サンク・バリエテ

オカザキコージ

サンク・バリエテ


 着信音にビクビクするようになって、どのぐらい経つだろうか。お正月が過ぎてすぐの頃からだから、一カ月とちょっとか。もう精神的に限界に近づいていた。だからと言って、無視して開かないわけにもいかず、おそるおそる手に取るも丁寧だが、暗に脅しのニュアンス。“息子さんのことなんですが…”。そう始まるメールに、理恵は身体を硬くした。

 翔大が、悪い仲間と良からぬことに関わっている―。うすうすは感じていたが、すれ違いをいいことにあえて向き合わずにいた。面倒なことに目を背けて、怖いものに蓋をして、無責任に成り行きに任せて…。わが子であってもけっきょくは自分の身かわいさに現実から逃げていた。大学を一年で中退したあたりから少しおかしかったし、何の確信もなく大きなことを言い出すようになって、いよいよ誰かに似てきたと苦笑いしていたころはまだよかった。

 “ちょくせつ、お伺いしてもよろしいのですが…”。すぐそばまで来ていて、いまにもドアを叩いてきそうな恐怖感。胃が痛くなるばかりか神経を鈍器でゴリゴリされているような責め苦に苛(さいな)まれた。だいたいの見当はついていた。お金が絡んでいて、詐欺がらみ? 脅しや暴力も…。ちゃんと食べているか、じゅうぶん寝ているのか、と心配する次元はとっくに通り越して、身の危険にさらされているのではないか、いつ警察から電話がかかってきてもおかしくない―。この数週間、気の休まることがなかった。

 一年前に家を出てから、まったくの音信不通というわけでなく、短いながらもラインのやり取りはあったし、ひょっこり現われて二、三日家でぶらぶらして夜にこっそり出て行く、ということもあった。「どうしているの…」。ずっとスマホに向かっている翔大に当たり障りのないことしか聞けなかった。「友だちの仕事、手伝っている」。そう言うだけで、どこで、なにを、どんなふうにやっているのか、具体的なことは一切話さなかった。「迷惑かけないから…。心配しないでいい」。そう言われると、それ以上何も言えなかった。

 高校時代の仲良しで部活もいっしょだった佐伯君に翔大のこと、何か知らないか尋ねたことがあった。この一年のあいだ、何度かラインや通話でやり取りしたと言うが、何か用件がありそうなのに、彼が「おまえ、いまどうしている?」と聞くと、翔大は面倒がって言葉を濁すばかりで「それじゃあ」と言って切り、それ以降ラインも返して来ないし、通話しても出ようとしないらしい。佐伯君の感触では、きっとお金だろうと。聞かれもしないのにこちらから「いくらいるんだ」とも言えないし、ということらしい。翔大の憮然とした、困った顔が浮かんで来て、やり切れない気持ちになった。

 “このまま連絡がない場合は…”。成人だとは言え、脅しの相手から親の責任を云々されると放っておくわけにもいかず、表現がきつくなり出したメールに対し、これ以上無視を決め込むわけにもいかない。でもまだ、翔大の名前を出していないし、具体的な要求もなかった。たんなる特殊詐欺に引っかかっているだけかもしれない。都合のいいように解釈する自分がいた。そのときはまだ、翔大がそうしたグループに関係しているとは思っていなかった。そしてそこから、不測の事態が、ぎりぎりのところで収まるとは言え、理恵を奈落の際まで突き落としていく。どこかで止められなかったのか、運命を変えられなかったのか。そんな無駄な、不可能な思いに慰めを得ようとしていた。


 やっと手にした正社員の立場も、それをキープするのは容易いことでなかった。というか、いわゆる話が違う、面接の時の話と異なることばかりやらされる、しかも…。理恵のような、短大の英文科を出て何の特技も社会で役立つ専門知識もない中年女子に、まともな就職先があるはずもなく、事務の正社員は夢のような職場、オーバーでなくそう思っていた。社員二十人ほどの小さな会社とは言え、採用の連絡を受けた時は思わず小躍りして喜んでいた、もしかしたらこの境遇から抜け出せるかもしれないと。

 「小森さん、これもお願いできますか」。でも、すでに事務から遠ざかっていた。繁華街でクラブやラウンジ、スナックなどへおしぼりを配達する仕事。けっこう力がいるので一人で回らされることはなかったが、男性社員の補助役として文字通り汗をかかされた。そもそも外勤なんて話、聞いていなかったし、こんな肉体労働に近い作業、ずっと続けられるはずもなく…。大半が、使い捨てのおしぼりに変わっていく中、一部の喫茶店を含めてお水系の生業だけはいまだ暴力団の息のかかった業者が仕切っているからなのか、タオルのおしぼりが悪しき遺物のように残っていた。ということは、私が働いている会社も…。気づくのが遅かったが、だからと言っていまさら、どうなるものでも、どうするわけにもいかず、理恵は正社員にしがみつくしかなかった。

 店を開ける準備のため、早めに出てきたママらしき中年の女と鉢合わせすることがあった。いつもはあらかじめ渡された鍵で中へ入り、カウンター奥へおしぼりの入ったプラスチック製コンテナを置いて帰るが、そういう時は鍵が開いているのですぐにわかった。のぞき込むように少し頭を下げて中の様子を窺いながら入ると、「あら、女の人…」。きっとママなのだろう、その女がつぶやいた。おしぼり配達員に女性? 珍しい生きものでも見るかのようにこちらを見ていた。いっしょの男性社員は手分けして別の店をまわっていたので、理恵ひとりだった。しがないおしぼり配達員が一人前に反応してはいけないと、そのまま頭を下げて出て行こうした。「ちょっと、おねえさん…」。理恵が振り向くと、ママが笑顔で手招きしていた。

 「スペース」。ラウンジに似合わない店名だった。魅惑の空間、とでもいう意味が込められているのか。オーナーママのめぐみが理恵を引き止めたのは気まぐれでなく、業務上のことだった。「どう、働いてみない?」。単刀直入に聞いてきた。これまでこういうところに一切縁のなかった理恵は最初、何を言っているのか意味が分からず、後ろに誰かがいるのかとキョロキョロする始末だった。「経験なくていいの。気軽に。時給はね…」。この私がホステス? そんな表情をしていたのだろう。「合うと思うけどね。一度やってみたら」。軽いトーンで、少々無責任に、こうして多くの子に声をかけているのだろう。でも、このママ、悪い人ではないような気がして。理恵は日を改めて、めぐみママと会う約束をした。

 とりあえず一度、話を聞いてみよう、会社に知られたら問題になるのかな? 仕事が終わった後にアルバイト感覚でやっている子もいるし…。深く考えをめぐらすことなくラウンジ「スペース」の前にいた。午後六時半、約束の時間ちょうどに重い扉を開けた。「失礼します」。スポットライトが三、四カ所、暗く店内を照らしているだけで、ママの姿はなかった。声をかけようかどうか迷ったが、カウンターの奥にでもいてすぐに出て来るだろうと、入ったところでそのまま立っていた。もう三分以上そうしていただろうか。たまらず「あの…」と言いかけて、こちらに背を向けているソファーの端から、だらりと手が垂れ下がっているのに気がついた。

 ただごとではない? 死んでいるのではないか。思わず後ずさりしたが、もし体調が悪くて助けが必要なら。必死にそう思い直しておそるおそる奥のソファーへ近づいていった。「う~ん、あぁ~」。吐息が漏れるような声がした。ドキリとして足が止まった。すると、ママがふっと起き上がり背伸びしてこちらへ振り向いた。「来てたの。ごめんね、ついうとうとして」。理恵はほっとするあまり、腰が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。「大丈夫? どうしたの。さあ」。めぐみママはさっと立ち上がり、手を差し延べて抱えるように理恵を奥のソファーにすわらせた。「じゃあ…」。何ごともなく、形式だけの面接が始まった。

 いつもはどうなのか知らないが、面接といっても普通の会社のとは勝手が違った。ママは笑みをたやさず、茶話会で話しかけるような感じで質問してきた。「よく眠れてるの?」とか「休みの日はゆっくり出来てる?」、果ては「今度どこか、二人で旅行しようか」。ホステスの資質に直接関係なさそうなことばかり聞いてきた。そして話が途切れると、少し真顔になって「じゃ、いつから入れる?」。その前に提示された時給は、夜のお仕事とはこういうものかと驚くほどだったし、昼も働いてることを考慮して出勤の頻度・時間も融通してくれるという。でもなによりも、このママのもとなら、と思った。初めてのことへの不安以外、断る理由はなかった。とりあえず、やってみようか…。

 月・水・金の週三日、八時から十時の二時間のシフトで入ることになった。「とうぶんは私の衣装、貸してあげるから。普段着で」。偶然にも幸いにも、めぐみママと身長も体型もさほど変わらずに助かった。それよりもママのやさしい心配りがうれしくて…。理恵は自分でも驚くほど、違和感なく夜の世界へすっと入っていけた。実際にやり出してわかったことだが、ラウンジ「スペース」はいわゆるクラブ寄りの、そのカテゴリーではクオリティーの高い店だった。同姓から見ても、きれいでかわいい女の子がそろっていたし、二十五から三十歳までの年齢層が厚く、そこに二十歳前後の若い子が彩りを添える、素人目にもバランスのいい女の子の配分に思えた。それに、三十歳半ばから後半が数人、理恵以外は酸いも辛いもこの生業を知り尽くしたお姐さんたちが、しっかり脇を固めていた。

 でも、初日はやはり大変だった。露出の効いたドレスに違和感を覚えて馴染めなかったし、一応予行演習はしていたものの水割りの加減や注ぐタイミング、それこそ相槌の打ち方もなかなか上手くいかず、冷や汗の連続だった。そんなとき、しだいに慣れてゆくものだから、と慰めてくれたのが絵美さんだった。まだ客の付いていない理恵はテーブルを挟んでスツールに座り、なれない手つきでヘルプ役をこなすのが精一杯だった。そんな見るもぎこちない彼女を、絵美さんが客の相手をしながらやさしく目配せし、なにかとフォローしてくれた。

 そういう絵美さんも例外ではないのだろうが、こういう店で働く女たちのしたたかさ、たくましさには感心するというか、勉強になり頭が下がる思いだった。女を武器にしてとか、色仕掛けでバカな男たちを騙してとか、楽して金を稼ごうとしてとか。こうした巷(ちまた)の見方、偏見にも一理あるのだろうけど、本当のところは昼の仕事よりシビアな、厳しい世界。理恵にとっては生易しいところが一つもない、この先やっていけるかどうか、心配の尽きない異空間だった。それに、現実の問題としてお酒が強くないし、もともと聞き上手でもなく、もっと言えば人見知りのところもあった。ホステスでやっていけるのか、通い出して半月ほどはいつ辞めようかと思ってばかりいた。

 ある程度、想像していたとはいえ、昼も夜も仕事となると体力的にはもちろんのこと、精神的に維持するのが難しく、大変だった。たんに家へ帰るのが十時半すぎになり、ルーティンの後ろ倒しで睡眠時間が削られるだけではなかった。「お母さん、大丈夫?」。帰ると高校生の彩乃がスマホを持つ手を止めて心配げに聞いてくれるが、その場にだらしなく座り込んで引きつった笑みを見せるのがせいぜいだった。このざまも含めて、どう転んでもいい母親とは言えず、彩乃にはこれまで嫌な思いをさせ通しだった。その負い目もあって、翔大同様、しっかり向き合えず、肝心なことから目をそらし、ごまかしてばかりいた。親として失格だった。水商売をやり出してなおのこと、娘の目をしっかり見ることもできず、自己嫌悪に陥る場面がさらに増えていった。

 一番身近な、同姓の反面教師。彩乃が小学五年生の時に離婚して以来、翔大ともども迷惑ばかりかけてきた。養育費もろくにもらえず、別れた当初は生活保護に頼るほかなかった。みっともなくも片身の狭い嫌な思いをさせてきた。どうしようもない、情けない母親なのに、でも不細工ながらも等身大の姿を見せてきたからか、彼女は学校で問題を起こすこともなく、夜に遊びまわるようなこともせず、普通に、いい子に育ってくれた。それは理恵の唯一と言っていい慰めであり、自己肯定できる数少ない生きた証だった。そんな彩乃も、生活のためとは言え世間的に少々顔向けできない仕事を始めた母親の姿を見て、変わってしまわないか。理恵は、ちょっとした娘の言葉遣いや素振りに敏感になっていた。それでも変わらず明るく振る舞おうとする彼女に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。こんな生き方の真逆をいってほしいと切に願っていた。

 

 翔大は、夜行バスに揺られながらスマホで“仕事”をしていた。正確には、何本か持たされた業務用のスマホで、複数のターゲットへ向けて繰り返しショートメールを送信していた。もっともらしい偽のサイトで取得したメールアドレスが網羅されたデータベースから、そのいくつかをピックアップし、あの手この手で個人情報を引き出すべく、手を変え、品を変えて日常的に迷惑メールを送り続ける。うまく引っかかって名前や住所、年齢などを聞き出せれば大きな成果、すぐさま別のメールを装い、丁寧な言葉遣いながら金銭を要求する脅しの文面を送る。相手にしてみれば、どうして自分の個人情報を知っているのか、空恐ろしくなって、というふうに。特殊詐欺の古典的な手法だが、百件のうち一件、いや千件に一件の割合でも御の字。あとはアダルトサイトへのアクセスや有料アプリの取得など、やっていそうところを突いて思い込ませ、言葉巧みに金を脅し取る。たいていはそんなこと見覚えない、課金していない、と反論されるか無視されるが、そんなことお構いなしで執拗に追い込んでいく。やってもいないのにやったような錯覚に陥らせる。挙句の果てに“いまからそっちへ行くから覚悟しとけよ”と。

 バスは、ある地方都市のターミナルに着いた。夜中じゅう揺られて九時間、翔大は節々の痛みを感じながら座席から身を起こした。“いまからお伺いします。お話しておりました件、よろしくお願いします”。相手にはそうメールを送った。劇場型の、と騒がれる前の、まだ世間のガードが低いころの特殊詐欺。翔大は着慣れないスーツに身を包み、電車で三十分ほどの郊外の町へ向かった。もう都市部ではほとんど見られない、昔ながらの平屋建ての市営住宅が軒を連ねていた。番地を間違えないよう、表札を一つずつ確かめながら進んでいく。まだ午前八時を過ぎたころだった。この並びだと、奥から二番目が目的の家だろう。“七番地の坂上”。翔大は、なんの躊躇もなく玄関脇のチャイムを押した。「ごめんください。すいません」。インターホンがないので思わず声を出していた。なかなか応答がなかった。引き戸に手をかけるとすっと開いた。さすがにそのまま黙って中へ入るわけにもいかず、玄関先で少し大きめの声で呼びかけた。

 「はい…」。いまにも消え入りそうな声が奥から聞こえてきた。翔大は目をすぼめて中をのぞき込んだ。短い廊下の暗がりに、それも床すれすれの低いところに顔がおぼろげに浮かんでいた。思わずぎょっとしたが、すぐに寝ている状態から這うように身体を伸ばし、廊下へ顔を突き出しているのだとわかった。「どうしました? 大丈夫ですか」と言いながら上がりかまちに足をかけていた。「どうぞ中へ入ってください。こんな格好で…」。翔大は戸惑いながらも軋む廊下をゆっくり進んだ。電話の声からもっと年配かと思っていたが、四十半ばくらいか、青白い顔で女が横たわっていた。「そのままで…」。起き上がろうとする女を制して、ふとんの脇に腰を下ろした。黙っていると女の方から「お金ですよね。ほんと迷惑をおかけして」とかすれた声で言ってきた。

 本来なら玄関先でさっさと事を済ませてすぐさま退散しなければならなかったが、今回は調子を狂わされていた。成り行き上、避けられない状況だったとはいえ、家に上がりこんで腰を下ろして相手の話をゆっくり聞いて…。実態のない、虚業も最たるものなのだから、この程度のイレギュラーにうろたえていては仕事にならない。でもレアなケースには違いなかった。有無を言わさずこちらのペースに引き込んでなんぼの生業なのに。とにかく早くお金を引き出さないと。女の息子の同僚を装う翔大は焦りの色を隠せなかった。先を急ごうとするあまり、顔が引きつり素振りも不自然になっていく自分を感じていた。女も、こちらが悠長に構えていられないのはわかっているようだったが、なにぶん体調がすぐれず身体が思うようにいかない。そんな感じでただ時間だけが過ぎていった。

 当初は、最寄りの銀行か郵便局、コンビニのATMまで連れて行き、金を振り込ませる算段だった。でも、病人を無理やり引きずって行くわけにもいかず、どうしようか、このままここに居ても仕方ないし、とりあえず出直そうか。そう頭をめぐらせていたとき、女が「代わりに、お金を下ろすか、振り込んでくれませんか」と財布からカードを取り出した。またとない、待ってましたとばかりの申し出だったが、翔大はなぜか気が進まなかった。特殊詐欺の受け子として失格だったが、どういう予感か、今日のところは引き揚げるべきだと思った。この女が少し母親に似ていることを差し引いても、異例な、この生業ではあるまじき行為、「本部」に知れたら制裁ものだった。「お金は僕が立て替えておきます。達也さんのこと、心配なさらないように」。翔大はそう言って女の家を出た。

 「本部」には、あともう一歩のところで取り逃がした、警察の影もチラついていたので、今日のところは引くべきだと判断した。そう報告するつもりだった。すべてが虚構、うそ偽りのストーリーを展開し、思いこませて人を騙すこの世界。首尾よくいく方がまれで、たいていは上手くいかない。現場では、実際にはそうなんだけど、このブラックな世界でそんないい訳が通用しないことぐらい、よくわかっていた。“駄目なら他をあたれ、ノルマを果たせ”。問答無用、そう言われるのは目に見えていた。翔大は駅前のビジネスホテルにチェックインすると、コンビニで買った弁当をそのままに、凄まじい速さでスマホに指をはしらせた。データベースから近辺の住所を検索したが、近くても電車で四時間、レンタカーでは二時間半ぐらいかかりそうだった。加えて、いまから新しいターゲットに合わせて架空のストーリーをでっち上げ、組み立てなければならない。一から始めるには時間的にも作業的にも猶予なく面倒で容易でなかった。翔大は狭いベッドへ身体を投げ出し、いまにも落ちて来そうな天井を眺めていた。

 知らぬあいだに眠っていたのだろう、メールの着信音がしてハッと起き上がった。翔大は、気だるそうに壁に設えた狭いテーブルの上に置いた業務用スマホへ手をのばした。午前中に訪ねて取り損ねた、病床の女からだった。“まだ、近くにおられますか。お金を手渡したいのですが”。午後五時をまわっていた。あれから身体の具合が持ち直し、出歩けるようになったのか。渡りに舟とはこのことだったが、どういうわけか、なかなかメールを返せないでいた。その二時間ほど前に、自分のスマホに送られてきた母親のメールとダブらせていたわけではなかったが、妙なイメージというか、内側に漂う嫌な感じを払い除けるのに時間がかかった。“駅前のビジネスホテルとコンビニの間にある喫茶店で午後六時にどうですか”。やっとのことでそう返信した。

 当初目論んでいた通りにお金が入ってくるのだから、ほくそ笑むところだったが、これまた気が進まなかった。百万円ちょっとの、しみったれた小商いだからというわけではなかったが、かりに取り逃がしても他で挽回したらいいとでも思っていたのか、どうもこの案件に力が入らなかった。女は先に来ていた。午前中の、横になっていた姿とは違い、髪もきれいに梳かし、落ち着いた色目のジャケットを羽織っていた。でも、無表情で暗いイメージは変わらなかった。女はテーブルの上に厚さ一㌢ほどの封筒を置いて背筋を伸ばして座っていた。「お待たせしました。わざわざと…」。そう声をかけて腰を下ろすと、女はすっと息を吐き出し、肩の力が抜けたように微かに笑みを浮かべた。

 「これからも達也のこと、よろしくお願いします」。朝から九時間ほどが経っていたが、その達也という息子とまだ連絡が取れていないのか。こうしてお金を持ってくるのだからそうなのだろう。“これで達也君も助かります。お母さんによろしくと…”。そう言って差し出された封筒を懐にしまって、すぐさま喫茶店を出るべきだった。だけど、女のほっとした穏やかな表情を前になぜだか腰が重かった。こちらが何もしゃべらず、封筒に手をかけようとしないので、困っている様子だった。女はたまらず「じゃあこれで、失礼します」と言って立ち上がった。それでも翔大は下を向いたままだった。女がテーブルから離れ、横を通り過ぎようとしたとき、とっさに手首の辺りをつかんでいた。女は驚きのあまり顔が引きつり、身体を硬くしていた。「すいません。これ、持って帰ってください」。翔大は封筒を手に女を仰ぎ見るように言った。自分でも何をしているのか、わからなかった。

 

 ずっと、この名前が気に入らなかった、おばあさんのような感じがして…。名付けた父親への、複雑な思いからなのか、そうしたはっきりした自覚はなかったが、彩乃はうまくいかなくなると、この名前のせいにしがちだった。沙耶香とか麗奈とか優菜とか、そんな名前ならもっと明るくかわいい子でいられたのに…。でも、そうしてぼんやりと駅へ向かう途中に、電車の中で、授業中に窓から外を見やって、とりとめもなく思いをめぐらすことで、気持ちを取り戻そうとしてる、そんなこと気づいてなかったけど。父親がいないせいだろう、どうみてもファーザー・コンプレックスに違いない。彩乃はSNSで知り合った、三十半ばの男と付き合っていた。いや正確には、会うたびにお小遣いをもらっていたので援助交際、いまで言うパパ活と言うべきなのか、そのあたりは微妙で曖昧だった。

 少なくとも彩乃にとって彼は、一般にいう彼ではなく、だからと言ってお兄さん的存在でも、もちろん理想とする父親像からも遠かった。強いて言えば、ぬいぐるみ的な? 愛玩的な? いやそういうのでもない、気を紛らわせるだけの、ちょっと癒しを感じる程度の“モノ”にすぎなかった。彩乃はスマホに気が取られて“モノ”が来ているのに気がつかなかった。「あっ、ごめん。遅くなると思ってた」。そう言うと、木原さんは苦笑いを浮かべて小さなテーブルを挟んで静かに腰を下ろした。「何にする?」。メニューを開いて聞いてきた。やっとスマホから目を離し、こちらに向けてくれたメニューに目をやった。「カルボナーラにしようかな」。木原さんは手を上げて店員を呼び止め、「僕はジェノベーゼで、この子は…」。“会うの、これで五度目だっけ、たしか。モノ扱いはさすがに悪いか”。彩乃は、ホワイトソースのついた口の端を紙ナプキンでぬぐい、笑顔で話しかけた。

 「木原さんって、奥さんいたんだっけ?」。まったく意味のない、どうでもいい話を振った。彼は一瞬真顔になって「どうして? 気になるの」。彩乃は首を横に振って「いや別に。そうなのかなぁって思っただけ」。もちろん、どっちでもよかったし、どうでもよかった。「いるように見えるかなぁ。この歳だし、そう思われても…」。木原さんは少しがっかりしたような感じだった。「なんで? 若いじゃん。そこいらのおじさんに比べて」。少し可哀そうに思えてフォローした。「そんなことも言うんだね、梨央奈ちゃんは…」。彼には“りおな”って呼ばせていた。木原さんは、まんざらでもない様子だった。「これからどうする? どこかいく?」。彩乃がそう聞くと、木原さんは戸惑ったふうにあごの辺りに手をやった。内側がざらついたときに知らぬ間に出てくる癖のようだった。そう、このパパ活、いつもはここまで、食事だけの約束なのだから。

