠里は、頬をかいた。

 月の薄明かりに煌めく雪のような肌の表面はしっとりとして、濡れているよう見える。


「狭いし暑いんだから、自分のベッドで寝ろって」

「やだよう、一緒にベッドで寝よ。そしたら、怖い夢なんて見ないよ」

「俺もやあだよ、もう子供じゃないんだし」

「じゃあ、大人っぽく二人で寝る?」

「言葉がいかがわしいな。じゃなくて、そうだ、悠里」

「なあに? しーちゃん」

「これはさ、話半分で聞いて欲しいんだけどさ」

「いっつも話半分で聞いてるじゃん」

「ちゃんと聞け、いやでもこれは半分で聞いてくれ」

「ややこしいなあ」

「お前がややこしくしたんだろ」

「うん、で、なあに?」

「悠里、どっか、体でおかしなところとかって、ないか?」


 う~ん、と薄明るいガーネットのような瞳が上を向いて、右へ左へ揺れる。


「どうだろ、わっかんないや」


 悠里ははにかんで、俺の頬をそっと撫でながら、静かに呟いた。


「心配、してくれてるの? あたしのこと」

「言ったろ、話半分だって。そんなに重く取らなくていいよ」


 ようやく落ち着いて、微睡みが帰ってきた。


「もう寝るから、おやすみ」


 寝返りをうって、目を閉じる。


「おやすみ、しーちゃん。ああ、そうだ」


 ――こうやって二人で一緒にいるなら、礼香ちゃん、来てくれても良かったね。

 そんな言葉だけ残して、悠里の足音が消えて、暗いリビングに一人きり。

 眠いのに、なぜか寝入りができなくて、ぼんやりと天井を眺めていた。

 もし、敷原の言っていることが本当だとしたら。


『桜庭、これをお前に送ったのは、昨日の段階で、お前には何も“異常がなかった”からだ。他のところでは、かなり深刻な問題が起きていた。ほとんどの人と、会話が成り立たなかったんだ』

『もし俺がこんな事件を引き起こすとしたら、自分の周りの被害は避ける。でなければ、自分が困るからな』

『お前がこの事件について関わり合いのある人物にとっての重要人物で、お前がなんらかの理由で“必要”であるからだ』


 ……。

 俺が、この妙な事件に関係があるというのだろうか。

 やっぱり、敷原に連絡を取ってみる必要がありそうだ。

 本当に、夢のようになっていたら……いや、そんなことはないはずだ。

 いや、その前に御薗礼香、あの子のことについても、考えないとな……。その日の朝は、やけに早く目が覚めた。

疲れていたはずなのに、ソファの寝心地が悪かったのか、それとも昨日の夢が原因で深い眠りにつくことができなかったのか……。

渇いた眼球を瞬かせて、ようやく頭にまとわりついた靄を振り払うと、朝のルーティーンを始めた。

時計の針はまだ五時を指している。

朝の時間にしかできないことがある。

雑居ビルを改装した実家の急な階段を上がって、屋上の扉を開く。

軋んだドアノブに手をかける、冷たい金属が手の温度で中和される。

この先の空間は、俺の家の中でも、俺だけの場所だった。

そして今も、俺だけの場所。

俺が帝都に賃貸を借りて暫く経つが、きっとそれ以降誰も開いていない。

そんな気がする、実感として、わかる。

悠里はどうせまだまだ起きてこない。

それまでは、俺の時間だ。

扉を開け放って陸風を背中に感じる、まだ暖まっていない地上は対流によって海に向かって風を吹かせる。

変わらない夜明けが、いつも通りの日常を始まらせる。

まばらに見える乗用車や、静かなコンクリートに通勤のヒールが響く音とか、夜露に濡れたガードレールが少し渇いていく静かなもや

いつもここから、世界は始まるのだ。

だから俺も、散らかった脳の整理を始めよう。

……結局、今朝方に見た夢の内容を、俺は朝まで覚えていた。

夢の内容がメールに惹起されたものだと考えるならば、まずは敷原への連絡が先決か。

もし敷原がなんともなく平常運転していたら、何もなかったのだから良かったことになる――いや、どうだろう、やっぱり反応次第というところもあるか。

何かできることはないだろうか。

俺にできること、俺にできること……。


その時、ポケットで電話が鳴った。

画面には、三咲病院の名前が映っている。


「はい、桜庭です」

「ああ、すいません。御薗さんについて少しお話ししたいことがありまして」


若い女性の声だ。事務員の方だろうか。


「御薗さん……?」


昨日の少女の名だ。

まさかあの怪我で容態が悪化することなんてまずないだろうから……保護者でも見つかったのだろうか。


「それがですね、昨日の深夜、御薗さんが病院を抜けだしたみたいなんです」

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