 そうは言っても、ホテルへ行くつもりはなかったし、ただ、沈んだ気持ちをちょっと上げたいだけだった。もちろん悪いけど、木原さんでなくてもよかった。「カラオケでもいく?」。彩乃がそう言うと、木原さんはすぐには答えず、下を向いたまま何やら考えていた。「べつに都合が悪ければいいけど」。じれったいふうに彩乃はスマホを手に深く背もたれにもたれかかった。「いや、そうじゃなくて。もう(午後)九時前だし、帰り遅くなるかなって。それに…」。“見た目は普通の高校生だけど、こんなことをやっているんだから、そんな心配いらんでしょ”。そう心の中でつぶやいた。“そうか、お金のこと? 割り増し料金、気にしてる?”。彩乃は合点のいったというふうにスマホから顔を上げて「ドリンクくらい飲むかもしれないけど、カラオケ代だけでいいよ」。しぜんと薄ら笑いを浮かべて軽蔑のまなこになっていたのだろう。木原さんはこの場から逃げ出したい、という感じで身体を縮こませた。彩乃はだんだん可哀そうになってきて「行こ行こ、さあ…」。屈託のない笑顔で促した。

 カラオケとはいえ、こうして狭い空間で二人きりになるのを気にしていたのか。女子高生のノリに一生懸命合わせようとしてくれているのはわかったが、もうひとつ盛り上がりに欠けた。無理もなかったけど、いつもはあっという間の一時間も長く感じた。でも、木原さんのせいにしてはいけない、わたしの気持ちがこんなんだから…。今夜は、いやこの数日間、何をやっても面白くなくって気もそぞろ、ただぼんやりとしているだけで。なぜ、こうも気持ちが上がらないの? 自己嫌悪って言葉、聞いたことも言ったこともあったと思うけど、その意味、やっとわかったような気がする。たんにジコチューなだけで、それに周りを巻き込んで、なんか格好悪くてバカみたいで…。でも、今夜はもう軌道修正できそうになかった、木原さんには悪いけど。彼は気まずそうにテーブルに一万円札を置いた。「えっ、三枚も要らないよ」。彩乃は一枚だけ手に取った。「今日はごめんね。こんど会うときは…」。べつにフォローのつもりも、もちろんホステスのように客を引っ張ろうとしているのでもなかった。彩乃は、木原さんと手をつないでカラオケ店を出た。


 「りえさん、こちらお願いします」。めぐみママがすかさず、女の子が離れたテーブルへ目配せして言ってきた。いつもは穏やかなママも午後十時過ぎのピーク時には目を吊り上げ気味にテキパキと指示を出す。理恵は、こうした店内がキュッと引き締まる時間が好きだった。彼のことでも考えて、うわの空で接客していた女の子も見るからに態度が改まり、仕草や言葉遣いに明るさやメリハリが出てくる、店全体が活気づく。“さあ、後半戦…”。理恵も、この雰囲気に促されていつもより高いトーンで客に向かう。週末は、十一時を過ぎても他の女の子とともに客の相手に忙しかった。こうして夜の仕事に馴れ出したころ、彼と出会った。彼と言っても客の一人だし、二、三度指名された程度で同伴もしていない。店のことを考えれば積極的に営業メールを送って同伴につなげるべきだったが、まだ心のどこかにホステス然とするのに割り切れなさを感じていた。週末のこの時刻、そろそろ彼が来るかもしれない、そんな予感がした。

 理恵は、カウンター席をチラチラ見ながら客を相手に彼を待った。スーツにネクタイの客が多いなか、五十嵐さんの出で立ちは若い子のあいだでちょっとした話題になっていた。“なにしている人なの? 会社員じゃなさそうだし…”。そのあと、具体的に挙げられる職業で一番多いのはアパレル関係、ついでデザイナー、何人かはIT関係、もしや同業者、それも風俗系…。女の子らは、まったく興味本位にちょっとしたうわさ話で開店前の時間をつぶす。理恵はその輪に加わらず、しぜん耳をそば立たせてやり過ごすが、みんなが言うほど格好よくもおしゃれにも見えないし、ただこざっぱりしているだけで、他の客と比べれば、という域を出ていないように思えた。その彼が今夜はめずらしくスーツ姿でやってきた。でも、どこか他の客とは違う。細身のスタイルにツヤのあるダークなシャツ、もちろんノーネクタイ、足元のイタリア製っぽいライトブラウンの靴、それに嫌味のないシルバーのブレスレット…。理恵は、カウンターに座る彼の後ろ姿を見て、噂する女の子のように少しざわつき感を覚えた。

 彼の口座(担当)は他の子が持っていた。指名が入れば横に付くが、いわばヘルプの延長のようなもので自分の得点、実績にはならない、その子に貸しをつくれるだけで。彼は、三人目だろうか入れ替わる、どの女の子にも穏やかな表情を見せて楽しげだった。けっきょく理恵は呼ばれずに、ママからの指示もなく、他の客に付いたまま午前零時に近づいていた。この時刻、終電で帰る客が出払い、店内は静かで落ち着いた雰囲気に包まれる。あともう少し、という意識も加わって少し開放感にひたれる、ホッとできる時間だった。理恵は、客を見送るためカウンターの横を通りかかった。女の子と話し込む五十嵐さんの横顔が目に入ってくる。彼は気づいていないようだった。客を見送り店に戻って、こんどは彼の後ろ辺りを通り過ぎた。相変わらず女の子の話にうなずき微笑んでいた。仕方なくボーイに混じってテーブルの上を片付けはじめると、めぐみママからお呼びがかかった。ママが手招きするのでそばへ寄ると、耳元に口を近づけて「五十嵐さんが話あるって」。顔を離すと思わせぶりな表情で軽くうなずいた。理恵がカウンターに近づくと口座の女の子が笑顔で手招きし、横に付くよう促した。「失礼します。お久しぶりです」。もっと気の効いたあいさつで入りたかったが、いつものように堅苦しい感じになってしまった。

 五十嵐さんは、これといった話をするでもなく、ただ笑顔で理恵の話を聞いていた。少し間が空いて言葉を探していると「りえちゃん、こんどゴハン食べに行こうか」。てっきり同伴の誘いだと思い、「いいんですが、他の子でなくても」と返した。彼は少し困った顔をして「それでもいいけど。ちょっと話があって…」。同伴じゃなくて、ただ外で会いたいってこと? 遊びでなく何か真面目な話でも? こういうところで遊び馴れている彼が、どうしてまた…。でも、理恵は同伴でなくてもいいと思った、めぐみママには悪いけど、ホステスとして失格だけど。昼の仕事をしている、もうひとりのわたしが会うのならと、だいぶ無理のある理屈をつけて…。理恵は混乱してきたので、いつものように考えるのを止めた。「いいですよ。いつにします?」。店に入らない曜日を告げた。彼の時間に合わせて午後七時半、ラウンジ「スペース」からほど遠い、オフィス街のイタリア料理店で会うことになった。

 来週の半ばに彼と会う―。この歳なんだから、気もそぞろで何も手につかないってことはなかったけど、彼は私のホステス姿しか見ていないのだから、どんな格好で? メイクは控え目で? しゃべり方は昼仕事しているような感じで…。「お母さん、これどうするの?」。彩乃の声で我に返った。土曜日の夕方、キッチンで、流し台の前で、包丁を持って、ぼんやりしていた。「ああ、それね、こっち…」。お母さん、またうわの空、ここのところ多いけど…。彩乃はそんな顔をしていた。たまに、こんなふうに夕食作りを手伝ってくれる娘との時間、もっと大切にしなければいけない。理恵は素直に反省した、やっぱりこの子、なにを差し置いても、かけがえのない、唯一の宝物。もちろん、翔大もだけど…。わたしと彩乃、わたしと翔大のあいだに、誰かが介在してくる、第三者が入ってくるなんてこと、離婚してだいぶ経つけど、まだ考えられなかった。だからと言って、うまく行っているわけでなく、お金のことも、特に翔大のことも…。この現実、しんどい日常、将来どころか明日のことも、心配は尽きなかった。でも、何とかやっている、いろんなもの押し殺して、流されながら…。

 五十嵐さんはまだ来ていなかった。こんな高級感のあるイタリアンレストラン、初めてだった。身の置き場がなくてそわそわしていると、軽く手を上げて彼が入ってきた。「遅れてごめんね、呼び出しておいて」。今夜は、上質そうなネイビーのジャケットにスリムなパンツ姿、仕事のときはこんなふうなのか。「いつもと違う? 変かな」。じっと見つめて反応しなかったので、彼は戸惑っているようだった。「いえ、相変わらず決まってますね」。べつにお世辞のつもりでなく、すっと口を衝いて出た。「お店じゃないんだから、気を遣わずに。何にしようか」。五十嵐さんは、開いたメニューを閉じて給仕にコース料理名と白ワインの銘柄を告げた。「仕事は忙しいの?」。きっと昼の仕事のことを聞いているのだろう。「残業が多いわけではないのですが、ちょっと不規則で…」。五十嵐さんには、おしぼりを配達していること、言っていなかった。普通の事務と思っているようで「いまの仕事、ちょっとって思っているなら、うちに来ない?」。単刀直入に聞いてきた。五十嵐さんの会社にってこと? 戸惑いが表情に出ていたのだろう。「ごめん、仕事のこと、言ってなかったよね…」

 彼は、輸入雑貨の会社を経営していた。実際に何軒かお店を構えていたが、広く国内の雑貨店へ卸すのが主な仕事だった。欧州の雑貨やアンティーク家具の取り扱いが中心で年に四、五回、現地へ足を運んで買い付けて来るのだという。「ヨーロッパだけでなく北アフリカや中近東まで、旅行するのが仕事みたいな。周りから羨ましがられるけど、実際は…」。五十嵐さんは、普通ではちょっと体験できない海外でのエピソードを話してくれた。たいていは他人の話にうわの空の理恵も、旅行好きということもあって彼の話にどんどん引き込まれていった。気がつくと午後十時前、エスプレッソとデザートを前に仕事のこと、子どもが二人いることも、先行きの不安についても話していた。お店では話せないことをこのときとばかりに話している、そんな感じだった。「なんか、いろいろと話し過ぎたみたいで…」。少し照れたふうに言うと「じゃあ良かった。誘った甲斐があった」。彼は、小さなコーヒーカップに口をつけて、やさしく微笑んだ。

 “もしかして、わたしにも運が向いてきた?”。理恵は心のうちでそうつぶやいた。「急がないから、じっくり考えて」。タクシーから降り際に、五十嵐さんはそう言ってくれた。なぜ、このわたしに? こんないい話を…。けっきょく、その疑問は解けなかったが、こういうことも深く考えちゃいけない、理恵はそう自分に言い聞かせた。でも、いいことのあとに悪いことが待っていそうで怖かった。客がホステスを口説くために? イケてるとは思っていなかったけど、このわたしを? 普通に考えれば、たんに身体を狙っている、ただそれだけかも…。居間でぼんやりしていると、彩乃が後ろを通りかかり冷蔵庫を開けた。ペットボトルを取り出し、何か言いたげな感じだった。「ごめんね…」。夜の仕事のない日まで、こんな遅くなってしまって。彩乃は、お母さんの目が赤くにじんでいるのを見逃さなかった。部屋へ戻らず、しばらくのあいだ、何をするでもなく小さなダイニングテーブルのそばにいた。理恵は、彩乃の顔を見られなかった。母親としてだけでなく、ひとりの女として。この歳にしてフラフラして、男のことで悩んだりして、本当にすべてが頼りない、そう、娘に見せる顔がない、なぜこんなふうに…。


 翔大の目には、その光景が現実のものなのか、夢でも見ているのか、はっきりしなかった。数カ月前、逆の立場にいた、やられる方に、つるし上げを受ける側に。口から血をたらし、顔を腫らしたユウトが二重写しに見える、自分を殴っているようで、出来の悪いこの俺を。たんに立場が変わっただけで、この前はこいつにやられた、そのときの恨みを? いやそんなこと…。自分の番になると身体が小刻みに震える、頭がズキンズキンと痛くなる、でも感覚がしだいに麻痺しくる、目をつぶって…。しのぎが、稼ぎが悪いだけでこうはならない。組織を裏切る、意図せずとも結果的に身内を売るような、取り返しのつかない失敗を犯したとき。やるより、やられる方がましだと思った。精神的に? それもあるけど途中で感覚がなくなるし、意識が遠くへ行ってしまう、つらいのは最初だけだから。見せしめに、組織を引き締める手段として、こうして制裁、リンチが日常的に行なわれていた。翔大には、暴力団の資金源の一端を担っているという意識も実感もなかった。末端でこうして地べたを這うようにやっている身には、あまりに遠い存在で、実際会うこともほとんどないし、怖い兄さん方と…。

 気づけば泥沼に足を突っ込んでいる、抜け出せない、身動きできない状況になって…。ここにいる奴らみんな、最初はバイト感覚で、けっこう歩のいい仕事ということで。ちょっと怪しい感じはあったけど、真っ当な求人でないような気もしたけど、かんたんにスマホでエントリーできるし…。そんな感じで集まった、べつに仲間でもない、微妙な関係の奴ら。たいして広くない部屋の一室で、ほとんど会話もなくただ各自スマホへ向かう。真ん中の広いテーブルにはパソコン数台と数え切れないほどのスマートホン。パイプイスが何脚か部屋の隅に立て掛けられているが、使うのはパソコンに向かう奴らだけで、ほとんどは思い思いの格好で、壁にもたれ掛かったり、寝そべったりしてスマホに向かっている。菓子パンをかじっているのもいれば、カップ麺片手にというものも、みんなバラバラに食事を摂ったり、ウトウトしたり、息抜きにゲームをしたり。一見、自由のように見えるけど…。一日中カーテンが引かれているので時間の感覚が麻痺してしまう、陽を見ない日が続く。

 べつに当番というわけではなかったが、溜まったゴミ袋を外へ出すのは翔大の役目だった。後から入って来た子に任せばよかったが、何となく続いていた。回収する曜日を周知するのが面倒だったし、そいつがもし出し忘れたりしたらきっと腹が立つだろうから。それに、出入りは控え目に、慎重にするよう申し渡されていた。万が一、ゴミ出しで近所の人に不審に思われたら目も当てられない。潜行生活で一番気をつけなければならないのは日常の、こうしたちょっとしたことだった。ならば馴れた俺が住人のような面をしてやればいいだけで。もう一つはトイレ。そんな些細なこと、と言われそうだけど、翔大には大きな問題だった。だれも掃除しようとしないので、すぐに汚くなる。他人が散らかした小便や汚物のこびりつきを、率先してきれいにしようとする者がいるはずもなく、翔大が週に一、二度、掃除するはめとなった。仮眠室のマットの臭いや、狭いシャワー室の黒ずんだカビ、それこそ清浄機はあるが、何とも言えない、すえたような澱んだ空気…。生理的に受け付けないことを挙げれば切りがなかった。でも、翔大は一日の大半をそこで過ごした。

 「大丈夫か」。隅でぐったりしているユウトに声をかけた。こんなところで友だちもあったものではなかったが、会話する数少ない“同僚”の一人だった。一応備え付けられている救急キットを持ってきて、口元や額を消毒してやった。面倒だったが、冷蔵庫から氷を取り出し、タオルに包んで腫れた目にあてがった。翔大はこんど、湿布薬を買っておこうと思った。「ありがとう」。ユウトは微かな声を上げて引きつった笑みを浮かべた。互いに素性を明かすことはなかったが、ちょっとした会話の端々に、やさぐれ感のない、まともな感じというか、他の奴らにはない、妙に安心できる、馴染めるところがユウトにはあった。その裏返しではなかったが、詐欺には欠かせない、人を人と思わない冷酷さ、相手が首を吊っても何とも思わない、そんな割り切りはできていないようだった。だから、映し鏡でも見ているように親しみを感じたのかもしれない。ズボンの後ろポケットに着信が鳴った。ウトウトし出したユウトを静かに壁にもたれ掛けさせ、自分のスマホを開いた。

 “どうしているの? ぜんぜん連絡ないけど…”。結花からのラインだった。いつものように既読のまま放っておこうとしたが、あまり無視し続けるのもと思って“元気にしてる?”と一応返した。即座に“そっちこそ元気なの?”。この調子だと、とり止めもなく続きそうなので止めようと思ったが“適当にやってる”とだけ打った。すかさず“大丈夫なの?”。翔大はスマホをポケットに戻した。このあとに来るのは“どこにいるの?”“何をしているの?”“なぜ…”のいつものリフレーンだろうから。結花は高校時代の一時期、付き合っていた子で卒業してからも、たいした用もないのに何かと連絡して来た。いつもなら五分ほどであきらめるのが、今回はどういうわけか執拗だった。さすがに十五分もチェーンでやられると、イラつくだけでなくその執念深さに少々怖くなった、何ごとかあったのか、と。ふたたび後ろポケットからスマホを取り出した。なんでおそるおそる、としゃくに障るも開いてみると“彩乃ちゃんのことだけど…”。

 いまも連絡を取り合っていたのか。家に遊びに来たとき、妹と気が合うような感じではあったけど。ここ(ライン)では詳しいこと話せない、という。何か良くないニュアンスが伝わってきて心配してしまう、こんな書き方されると、妹のことなんだから。もったいぶった、少し姑息な感じもあったけど、とにかく一度会ってみるほかない。翔大は、弱いところを突かれて、気恥ずかしくもだいぶむかしの、元カノと会うはめになった。それよりも、彩乃と話したのはいつのことだったか。家に寄っても声をかけるでもなく、ただ狭い廊下ですれ違うだけ。とくべつ仲の良い兄妹というわけではなかったが、彩乃に彼が出来たときはどんな奴か気になったし、けっこう身びいきして、父親のようにその彼に説教というか、怖い顔して文句を言ったこともあった。とり立ててお金の面以外で、片親の悲哀とか、小さいころにいなくなった父親に対する特別な思いはなかったが、妹にはその欠如感が強いのかもしれない、ファーザー・コンプレックスというのか、それがどういうものか、さっぱりわからないけど…。

 高校を卒業してから、結花とは一度も会っていなかった。いまはきっと大学に通っているはずだ。あのラインから一週間が過ぎたころ、家に帰る用事があって彼女に連絡した。その日の夕方、駅前のファミリーレストランで会うことになった。付き合っていたころからお節介が玉にキズで、うっとうしいところがあったけど、反面気が利いて面倒見がよく、クラスの男子から評判になるほどではなかったが、普通な感じが翔大にとって心地よかった。よく言う、ままごとの延長のような、振り返るのも恥ずかしい、青く切ない、ほのぼのとした付き合い。どこへ遊びに行ったとか、どんなことを話したのか、何も思い出せなかったが、五感にさわる、それこそ繋いだ手の感触とか、セピア色とまではいかない、ざらついたイメージとか、割り切れない切ない思いとか、哀切感ただよう断続的イメージがよみがえって来るのが不思議だった。一年ほどの付き合いだったのに、濃厚なプロセスというか、多感な年ごろだったからなのか。とりとめもない思いを追い払うのに時間がかかった。

 そのファミリーレストランは、高校時代と何も変わっていないように見えた。実際は微妙に、テーブルや席の配置が変わっているのだろうが、いつもこの奥のテーブルに、壁を背にして…。そんな既視感にとらわれながら少し硬めのベンチソファーに腰を下ろした。結花はまだ、来ていなかった。ちょうど日が暮れかかるころで、ウインドウ越しにライトを点けたクルマが行き来し出していた。「ごめん、お待たせ」。声をかけられるまで気づかなかった。「ひさしぶり。元気だった?」。これじゃあ、ラインのやり取りと変わらない、短いフレーズに馴れてしまって。こうして向き合っているのが不自然な、妙な感じがして、互いに言葉を探していた。というわけで、本題へ入るのに時間はかからなかった。「彩乃ちゃんのことだけど…」。結花は神妙な顔つきで話し出した。翔大は想像していたよりもきつい話だな、と思った。自分のことはさて置いて、彩乃の心の闇がどのくらい深いものなのか、その点が気になった。パパ活なんて―。自分のやってることは棚に上げて、放って置けないと思った。

 「そうと決まったわけじゃないけど、話を聞いててそうかもしれないと」。結花は、顔色を変えた翔大をおもんばかってフォローのつもりで言った。そう、やってる子みんなが身体を売ってるわけじゃないし、いっしょに街を歩くだけとか、ゴハンまでとか、いろんなカタチがあるのは聞いていた。だからと言って問題なしとは言えない、お金が介在しているのだから、いつ危険な目に遭うとも限らない。いや、もしかして例のファーザー・コンプレックス? 父親への思慕からこういうことに? パパ活というよりも…。翔大の頭の中はめずらしくグルグル回転していた。「まあ、決めつけないほうがいいと思うけど。あの歳ごろの子っていろいろあるから…」。結花は自分もそうだったというふうにうなずいた。そう言えば、あのころに比べて大人っぽくなった、少しきれいな感じがする、化粧しているから? 翔大は、さっきまで気にしていた妹のことを脇に置いて彼女を眺めていた。すると「どうするの?」といつもの調子で、ラインのやり取りのように言ってきた。嫌な表情を向けると「いやそうでなくて。このあと、どうする?」。付き合っていたころの感覚が何となくよみがえって来ていた。

 近くの居酒屋へ移動した。元カレに会うということで、けっこう気合を入れて来たようだったが、後ろ姿が高校時代と同じというか、変わらないところに安心したり、制服じゃない私服の着こなしに感心したり、しゃべり方や仕草にむかしを思い出したり…。こんなフラットな、妙な高ぶりも嫌な落ち込みもない感じって本当に久しぶりだった。翔大は妹のことも忘れてしまうほど穏やかな気分というか、自分では意識していなかったが、久しぶりに心と体が合わさって安らいでいた。結花はラインと違って、あれこれ言って来なかった。飲み始めて一時間半ほど経ったろうか。「翔大、変わったね」。少しお酒が入ってきたからなのか、核心的なことを言い出した。「そうかな」。自分のことはわからないし、というニュアンスで返した。「見た感じもそうだけど…」。結花は下を向いて言葉をにごした。「そりゃあ、高校時代とは違う。歳とったということでしょ」。翔大は少し自虐的な笑みを浮かべて冗談っぽく言い放った。彼女は寂しそうな顔をしていた。


 理恵は昼の仕事を辞めようかどうか、迷っていた。五十嵐さんに誘われていたからではなく、夜に専念しようかと思っていた。週五日フルに入れば昼の給与の倍以上、三倍近くになるし、昼の時間を有効に使って彩乃のこと、何かしてやれるのではないか、そんなふうに考えていた。水商売しているお母さんって娘の目にどう映っているのか、普通に想像はつくけど、彩乃なら大丈夫、理解してくれる…。自分に都合よく、楽観的にものごとを見る、いつものクセがここにも出ていた。めぐみママの口癖じゃないけど、昼より夜の方が何倍も大変なんだから、覚悟して臨まないと。大変さの本当のところはわかってないだろうけど、これもいつものように“えいっ!”とばかりにやってやろう、後先顧みずに。大事な分かれ目のところで、男前なところが出るのが理恵らしかった。ママは心配そうな顔を見せたが、けっきょく快く受け入れてくれた。どんどん営業メールしてガンガン同伴をして…。この先、けっして明るいとは限らないのに、めずらしく晴れやかな気分だった。

 「この前のお話なんですが…」。そう切り出すと五十嵐さんは、わかったというふうに手で遮るような仕草をして笑顔を見せた。理恵が申し訳なさそうな顔をしていると「ぜんぜん気にしてないから。まあ、イエスならうれしかったけど」。彼には、夜の仕事一本でやっていくこと、でも年齢的に不安なこと、娘がどう思っているか心配でいることも…。そんなところまで話した。五十嵐さんは「それならば、どんどん誘わないといけないね」と笑顔で返してくれた。“口座”になるような、知り合いの社長さんも紹介してあげる、とまで言ってくれて…。仕事とは関係なしに、ふらっと傾いていきそうな、軽く関係を結んでしまいそうな、早くもホステスらしい感じになっているのがおかしくも滑稽だった。五十嵐さんはだいたい月二回、店に来てくれたが、そのうち一回は律儀にも同伴してくれた。いつ口説いてくるのか、待ちわびていたわけではなかったが、理恵はそうなったら素直に従おう、付いて行こうと思っていた。

 口座の客はそうかんたんに増えなかった。たいていのホステスは何軒か渡り歩いて、そのたびごとに客を引き連れて移ってくる。ベースになる口座が最初からあるわけで、それこそベテランのホステスはこれまで培ってきたノウハウに加えて、この口座数がものを言う。どんどん若い子が入ってくるなか、それが命綱となって何とかこの世界で生き永らえる。ラウンジ「スペース」が初めての、三十代半ばの理恵にとってこの先、想像以上に厳しいホステス道が待ち受けていると気づくのにそう時間はかからなかった。でも決めた以上、もう踏み出してしまったからには退路を絶ってやっていかないと。理恵は、めぐみママの言っていたこと、この生業の、一見華やかなホステス稼業の裏にある、どろっとした奥深さ、計算づくしの卑しいダークな部分、外からうかがい知れない本当のところを身に染みて感じつつあった。そこいらの営業マンのように出来合いの商品やサービスをただ売るのでなく、生身の、このわたしを買ってもらうという、シビアな世界。文字通り、身体が資本の、それだけが頼りの、ストレスも何もかも直接跳ね返ってくる、タフな精神の要る仕事。本当にこれからやっていけるのか。理恵は、身体の奥底に鉛のように流れ出した、何とも言えない、この生業の凄みを感じていた。

 昼の仕事を辞めて、身体が楽になったのは確かだった。帰るのは早くて午前一時すぎ、彩乃の弁当を作るため六時前に起きなければならなかったが、彼女といっしょに朝食をとって元気をもらい、送り出したあと二度寝して睡眠時間は併せて六、七時間。体力を回復させるには十分だった。また、昼の自由時間というか、怖いくらい何もない、ぼんやりとした昼のひとときが気持ちをフラットに戻すのに効果的だった。夕方になると、ごはん作りと出勤の準備で忙しくなるが、途中彩乃が帰って来てくれて、ホッと一息をつく。店のミーティングや同伴がなければ午後七時前まで家に居られるので、たいていは彩乃といっしょに夕食をともにし、心身ともにエネルギーを補給して店へ向かえた。世間的には不規則な、こうした生活リズムも、思っていた以上に違和感なくしっくり来ていた、もともとホステス的な素養があったのかと思うほどに。それも彩乃の、普段と変わらない言葉遣いや素振りがあってのこと。というより、前より優しくなったような、こんな母親に対して…。「無理しないでね」。たまにそう言ってくれる彼女の言葉が何よりも支えだった。

 心配はやはり、翔大だった。どういう理由で家に寄り付かなくなったのか。こういうときに男親がいたら、と思ったりもしたが、どう転んでも父親の代わりはできないと割り切ってからは、なぜか彼と向き合えるようになり、理解できるところが増えていった。でも今回は、脅迫めいた電話がかかってくるし、家に戻ってくるのは月に二、三日。どう考えても普通じゃない、それこそ世間に顔向けできない良からぬことに関わっているのではないか。母親の勘に頼らなくても、おかしなこと、これは駄目だろうということがいろいろと目についた。顔に殴られたような痕があったのは分かりやすい例だったし、ちゃんと食べているのか、だんだん痩せていくように見えたし、話しかけても不機嫌になるばかりで返事もしないし…。何よりも表情から精神的に追い詰められているのが感じられ、どうしていいのか、何をしてやればいいのか、ただ無力感にさいなまれるばかりだった。そう言えば、翔大の顔、もう一カ月以上も見ていなかった。あらためてそう思い起こさなくても、意識のどこかにあったはずなのに、忙しさをいいことに、煩わしい厄介なことから目を背けていた。

 「きのうの夜、お兄ちゃん、来てたよ」。朝食のとき、彩乃がパンにマーガリンをつけながら言った。「えっ、そうなの」。流し台の前にいた理恵は驚いたふうに振り返った。「どんな様子だった?」。詰め寄るように彩乃の前に座ると「べつに。いつもと変わらなかったけど」。それ以上、聞きようがなくて下を向いていると「大丈夫じゃない。ああ見えて怖がりだし、真面目なところあるし…」。彩乃が翔大のことをそんなふうに見ていたのか、少し意外だった。必要以上に心配しなくていい、自分の息子でしょ、信じてあげないと…。そう言われているようで、恥ずかしくも少し気持ちが楽になった。たしかにこういう状況になっても、お金をせがむようなことはなかったし、怪しいメールはあるにしろ、実際警察から電話がかかって来たこともないし…。水面下で、知らぬところで何があろうと、表面に、問題が顕われて来ないのなら、当面それでよしとしないと。世間に対して、無責任かもしれないけど、何かあった時は母親として腹を決めて対応すればいい。理恵は、こうして悶々した気持ちを収めるしかなかった。

 店が退けたあと、お客に誘われて食事に行く、いわゆるアフターは気が重かった。というより、嫌なことランキングで上位に入る、できれば避けたいことだった。これまで何人かの女の子といっしょに行くことはあっても一人ではなかった。丑三つ時に、締めのご飯に付き合わされる理不尽、もちろん無給の時間外労働。仕事の延長と考えるほかなかったが、理屈のうえでも生理的にも付いていけない夜の習わしだった。でも、口座の客となれば話も変わってくる。多寡はあるけど金の成る木、断るなんてことできなかった。余ほど体調が悪くてどうしようもないときは、その客が気に入っている女の子に頼み込んで行ってもらったが、貸し借りのことを考えると、これも気が重かった。だから、たいていはしんどくてもお供するが、最悪の場合は朝方まで連れまわされて心身ともにヘトヘトになって…。彩乃の弁当が作れなくて、いっしょに朝食を摂れなくて、“行ってらっしゃい”と言って送り出せなくて…。睡眠不足よりもそっちの方が辛かった、心身のバランスを崩すきっかけにさえなった。


 彩乃は、翔大に聞かれてドキッとした。お兄ちゃんが知ってるはずはないのに。わたしの表情とか素振り? 雰囲気からそう思い、心配してくれてるの? その指摘はずばり当たっていた。でも“それって、なんのこと?”という顔してとぼけるしか…。「誰に聞いたか知らないけど、そんなことするはずないでしょ」とかわすほかなかった。かりにお兄ちゃんにバレても、会ってるだけだから、ゴハン食べるだけだし、この前いっしょにカラオケ行ったけど、でもそれだけだったし…。だけど、彩乃は翔大の顔をじっと見られなかった、めずらしく足を止めて、心配げに話しかけてくれたのに。“パパ活”なんて言葉使わなかったけど、それに近いようなこと、やっているのじゃないかと、いつも愛想のないお兄ちゃんが心配してくれて。なのに、木原さん以外にも二人、同じように会って、ゴハン食べて、お金もらってる…。気持ちがざわざわしたり、気分が落ち込んだり、訳もなくイライラしたり、すごく攻撃的になったり…。普通のときはよかったが、こうして気持ちや気分が移り変わり、落ち込んでいくときは要注意だった。さらに一歩、悪の道へ、奈落へ踏み出してしまわないか、と。どうにもならない心の疼きというか、底なしに下がっていく自分を少しでも上げようとして…。翔大の心配のとおり、その身を売る危険はつねにあった、彩乃が意識している、していないにかかわりなく。

 一カ月もオファーがないのはめずらしかった、でなくてもちょっとしたメールぐらいは寄こしてくるのに。木原さんから音沙汰がない、そんなことを気にするのは初めてだった。だけど、こっちから営業メールするのもおかしいし、夜のおねえさんじゃないのだから。そんなこと思うの、一日のうちの数秒に過ぎなかったけど、ぼんやりしていると、何度か頭に上って来て…。彩乃は整理できない、しっくり来ない、もやもやした感じにとらわれていた。普通のことなら、そんなこと考える前に、意識しないうちに、しぜんと動いてどうにかしている。やっぱり、やっちゃいけないことやってる、と思っているから? わたしにとってパパ活って…。深く考えたくなかったし、悪いことでも不自然なことでもイヤらしいことでもない、そう思い込もうとしていた。わたしも、おじさんたちも、渇いた何かを少し潤そうとしているだけ、虚しさをどうにか埋めようとして、気持ちが下がった分をただ上げたいだけで…。もちろん、愛はないけど求め合っているのだから、それこそ“需要と供給”が見合ってる? 彩乃はそんな難しい言葉を知らなかったが、でもそういう社会の中で生きていた。

 “どうしてるの、元気にしてる?”。とりたててお小遣いがほしいわけでも、何か買いたいものがあったわけでもなかったが、一万円札があと一枚になった財布をのぞき込んで、ちょっと寂しい思いがした。木原さんはすぐに返信して来なかった。午後七時前でも、まだ仕事しているのかな、残業なんかがあって。メール返せないほど忙しいってこと? どうしても今夜会いたいってニュアンス、込めたつもりはなかったけど…。“いまから会う? もう遅いけど”。べつに催促してるつもりはなかったのに、木原さんから、お誘いのメールが届いた。断る理由はないので、というか、こっちからメールしておいて…。八時に駅前のフルーツパーラーで会う約束をした。彩乃は家から歩いて十分ほど、木原さんは電車に乗って三、四十分くらいかかりそうだけど。ひとり家にいるよりマシだし、久しぶりにおじさんと話したい気分だし。お母さんが仕事に行って、ひとりになるこの時間、少し寂しいけど、言うほど嫌じゃなかった。ぼんやりとあれこれ考えるのも楽しいし、あらぬ想像というか、妄想までめぐらして…。でも、今夜は何かが乾いてた、内側に、心にすっと入って来るものが欲しかった。彩乃はスエットの上下そのままに軽い足取りで家を出た。

 きっとだいぶ待つだろうから、先にサンデーでもたのもうかな、それならやっぱりイチゴ味、少しでも気分を上げておこうと思って。スマホに向かおうとしたとき、同じ年ごろの男の子が目に入った。ちょっと見覚えのある顔、たしか中学生のとき、一度同じクラスになった男子なんじゃない? こんな時間に? わたしもだけど…。べつに意識したこともない、普通の感じの子だったけど、こんなところでひとり、何してるの? 彩乃が座っているのが窓際の真ん中あたり、彼がいるのは奥の隅。ちょうど横から見るかたちとなり、ずっと下を向いている彼はきっと気づいていないだろう。かりに正面にいても、わたしの顔、覚えてないだろうけど。もちろん、声をかけずにスマホへ目を戻し、木原さんを待った。「かなり遅れちゃった、ごめんね」。疲れているのだろう、木原さんは息を切らして重そうに身体をベンチシートに沈めた。それとほぼ同時だった。横顔の男の子が立ち上がって出口の方へ進んでいった。なんの気もなしに目で追っていると、彼はこちらに向き直り、会釈する格好を見せた。どういうこと? こっちの驚いた顔、見られた? 真顔な感じがすごく恥ずかしかった。でもそんなことより、なぜわたしのこと、知ってるの? 覚えてるの? 他の子と勘違いしてるだけじゃないの…。「梨央奈ちゃん、大丈夫?」。木原さんの声にハッとした。「ごめん、ぼんやりしてて」。彩乃は、サンデーの生クリームにスプーンを入れて笑顔を向けた。

 「今日はいいよ、わたしが呼び出したようなものだから」。差し出された一万円札を受け取るの、悪い気がした。「いや、ルールだから。そんなことされると、こんど会いづらくなる」。彼はそう言って一万円札を彩乃の手元へ突き返した。テーブルの上に一万円を置いての押し問答。彩乃は、周りから変な目で見られるのを意識して仕方なく一万円を手にとった。「じゃあ、もらっておくけど…」。スエットのポケットに無造作に押し込んだ。この分は、なにかほかのことで返さないと、そうでないとこっちもこの関係、続けられなくなる、彩乃もそう思った。「こんどはもっと、楽しいところに行きたい。カラオケもいいけど」。そう言うと、彼は少し困ったような、でもうれしそうにうなずいた。送るよ、と言ってくれたけど、彩乃はひとり家へ向かった。もうとっくに午後十時を過ぎていたが、べつに急ぐ必要もない、帰ってもひとりだし…。そうして公園の前を通り過ぎようとしたとき、ベンチに座る人影が見えた。進行方向そのままに近づいていくと、傍らの電灯に映し出されたのは先ほどの男の子だった。

 彩乃は、公園を過ぎたところで足を止めた。どうにも気になって公園の入口近くまで戻った。でも、彼に声をかける勇気はなく、ただその場に立ち尽くしていた。自分もそうだけど、こんな時間にこんなところで何をしているの? 帰る家がないってことはないだろうけど、何かの事情で帰れない、帰りたくない、ということなの。でも、こんなふうにしてたら、見回りのお巡りさんに見つかって補導されるかもしれない。自分のことはさて置いて、少し心配になった。彼もわたしのこと、覚えているようなので、ここは思い切って声をかけてみるか。でも、なかなか足が踏み出せない。すると、彼がすっと立ち上がりこちらの方へ近づいてきた。わたしに気づいて、というより公園から立ち去ろうとしているようだった。彩乃はどこかに隠れたかったが、そんなところ、ありそうにない。慌ててドギマギしてると「小森さん?」。彼の方から声をかけてきた。「えっ」。バツが悪いというか、逆に、なぜ夜遅くこんなところにいるのかって聞かれそうで。もう一㍍ほどしか距離はなかった。彩乃は、ほんのりと顔が赤くなっているのに気づいていなかった。

 なかなか名前が思い出せない、向こうは覚えてくれていたのに。彩乃は焦りと申し訳ない気持ちで、まともに言葉が出て来なかった。「こんな時間にどうしたの? そんなこと言える立場じゃないか」とやっとの思いで? 彼は苦笑いを浮かべて下を向いてしまった。このあと、また気まずい沈黙が続くのか、彩乃は怖くなって「そうそう、(中学)二年のとき何組だっけ?」。けっこう間抜けなこと、聞いてしまって後悔していると、すかさず「同じ組だったでしょ。担任の、あの先生、ちょっとおかしな感じの…」。彩乃はブッと吹き出してしまった。そういえば、天然パーマの、そう、けっこう若いのにあのしゃべり方、それに…。先生をきっかけに中学時代の様々な情景が内側にどっと押し寄せてきた。その中に、仲が良かった女の子も、気になる男の子も、妙にいじわるな奴も、そう、端の方だけど笑顔の、この男の子の姿も。「ごめん、名前、思い出せなくて」。正直にそういうと男の子は「佐藤、どこにでもいる名前だから」。彩乃はすかさず、挽回するように「佐藤くん。そうそう、さっきフルーツパーラーにいたでしょ。わたし、気づいてたよ」。負けず嫌いでなかったが、そんな彼女を見て彼はうれしそうだった。

 佐藤くんとはその場で、同級生という安心感もあってラインを交換し、友だちのように「バイバイ」と言って別れた。家に帰ると十一時前になっていた。食べるの遅かったせいか、大好きなフルーツサンドが胸につかえて少し気分が悪かった。お風呂に入ろうとしていたとき、ラインの着信があった。お母さんだろうと開けると、めずらしくお兄ちゃんからだった。“この前の話だけど…”。らしくない遠まわしな言葉づかい、でも心配している感じが伝わってきて。“ありがとう。わたし、大丈夫だから。それより…”。彩乃は自分のことより、お兄ちゃんのほうが心配だった。でもそれ以上、互いに深く突っ込まず“じゃあ”。彩乃はしばらくのあいだ、スマホを握ったままだった。この時間に気分が上がるなんて。でも、目の裏に浮かんでくるお兄ちゃんはしかめ面で苦しそうだった。すぐに気分は下がり、さっさとシャワーでも浴びようと、スマホをテーブルに置いた。その横に、お母さんのメモ書きがあった。“今日は早く行くけど、ちゃんと夕食とってね…”。彩乃はその走り書きをスエットのポケットに入れかけて手を止めた。シワのよってしまったメモを両手でのばして、自分の部屋の、ため込んでいる机の引き出しにそっとしまった。


 五十嵐は場末の小さな事務所で、ある男と向き合っていた。ちゃんとスーツを着てネクタイもしていたが、その脇に柄物のシャツを着た、いかつい感じの男が立っていた。「約束したことは守ってもらわないと。こっちは道楽でやっているわけじゃない」。男は抑揚のない低いトーンで言ってきた。続けて「なぜ今回、半分近くになったのか。これじゃ話にならない」。五十嵐はこの一年のあいだ、相手の言うなりに規定量を納めてきた。半分になった理由は複数あったが、取引先の事情ということにしていた。本当のところはこの男もわかっているはずだった。取り扱うたびに量を増やしていけばいずれこうなる、個人が持ち込める量には限りがあるからだ。もちろん、買い付けた家具や雑貨に忍ばせてコンテナ詰めで海上輸送もしていたが、税関や警察など水際の取り締まりをかいくぐれる量と頻度にとどめていた。「とにかく頼むよ。次はその分、五割増しで。倍でもいいけど」。男は薄ら笑いを浮かべて五十嵐の肩をポンと叩き、チンピラを引き連れて部屋から出て行った。

 最初は、このカラフルな錠剤が合成麻薬とは知らずサプリメントのたぐいと思っていた。二十年くらい前はこれを所持していても服用しても罪に問われなかった。いわゆる脱法ドラックとして広がって規制の網にかかり、いまでは輸入・輸出・製造で一年以上十年以下の懲役に処せられる。MDMA(メチレンジオキシメタンフェタミン)。五十嵐は東日本大震災後の不況をきっかけに、売り上げが落ち込んだときの補填として、この不法薬物を取り扱うようになった。ドイツやオランダなど欧州各地を回って商品を買い付ける機会を利用して国内に持ち込んだ。危ない橋を渡っている割には、言うほどに実入りはよくなかった。一度手を染めればそうかんたんに抜け出せないのをいいことに、奴らは取扱量が増えてもその分を上乗せして還元してはくれなかった。表の経済活動と違い、アンダーグラウンドな暴利を期待するどころか、ヤクザな生業たるところか、変なところで利潤率の傾向的低下に見舞われていた。笑うに笑えないとはこのことだった。五十嵐は、この狭い事務所を訪れるたびに細胞の劣化が早まっていくのを感じた。

 実際に事務所を借りて利用しているのは彼ではなかった。正確には名義貸しというか、使っている友人が自己破産したため、又貸しというかたちをとっていた。「普通じゃないだろ、あいつら。大丈夫なのか」。男たちが出て行ったあと、安元が心配そうな顔つきで入ってきた。「あぁ、心配かけて悪かったね。いや、大丈夫。商売していたらこんなこともあるよ」。五十嵐は自分に言い聞かせるように苦笑いを浮かべた。「ところで、そっちの方はうまくいっているのか」。安元はこの下、同じビルの一階で小さなラウンジを営んでいた。「まあ、女の子も定着して来たし、それなりにってところかな」。彼は無精ひげに手をやって続けた。「ほんと、おまえのお陰だよ。こうしていられるの」。すぐにその話になるので、五十嵐は手でさえぎるような仕草をして「真面目にやっているからだよ、こころ入れ替えてっていうのか。おまえの…」。これ以上は変な褒め合いになりそうなので、そのあたりで止めておいた。

 安元は、最初に勤めた商事会社の同僚で、五十嵐より早く辞めて個人で食品や雑貨を取り扱う卸し会社を始めた。先を行くかたちで独立した彼は、事業の見通しがついた二年後、パートナーとして五十嵐を迎え入れた。それもつかの間、社員が三十人ほどになって軌道に乗りだしたころ、安元が突然辞めると言い出した。五十嵐にすべてを任せて欧州へ渡り、新しい事業を起こしたいという。新しく何かをやりたいのなら、この会社でやればいい、新規事業として、おまえの会社なのだから。そう説得したが、けっきょく五十嵐が会社を引き継ぐ羽目になった。安元に先見の明があったということか、五十嵐の手堅い経営手腕で小規模ながらも専門商社として業容を広げていった。そんな経緯もあって、安元とは腐れ縁というか、いいときも悪いときも相手の状況や都合にかかわりなく、つねに互いの意識の中にいる、気になる存在であり続けた。

 だから、安元が多くの借金を残して行方をくらましたときも、どうにもこうにもならなくて自己破産しても、旅先で自殺未遂をやらかしたときも、五十嵐は当たり前のように出来ることは何でもした。周りがそんなことまで、というようなことまで、それこそ身内以上に。もちろん借金の肩代わりから、女と別れるときの手切れ金も、何かをやろうとしての出資金はとうぜん、そう、最近ほそぼそと始めた下のラウンジの開業資金も…。お金で解決できることなら、と五十嵐は安元の後始末を何でも引き受けた。「何かあったら言えよ」。「ああ、悪いな」。別れ際の、ふたりの口癖だった。下積み時代の同期のよしみ、気が合う者どうしの男の友情、利害関係を超えた強いつながり。どれも当たっていそうで当たっていない。五十嵐の側からは、どうにもこうにも放っておけない、けっきょく当てにならないが一緒にいるとどこか心強い、ある意味かけがえのない存在だった。一方、安元にとっては…。誰が見ても双方向でない、アンバランスな、いびつな関係性がどういうわけか、ふたりをつなぎ止めていた。

 五十嵐は二、三年ほど前から、輸入商社も潮時かな、と考えるようになっていた。IT化の進展によって、誰もがネットで世界中の商品をリサーチし、個人輸入できる時代。わざわざ国内の雑貨店や家具店を回らなくても気に入った商品をオンラインで手にできる。ただ、仮想空間のため悪徳業者がばっこしやすく、詐欺まがいに粗悪品をつかまされるケースもあるが、いたちごっことは言えセキュリティの向上と取り締まりの強化で被害を軽減させる努力が重ねられている。彼の会社でもオンライン販売やネットオークションに力を入れて事業の主要な柱に成長しつつあったが、アナログで慎重な性格の五十嵐はもうひとつ、この流れに乗れないというか確信をもてなかった。けっして新規分野への投資に消極的というわけではなかったが、若手社員から上がってくる企画やアイデアがしっくり来ない、たんに自分の意識が、感覚が時代の趨勢に遅れて付いていけてないだけではないか。きっとそうなのだろう、自分自身にも潮時が来ている? 五十嵐は会議の席で静かに自分と向き合っていた。

 「いつもすいません。さあ、行きましょうか」。タクシー乗り場のすぐそば、待ち合わせ場所に彼女はいた。余ほどのことがないかぎり、お客さんを待たせてはいけないと強く思っているのか、約束の時間より十五分ほど早く着いたときも先にいて笑顔で迎えてくれた。だから聞いたことがあった。「いつから待っていたの?」。すると「昨日からじゃないから、大丈夫」と笑った。美容院に行ったりして遅れても、メール一本送ればいいやって女の子が多いなか、そのあたり彼女はちゃんとしていた。どんな些細なことでもお客さんに不快な思いをさせない、ホステスなら当然のことも、できる子が少なくなったと五十嵐は感じていた。胸を強調するボディコンシャスなドレスを着て、横に座って身体をピタッと寄せて、甘えた声でしな垂れて…。それがサービスと思っている女の子が実に多いことか。五十嵐は、たんに不器用からか、性格的に出来ないのか、まだこの仕事に馴染んでいないだけなのか、いずれにしてもそういうところから遠い、りえが気に入っていた。

 同伴の二、三日前に必ず、りえから電話があった。「何か食べたいもの、ありますか」。当初は「何でもいいよ」と答えていたが、決めてあげるほうがよさそうなので、最近は和食・イタリアン・中華、それにアジア系の多国籍料理も加えて、そのうちどれか答えるようにしていた。たいていは食べたいものが浮かばなかったが“たしかこの前は和食だったから今夜は…”とローテーションで決めるようにしていた。「わかりました。それじゃどこか予約しておきます」。短いやり取りだったが、りえはメールでなく必ず電話してきた。もともと通話派なのか、できるだけ相手の声を聞いて事に当たろうとする姿勢も悪くなかった。ただ、もっとお金のはるところでも構わないのに、必要以上に負担をかけないようにと思っているのか。その気持ちも理解できなくはなかったが、こっちは小さいながらも会社の代表者、割烹でもフランス料理店でも問題ないし、逆にそういう高級な店でおいしいもの食べさせてやりたかった。そこらあたりの少々ずれたところ、よく言えば過ぎた気遣いの利くところ、控え目で奥ゆかしいところが気に入っていたのだけど。そう、家では普通にしっかりとお母さんやって、みたいな…。そんなところが五十嵐を引きつけていた。

 「もうそろそろ出ないといけないね」。五十嵐のほうから促した。午後八時を過ぎていた、そろそろ出勤する時刻だった。りえはゆっくりした仕草で腰を上げた、少し気が進まないような感じで、もう少しこうしていたい、というふうに。ちょっとしたデート気分から、客を店へ送り込む、営業的な切り換えの場面。同伴にはつきものの、白けてしまう感じを少しでも覚えさせないように…。ネオンに照らされた通りへ出て、長くて三百㍍ほど、ふたり肩を並べて店まで歩く。開店まもない時間帯なので客はいても一、二組、ひとり奥のコーナーへ通される。りえが店に出る支度をしているあいだ、若い女の子が相手をしてくれる。初めて見る子が付くと、五十嵐はやれやれという感じを押し殺して、笑顔で迎える。普通に「はじめまして」から始まって「まだ一週間しか経っていなくて」と続き「渋いですね。決まってますね」とお世辞を経て「何されているのですか」。だいたいこんな感じで、いつもそれに受け答えするのが最近とくに面倒に感じるようになっていた。

 若い子に興味がないわけではなかったが、要するにセクシュアリティの減退、年齢から来る性的欲求の低下を感じずにはおれなかった。十年前に離婚してから、とうぜん何人かの女性と付き合ったが、こちらから積極的にいくことはほとんどなかった。恋愛にかぎらず、日常のこまごました事柄がすべて繰り返しに思えて、いまの子が言う、上がらないというか、何をやっても面白くなく、内側にぐっと来るものがなかった。きっと年齢のせいなのだろう、好奇心が衰えて、生気がなくなって来て、こうして気分が落ち込んで、そして挙句の果てにうつ症状に陥って…。「ごめんなさいね、バタバタしてて」。カウンターに移っていた五十嵐を見舞うように、りえが申し訳なさそうに横に座った。「売れっ子なんだから、仕方ないよ」。そう返すと「五十嵐さんもそういうこと、言うんですね」。皮肉とは捉えていないようだったが、意外そうな口ぶりに聞こえ、俺って冗談も言わない人と思われている? こちらこそ意外でちょっと心外だった。「今夜は思いのほか、お客さんが多くて」。りえはちょっと疲れたふうな表情を見せた。「こっちは大丈夫、けっこう楽しくやってるから」。五十嵐はそう言って、先ほどから付いてくれている女の子の方へ目をはしらせ、笑顔をつくった。

 その夜は二時間を待たず、店を出た。「ごめんなさいね、今夜は…」。りえはエレベーターのなかで腕をつかんできた。「ぜんぜん気にしないでいいよ。同伴のあとは他の若い子でっていうのが…」。五十嵐はそう言いかけて言葉を飲み込んだ。「よくそう言うけど、食べたあとも一緒にいたいって…」。りえもそう言いかけて“それは自分だけのことか”と思って下を向いた。その素振りで察したのか、五十嵐は「店では別の子で、と思う客もいるし、引き続き付いてほしいと思う男もいるし…」。前者なのか後者なのか、そのあたりを忖度されること自体、恥ずかしくスマートでないと。エレベーターを降りた店先で、公衆の面前で、りえはめずらしく抱きついてきた。軽くハグ程度なら気にすることもなかったが、ぐっと身体を寄せてきた。べつに戸惑う必要はなかったし、客とホステスの、よくあるオーバーなパフォーマンス、とうぜん営業的なニュアンスが濃厚な…。そう思えばわかりやすいし、その場面に一番適った解釈の仕方だった。五十嵐が身体を引き離そうとしたとき、りえの目が少し潤んでいるのに気づいた。


 このところ、いやだいぶ前からか、体調がすぐれなかった。めぐみは、たんに疲れからか、ホルモンバランスの変化か何かだろうと思っていた。曲がりなりにもあの大通りで店を構えているのだから、けっこうなストレスがかかるのは当然で、神経性の胃炎が慢性化し、朝起きたときに重く倦怠感が圧し掛かってくるのは仕方のないこと、これも避けられないラウンジ経営のコスト、心身にかかる負荷と割り切るほかなかった。なにか悪い病気じゃないか、このまま放っておいていいのか、怖くなってさらに気分が落ち込む、そんな内心のふらつきに振り回されていた。その日も、重たい身体をベッドから起こし、しばらくのあいだそのままの状態で動けなかった。  スマホの着信音が微かに耳に届いたが、手に取ることもなく放っておいた。いつものラインでなく、聞きなれないショートメールのサウンド。大きく息をついでやれやれという感じで開くと二件、同じ人からのものだった。通話番号を交換したのだから、知り合いのはず、きっとお客さんだろうけど、名前に見覚えがない、思い出せない。文面から探ろうにも“お久しぶりです。こんどまた、お会いできるのを…”とその程度。迷惑メールってことも考えられるけど、知人を装った特殊詐欺の…。めぐみはスマホをベッドサイドのテーブルに置いたまま、寝室から出て行った。

 いつもならこの時間、ダイニングかリビングにいるはずが、見当たらない。部屋で仕事をしているのかと思い、半開きのドアを押してみたがいなかった。トイレでもなさそうだし、でも外出しているはずがない、外へ行くなんてこと…。引きこもりの子どもじゃないのだから、ずっと家に閉じこもっているわけでもないけれど。めぐみの内縁の夫、榊原はベランダの端でタバコをくゆらせていた。サッシが開く音に振り向いて「起きていたの」。“どうしたの? いつもより早いじゃないか”というニュアンスをただよわせ、少し寒そうに肩をすぼめて中へ入ってきた。「ベランダへ出て大丈夫なの?」。何の気なしに聞いてしまったが、めぐみはすぐに気づいて内心ドギマギ慌てた。彼はそれに反応せず、そのままキッチンへ入って食事の支度を始めた。めぐみは、これって良くなる兆候、もう大丈夫のサイン? そう思いながらリビングのソファーに身を沈めた。ベーコンエッグを焼く音と匂いがキッチンからただよって来た。いつもより早いブランチ、午前十一時を過ぎたころだった。黙って食べる彼の姿を見ていて、めぐみはある既視感にとらわれていた。あのころもこんな感じだった。でも、どこか違う? まだ少し違和感があるけど、そんな細かいこと、どうでもいい。彼に透明感が戻ってきたような、そんな感じがした。

 「ごちそうさま」。彼は軽く手を合わせ、食器を重ねて立ち上がった。ひとりダイニングに残されためぐみは、最後にとっておいた卵の黄身に箸をいれた。ねっとりした黄色い液体が白い皿の上で静かに広がっていく。“これで少しは…”。もしかして彼の内側で、心のうちでやっと何かがじわりと動き出したのかもしれない、自身気づいていないだろうけど。もう何年もパートナーでいる私にしか、この小さな変化、キャッチできないだろう。ほんとうに微細な、細胞レベルの変異なんだけど、たしかに間違いなく、彼は少しずつ…。めぐみは、すっと胸のつかえが取れていくような、少し和らいだ気分になった。皿を重ねてキッチンへ持って行くと、流し台の彼が振り向いて手を差し出した。めぐみは首を横に振って彼の横に立ち、シングルレバーを上げて自分の食器を洗いだした。彼は何も言わず、彼女が洗い終わるまで布きんを手にし、ずっとそばにいた。めぐみはそっと榊原の腕に手をやった。彼は彼女の分も、丁寧に包むように布きんで拭き始めた。

 リビングで本を読むのが彼の習慣だった。仕事部屋ではたいてい、パソコンに向かっていて、本を読んでいる姿を見たことがなかった。読みかけの本を二、三冊、ガラス板のテーブル下段に置いて、並行して読んでいるようだった。めぐみには、話題にするきっかけすらなさそうな難しいタイトルばかり、本というより何か重厚な物体のように見えた。並んでソファーに座ってスマホをさわっているときも、キッチンでご飯の準備をしているときも、寝室から出てきてリビングを通って浴室へ行くときも、彼は組んだ足の上に本を乗せてブロンズ像のように微動だにしなかった。彼の、そう多くないルーティンのうち、本を読む行為は時間的に長く、きっと質的にも重きを置いているのだろう。そのあいだ声をかけることはなかったが、だからと言って物音を立てないように気を配る必要もなかった。“黙する彫像”は、雑音が混ざる日常のひとコマにきれいに溶け込んでいた。

 家にいても頭のどこかで店のことを考えている、どこにいても頭から離れない、それは仕様のないこと、そう諦めていた。それこそ彼女のすべて、とはいかなくても心身の組成の九割以上がそこへ注がれていた。ラウンジ「スペース」で毎週末に行なわれるミーティングでは、この一週間に起こった、ちょっとした出来事も報告し合うようにしていた。よくある客とのいさかいから、言い出しにくい店への不満、女の子どうしのもめごと、ボーイに対する不満まで。率直に言い合える環境づくりに努めた。それは、それぞれ女の子どうしで、というような問題も、たとえ解決できそうにない難問も、その場で共有し、対する思いや不満、不安を吐き出させることで、少しでも店の雰囲気をよくしようと心がけた。それと、やさしい心配り、誠実な対応、ガツガツしない姿勢の三点、ミーティングの終わりに繰り返し強調した。もちろん、ホステスそれぞれにノルマを課したが、数字よりも客への向き合い方、サービスとは何か、あえて抽象的で難しいことを女の子らに考えさせた。目をキョトンとさせて答えられない子がほとんどだったが、けっきょくはサービスの基本、客へのおもてなしに行き着く。いつも強調している三点がどれだけ大切か、実感してもらうことが肝心だった。同伴や指名の数を競い合わせて、ひとり一人のお客さんへの対応が疎かになっては元も子もない。ことの本質に何度も立ち返り、サービスの基本に戻ること。それが売り上げ増への近道、そう考えていたし、実際そうだった。

 だからと言って、上がって来る数字を軽く見ていいはずはなく、日ごと週ごと月ごとの売り上げに内心、一喜一憂していた。損益分岐点というか、大まかなラインがあって、そこからプラス・マイナスどの辺りにあるのか、少なくとも四半期ごとにシビアな数字と向き合わなければならなかった。たんにお店を回すだけなら、極端に言えば自転車操業的なやり方でも、現金商売なので経営自体は成り立つが、どんぶり勘定的なやり方は性に合わなかった。でも、その辺りがめぐみママのいいところであり、悪いところでもあった。ホステスの側からすると、けっきょくは夜の仕事なのだから、ここでしか働けない女の子が集まるのだから、いい加減なところや出来の悪い部分も広く許される甘い世界でないと…。めぐみにしても、小難しいことばかり言うつもりはなかったが、あまりにもステレオタイプのホステス然とした、もっと言えばだらしない、男にもお金にも、そういう女の子はしぜんとめぐみの店から消えていった。往々にしてそういう子に多くの客が付いているもので、お客を持っていかれてダメージに違いなかったが、だからと言って引き止めようともせず、逆に辞めるよう促すことすらあった。

 しだいに店の顔へ、めぐみがラウンジのママへ変わっていく夕刻にはたいてい、榊原は仕事部屋にこもりパソコンに向かっていた。名刺にはフリーライターと記していたが、仕事を増やそうとする気配は見られず、昔から付き合いのある編集プロダクションの二、三社から来る、ちょっとした仕事をやる程度、他の時間はぼんやりしているか、小説を書いているかだった。読書、仕事、ぼんやり、小説、そして家事。その比率はここ数年、ほとんど変わりなく、凡庸なデイリーを刻んでいた。ただもう一つ、デイリーの五要素と並び称さない、特異な現象として彼特有の、精神とのやり取り、戯れがあった。めぐみにしてみれば心の病、神経症、抑うつ症、精神病のいずれにしか見えなかったが、榊原にとってそれは可能性の中心、まさに生の原動力であった。素人目にも、これはやばい、うつ病としか思えない彼の素振り、振る舞いに、どう対処すればいいのか、そっとしておくほかないのか、めぐみはずっと悩んできた。ベランダの一件もそれで、本人は気づいていないようだったが、突然すくっと立ち上がって、それこそ吸い込まれていくように窓際へ進んでいく。こちらもしぜん、腰を浮かして追うような感じになってしまう。

 本人はどういうつもりなのか。ベランダの縁に手をかけて身体を伸ばす仕草をしたり、ただぼんやりと景色を眺めてみたり。それが三十分も、いや一時間近く続くこともあった。めぐみにしてみればいつ飛び降りやしないか、ハラハラしながら彼の動きを目で追うことになる。ときに夢遊病者にしか見えない、彼の行動にいつまでたっても馴れなかった。でも、ふと思った。彼には何かが見えているのだろう、きっと、その目の先に、ベランダの向こう側に…。めぐみには見えない何かがきらめいている、そうなんだろう。もしかしてこの世では期待できない、尊い崇高なもの? どんよりとした日常をスカッと切り刻み、希望の光を差し込ませる何か? 長くパートナーをやっていようが、日常をともにして穏やかに愛を育んでいようが、もちろん共有できない、窺い知れないところがあって当然だし、逆にそうだからこそ興味が尽きず、その関係性を維持できるのだろうか。でも、程度というものがあって、それこそ死にかかわるような、めぐみにしてみれば彼のおどろおどろしい雰囲気、ときに奇怪な振る舞いは、ただ神経をすり減らすだけの、身体にも大きなダメージを与えるものだった。深夜、家に帰ったときの、彼の生存確認。それがめぐみのルーティンから外れることは当分この先もなさそうだった。

 身支度を整えてソファーに座り、スマホを手にした。店の女の子らや馴染み客からのラインの処理に長いときは一時間近く費やす。急に出られなくなった女の子が重なると、シフトを変更しなければならず、休みの子に連絡をとったり、急を要するお客さんからのオーダーに対応したりと、店へ出る前からバタバタと振り回された。そのあいだ、彼はトイレに立つこともなく、邪魔にならないようにか、物音一つ立てず、おのれの存在感を消すように部屋へ閉じこもった。このあと、家を出て店に着くまでがまた大変だった。出勤前の美容院での髪のセットと和服のときは着付け、それにお客さんへの心づけを買うための百貨店まわり、さらに同伴が入れば…。もう、めぐみママの意識の中に彼はなかった。こうして切り換えがスムーズにできるかどうかが、彼女の好不調を占うバロメーターだった。店と彼、そのあいだを行ったり来たり。私はまだ、恵まれている、そう思うようにしていた。店だけではないし、もう彼だけという歳でもないし…。「ママ、おはようございます」。店に入ると、りえがひとり迎えてくれた。

 「どうしたの? 早いじゃないの」。めぐみは、小さな紙袋を何個か手に提げて立ち止まった。「お話がありまして…。持ちます、さあ」。理恵はめぐみから紙袋を取り上げると、カウンター奥の事務所兼控え室へ向かった。後に続くかたちとなっためぐみは「ありがとう。辞めるとか、そういう話ではないでしょうね」。理恵の背中へ向かって聞いた。「いえ、そういうことでなくて…」。理恵は紙袋を持ったまま振り返り、戸惑い気味に返した。「紙袋はそこら辺りに置いて。さあ、座ってちょうだい」。めぐみと細長い机を隔てて差し向かいになった理恵は、少し表情をこわばらせて話し出した。「五十嵐さんってどういう方なのですか…」。何か奥歯にものが挟まったような、もうひとつ意図がはっきりしない、彼女のそうした素振りは初めてだった。「そうね。たしか口座は絵美ちゃんでしょ。前の店からの知り合いのようだし、一度聞いてみたら」。めぐみは五十嵐について、けっこうなところまで知っていた、少しやばい仕事に手を出していることも。でも、客のプライベートなことを軽々しく言えない、特に店の女の子には。何かのトラブル? いや、いい話なの? めぐみは、彼女の表情からどちらなのか、読み取れなかった。


 こんなことを続けていていいのか。木原は梨央奈(彩乃)と別れたあと、いつも後悔半分、もやもやとした気分になった。落ち込むほどではなかったが、世間でいうパパ活を割り切ってやっているわけではなかった。たんにSNSで知り合って、ことの成りゆきから、仕方なくではないけれど、しぜんと会うようになって。それがけっこう自然な感じで、思いのほか楽しくて、やめられなくなって。でもこんなおじさんにって思うと、おこづかいぐらいあげないと、申し訳なく思って。三千円、五千円じゃあ子どもだましみたいだし、それで一万円ってことになって。けっきょくそれじゃあ、そういうつもりでなくても正真正銘のパパ活じゃないかって…。教育上よくないに決まっているけど、ひとり親って言っていたし、何か学用品や塾の費用の足しにでもなれば、と。こうして心の内で正当化してやり過ごそうとするも、けっきょく自己嫌悪に陥ってしまう。それに、ご飯をいっしょに食べるだけ、というふうにしていたが、それ以上は期待してない? そう言い切れるか自信がなかった。このあいだも“もっと楽しいところ行きたい”って言ってくるし…。木原は道すがら、とりとめもなくそんなことを思いながら、気がつくと自宅の玄関先まで来ていた。“もう休んでいるだろうか”。そう願い、ドアノブに手をかけた。

 木原には中学生の子どもがいた。五年前に結婚したのだから相手の連れ子。どうにもこうにも、なかなか距離が縮まらない。義理の仲、血がつながっていないのだから仕方ない、そううまくいくはずがない。そんなことは分かっているけど、毎日顔を合わせるとなると…。なんて声をかけて、どうしてやればいいのか、親として、それが無理なら目上の者として、どう向き合えばいいのか。いっしょに生活する前から容易でないと予想はしていたが、ことごとく不自然な感じになって戸惑うことばかり。当初ほどではないにしろ、表面的には普通に対しているように見えても、どこかしっくり来なくて、構えてしまって、つねに距離があって…。中学三年生で、しかも女の子、受験もあって思春期の真っ只中、本当の親子でも難しい年ごろなのに。言葉はいらない、通じているとか、なんだかんだ言っても底でつながっているとか、そういうのがないのだから、分かり合えるなんて…。そんな諦めもあって自縄自縛、外形的には何とか取り繕ってきたけれど、正直疲れ果てていた。梨央奈ちゃんとのように? 歳もほとんど変わらないし、女の子だし、しぜんにフランクに話せたら…。冷蔵庫を開けてミネラルウオーターのペットボトルを手にして振り返ると、彼女がそこにいた。

 「勉強? よくがんばるね」。めずらしく反射的に言葉が出てきた。「お腹すいてない? 大丈夫?」。これもスムーズに続いた。でも、娘は何も言わず冷蔵庫を開けて同じようにミネラルウオーターを取り出した。いつもなら、そのまま二階の自分の部屋へ引っ込んでしまうが、どういうわけかテーブルを挟んで前に座った、横向きにスマホをいじっていたが。こっちも、いつもならドギマギしてしまうところが、なぜか平静、そう、このシチュエーション…。「いつもごめんね。本当のお父さんなら…」。自分でも驚いてしまうような、思いもよらない言葉が口を衝いた。いや、いつも心の内で、深層心裡で思っていたことが、どういうわけか思わず出てしまった? つい数時間前まで、同じような年ごろの子を前にして普通にしゃべっていた、その延長線上で? これってやっぱり不謹慎なことなんだろうけど、意識のうちで妙に奏功して、うまく重なり合って、この子の前でもスムーズに言葉が出てきて…。相変わらず、娘は何も言わない。横を向いて、スマホから目を離さない。木原も同じようにスマホに向かった。でも彼女、二階へ上がろうとしない。どういうわけかそこにいた、僕の前に。少しずつ変わっていってる? 思い過ごしかもしれないけど。

 「おはよう。昨日遅かったのね」。職場の飲み会で二次会へ誘われるかも、と言っていた。遅くなった原因はわかっているはずだから「あぁ…」というほどの短い返答で済ませ、朝食を前に座った。例の娘が勢いよく二階から降りてきて、目の前で三分もかけずにロールパンを冷たいオーレで流し込んでダイニングから出て行った。まだ、六時半なのに? いわゆる部活の朝錬か文化祭の準備や練習なのか。母親が弁当を忘れないようにと、玄関まで行って娘と合流、笑顔で送り出した。「最近、早いね」。食パンにマーガリンをぬりながらそれとはなしに聞くと「何も話さないけど、部活なのかなあ。まあ、寝坊して遅刻するより…」。母親にも理由を告げず、いつもより一時間も早く家を出て行く娘。代わり映えしない日々の、変化とも言えないほどの、取るに足らない些細なトピックス。このあと、支障をきたすような、問題になるような、それこそ事件につながるような、そんな可能性が限りなくゼロに近い端緒であっても、少しずつズレが生じていって、微妙に音調が外れていき、プロセスに変異が潜在していて目に見えない歪みが見つかって…。たんなる思い過ごしで、杞憂に過ぎず、放っておけば何ごともなく進んでいくような、かりにそういうものであったとしても。木原は、何となく波長が合い出してきた娘の素振りに違和感を、危惧というほどではないにしろ、これまでにないものを感じていた。

 「今日はいつも通りでしょ。じゃあ、いってらっしゃい」。娘の母親に、同じように弁当を持たされて見送られ、家を出た。自転車にまたがり、ゆっくりこいで二十分ほど、市役所へ向かう。彼は総務部市税収納課に勤めていた。自転車置き場から職員専用出入り口の端末にカードを通し中へ入る。だだ広い一階フロアの真中辺りに市税収納課はあり、市民と接する必要からカウンターに近い、通路側の一角を占めていた。課員は非正規職員を含めて十人程度、徴収・納税管理・税制の三担当に別れていた。木原は年齢的に中堅ところだったが、ローテーションで回ってくるカウンター業務にも、若手に混じってけっこうな頻度で携わり市民と直接かかわった。苦手な分野に違いなかったが気の紛れるときもあり、避けたい仕事というほどでもなかった。今日は、そのカウンター業務の日だった。リタイヤして年金生活に入る人や高齢者からの相談が多く、我慢強く聞く姿勢とわかりやすく説明する能力が問われた。「どういうご相談でしょうか」。こちらがそう伺いを立てる前に、一方的にしゃべり出す市民が多かった、なぜこんなに税金を取られるのかと。

 ちょうど納付期間が過ぎたころだったためか、その日の午前中は、後ろに何人も並んでという様子ではなく、比較的穏やかに過ぎていった。昼を終えて長い午後が始まるのかとため息をついて座ると、若い女が、そうは言っても年寄りばかりを見ているのでよく見ると三十半ばの、派手めな女が背もたれに深く腰掛けて少し顔を傾けていた。話し出そうとしないので、ここぞとばかりに「どういうご相談でしょうか」。そう話を向けても黙ったまま木原の顔を見ている、にらむように。そこは木原の唯一いいところと言うか、ある意味優れている点だったが、人を色眼鏡で見ない、偏見を待たずに自然な素振りで対応できる、そうしたところを感じ取ったのか、その女はしだいに表情をゆるめ、話し出した。要するに、税金が納められない、どうすればいいのか、という相談だった。お金がない、そんな見っともない話を、虚勢を張らずに話せる人はそう多くないだろう。木原は、あっちこっち飛ぶ話を和やかな表情で根気よく聞き、納税免除の対象範囲や減額になる方法など負担軽減の方策を丁寧に案内した。納得したふうに帰る、その後ろ姿を見送るのが、ちょっとした醍醐味であり、この仕事の矜持にもつながる、少しばかりの慰みだった。

 でも、そういうことはまれで、お役所仕事と揶揄されるぐらいだから、気が滅入る凡庸な、杓子定規な、どちらでもいいようなことをああでもないこうでもないと無駄に時間を使う、下らない業務が大半だった。こんなことで一日八時間、拘束されて一生を終えるのかと思うと、やりきれない気持ちになった。自己実現という言葉から遠ざかりすぎて、無感覚になって、意識の縁すらかすめずに、諦めるのに馴れてしまって、日常の奴隷に堕して…。創造や発展、進歩から程遠い、ちょっとした変化すらも拒もうとする、このプロセス、けっきょく身動きできないリアルで残酷な過程。その中でしか、生きるってことは?    そんなはずじゃなかったと、そう悔悟することすら、生理的に避けて、保身のために、ほどほどに精神を安定させるために、そう生き永らえるためだけに…。終業時間が近づいていた。木原はカウンターに広げた書類をひとまとめにして背筋を伸ばし、姿勢をただした。順番待ち発券機のゼロ表示を確認し、おもむろに席から離れた。

 “元気にしてる? なにしてるの?”。習慣のように、気がつくとラインしていた。ショートメールが面倒ということで昇格、これからは友だちのように? いや最近ではちょっとした関係でもライン交換するようだけど。すぐに既読がついた、ほぼ同時に“友だちといてる、どうしたの?”。木原は、なんのためらいもなく、それこそ必然であるかのように“いやべつに。どうしているかと思って”。梨央奈は、これも何も考えず“わかった。来週会う?”。いつもこんなふうだった、せいぜい一カ月に一、二回のことだったけど。“いいの? 大丈夫? そろそろ中間試験じゃ…”。気を使う彼に“なんで? そんなこと”。彼女の不機嫌なニュアンスに“ごめん。そう、関係ないよね”。気を損ねたかと冷や汗かいている彼に“何曜日? 真ん中あたりがいいけど”。試験も、変な気遣いもどうでもいい彼女に“じゃあ、水曜日で”。ここは優柔不断でない彼に“またカラオケいきたい。どう?”。この前の歌っている姿を思い出して彼女に“了解です”。けっこう楽しそうだった彼に“楽しみにしてる、じゃあ”。木原はスマホをカバンにしまい、自転車置き場へ向かった。


 理恵は、ふと気づいたら五十嵐のことを考えている自分に戸惑いを隠せなかった。たんにいい人というだけでなく、なんだか翳りのある、悪く言えば裏の顔がありそうな感じに魅かれてる? 月一回の同伴に加えて、普通に何度か会うようになっていた。彼は仕事の合間の、早めの夕食として、彼女は出勤前の、ちょっとした腹ごしらえに。小一時間ほど何を話すでもなく時間をともにした。食事を終えるころにはいつも、いっしょに店へ行こうか、と言ってくれたが丁重に断った。同伴で会うのは店の、ホステスとしてのりえ、こうして会食しているのは日常の、等身大の理恵。店の売り上げに貢献する必要はなかったし、何よりも出勤前のプライベートな時間を台無しにしたくなかった。忙しい合間の、貴重でかけがえのない、気分の上がる、癒しのひととき。“わたしにとって五十嵐さんは…”。日常の多くの場面で、意識したり、リアルに感じたり、想像をめぐらせたり、意味を持たせたり、希望を抱かせたり、それに…。自身のことなので、はっきりと自覚していなかったが、初めて会ったときにぐっと気持ちが動いて、引きつけられて、思いが募って、どうにも止められず、そう愛を感じて…。理恵は、久しぶりの、内側に広がっていく心地よさ、しっくり来るこの感覚を、このまま大事に仕舞っておきたかった。

 ラウンジ「スペース」で働きだしてちょうど一年が経とうとしていたころ、ある男性から、真面目そうな男から付き合ってほしいと言われた。よくある勘違い、ホステスと客の擬似恋愛から発展して、純な気持ちにほだされて、錯覚を乗り越えて、しだいに…。たまにそんな話も聞くけど自分にはありえない、客は客だから、りえはそう思っていた。では、五十嵐さんは? 客には違いなかったけど、ちょっと違う、いやだいぶ違う、お店でなくても、いつかどこかでめぐり合っていたような、そう運命的に…。まあ、けっきょくは人物本位、たんに好みかどうか、そんな単純なところに行き着く。でもこの世界、“好き”も“付き合って”も、口説くための、男が女を落すための、出まかせでしかなく、恋愛ごっこのお決まりごと。だから、もったいぶったあげく、けっきょくはさらりとかわす、あしらう、ニュアンスを漂わせて。それを見越して楽しむのがルールだった。でも、勘違いも度を越して本気な場合は厄介だった。頻繁に店へ来てくれるのはありがたかったが、いずれお金が底をつく、連絡が取れなくなる、集金できなくなる、口座のツケを肩代わりさせられる…。そうならないためにも、こういう遊びに馴れていない、わかっていない客には早めに引導を渡す、純なところがあって可哀そうだけど、ストーカーになる前に、互いのためにも…。

 「大丈夫? 顔色よくないけど」。控え室にいると、絵美が心配そうに話しかけてきた。「えっ、そう見える。冴えない感じ?」。りえは鏡に顔を近づけて目を大きく見開いた。「………………」。目じりのしわだけでなく、顔全体がたるんで見える、ツヤがなくハリがなくて。思わず鏡から顔を背けたくなった。「店内の明るさ、もっと落としてもらおうかな」。冗談のつもりで言ったが、この歳じゃ、冗談にもならない、苦笑するしかなかった。「お客さんって、それ(顔)より身体のラインとか、仕草とか素振りとか、全体を見て勝手にイメージして…」。絵美が励まし半分に言うには、じっと顔を見る客は少ないし、それこそこの暗さなんだから気にする必要はない、若い子が苦手な客もけっこういるし、気持ちよく話せる相手を求めている、けっきょく癒されたい、それなら年齢をある程度重ねているほうが…ということらしい。「さあ、きょうも頑張るか」。絵美は、わざと低いトーンで男っぽい仕草で椅子から立ち上がった。ちょっとした元気をもらえる、与えてくれる彼女は、りえにとって大切な存在だった。“いつもありがとう、絵美”。心の中でそうつぶやき、気持ちよく、気合を入れて、彼女のあとに続いた。

 午後八時すぎから午前一時前まで。昼の仕事と同じで、長く感じるときも短く感じるときもあり、それはお客さんしだい、自分の体調しだい、精神状態しだい、そのときどきで違った。今夜は、短く感じるのではないか、りえはそう思った。絵美の話では遅い時間に五十嵐が来るという、仕事関係か誰かを連れて。彼女がキャバクラに勤めていたとき、口座の客が接待で連れてきた一人が彼だった。同じ面子で何度か訪れたあと、ひとりでも来るようになり、便宜上か律儀にも絵美を指名してきた。でも、どうも自分のように目鼻立ちがはっきりとした感じよりも、薄い感じの、韓国風の美人が好みのようなので目元が涼しい色白の女の子を付けるようにした。同伴した女の子からも紳士でやさしいと評判で、いまのイメージそのまま。ただ、引き連れてくる客がどうもグレーな感じの、どうみても輸入商社の顧客ではなさそうな、ヤバそうなこわもてが多かったという。それ以外の点で気になるところはなく、五十嵐は絵美にとって、程よく口座を潤してくれる上客の一人になった。

 絵美が「スペース」へ移って来たころ、めぐみママは、けっこう深刻な揉め事を抱えていた。みかじめ料、いわゆる用心棒代に絡むマル暴とのいざこざで、強いバックがいない彼女に対し、しだいに要求をエスカレートさせてきた。同伴のときに、五十嵐にその話を何気なくすると、めずらしく食いついてきて詳しく話した。絵美は、その四、五日後にめぐみママから呼び出されて五十嵐のことを聞かれ、ことのいきさつを説明した。「スペース」の辺りをシマに、縄張りにしている暴力団の幹部に“少しお手柔らかに”とでも口添えしたのか、いずれにせよ五十嵐の申し入れでヤクザの理不尽な要求はピタリと止まった。めぐみは、問題解決の対価はおろか何も求めてこない彼に、どうお礼をすればいいのか、困った。そういう面も含めて凄みというか、逆に不気味さ、怖さすら感じた。この人もアンタッチャブル? 距離のとり方に戸惑うようになった。「いやべつに。大したことしてないし、気にしないで」。映画のような、格好のいいセリフがしぜんと出てくる、それが様になっている、そんな男(ひと)は初めてだった。つねに抑え気味の五十嵐の立ち振る舞いに、たいていの女はやられてしまう、りえに限らず…。めぐみはそう思った。

 五十嵐はなかなか来なかった。十一時をとっくに過ぎていた。終電で帰る客らが出払い、店内が少し落ち着きだしたころ、ひとりの男を連れて彼はやって来た。接待相手という感じでなく、気の置けない友人に見えた。安元がここに来るのは初めてだった。めぐみママが用意した奥のコーナーへ向かう五十嵐の背中が目に入った。りえは客の相手をしながら、気分が上がるのを抑えられなかった。いつもより口数が多くなり、そわそわ感が出ているのが自分でもわかった。めぐみママが気を利かし、りえに合図を送った。「戻ってくるから。帰らないでくださいね」。りえは、名残惜しそうな素振りを見せて席を立った。いったん控え室へ小走りに戻り、化粧直しをして彼のもとへ。五十嵐は若い子に挟まれていた。りえは正面のスツールに腰掛けて、グラスの露を拭い、姿勢を正して彼と向き合った。一緒に来た初めての客がひとりしゃべり、場を盛り上げていた。横でなく前に座るのは久しぶりだった。外で会うときのような妙な気分になり、意識してか上手く話せなかった。まだ、食事以上の関係ではないのに、付き合ってもいないのに、三十半ばのホステスが、こんなことでは…。

時間はあっという間に過ぎていった。店内には他に一組いるだけでボーイが音を立てずに後片付けを始めていた。「今日はありがとう。また…」。五十嵐がそう言って腰を上げた。名残惜しそうに女の子と話している安元を促して、出口の方へ向かった。りえは彼の横にピタリと寄添い、エレベーターが来るのを待った。そのあいだも連れの男は女の子ふたりに冗談を言って楽しそうだった。狭いエレベーターの中で五人、身体が圧しつけられるような格好になった。下を向いたままだったが、彼を感じた。一階フロアに着いて、いつもはそのまま軽く手を振って通りへ出るところが、立ち止まり振り返って「何か食べにいく?」。りえは“えっ”という表情をすぐに引っ込めて笑顔でうなずいた。同伴で何度か行った焼肉店で落ち合うことにした。りえは急いで店へ戻り、着替えをして化粧直しもそこそこに五十嵐のもとへ向かった。かたちはアフターで仕事の延長だったが、彼女にそんな意識はなかった。店に入ると、同じようなカップリングで何組かがしみじみと向き合っていた。時間は午前二時前、さすがにテンション高く、はしゃいでいる客はいなかった。妙な静けさの中、肉を焼く音だけが店内に響いていた。

 「遅くなりまして。さっそく何か頼みましょうか」。五十嵐はハイボールを前に、いつもと変わらず穏やかな表情をしていた。「あまり脂っこくないものがいいですよね、タン塩とか。それともご飯ものにします?」。彼は、オーダーを任せるというふうに笑顔でうなずいた。けっきょく肉は頼まず、鶏が丸ごと入ったサムゲタンと韓国風のり巻き、それにナムルとキムチ…。夜食らしく消化に良さそうなものを選んだ。「これ、食べたかったんだよ、鶏が丸ごと入ったやつ」。サムゲタンがテーブルに運ばれて来ると、五十嵐はめずらしく高いトーンで前のめりになった。「冷えてきたので、あったかいものがいいのかと」。大きな鶏の身をほぐし、野菜もスープもたっぷりに取り分けた。固唾を飲んで、というには少しオーバーだったが、彼が口にするのをドキドキしながら眺めていた。相好を崩した、無防備な彼を見るのは初めてのような気がした。無言でどんどん食べ進んでいく、顔に汗がにじみ出ていた。そんな彼の様子が何とも愛おしく、見ていて穏やかな気分になった。「はあっ、うまい。全身にしみわたる…」。五十嵐は額の汗を拭いながら満足げに言った。内も外も、この私の中も、周りのものも、すべてが充たされている、そんな感じだった。思わず? いやこのときとばかりに? きっと、こうした機会でないとけっして話せないこと? わたしは解き放たれていた。すっと口を衝いて出た。

 「国の料理なんです、サムゲタン…」。自分の素性を、隠し通してきた民族的な背景を、そう在日韓国人であることを口にしたのは初めてだった。言ったあと、べつに後悔はなかった。これまで溜まりに溜まったものをはき出した感じ、逆に清々しい気分だった。突然、重たい話をしてしまって彼には申し訳なかったが、この人を前にして、このタイミングでしか、話せなかった。どういう気持ちの移りゆきか、でも彼には知っておいてほしかった、本当の私を。相手がどう反応するか、それは二次的、副次的なことだったのかもしれない。私が言おうと決心して、大切な人に自分をさらけ出して、ぐっと前へ動き出す、そう自分自身を解放して…。やっとそういう相手に出会った、一方的な思いかもしれないけど、こっちのややこしい話に巻き込んで申し訳ないけど、わかってもらえないだろうけど、とにかく話したかった、話す必要があった、愛する私の彼に。五十嵐は、それについて何も聞いてもこなかった、穏やかな表情のままだった。

 焼肉店を出てタクシーに乗り込んだ。彼は行き先を告げたあと、何もしゃべらなかった。だからと言って、気まずい感じではなく、お互い言葉を交わす必要がなかったのかもしれない。手を重ね合わしたり、しな垂れかかったり、気を引く素振りを見せたりすることもなく、タクシーは煌々と光を放つ、マンションのエントランス前に停まった。五十嵐の自宅のようだった。ここで別れるのか、いや彼女を送り届けてから、というのが普通じゃないか、ということは…。りえが頭をめぐらせていると「寄っていきますか」。五十嵐がこちらを向いた。小さくうなずいて身体をあずけた。そのあとの記憶は曖昧でよく覚えていない。たいしてお酒を飲んでいないのに、疲れ果てていたわけでもなかったのに。ただ、彼の腕の中で、強く抱きしめられて、身体が熱く感じられて…。断続的に途切れる意識の中、恍惚にたゆたいながら、おぼろげながらに目をかすめる、薄っすらと色を帯びた群青の絵柄。白い肌に絡みつくように、荒々しく奪い取るように、そう獣のごとく…。りえは、彼の首に絡めた腕をぐっと引き寄せた。


 翔大は、高校時代の元カノ、結花と時々会うようになった。彼女の、再々のアプローチにうんざりしながらも仕方なく応えるうちに、口やかましくも気の置けない女ともだちの一人として、微妙な距離感を保ちながら関係を取り戻しつつあった。昔のように、よりを戻すことはないだろうけど、いちいち断るのも面倒だし、まあこのままの状態で、という感じだった。相手にうっとうしがられているのが分かっているのに、うざく思われているのに、どうしてこうも俺に関わろうとするのか。そういう性格なのかもしれないけど、お節介もここまで来ると…。何度か口汚く怒鳴ったこともあったのに、なぜ? 翔大にはわからなかった。たんに放っておけない、わたしが見放したら彼はどうなるの? けっきょく彼を理解しているのは長く付き合っていたわたしだけ、そんな思いでいるのか、後味のわるい思いをしたくないだけかもしれないけど…。でも、嗅覚は確かなようで、良からぬことをしている、ヤバイこと、世間様に顔向けできないことに従事している、そのあたりは感づいているようだった。さすがに、特殊詐欺の片棒を担いでいるとは思っていなかっただろうけど。

 “来週、空いてる? 時間ある?”。ラインでこう来られるのが厄介でうっとうしかった。“すっと忙しい”と返せば済むのかもしれなかったが、そこは変に論理的に細かいところがあって、どんな奴も一週間のうち二、三時間、空いていないわけがないだろうと思ってしまう。ほかでは普通に嘘をつくけど、こうした見え見えの感じがするのがどうも苦手だった。“水曜日とか、週の半ば、夕方の二、三時間なら”と返信した。“よかった、久しぶりだもの。じゃ、水曜日の六時ごろで”。結花のニヤッとした、でもホッとした表情が浮かんでくる、ちょっとしゃくに障るけど、まんまと引っかかって。“まあ、夕飯を一人で食べるか、二人かの違いか”。そう納得させて翔大は自分のスマホを尻のポケットに入れ、ふたたび業務用のスマホを手に取った。今夜も事務所泊まり? さすがに五日目にもなると、皮膚の裏側に虫が這っているような、内側から変な声が聞こえてきそうな、目の前にぬっと何かが立ちはだかってきそうな、そんな不快感、幻惑感、隔絶感が襲って来そうで、また何かが壊れてしまいそうで…。どうにもこうにも心身を維持できないとはこのこと、危険信号だった。

 “いまから行っていい?”。翔大は、一カ月前に知り合った彼女、レイナにラインした。“だいじょうぶ、いてるよ”。すぐに返ってきた。“友だちは?”。いっしょに住んでいる女ともだちのこと。“今夜はいないよ、だいじょうぶ”。それじゃあ、ということで一時間後に。“待ってるよ、気をつけて”。付き合っている? すでに関係性があるし、こうして彼女の部屋へ、日付が変わるころに行くのだから、そうなのだろうけど…。少なくとも彼女の方はそう思っている? いや何人かいる彼氏のうちの一人かもしれないし。そんなこと思うの、彼女が風俗で働いているから? 仕事で男と寝ているから? そう、偏見があるから…。普通の女の子と違って、軽く見ている、やるだけの女、付き合うなんて、彼女だなんて、そう思っている? 派手目の、それと見てわかる、よくてキャバクラ、きっとデリヘル、第一印象はそんな感じ。でも、どこか違う、そういう女の子らに見られる、くすみ感というか、濁った感じがレイナにはなかった。逆にクリアな、何か突き抜けてるような、それでいて輪郭がはっきりしている不思議な感じ。だからと言って、やってることに変わりはないし、いわゆる汚れた身体、お金に換えてはいけないものを売っている、世間様に顔向けできないことをしている、そう俺と同じように…。翔大は何とも言えない、うまく整理できない、哀切感というのか、相憐れむ感じ? 複雑な思いを抱えてレイナのもとへ向かった。

 マンションのエントランスは静まり返り、明かりが煌々とフロアを充たしていた。翔大は目を細めながらオートロックの操作盤に部屋番号を打ち込んだ。レイナはすぐに出て、扉を開けてくれた。訪れるのは二度目だった。彼女とは例のマンション、特殊詐欺集団のアジトで出会った。食料品や消耗品などを搬入する手伝いの一人で、声をかけてきたのは向こうから。べつに誰でもよかったのだろうけど、パソコンの使い方を聞いてきた。それは、詐欺の手口に関することではなく、初歩的な操作の仕方、打ち方についてだった。「へえ、そう打つの」。かな入力でなくローマ字入力に感心したようで、自分の名前を打ってうれしそうにこちらの顔を見上げた。そのときの無邪気な感じが印象的で、この殺伐とした雰囲気の中で、彼女に特別なものを感じた。彼女の方も、どうやら親近感を持ってくれたようで、帰り際にラインを交換した。このあと、すぐに尻ポケットのスマホに着信があった。彼女と会う約束をした。そのときはただそれだけ、いつどこで会うのか、具体的なところまで触れずに“じゃあ、また連絡する”。翔大はきっとこのまま、もう会うことはないだろうと思っていた。

 あれからちょうど半月が過ぎたころ、駅前の繁華街で彼女らしい女を見かけた。間口の狭い雑居ビルの中へ入っていく。風俗系の店が多く入っているビルで、そのうちの一軒は特殊詐欺で翔大が関わる暴力団のフロント企業が運営していた。そういうことか、そのつながりであのマンションに、アジトに来ていたのか、食料品・備品の搬入アルバイトで。翔大はその場ですぐ、ラインした。“元気にしてる?”。覚えていないかもしれないけど。“どうしたの? 元気だよ”。もう来ないかと思っていたけど。“なにしてるの?”。仕事だとわかっているけど。“うん、いま仕事”。ちょうどいまからだけど。“ごめん、じゃあ…”。いまじゃなくてもいいんだけど。“べつにいいよ。それより会う?”。こっちから言ってしまったけど。“いつ? 合わせるよ”。いつでも抜け出すけど。 “じゃあ、今日の夜、大丈夫? 九時とか”。いつ忙しいのか知らないけど。“了解。どこで?”。店の近くを言いそうだけど。“駅前の…。わかる?”。近いの嫌だけど、ほか考えるの面倒だし。“だいたい分かる。じゃあ九時に”。またここに戻って来るのか、べつにいいけど…。

 午後八時すぎ、仕事場のマンションを出て、彼女がいる店と目と鼻の先のカフェへ向かった。先に着いて、スマホを触るのでもなく、ぼんやり窓の外を眺めていた。あのビルで客の相手にしているのか、そんなことを少し考えた。彼女の姿を想像しかけて、打ち消すようにスマホを取り出した。顔を上げると彼女がいた、石けんの香りを漂わせて、微笑んで。それは、店に出ている彼女でなく、本当の名前は知らないけど、素の彼女だった。「ちょっと雰囲気ちがう? ほぼノーメークだもの」。そう言って恥ずかしげに笑った。「こっちの方がいいよ。きつい化粧より」。ついさっきまで客の相手をしてて、みそぎのつもりでしっかりシャワーを浴びて、化粧もそこそこに、それの方がいいかもと、急いで駆けつけて…。「時間、大丈夫だったの?」。翔大は、自分のやってること、隠さなくていいので気が楽だった。「うん、お陰で抜け出せて。こんなことがないと」。彼女はうれしそうに彼の顔を見ていた。「どこか行く? とりあえず何か食べに行こうよ」。翔大は座ったまま背伸びして、めずらしく笑顔を見せた。「何がいい? 焼肉とか?」。元気が出るのはやっぱりそれしかないか、レイナもそう思った。焼肉のあと、カラオケに行って歌いまくって、彼女の自宅マンションへ。シェアしている女ともだちを起こさないように、レイナはワイン、翔大はビールで朝まで話し込んだ。

 二度目の来訪に、翔大は少し緊張していた。この前のように勢いで、しかも彼女といっしょに、しぜんな成り行きで、というわけではなかった。一度訪れただけで少し馴れ馴れしいか、こんな深夜に…。後悔しながらドアの前に立った。「どうしたの、暗い顔して」。開けるなり、レイナは言った。「いや、こんな遅くに悪いかなって」。いまさらながら、とは言わずにやさしい表情で「早く入って。冷えてきたでしょ」。彼女は、夜食を用意してくれていた。「お腹、減ってると思って」。もう午前一時を過ぎていた、夕方にちょっと腹に入れてそのままだった。「へぇ、上手なんだ、料理」。手作りのパスタとスープを味わいながら翔大は感心しきりだった。「調理師免許、持っているんだ、一応ね」。彼女は照れ笑いを浮かべて続けた。「ずっと(調理師)やってたらよかったけど…」。翔大は何か言葉を挟もうとしたが、すぐに彼女が「わかっているだろうけど、最初に待ち合わせたカフェの横の…」。それ以上言わせないというふうに翔大は「まあ、いいじゃん。いろいろあるし」。気にしていないわけじゃなかったけどお互い様だし。「手作りの料理っていうのかな、ホント久しぶり」。翔大は普通にそう続けた。彼女は下を向いたままだった。「こんど、旅行にでもいかない? 温泉なんか」。ようやく顔を上げた彼女は「いくいく、どこがいいかなあ」。さっそくスマホを手にとり検索を始めた、目の端を人差し指で押さえながら。


 木原さんと会うのは久しぶりだった。と言っても、いつもに比べて半月程度おくれただけで、たいして気にすることでもない、会うまではそう思っていた。一カ月に一回、月の半ばに判で押したように誘ってくれていたので、今日はちょうど月の初めごろ? そんなふうに意識したのも初めてだった。梨央奈(彩乃)はご飯のあと、カラオケに連れて行ってもらうつもりだった、この前は思ってた以上に楽しかったし、彼もけっこう乗ってたし。彼はいつものように微妙な笑みを浮かべて店に入ってきた。彼女はめずらしく笑顔で迎えた。でも、座るなり「ごめん、ちょっと話があるんだ」。まだ、オーダーもしてないのに何の話? 少し間を置いて「もう、今日限りで、と思って…」。こういうことって単刀直入? やっぱりストレートに言い放たれるんだ。何となく予感はあったけど、こっちは突然なんだもの、きほんどうでもいいことでも、やっぱり多少動揺してしまう、ムッとしてしまう。「こんなこと、面と向かって言わなくてもいいのかもしれないけど」。べつに付き合っているわけでもないし、何となく連絡し合わなくなってフェードアウトする方が自然なのかもしれないけど、彼女にとってもそれの方が…。梨央奈は黙って聞いていた、言葉が見つからないというより、妙に理屈っぽく話す彼の、いつもと違う一面に気を取られていた。「いろいろとお世話になって。毎回、会うの楽しかった」。母親が見てる、ドラマの、言いつくろうセリフのようなことを言う。そのあとは何も耳に入って来なかった。

 べつに、木原さんと会わなくなっても、まだ何人かいるし、たしかに一番気が合うのは彼だけど、そこにこだわらなくても。もともとそういう関係だし、その程度のことだし…。彼女は窓の外へ顔を向けた。気のせいか、信号に停まるクルマのテールランプが少し滲んで見えた。さすがにその日は、軽い食事だけで別れた。名残り惜しい、という気持ちがもう一つわからなかったが、それに近いものがなかったと言えば嘘になるかもしれない。離れて暮らす父親をどこか感じさせる、これまで意識したこと、なかったけど。そう、鼻のあたりが、あごのラインが、額の…。木原と別れて一人になった梨央奈、いや彩乃はなかなか家へ足が向かわなかった。午後十時過ぎ、だからと言って行くところもなく、コンビニに寄るぐらいしか。それでちょっとした気なぐさみになる? 好きなスイーツ、生クリームいっぱいの、薄くゼリーをまとったフルーツも乗った、きっと新作だろう、おいしいやつを買ったけど。でもまだ、家へ帰る気にはなれなかった、だれも居ないところへ、急ぐ必要なんて…。プリンアラモードの入った、白いコンビニ袋を膝の上に、ぼんやり公園のベンチで、なぜかスマホを開く気にもなれず、暗闇の中で身体を震わせ、でも公園から離れようと思わず、外灯の明かりさえ求めようとせずに、ただ。

 ラインが入っていた。一つは母親から、もう一つはこの前偶然に再会した中学時代の同級生、佐藤くんからだった。“中間試験が近いのに悪いけど…”。彼は県内で有数の進学校に通っていた。一度会いたい、ということだった。“こっちはいいけど、そっちこそ勉強、忙しいんじゃないの?”。むかしの同級生と会ってる場合じゃない、受験もあるだろうに。でも、それに対する反応はなかった。“じゃあ、いつ会う、何時ごろ?”。学校終わりの五、六時? いや塾に行っていそうなのでずっと遅くに? “この前、僕を見かけたというフルーツパーラーでどう?”。家から近いし、何時でもいいけど。返そうと思っているとすぐに続けて“そう、時間だけど、遅くても大丈夫? 午後九時ごろとか”。あと一つ、日にちが残っているよ、いつにする? “あっ、いつ会うか、だね。二日後の水曜日はどう?”。やっとそろった、こんな感じも悪くない。“了解です”。彩乃は、めずらしく穏やかな気分で短く返した。もう家の前に来ていた、佐藤くんのお陰で暗い夜道も意識せず、退屈せずに、そう、これ以上落ち込まずに済んだ。またラインが入ってきた、さっき別れた木原さんだった。“なに、この長文。何行あるの”。スマホをダイニングテーブルに放って置いたまま、彩乃はシャワーを浴びにいった。

 佐藤くんは先に来ていた、この前見かけた時と違って窓際に座っていた。閉店時間に近いからか、フルーツパーラーに客はいなかった。彼は軽く手を上げて迎えてくれた。「そうそう、あのあたりにいたでしょ」。彩乃は座るなり、その方向へ顔を向けて、少し興奮気味に言った。そうか、ちょうどこの席から見てたんだ。“そうだったね、君もここにいたね”。佐藤くんのつぶやきが聞こえてきそうだった。彼女は、お気に入りの窓際で、彼と向き合い、大好きなイチゴを挟んだフルーツサンドをたのんだ。話があると言っていたのに、それらしい話もなく時間が過ぎていく。「なにかあった? 学校? それとも家で?」。閉店時間を意識して切り出した。「両方かな。学校に行ってないし、だから家でも…」。彩乃は身体が前へ乗り出しかけたが、どうにかとどめて「ふ~ん、行ってないの、学校。わたしもよく休むけど」。そういう次元でないのはわかっていたけど、少しは気なぐさめになると思って。話では、半年ぐらい前から登校拒否のような状態になって、家族と顔を合わすのがつらくて、家に居づらくて、適当に理由を付けては出かけている、ということだった。

 「この時間じゃあ、誘える子、いないもんね」。彩乃はそう言ったあと続けて「選ばれてるんだ、このわたし。光栄かな」。彼女にしてはめずらしくおどけたふうになってしまい、茶化すつもりはなかったのに、これもめずらしく後悔して…。それは別にして、普通は登校拒否イコール引きこもりになるはずが、これってレアケース? あまり落ち込んでいるように見えないし、こうしてぶらぶらしているし、ときおり笑顔も見せるし…。ちょっと不謹慎なイメージあそびをしていると「けっきょく、受験のプレッシャーなんだろうけど…」。彼の自己分析は、彩乃には難しすぎてわからなかった。でも、とにかく辛いのだろう、いまの自分が、取り巻くその環境が、きっと。彼の言う通り、逃げているだけなのかもしれないけれど、べつに悪いことじゃないし、誰もがうっとうしいこと、やってられないことから目をそむけるものだし。嫌なんだから、学校に行きたくないんだから、これまで無理して行こうと頑張ってたんだから、もういいじゃん…。今さえ楽しければ、と思ってるわけじゃないけど、やってることに耐えられなくなったら、仕方ないじゃん、放り出しても、どこが悪いの? 我慢して学校通っているより。何でも彩乃にかかれば…というところだったが、そんな彼女を、彼はやさしい眼差しで見つめていた。

 このあと、彼女は彼をカラオケに誘った。この前、木原さんと行くつもりだったから、佐藤くんと行っても楽しそうだから…。予想はしてたけど、二人だけなのに彼、緊張してる、声が上ずったりして、でも一生懸命歌ってる、そんな彼がよかったし、銀縁のメガネ外したら、けっこうイケてるかも、思いのほか背も高いし…。そんなことよりも、まったくべつの感覚が、これまであまり感じたり意識したりしたことのない、妙な感じが内側へ広がっていく。彼女の、とぼしいワードで表現できるようなシロモノでなかったが、心地よい戸惑いというか、中途半端な哀切感みたいなもの? いずれにしても心の渇いた部分がほんの少し充たされたような気がした。わたしと同じように、程度は微妙に違うけど、線からズレて、外れて、飛び越して…。普通に学校へ通っていた彼からは感じられなかっただろう、率直で透明な、もちろん濁りのない、かけがえのないコトどもモノどもが、彼とわたしを包み込んでいるような感じだった。この狭い、限られた空間の中で、気のせいかもしれないけど、きっと夢や幻のようなものに違いないのだろうけど、ざらついた不快な社会から、そこで生きている自分から、少し解き放たれたような、そんな感覚、いや錯覚? それこそ、自由の享受? この感じ、彩乃には表現しようもなかったけど…。

 「またこんど、どこか遊びに行こうよ」。彼女がそう言うと、彼ははにかみながらも大きくうなずいた。カラオケボックスを出ると、かなりひんやりしていた、まだ秋に入ったばかりなのに。背中を丸めて腕を組んで肌寒い感じで歩いていると、彼が気を遣って羽織っていたジャケットを肩にかけてくれた。薄手のプルオーバーを着ていただけだったので、じんわりと内側へ暖かさが広がっていく。「やるじゃん、ありがとう」。佐藤くんは顔を赤くして下を向いた、初めてなんだろう、こんな気障なこと。彼は彼女を送っていくつもりのようだった。でも、住んでる場所がわからないので、彼女が先へ行かないかぎり、どうしていいか、困っているふうだった。そんなことには無頓着に、彩乃は別のことに頭をめぐらせていた。「いいところ、思いついた」。佐藤くんが“えっ”という表情を見せるもお構いなしに「大人の社会科見学って、どう?」。言ってる意味がわからない、彼でなくても。「たとえば、最新のラブホに行ってみるとか」。ますます理解を超えていた、何をいいだすのか、もちろん佐藤くんに返す言葉はなかった。


 理恵はあの夜のことが、なかなか頭から離れなかった。ぼんやりしている時にはきまって、あの絵柄が浮かび上がってくる、そう幻影というにぴったりな現実感のない、露悪的で恐ろしくも、魅惑的なドローイング(図像)。五十嵐に抱かれた夜をさかいに、何かが変わった。目に映るものが違って見えてくる、そんな感じだった。彼が堅気の人じゃない、少なくともむかしはそうだった、その事実。そして彼女も、これまで封印してきた、出生の、意識しないよう努めてきた、その真実。ヤクザと在日。そのあいだに因果関係はないけれど、たちの悪い偏見にすぎないけど、なぜだかしっくり来る、彼と彼女の関係性のように。彼に打ち明けただけで、世間に向かって言い放ったわけではなかったが、胸の奥につかえていた、どろっとしたモノどもコトどもがゆっくりと動き出していた。これからどうなるのか、心細さとともに、自分が変わっていくことに、明るい兆しのようなものを感じていた。彼とは、どこか共通するところが、似通っている面が、分かち合っている何かがあるような気がして。たんなる親近感を超えた、ふたりにしか感じられない、わからない繋がり。絆というには不確かな、心もとないものだったけど、ゆるんだり途切れたりしながらも、どこかでつながっている、しなやかな関係性。理恵は、言葉に表せない、でも確かに感じる、この思いをしっかり抱きしめていたかった。

 一度とは言え、深い間柄になったのだから、少しは口ぶりや態度に出ても、少々馴れ馴れしい感じになってもいいはずなのに…。五十嵐さんはこれまでと変わらず、月に一度同伴に付き合ってくれたし、お店の“りえ”でなく、理恵として食事にも誘ってくれた。べつに不満はなかったけど、この情況、揺るがず安定していると見るか、あんなことがあったのに、これ以上進展がないということなのか。喜んでいいのか、ある意味危機意識を持つべきなのか、判断がつきかねた。「どうしたの? 難しい顔して」。週に一度の朝礼のあと、めぐみママが心配そうに話しかけてきた。「すいません、もうお店開ける時間なのに。大丈夫、今日もがんばります」。りえは、めずらしく気合を入れる格好をしてママを笑わせた。“それならいいけど。五十嵐さんとのことかな?”。めぐみは思いをめぐらせながら笑顔で返した。裏の世界で流れている、五十嵐の悪い噂が耳に入っていただけに少し心配になった。りえさんが巻き込まれている、そんなことないだろうけど…。スネにキズのある者たちが、社会の片隅で息をひそめながら、肩を寄せ合ってかどうかはべつにして、あまり褒められない生業でなんとか生き永らえている、五十嵐さんも、このわたしも…。りえさんのように堅気の子が、ちょっと水商売に浸かっている程度で、わざわざこちらの側へ来なくてもいい。めぐみママは、接客するりえの姿を眺めながらそう思った。

 口座を担当する絵美の話では、このところ五十嵐と連絡がつきにくく困っているという。これまでこんなことはなかったようで、ただ店から足が遠のいているだけならいいが、その身に何かあったのではないか、と心配していた。いつもキャッシュで払ってくれるので取り逃しの懸念はなかったが、めぐみは嫌な予感がしてならなかった。客が一人来なくなっただけにとどまらず、なにか全体に暗い影をなげかけているような、漠然とした不安感を覚えた。りえなら少しは知っているのではないか、何度か聞こうとしたが微妙な話だけに切り出せないでいた。けっきょく噂の域を出ないのだから、こっちがどうのこうのと心配したところで仕方ない、そう思ってやり過ごすしかなかった。“クスリをやってるって本当だろうか。その筋の人の話では…”。もちろん取り扱ってる、商っているという意味だが、ドラッグと言ってもピンからキリまでいろいろあるし。輸入業を営んでいるのだから覚せい剤? それはあまりにも危ない橋、でないのなら若い子のあいだで、クラブとかで流行ってるタブレット系? めぐみの勘、読みはいい線をいっていた。五十嵐の、穏やかな口調とやさしい素振りが頭をよぎり“いや、そんなことはない…”と首を振った。

 めぐみママの心配をよそに、理恵は浮ついた感じを抑えられなかった。五十嵐の実像を垣間見たにもかかわらず、その部分はうまくスルーして、ある意味気楽に構えていたというか、そっちの方へ意識が向かないようにしていた。肩から背中にかけて刺青があるからといって、きっと昔のことだろうし、ただ消せないだけで、いまはどこから見ても普通の会社経営者、なかでも紳士な、物腰の柔らかい…。人間だれしも隠したい過去、裏の顔があるし、ここは程度の差が問題で、彼の場合は大丈夫、昔はともかく今はきっぱり足を洗って。それよりも、心から魅かれる男に抱かれて、愛を感じて、身体も心も充たされて。普通の女なら浮かれない方がおかしい、不安より一歩踏み出した関係性にしがみつきたい、そう思うのではないか。これまで互いに隠していた、それぞれの過去や生い立ちをさらけ出した。ただそこを押さえておけば、それだけで逆につながっていられる、もっと強く、さらに長く…。向こうがどう思っているかわからないけど、こっちは前と違って揺るがずに構えていられる。まったく不安がないわけでも、自信があるわけでもないけど、たとえ何があろうと、間違いが起こったとしても、信じて付いて行ける、そんな気がしていた、何の根拠もないのに、普通にみれば確かなものがどこにもないのに…。それでも理恵は、心が穏やかに前を見ていた。

 五十嵐から連絡が来ることはほとんどなかった。それは出会った当初からで、いまに始まったことではなかったが、ここのところ音沙汰のない、というにぴったりの、通話はもちろんないし、ラインにしても既読すらつかないことが続いていた。客なのか、彼なのか、まだ曖昧なところがあったので、こちらから頻繁に連絡するのもはばかれた。同伴も、食事の誘いもない一カ月が過ぎようとしていた。彼に対する揺るぎない気持ちがあっ気なく崩れようとしていた? 彼女の顔をして通話したくなる気持ちを抑えて、ラインしようとする指先をとどめて…。理恵でなく、ホステスとしての“りえ”を優先している自分がもどかしかった、一歩踏み出したつもりだったのに。“またお店、顔出してくださいね”にするか“どうしているの? 連絡ないので…”か。ラインするにしても、あたまからこうして迷ってしまう、そんな次元だからなかなか前へ進めない。口座の絵美に聞いてみても、ただ連絡がないと言うだけで詳しくは知らないようだし、めぐみママは何か知っているような感じはするけど、少し突っ込んで聞こうとしてもごまかすふうで。もやもやした、落ち着かない気分が続いた。

 気になるのは、それだけでなかった。高校の担任から連絡があり、彩乃が夜中にふらふらと出歩いているという、それも男の子と二人で。ちゃんと話さないといけないと思いつつ、すれ違いをいいことに放っていた。このところ、夕飯までに帰って来ないし、短いメモ書きにも反応がないし。一応は学校に行っているようだけど、そんな遅い時間に何してるの? 一日のうち、どこかで捉まえて、と思っても向こうが避けているようでなかなかうまくいかないし。でもこうして悠長に構えていると、いつか補導されるかもしれないし。そんなことになれば、いっしょにいる男の子の親御さんに申し訳ない。いったいどうすれば…。五十嵐さんのことで浮かれている場合じゃない、母親業を疎かにしてきたツケが回ってきているのだろう。ひとり親の難しさは身に染みてわかっているつもりでも、彼のこともそうだけど、都合よく逃げ道をつくって、けっきょくは知らぬ顔で年ごろの娘を放っておいて…。ここまで来ると、自己嫌悪を通り越して罪悪感すら覚えてしまう。“三十分でもいいから時間つくって。大事な話があるので”。そうラインするのがせいぜいだった。

 日曜日も、部活動や学校の行事やらで忙しそうにしてて、落ち着いて話そうにも取りつくしまもないという感じだった。その一方で、じっくり向き合って話せるかどうか、親子であってもその辺りの自信を失っているのだから、情けなくもどうしようもなかった。でも今夜は、帰って来たら有無を言わさず、とっ捉まえて、しっかり話を聞いて、ちゃんと意見をして…。理恵は日曜日の夕方、晩ご飯の支度を早めに済ませ、リビングのソファーで彩乃を待った。大学には行かないと言ってたけど、就職するの? 専門学校にするの? 高校卒業と同時に家を出て一人で暮らしたいって? いまのままそばにいてくれないの? 本当は何がしたいの? やりたいことが見つからない、端からできないと諦めているの? 彼がいるの? 夜中にいっしょにいる男の子がそうなの? なぜそんなことをしているの…。彩乃のことで頭をめぐらせていると気分が落ち込み、何も手につかなくなる。あの子が悪いんじゃなくて、このわたしが不甲斐ないから、駄目な母親だから、いい加減に生きているから、ホステスなんてしているから、こんなふうだから…。

 “今日は遅くなるから。晩ご飯も友だちと食べてくる”。こちらの思惑を見透かしたように彩乃がラインでかわしてきた。“お母さん、ずっと待ってるから”。今夜は腹をすえて、どんなことがあっても、話をしないと。既読がついたのに返信して来ない。“ちゃんと顔を合わせて話をしないと、これからのこと…”。よちよち歩きの、笑顔があどけない、あのころの彩乃が頭をよぎる、懐かしくも鮮やかに。わたしにはお父さんがいない、そう気づいたのいつだったの? こんなこと、お母さんに聞けないし、話せない、そう思うようになったのはいくつのころから? 寂しさをごまかして、強い振りをして、大きな不安を抱えるようになって、もうどうでもいいって、投げやりになって、自分を傷つけて。どれもこれも、お母さんのせい、つらい思いばかりさせて…。わたしがこんなふうだから、ごめんね、彩乃。理絵はスマホを手に涙が止まらなかった。心の声が聞こえたわけでもないだろうに、ラインの着信音が鳴った。“わかった。いまから帰る”。以心伝心というわけではないだろうけど、やっぱり母娘って…。遠くに感じていた彩乃が少し近くに、イメージできなかったいまの彩乃を少しだけ感じられて。この内側に彩乃を取り戻そうと、それには自分が変わらなければならない、理恵はそう思った。


 めぐみには、けじめをつけなければならない、ちゃんと始末をつけないといけない、ずっと避けていた、持ち越してきたことがあった。これまで延ばし延ばしにしてきたが、そろそろ潮どき、はっきりさせなければならなかった。十年あまり一緒に暮らす榊原のことだ。あえて籍を入れない、いまふうの事実婚というより、ここまで何となくズルズルと来た、むかしふうの内縁関係というに近かった。めぐみの考えるけじめ、始末とは、正式に籍を入れることでも、愛想つかして別れることでもなかった。このままずっと一緒に居ても仕方ない、この先なんの希望も見出せない、そう思っているわけではなく、かといって、ここまで長く生活をともにして来たのだから、腐れ縁というか、いまさら別れても、という諦めにも似た感じでもなかった。ふたつにひとつ、結婚するか、別れるか、じゃなくて、社会性のない、生活能力のない、ひとりでやって行けそうにない榊原をどうするか。あくまで彼女側の選択、たんに彼女が彼をどうするか、それだけだった。

 彼女に依存している、彼にそういう意識があるのかどうか、よくわからなかった。でも、少なくとも甘えがあるのは確かだし、第三者的にはヒモに見えただろうし、引きこもりに思われてもおかしくなかった。そのうえ、程度のほどは定かでないが、精神を病んでいるのは確かだった。隙を見計らってベランダから飛び降りるのでないか、深夜帰宅すると書斎で首を吊っているのではないか、こちらの神経が参ってしまうほど危ういときもあった。その一方で、安定しているとき、ノーマルに見えるときは、そこいらの主夫のように家のこと、掃除や洗濯、料理の下ごしらえまでやってくれる、その落差が、この異常な幅がなんとも厄介というか、こちらの決意を、けじめをつけなければならないという思いをぐらつかせ、萎えさせた。もしかしたら、このままやっていけるのではないか、と。ライターとして何とか食っていけるのではないか、わたしがいなくてもひとりで生きていけるのではないか、ときにそんな期待をいだかせた。でも、そう思うのはほんの瞬間で、けっきょく死と隣り合わせている相手を見過ごしにはできなかった。

 とくにこの数カ月は、振り子がネガティブな方へ傾きがちで、晴れない日々が続いた。彼にとっても、わたしにしてもいいことは何もない、このまま行けば袋小路に行きつく、ふたりにとってろくなことはない、そう思うようになっていた。でも、切り出すきっかけを見つけあぐねていたし、どう理由付けすればいいのか、慎重に言葉を選んで、具体的にどんなニュアンスで、どういうシチュエーションで切り出せばいいのか、彼を傷つけることなく…。そんなことを考えていると、たんに機会を逸するだけでなく、こんなにつらい思いをしてまで別れる必要があるのか、こうして躊躇していること自体、このままでいい、どこかでそう思っているからではないか、けっきょくは別れたくない、いっしょにいたい、離れたくない、そうした心の声を感じとっているからではないか。めぐみは、心の中で行ったり来たり、ただ漂うだけで、前に進むことも退くことも、どうにもこうにもうまくいかない。彼のことだけでなく、自分のことまでわからなくなってきて…。何をしたいのか、どこへ行きたいのか、求めているもの、それが何なのか。めぐみは答えが見つからず、混乱するばかりだった。

 「おかえり」。彼はめずらしくリビングにいた。この時間に、べつに早く帰ってきたわけでもないのに。それに、声をかけて来るなんて…。午前一時半過ぎ、いつもと違う時間が流れていた。「起きていたの?」。たいていは書斎にいて、仕事しているか、本を読んでいるか、目をつぶって腕を組んでいるか…。最近はあえて、顔をのぞかせて確認しないようにしていた。でも今夜は、ただぼんやりとソファーに座っていた。いつもなら、そこに身体を沈めてしばらく動かないめぐみも、彼の横に腰を下ろすのも何か違う、という感じでそのまま自分の部屋へ引き込んだ。のろい動作でルームウェアに着替え終わると、ちょうどお風呂のチャイムが鳴った。「入ってくるね」。彼は、振り返りはしなかったが、少し顔を横に向けてうなずいた。また、危ない領域に入りつつあるってこと? めぐみは彼の、ちょっとした仕草、わずかな変化にも敏感だった。ふわっとソファーから立ち上がってベランダの方へ向かって…。湯船に浸かっているあいだも気が気でなかった、疲れが取れるどころではなかった。濡れた髪もそのままにリビングへ戻ると、彼はさっきと同じ姿勢で、それこそ時間が止まったような感じで、そこにいた。「ビールでも飲む?」。頭にタオルを巻いたまま冷蔵庫に屈み込んで振り返った。「うん」。この時間に付き合ってくれるなんてめずらしかった、いや初めてのことだった。

 ビール缶片手にソファーに並んで深夜番組を見た。テレビが放つ明かりが彼の横顔を照らし、いつもの暗い表情を青白く浮かび上がらせていた。めぐみは少し安心した。妙に笑顔で話しかけられでもしたら、物腰柔らかく向き直って来たら、調子が狂うどころか、よくないことの前触れか、それこそ死という言葉を思い浮かべてしまうだろう。「どうなの? 最近…」。漠然とした言い方になった、いやあえてそうした。反応に期待していたわけでなく、それ以外に言葉が見つからなかった。「うん、大丈夫。なんとか…」。曖昧な反応しか返って来ないだろうと思っていたが、彼は続けて「明日から十日間ほど家を空けるけど、いいかな」。久しぶりの取材旅行で北の方へ行くという。「べつに構わないけど、一人なの? 編集者とかは」。めずらしく彼の企画が通り、単独で何カ所か取材先を回るらしい。「支度はできてるの? 代えの下着とか」。そう言ったあと思い直した、そのあたりは几帳面なんだ、わたしが口を挟まなくても、放っておいても、彼は。「じゃあ、気をつけてね。きっとわたし、寝てると思うから」。布団の中で起きてると思うけど、見送られるの、いやでしょ…。「あぁ」。小声でそう言い残して、彼は書斎へ戻っていった。

 めぐみは、疲れた身体を引きずるようにして自宅マンションのエントランス前まで来ていた。タクシーを降りて四、五段ほどの階段を上っただけで息が切れた。やっとの思いでオートロックを開錠し、中へ入るとホッとしたのか、ふらつきを感じてその場にしゃがみ込んでしまった。ラウンジのママとしてのストレスなのか、器質的にどこか問題があるのか。気を落ち着かせて立ち上がろうとするが、不安感が先に来て身体が思うように動かない。うずくまりながら彼のことを考えた、どうしているのか、取材はうまくいっているのか、生きているのか…。そう言えば、昨日から、彼がいなくなってから、どうもしっくりいかない、何もかもが、日常の些細なことまでが。すれ違いで四、五日、顔を合わせないなんてこと、これまでいくらでもあったのに。壁一つ隔てた向こう側に彼がいる、そう思うだけで…。彼がいない、実際に、ほんの十日間だけど、こんな不安な、心寂しい感じ、初めてだった。やっとそう自覚できたからなのか、この心身の不調の原因が自分なりにわかったせいか、いくぶん気持ちが持ち直し、なんとか立ち上がることができた。依存しているのはどっちなのか、彼ではなくわたしなのでは…。そう思うと、脱力感というか、身体から余計な力が抜けて、構えていた感じがなくなって。めぐみはしばらくの間、自宅ドアの前に佇んでいた。もし、彼がほんとうにいなくなったら。

 彼女にはもう一つ、気がかりなことがあった。離婚した男のあいだに出来た、ひとり息子のことだ。三歳のときに別れて、それから十二年になるから、この春に中学を卒業し、高校生になるのか。誕生日が来るたびに息子の成長を想像し、何とも切ない、つらい思いにさいなまれた。その当時は親権を放棄せざるを得なかった。ホステスを生業にするしかない女と、一流企業に勤める、実家が裕福な一人息子。勝ち目はなかった。連絡を取りたいと思ったことは何度もあったけど、しなかった、できなかった。向こうと交わした約束で、金輪際会わない、その代わりにお金を、手切れ金を受け取っていたのだから。自分が生んだ赤ちゃんを金に代えるなんて。そんな女に息子に会う資格も権利もあるはずがない。いまさら後悔したところでどうしようもなく、まさに自業自得、死ぬまで責め苛まれ、苦しむことになるのだろう。覚悟していたとはいえ、歳を経るごとに母親としての思いが強くなり、会いたい気持ちが募っていく。この十二年間、まったく会えなかった、正確には見なかったわけでなく、一度だけその姿を、小学校へ上がってすぐのころの、駿を…。

 彼は新しい母親に連れられて歩いていた。駅前で買い物をしているようだった。すぐに駿だとわかった。そのとき、初めてその女、彼の母親を見た。偶然と言えば偶然だったが、この辺りをうろついていたら彼に会えるかもしれない、そう思って何の用もないのに週末に出かけた。こちらがじっと見ていたからなのか、思い過ごしかもしれなかったけど、何度か目が合ったような気がした。それだけでも、ぐっと胸に迫るものが、胃の腑あたりにじんと来るものがあった。遠巻きにふたりを眺めていると、相容れない気持ちというか、母親が優しい眼差しで彼を見つめている様子を見て、それに応える笑顔の彼を目の当たりにして…。幸せそうで大事にされていると安心すると同時に、どうしてもうらやむ気持ちが、嫉妬心がもたげてくる。意地悪されたり、いじめられてもおかしくない継母とうまくやっているのだから、喜んであげないといけない。そんなことぐらい十分わかっているんだけど。駿を見たのはそれ一度きり、高校生になった彼を想像できなかった。めぐみはもう会うつもりはなかった。十五年かかってやっと気持ちの整理ができたということか。それ以上考えないようにしていた。彼が幸せならば、こんな実の母親、いない方がいいに決まっている。


 翔大は、特殊詐欺のアジトから遠く離れた、ある郊外の町に、受け子として来ていた。ターゲット相手に小芝居するためだったが、横にいるユウトの様子がどうもおかしい。もともと言葉かずの少ない奴だったが、レンタカーで移動中も、こっちの問いかけにうわの空で、虚ろな目で前を見ているだけだった。「そろそろ着くぞ。大丈夫か?」。仕事(詐欺)モードにさせようと、語気を強めても言葉を返さない。仕方なく、側道にクルマを止めた。「俺が、年寄りの孫の同僚で、お前が銀行員を装って…」。段取りをもう一度確認するためだった。でも、ユウトは反応しない。「どうしたんだよ。いい加減にしてくれよ」。苛立ちがピークに達しかけていた。「ごめん」。ユウトはそう言ったきり、また黙り込んでしまった。このまま相手先へ行っても上手く行かないだろう。とりあえずクルマを走らせながら、あとのことを考えよう。それに、この仕事のことも、ユウトのこと、そして俺のことも…。ハンドルを左に切った。「このまま、どこか行こうか」。前を向いたままそう言うと、ユウトがこちらを向いた。「やめたいんだろう、こんなこと」。翔大も同じ気持ちだった。自分に言い聞かすようにつぶやいていた。

 「どうして? 俺のこと…」。ユウトは、ほかの奴とは違っていた、だからこうして。お互い、締め慣れないネクタイをゆるめた。「まあいいじゃん。この近くに温泉ないか?」。ユウトがスマホを開き、検索を始めた。クルマは川沿いを進んでいた。「一番近いところで、あと二十㌔ほど。そのほかは…」。べつに温泉地ならどこでもよかった、ひなびたところでも、いやその方がいまの気分に合っていた。「ナビに入れる必要ある?」。道なりであと十五分ほど、山あいを右に入れば着きそうだという。当初はそこで作戦会議でも開いて、ユウトの気持ちがほぐれるのを待つ、そんな考えでいた、実行が一日や二日遅れたって…。民宿に毛の生えたような、こじんまりした温泉宿だったが、思わず顔を見合わせて、ユウトも俺もしぜん、表情がゆるんだ。「男ふたりで温泉って、変に思われないか」。冗談のつもりはなかったが、ユウトが声を上げて笑った。「俺とお前、いい仲ってこと? 気持ちわるっ」。翔大もつられて笑った。一番値の張る部屋に通してもらったが、たいして広くなかった。でも、窓から広がる、渓谷沿いの景色は素晴らしく、気分を和ませた。露天風呂があるというので、さっそく浴場へユウトとふたり、浴衣に着替えて向かった。

 「ふたりともスーツ姿で変に思われなかったかな」。岩風呂につかりながらユウトの方を向いた。宿の人にどう見られているか、やはり気になった。「いつもの格好の方がもっと怪しまれるんじゃないか」。また、ふたりで笑った、どんなふうにしていても胡散臭いふたりだと。お天道様に顔向けできない生業に従事しているんだから、どう着飾ってもお里が知れてるってことか。「親とか、兄弟、何も言わないのか?」。翔大とユウトは並んで肩まで湯に浸かっていた。こんな話になるのは初めてだった。「いるにはいるけど、どこにいるのか、生きてるのか死んでるのか」。そう言うと勢いよくお湯から上がり、洗い場の方へ行ってしまった。ちなみに彼は一人っ子で兄弟姉妹はいなかった。翔大は顔を上げた。露天風呂から見る夕空はきれいだった、心にぐっと迫るものがあった。そりゃそうだろう、この一年ほどのあいだ、空を意識することも、その下で生きていることすら忘れていたのだから…。「先に上がるよ。ゆっくり浸かってな」。そう声をかけてユウトが脱衣場へ、その背中を見送りながら、もうこれ以上は、と思った。背中を斜めにはしる傷を見ながら、もうとっくに限界に来ている、ユウトも、この俺も。翔大は湯の中で、ぐっと身体を伸ばした。「痛っ」。足先に岩の端があたった。しっかりと痛みを感じた。まだ大丈夫だと思った。

 ふたりで宴会、という気分ではなかったが、どこか上がっていた、料理を前にして、ユウトと向き合って、この先のことを考えずに、ただ…。「野球やってた?」。ユウトは、えっという表情をした。「よく部屋の隅でボールさわってるから」。少し照れたような顔になった。「途中でやめてしまったけど…」。少年野球でピッチャーをやっていたという。中学からは、身長が伸びなかったのでショートへコンバートされたが、それでも一年の夏からレギュラーだったらしい。「それぐらいかな、自慢できるのは」。と言ったあと、べつにたいしたことじゃないけど、と付け加えた。「でも、すごいじゃん。運動神経いい方なんだ」。球技が苦手だった翔大は羨ましかった、走りは得意だったけど。それじゃ甲子園を目指して…と聞きかけてやめた、きっと高校行ってないか、でなけりゃ中退だろうから。「高校とか大学で、彼女いたのか?」。今度はユウトが聞いてきた、いたずらぽっく、ちょっと羨ましそうな顔付きで。「いや、いないよ。そんな学生じゃなくて。大学もほとんど行ってないし」。納得してないふうのユウトに対し、逆襲のつもりはなかったが「お前こそ、学生時代、もてただろうに」。イケ面のユウトなら、と普通に思った。「だめだめ。自分で言うのもおかしいけど、硬派だから」。女の子と仲よくしてるところ、見られるのがイヤだったという。意外だったが、いまさらながら何となくいい奴、親近感を覚えた。

 昨夜、飲みすぎたせいもあったが、それだけでなかった。気分がすぐれないだけでなく、すでに追われている感覚というか、恐れ、焦り、心細さ、あげく悪寒さえも覚えた。ネガティブな感情が大挙して内側から襲って来る感じだった。ユウトも同じような気持ちだったのか、朝食を前にひと言もしゃべらず、まずそうに食べていた。「とりあえず(相手先に)行って、カタチだけでも済ませておこうか」。翔大の話にユウトは首を横に振らなかった。そうと決まれば、ユウトの気が変わらないうちに宿を出よう。朝食もそこそこに着替えを始めると、促さずともユウトも続き、ふたり分のスーツをハンガーから外し、手元に置いてくれた。旅館を出ると、空気が膜を張るように身体にまとわりついてきた。身体が重いのか、それとも透明な摩擦力が働いて俺たちを阻んでいるのか。こんなときは要注意だった。レンタカーで引き返す道すがら、彼はずっと黙ったままだったが、行きの、思い悩んだ感じはなかった。適当にやって、さっさと引き揚げよう、うまくいかなくても、金を引き出せなくても。もう、どうでもいいことだった、ユウトにとっても俺にとっても、このあと面倒なことになっても、痛い目にあっても、べつに死んだって…。

 相手は八十歳近い婆さんだった。澄ました顔をして引き戸を開けると、笑顔で迎えてくれた。これはチョロいと思ったが、話していくうちにどうもおかしい。ボケてる、けっこうな認知症のようだった。すぐに、これは厄介だな、に変わった。でも、お金のことで来ている、それぐらいはわかっているようで財布を手に戻ってきた。“いや、そうじゃなくて…”と言いかけて引きつった顔で笑顔をつくった。新聞の集金とでも思っているのか。もういいや、というふうに軽く手を上げて引き揚げようとしたら、婆さんがおもむろに懐から封筒を出してきた。翔大は玄関口に引き戻されて、笑顔をつくり、頭を下げた。“これが最後だ。恨まないでくれよ、婆さん”。差し出された封筒を手にして引き戸を閉めると、ユウトが待っているクルマへ走った。小芝居をする必要もなく、思いのほかうまく行ったが、何となく後味が悪い。助手席に収まると、いつものように嫌な汗がどっと出てきた。「早く、出してくれ」。ユウトは戸惑いの表情を見せながらもアクセルを強めに踏んで、慌てたふうに発進させた。

 翔大はこのまま、とんずらしようと思っていた、持ち逃げするつもりだった。今回はうまくいかなかった、取り損なったと報告して、ユウトとともに逃げようと。封筒の厚さからして三百万円は入っているだろう。ユウトと半分に分けても、当分どこかでぼんやりしていられる、そう、山あいの田舎とか、離れ小島とかで。ユウトは何も聞いて来ない、ただクルマを走らせるだけで、真っ直ぐ前を向いて、スピードをゆるめず、とにかく下っていく、街中から離れようと、途中ハイウェイに乗って。もう一時間も走っているだろうか、少し落ち着きを取り戻し、実感をもって車窓の外を、まぶしい朝の光を、目を細めながら見られるようになった。「次のサービスエリア(SA)へ入ろうか」。ユウトはうなずき、追い越し車線から離れて速度を落とした。平日の早朝ということもあり、SAには休憩施設の近くに乗用車が十数台、離れたところに大型トラックが二、三台停まっている程度だった。クルマを端に止めて、しばらくのあいだ車内にとどまり、何となく辺りの様子をうかがっていた。ここで警戒する必要はなかったけど。

 「一応、トイレに行っておくか」。そう言ってユウトを促し、休憩施設へ向かった。中へ入ると、ドライブ中のカップルや、小さい子ども連れのファミリー、運転で疲れた顔のドライバーらが、思い思いの姿でいた。楽しげにみやげ物を見ていたり、おしゃべりしながら軽食を囲んだり、自動販売機のコーヒーを前に仏頂面だったり…。翔大は、戸惑い気味のユウトをしり目に、すっとその中へとけ込んで行った。自分でも意外だった、しぜんな感じで。少し前にはそんな普通の、些細なことでも、変に意識が先へ行って構えて、躊躇していたはずなのに…。ユウトは慌てて後に付いていった。翔大は何のためらいもなく真ん中あたりのテーブルに腰を下ろした。「俺、トイレ行ってくる」。ユウトがいなくなって一人になっても、景色は変わらない、この安っぽいテーブルの感触も、丸イスの硬い座り心地も、妙にしっくり来る、しっかりと感じられる、そうストレートに。ユウトがコーヒーを両手に、戻ってきた。「ミルクも入れるんだっけ。砂糖だけで」。右手に持っていた紙コップを翔大の前に置いた。「ありがとう」。彼に、そう声をかけたのは初めてだった。ユウトは、どうもしっくり来ないような、少し気味悪そうな、それでいて嬉しそうな表情を抑えながら、翔大の横に座った。


 身辺に不穏な影が忍び寄って来ている、五十嵐にそんな感覚はなかった。堅気の人間ならそう感じたかも知れないが、大半をブラックか、そうでなければグレーのモノどもコトどもに囲まれてきたのだから…。それが、周りのゴロツキであっても、そいつらとけっきょくつながっている取り締まり側であっても。ずっと距離を置いていた奴らと、何の因果か、かかわるようになって、一見サプリメントに見える不法薬物を取り扱うようになって、二年が過ぎようとしていた。二、三十代のころにやっていたことに比べると、たいしたことじゃない、この程度のことなら、間接的に人を傷つけるかもしれないけど、この手で人を殺めるわけではないし…。法律に触れているのだから、どう転んでも正当化できないのはわかっていたが、頭のどこかで都合よく情状酌量している自分がいた。だから、取扱量を増やせと言われても強く断れない、ずるずると手を引けないでいた。腐れ縁の安元の心配をよそに、次の海外渡航で扱い量を増やす手立てを考えていた。買い付けの拠点にしているドイツ・ハンブルクを経由してポーランド、ハンガリー、チェコの旧東欧諸国をまわる日程を組んだ。

 手荷物検査が手薄なローカル空港をはしごしながら、ブツをかき集める算段だったが、紹介に紹介を重ねた危うい取引先ばかりで先行きに懸念があった。まがい物をつかまされる可能性があったし、各国ごとの不法薬物に対する取り締まり状況や、適用される法律の軽重、厳罰化のほどがはっきりせず、不安だった。各エリアとも基本的に地場の、それなりの貿易会社を介していたので致命的なアクシデントに見舞われることはないだろうが、それぞれが裏で現地のギャング組織と、どの程度のつながりを持っているのか、はっきりしなかった。そんなことを言えばこっちだって同じようなものだったが、アンダーグラウンドへの浸かり具合が気になった。五十嵐は今回から、本格的に貨物仕立てでブツを輸入するつもりでいた。これまでも買い付けた家具や雑貨に忍ばせてコンテナ詰めで海上輸送してきたが、少量にとどめていた。どのエリアの業者に任せるか、従来通り輸入雑貨関係か、まゆつばな医薬品卸しと直取引するか。勝手がわかっている同業者の方が話は早く安全だが、目的の物量に届きそうにない。一方で、危なっかしい業者との直取引ではトレードのプロセスが見えにくく心配だった。でも、求められている量を考えればおのずと決まってくる。五十嵐は、より危ない橋を渡るしかなかった。

 理恵がいつもと違って見えた。どこがどう異なるのか、それが素振りなのか、言葉遣いなのか、よくわからなかったが、受けるイメージが違っていた。そういうところに敏感でない五十嵐がそう感じるのだから、その変化は顕著なのだろう。「いっしょに行くよ」。コーヒーが出されるのを合図に、そう聞くのが習慣のようになっていた。「いいよ。まだ仕事あるんでしょう?」。いつも同じように答えを返してくる。でも今夜は、お互い微妙にニュアンスが違っていた。一週間後に、例の買い付けで海外へ行く予定だったので、通常の忙しさに加えてバタバタしているのは確かだった。でも、久しぶりに気晴らしもしたかった。「いや、仕事も落ち着いているし…」。このまえ同伴できなかった埋め合わせの意味もあったが、行くにはまだ早く、中途半端な時間だった。このあと、どうしようかと腕時計に目をやっていると「ちょっと付き合ってくれない、いい?」。理絵がタイミングよく言ってきた。どこへ行くのか、聞くこともなく彼女に付いて行った。大通りでタクシーを拾い、南の方へ走らせる。「見せたいところがあって」。五十嵐は軽くうなずいて車窓へ顔を向けた。そのときはまだ、彼にも因縁のある“思い出の地”だとは…。タクシーは、商店が雑然と並ぶ狭い通りの手前で停まった。

 理恵がどんどん先へ行く、五十嵐が少し間を置いて後を付いていく。「この先なの。わたしが生まれたところ」。焼肉のにおいやキムチの酸っぱい香りがただよっていた。「もう家はないんだけど…」。一人でなく、こうして来るのは初めてだった、翔大や彩乃とさえ来たことがなかった。気づくと彼が横にいた、理恵はその左腕に右手を通した。路地裏の狭い道を、ただ歩いた、ふたりで、それぞれ違う思いをいだきながら。何とも言えない哀切感というか、どこか翳りをともに抱えながら。五十嵐は昔の、それこそ四半世紀も前の、忘れようにも消せない、内側にこびり付いた記憶を思い起こしていた。ヤクザになって初めての出入り、傷害で捕まったのがこの界隈だった。対立していた組との抗争に巻き込まれ、実刑をくらい三年間臭い飯を食うはめになった。忘れもしない、前科者になった記念すべき地だった。「この肉屋さん、安いんだよ。よくおまけしてくれて」。理恵は懐かしそうに話しかけてくる、彼はいつもの穏やかな表情を彼女へ向ける。「今日はごめんね、変なとこ、付き合わせて」。商店街を通り過ぎて反対側の大通りに出た。「いや、よかった。俺も久しぶりに…」。なかなかこの身から離れない悶々とした思いを、内側に巣食っているドロッとしたものを、彼女のお陰でほんの少しだけ、薄められたような気がした。

 五十嵐はしぜん、忙しそうに客の相手をしている、りえの姿を目で追っていた。これまでにもまして愛しく感じている自分に、まだこんな気持ちが残っていたのか、俺も捨てたもんじゃない、と臆面もなく自己肯定している自分にハッとさせられた。でも、こうしてここに来るのも…。当分のあいだ、行けそうになかった、いや、もしかしてこれで最後になるかもしれない、何となくそんな気がした。それならホステスのりえも見納めか…。「どうしたの、ぼんやりして」。気がつくと、りえが横にいた。“わたしに気づかないなんて”。不満そうにぐっと身体を寄せてきた。「いや、ちょっと思い出していて」。ホステスになりたての、初々しいりえを思い起こしていた。「なにを? だれのこと? いやらしいこと、思い浮かべてた?」。ホステスがしっかり板に付いた、それらしい返しに頼もしさを感じた。しぜん表情がゆるんだ。「さっき、ヘルプで前に座っていた、あの若い子、なんて言うんだっけ?」。五十嵐も負けていなかった、ベタな感じでちょっと恥ずかしかったけど。「こんど、紹介してあげる。第二夫人にしてあげたら」。少し怒ったふうに、本妻はわたしと言わんばかりに。五十嵐の軽口は続かなかった。彼女のニュアンス? 冗談に思えなかった。真顔に戻っていた。

 今夜はそのまま帰る気になれなかった。それはりえも同じだったようで、どちらから言うでもなく、アフターすることに。でも、ふたりにとって店の延長という感じはなく、付き合っている男女がただ会いたいから会う、それだけだった。いつもの店で、これもいつものように焼肉でなくサラダとご飯ものをオーダーし、狭いテーブルを挟んで向き合った。午前二時前だった。ふたりのあいだに、いつもの、仕事が終わったあとの、ホッとした、穏やかな、それでいて疲れからか、少し緊張をはらんだ空気が流れていた。「海外って、どの辺り?」。理恵は、長期にわたって放っておかれる出張について聞いてきた。べつにこれといって何か意図をもって、というのではないことくらい、五十嵐にも分かっていたが、これまでの海外出張との違いを指摘されているようで言葉に詰まった。「いつものように欧州諸国をぐるっとまわって…」。やっと言葉をつなぐと、理恵が前のめりに顔を近づけてきた。「前から言おうと思ってたんだけど、いつかヨーロッパ、連れて行ってよ、助手とかなんかで」。互いに忙しくて旅行に行けないからだけど、仕事にかこつけて言って来るのが彼女らしくて、微笑ましかった。

 「今度の仕事で一段落つくので、帰って来たら…」。理恵は、耳を疑った、聞き間違えだったら、いやはっきりと、彼は…。驚いた表情の彼女を置いてけぼりにするように続けた。「まあ、そう言われても、そちらにもいろいろ事情があって、簡単にはいかないだろうけど」。“いっしょに住む? とりあえず? それは籍を入れるってこと? これってプロポーズなの…”。いろんな思いが内側をめぐっていた、でも整理できない、言葉にならない、この情況って? 要するに混乱していた。「考えておいてよ、急がないから」。彼はそう言って、丼の残りをかきこんだ。理恵はうなずくのが精一杯で、同じように丼に箸をつけたが、まったく味がしなかった、そっちの方へ脳が反応していなかった、ただ鼓動が波打つだけで…。久しぶりの、いやこれまでで一番の、幸せな感じ? それは同時に不安への、悪い予感への、不穏なことの前触れってこと? このあたりでやめないと、ずるずると思うに任せていると、この現実がはかなくも消えてしまいそうで、夢の中の出来事に変わってしまいそうで…。前にいる彼を確かめるように見つめた。自分の瞳が赤くにじんでいるのを感じて目を伏せた。五十嵐のやさしい眼差しが、自分を通り越して遠くへ向いているのに気づかないでいた。


 彩乃は、中学時代の同級生、佐藤くんとたびたび会うようになっていた。互いに学校のことはほとんど話さなかったけど、彼は、不定期とはいえ学校へ通うようになり、彼女の方も、木原さんと会わなくなってパパ活から足を洗うかたちに、一応はなっていた。だからと言って夜遊びの習慣は改まらず、ふたりで示し合わせて深夜のカフェやカラオケ、例のラブホテルの社会見学を行なうなど、夜のフィールドワークは続いていた。「来年の春、どうしてるかなぁ」。高校生活もあと半年を切っていた。彼にそう言われて、あまり考えたくない、実感のない彩乃も、卒業後の自分を想像しないわけにはいかなかった。「佐藤くんは大学でしょ。受験が…」。夜遅くに、こんなところでおしゃべりしている場合じゃないのに、わたしと違って。「小森さんは専門学校? それとも就職?」。避けていたわけじゃないけど、あらためてこの二者択一なのか、と嫌になった。「まだ、決めてない。自分のことなんだけど、よくわからなくて。何がしたいってことないし…」。彼は何度もうなずき、聞いてくれた。「僕もそうだよ。大学に行ったって、と思っているし、かといって働いている自分も想像できないし」。彼女は相槌を打ちながら黙って聞いていた。“同じなんだ、賢い彼も…”。でも選択肢って、なぜこうも少ないのだろう。やりたいことがない、わたしたちが悪いってことなの? こうして不機嫌になってる場合じゃないのかもしれないけど。

 木原さんがたまに、ラインしてきた。そのたびに、ほんと短い言葉を返すだけ。無視してもよかったけど、これまでお世話になった分、そんなことできないし。おじさん的未練ってこと? だからこんどはカラダを狙ってる? 会うだけでなしに。こっちのこと、心配してるふうだけど、本当のところは…。いろんなニュアンスが感じ取れたが、そんなこと、もうどうでもよかった。この内側の渇き、自分でもはっきりしない悶々とした、どろっとしたモノどもコトどもが、まだどこかにいるにしても。大きさも、深さもわからない、ぽっかり空いた穴を、佐藤くんが埋めてくれるわけでも、自分で何とかできるわけでもないけど。どこにも持っていきようのない、容易に片付けられない、宙ぶらりんの状態に戯れてるってことなの、けっきょく…。だけど、もうパパ活に頼らなくて済みそうだし、おじさんに会わなくても退屈をしのげるし、こうしてなんとか自分を保てているし…。この先どうなるかわからないけど、いろいろ考えても仕方ない、なるようにしかならないし、きっと。みんな、そうやって生きているんだから。「まあ、いいや」。彩乃がそうつぶやくと、佐藤くんが微笑んでくれた。

 彩乃には、自分の進路よりも、はっきりさせたい、いい加減そこから開放されたい、でもかんたんに解けない、最大の宿題があった。離れて暮らす父親のことだ。ずっと先延ばしにすべき、それこそ触ると大やけどしそうな、いま片をつけなくてもいい話なのかもしれないけど。でも、傷つこうが、そのあと一、二カ月のあいだ、どうにもこうにもならなくなっても、そろそろ決着をつけないといけない、幼いころからずっと引きずって来た、もうなおざりにできない問題だった。父と娘の関係がどういうものなのか、実感のない彩乃には見当もつかなかったが、きっと母親への思いの十分の一、いや百分の一程度の、取るに足らないものなのかもしれない。放って置かれた恨みも相まって、そんな思い、マイナスになっている、負の感情しか残っていない、そう、憎しみしか…。「佐藤くんのお父さんってどんな人?」。友だちの親子関係が参考になるとは思ってなかったけど、標準的な、ステレオタイプすら想像できないんだから。「う~ん、母親と違って何も言わないけど。どう思ってるのか、あきらめてるんじゃないかな」。その方が楽でいいんだけどって顔して、引きつるように笑った。さらにおまけのように「どっちも、うっとうしいだけで」。彩乃は彼の口ぶりや表情から、たいして問題じゃないんだと思った。ぎりぎりのところで、それがどの辺りか知らないけど、はみ出さないように、内側の線から出ないように、彼はそこで止まって…。

 「そうなんだ、大変だね」。古典の授業で習った“反語”っていうのかな、彩乃は思ってることと反対のことを言った。わたしと違って彼は…。うらやむ気持ち半分、よかったねって思いも交差して。片親だからといって、たんじゅんに半分の愛情ってこともないだろうけど、かりに量的にそうであっても質が問題であるはずだし。一概に言えない、その組み合わせの数だけ、親子関係があるってことなんだろうけど。でも、彩乃の場合、小さいころに別れて以来、そもそも物理的な接触がないんだし、関係性ということ自体が成り立たない、愛情以前の問題なのかもしれない。もともと、あるのかないのか知れないことに、たんに幻想のなかで、自分の思い込みにずっと振り回されて来たってこと? そんな意味のないものに、無駄なことに、どうでもいいやつに…。だけど、どうしてもこの内側で、勝手にイメージを描いてしまう。それが頼りがいのある理想的な父親像であるときも、母親が愚痴で言う、ろくでもない、女癖の悪い、下らない男であることも。でも、血がつながっている、ただそれだけかもしれないけど、ただ一人の存在に変わりはないわけだし…。彩乃は、父親の連絡先を知っていた、ずっと前から、どこにいるのかも、お母さんには悪いけど。ただ会いに行かないだけで、それこそお母さんに悪いって気持ちもあって。でも…。

 できれば雨の日は避けたかった。もともと少しウェーブの入った髪の毛が思うようにまとまらず、すぐにヘタってカタチがくずれてしまう。彩乃はそっちの方へ意識をやって、この高ぶりを、これまであまり覚えたことのない、妙な緊張感を解きほぐそうとしていた。これから、胸がときめく彼に会うのでも、けんかした友だちに誤りに行くのでも、それほどかわいく見られる必要も、性格のいい子と思われることも、ないけれど。そうじゃなくて、どんなふうにすれば、どう振る舞えばいいのか、こんな感じで、いや、こうしないといけないってこともないし…。彩乃は、そわそわしてる自分に気づいて身体に力を入れ直した。小刻みに震えているわけでも、顔が引きつっているようでもなかったけど、内側では、心のうちには小波が打ち寄せて来て、しだいに大波になって、このあと岩に砕け散るかもしれない? もうすぐお父さんが来る、いや、ある男がこの喫茶店に、わたしの前に現れる。もう雨は上がっているようだった。その男は、傘を持たずに中へ入ってきた。会ったこともないのに、顔も知らないはずなのに、少しためらいながらも迷わず、まっすぐ、わたしのいる、奥のテーブルに近づいてきた。

 「連絡くれて、ありがとう」。会ったことなくても、何となく感じるものが、実の親子なんだから、そう思ってたけど…。その男は、見るからに顔が引きつり、言葉を探しあぐねて、途中から下を向くことが多くなって。“ほんとうは来たくなかった、来なければよかった”。そんな感じに見えた。こっちが期待値を上げて来たから、勢い込んで構えているから、そこいらのおじさんに、卑小な感じの男に、それこそパパ活の相手と変わりなく見えてしまうの? 「はじめまして、も変ですけど…」。彩乃は、どこか可哀そうになって、笑顔をつくって話しかけた。まあ、おじさんに馴れてるし、笑顔をつくることぐらい、難しくないけど。男も少し緊張感が解けてきたのか。「何にする? お腹すいてない?」。そう言ってメニューをこちら側へ向けた。ご飯には中途半端な時間だったけど、ここは何か軽食を頼むべきだと思った。「じゃあ、オムライスで」。ほんとうは、苺パフェにしたかったけど、長いスプーン使ってるところ見られたり、口にクリームが付いたりしたら嫌だし、ほどほどに子どもらしい食事なら、これかと。男はホットコーヒーを頼んで、だいぶ落ち着いてきたようだった。「学校は楽しい?」。そう言ったあと、やはり続かないようで、鼻の頭を手の甲で触る仕草を何度か繰り返した。彩乃は、パパ活のようにフォローしようとは思わなかった。

 「お母さんは、元気にしてる?」。そんなことしか聞くことないのか、と思ったけど、また可哀そうになって「仕事、忙しそうだけど、元気にやってるよ」。ふつうに返してやった、そんなに心配してるわけでもないだろうに。また、沈黙が続くが、助け舟のようにオムライスが運ばれてきた。「しっかり食べているの? 料理…」と言って口をつぐんだ。料理、するのか、料理、得意なのか、まさか、料理、お母さん下手だったよな、とでも言おうとしたのか。まあ、何でもよかったけど。「夕食はいっしょに摂るようにしているし、朝も食べる方かな。お兄ちゃんは…」。こんどは彩乃の方が言葉をにごした。男は、ピクリと身体を反応させた。さらに暗い険しい表情になり、コーヒーカップを持つ手を止めた。翔大のこと、聞いてくると思ったけど。この沈黙から抜け出すにはかなり時間がかかりそうで、仕方なくオムライスを食べるしかなかった。お父さんとお兄ちゃんは本当の親子ではなかった、お母さんの連れ子って言うのかな。でも意地悪されたとか、それこそ虐待されたとか、そんなことはなったようで、お兄ちゃんがお父さんについて話す印象では。「翔大は…」。そう言って男は言葉を詰まらせ、気持ちを抑えられない様子だった。

 そこに翔大がいなかったから、きっとそうだと思うけど、お父さんはお兄ちゃんのこと、話してくれた。そう言えば、七五三とか、幼稚園の父親参観とか、プールではしゃいでるところとか、ふたり仲よく写真に収まっている姿、記憶に残っている、お父さんが懐かしそうに話すのを見てて、思い出した。お父さんの問いかけに対して彩乃はどう答えていいのか、困ったふうになった。お兄ちゃんのこと、正直に話したら、お父さん心配するだろうし、本当のところを知ったらショックでどうにかなっちゃうかも。翔大との思い出を話す、その姿を見ていたら何も話せなくなって…。「お兄ちゃん、幸せだったんだ。そのころが一番…」。彩乃はそう言ったあと、言葉が続かなかった。“幸せ”という部分だけ切り取って安心したのか、よかったというふうに男は何度もうなずいた。「今日は本当にありがとう。許してもらえると思っていないけど、また…」。彩乃は、また会ってもいいと思った、許すにはもっと時間がかかるけど、お父さんって呼べるには、さらにもっとかかりそうだけど。小さくうなずいてイスから腰を上げた。男に付いてレジの方へ、大きな背中が目の前に広がった、抱きつきたかった? そんなこと…。外に出ると、ふたたび雨が降っていた。ふたりは一つの傘で駅へ向かった。


 五十嵐は、どの女とも籍を入れなかった。十年くらい、一緒に暮らした女もいたが、長い同棲なのか、いまで言う事実婚になるのか、いずれにしても子どもを作らなかったので、何も支障はなかった、少なくとも彼はそう思っていた。それ以外にも五年とか三年とか、それこそ一年、半年のスパンで何人もの女をとっかえひっかえ、もちろん本人にそんな意識はなかったが、いわゆる女に不自由しない生活を送ってきた。でも、ここ三年ほどは独り身でいた、べつにこれという理由もなかったが、たんに歳をとったから? 面倒だから? そのあいだ、彼女がいないわけではなかったし、それこそ何人かと同時に付き合うこともあったが、これも本人に二股のつもりはなく、堅気じゃないんだから、抜けても意識のどこかにヤクザがいるんだから、そんなこと、と。どういうわけか、この一年はあえて女っ気を排して坊主のような、ある意味穏やかな日々を送ってきた、理恵に出会うまでは。彼の、一般には華やかに見える女遍歴の中で、彼女がとりわけ際立っていたわけではなかったし、もっと言えば外形的にはこれまでの女の中で「中の下」くらい、並の部類に入っていた。かといって、そこいらの女とは、これまで何人も付き合ってきた水商売の女とは、どこか違っていた。ただ、彼の悪い癖というか、優男(やさおとこ)のゆえんでもあって、基本的に来る者拒まず、そのゆるいところが理恵を特別な存在に押し上げない、一つの要因になっていた。でも、それだけでなかった。彼女の場合、彼にあえてそうさせない、別の、いわば反対の意味でスペシャルな女(ひと)と言えなくもなかった。だから、これまでの女のように不幸にしたくない、そのためにはある一定の距離を保って…。五十嵐にそう思わせるものが理恵にはあった。

 彼女の気持ちは、彼に伝わっていた。でも、それがじゅうぶんにか、そこそこなのか、ほんの少しか、それとも、ぜんぜんなのか、その程度のほどが問題だった。こと女に関しては、そこいらの男に比べて、そもそも経験値が違う、そんな彼だから、彼女の思いへ、その近似値へアプローチできないはずはなく、たいていの、だいたいのところは感じていたし、わかっていた、いつものようにあえて期待値を下げていたけれど。これ以上は内側へ入れないように、線を越えないように、彼女が一歩踏み込もうとすれば、冷たく理不尽にバリアを張って、無慈悲に突き返す、しぜんとそんなふうにしていた。彼女の、求めるニュアンスにふと動かされそうになって、立ち止まったことも、気がゆるんで思わせぶりな態度を示したこともあっただろう。ただ面倒だったし、身体を交わす以上に、深く関係を結ぶこと、内面的に動かされることに臆病だったのかもしれない。自分に都合のいい、理屈にもならない、もしかして自分を欺いているかもしれない、彼女への思い。俺は逃げているのか、こんなことで…。一応、肩で風を切ってきた五十嵐にしては、自分の心の動きに納得できず、めずらしく整理のつかない情況に苛立ちを、いや憤りさえ覚えるほどだった。

 「ほんと、久しぶり。もう会えないのかなぁって思ったりして…」。理恵は何も変わっていなかった。外見もそうだったし、きっとその内側も初めて会ったときからずっと。欧州での買い付けから帰ってきて一カ月以上過ぎていた。現地ではクリアすべきことが多すぎて、神経をやられてもおかしくなかった。一応会社には出ていたが、魂ここにあらず、というか、身が入らず、何ごともぼんやりとやり過ごす、そんな感じだった。もちろん、社員の前では平静を、いや意識していつにも増してエネルギッシュに新規事業へ向けて動いているふうを装っていた。でも、自分では抜け殻のように、なかなか起動しない、以前のようには、うまくコントロールできない、身体が心とうまくかみ合わない、重ならない、どこかずれている、乖離のほどがこれまでとは違っていた。この程度の悪行、人を傷つけたり殺したりしたわけではないのに、俺もとうとう年貢の収め時なのか。心身の合一なんてそもそもあり得ない、ずっとそう思ってきたけど。「でも、元気そうでよかった。ちょっと痩せたような気もするけど…」。こうして心配する素振りも相変わらずだったが、逆に彼女の方が少し元気がないように見えた、こちらに合わせてくれているのだろうけど。「とにかく、こうして会えたのだから…」。そう言って、黙り込んでしまった。しばらくのあいだ、顔を上げなかった。五十嵐はナイフとフォークを持ったまま、彼女を見つめていた、彼女を通り越さずに。

 「お店、休んじゃった。熱があるってことにして」。そう言えば、ふんわりと髪にカールを効かせていなかったし、化粧もいつもと違っていた。こうなれば残業を口実に事務所へ戻るわけにはいかず、このあと彼女に付き合ってあげないと、どっちみち仕事に身が入らないのだから。「カラオケにでも行く? それとも、バーがいい?」。理恵は、驚いたふうに顔を上げた、それはみるみる喜びの表情に変わっていく。“カラオケ、カラオケ”と意味なく二度つぶやいて、勢いよくステーキにナイフを入れた。店を出たあと、彼女はめずらしく手に負えない感じで先へ先へと行く、彼を差し置いて。カラオケ店の前に着くと、早く早くと手招きするほどに。「こんな感じなんだ、最近の。狭い感じがいい」。少人数用のボックスへ入るとさらにテンションが上がり、ソファーで跳ねるように、エントリー端末に向かって…。五十嵐は首を横に振り、先に歌うよう促した。「じゃあ、お先に」。けっきょく続けざまに三曲歌って、アドレナリンが出ているのがわかるほどに。一曲だけ、デュエットに付き合わされて、べつに面倒に感じなかったし、けっこう楽しめて。「延長しない? あと一時間」。五十嵐は、仕方ないなぁという素振りを見せながらも、手渡されたマイクを握り直した。

 それでも、ずっとこんな感じでいられるわけないし、遅かれ早かれ、いずれ終わりが来る、別れのときが訪れる、彼はもちろん、彼女もどこかで、そう感じていたに違いない。それを打ち消すかのように、そういう雰囲気にならないように、できるだけ先延ばしさせようと、互いに意識して、動かず、止まらず…。彼は微妙な笑顔をつくって、彼女は不安を押し殺して微笑み返す。不穏な予感にさいなまれながら、けっして成就しない、その関係性に、でも執着するしか…。ふたりのあいだに流れるものに、漂うものに、ざらつくものに、翻ろうされながら、それでも、この関係を、彼女と、そして彼と…。ときに、斑に纏わりついて、ほのかに期待を抱かせて、またときに、濃く絡み合って、感じるものが増えていって、喜びまで呼び込んで。でも、しだいに薄まって、揮発するほどに、手の届かないところまで、立ち昇っていく、はなればなれに、ふたりのガイスト、魂が散り散りに…。この繰り返し、シビアなリフレーン、落としどころを定めず、ただ成り行きに、神の差配に、もう任せるしか。五十嵐は理恵を見ていた、この先に待ち受けているもの、それが予期できないのなら、まだしも、彼にははっきりと、既視感をともなって、目の前に映像のように、幻影でなく…。

 「これからどうする、どこへ行く?」。いまの五十嵐に答えられるはずはなかった。“これからって?”。どのみち、ろくでもないことに、これまでと変わらず、泥沼に足を突っ込んだままで、意味なくエネルギーを費やして、磨耗していくだけで…。そんな道行きに、下らないプロセスに、彼女を付き合わせようなんて、酷なこと、あり得ないし。そんな中でも、少し明かりが差して? そう勘違いさせてくれたことに感謝して、それだけで十分だったし、もともと明るい未来なんて、それも二人で? そう、あり得ない。でも、だからこそ、この機会に、もしやの可能性にかけて、彼女とならば、開けていくことも、新しい世界が? いや、そんなこと…。彼女を前にして、五十嵐は考えをめぐらす、というより取り止めもなく浮かんでくる思いに身を任せるままに、そこから答えを引き出そうと、けっきょくそれが正解への早道かも、と。「じゃあ、わたしが決めてもいい? 付いて来てくれる?」。局面打開の一か八か、理恵はそこまで思い詰めてはいなかったが、少なくとも場面転換にはなる、とめずらしく少し自信ありげに提案してきた。五十嵐は、その彼女の表情に、いつもと違うものを感じたが、それがこのあと、思いもよらない結果を引き起こすなんて、そのときは予想だにしていなかった。

 この前、彼女の生まれた下町に、コリアンタウンへ連れて行かれたが、今度はそれと反対方面へ、大通りからタクシーを走らせた。すぐに高速道へ乗り、西へ向かっているようだった。東京から横浜へ行くような、そんな時間感覚、感じる夜のロケーションも似通っていた。おしゃれなベイエリアからそう遠くない海岸沿いの倉庫が立ち並ぶ、殺風景な波止場にタクシーは停まった。酒の匂いをさせた、柄の悪そうな荷役労働者がそこいらにたむろしていそうだった。理恵は、倉庫に併設された四、五階建ての古びたビルの中へ入っていく。さすがの五十嵐も、いや彼だからこそ、ここは普通じゃない、やばいところ、それもけっこうな、そう感じずにはおれなかった。でもそんなこと、お構いなしに、彼女は狭くて急な階段を上っていく、迷いなく、ヒールの高い音をたてて。狭い踊り場で立ち止まり、ドアに手をかけた。彼女はこちらを気遣うように振り向いたあと、中へ入っていった。あとに続いていいのか、五十嵐は一瞬戸迷ったが、その場で待っているわけにもいかず、足を踏み入れた。見ると、正面上方に派手でたいそうな神棚が設えてあった。たんなる運送会社にしては…。だだっ広い事務所の、その神棚の下に、それでも事務員なのか派手目な女を侍らせて、社長なのか若い男が、質の良さそうなスーツを着て、座っていた。

 理恵は、その男へ向かってすたすたと歩いていく。すると、男は笑顔で立ち上がり、両手を広げた。「やあ、元気にしてたか? ねえさん」。歳の離れた弟? でなければ従姉弟か何か? 姉さん? いやそんな感じじゃない、“姐さん”ってこと? 男の素振りから、そうとしか取れなかった。五十嵐は、遠巻きに二人のやり取りを眺めていた。話がついたのか、男がこちらへ近づいてきた。一㍍ほど手前まで来て、丁寧に頭を下げて名前を告げた。相手が堅気でないのはすぐにわかった。男の方も同じように感じていたようだった。「話はついています。余計なことをして…」。そう言って、もう一度頭を下げた。要は、脱法ドラッグの密輸入を差配している組幹部に話をつけた、手を切る・足を洗うにしろ、取り分の大幅引き上げにしろ、どちらでも好きなように、ということだった。五十嵐は、そんなことをしてもらういわれも、俺に対する義理もないのにどうして、と聞き返したが、男は後ろにいる理恵に軽く視線を向けて、また頭を下げるだけだった。

 帰りのタクシーの中で理恵は、男と同じように「余計なことをして…」。出しゃばって申し訳ない、そんな顔をした。だいぶあとで知ったことだが、あの男は、理絵の別れた夫の弟分で、彼女はいわゆる姐さん、一度交わした仁義は永久に、姐さんのたっての頼みに従ったまで、男にしてみればそういうことだったのだろう。五十嵐は複雑な気分だった。まず、誰であろうと借りをつくりたくなかった、特に女には。それに、あくまで仕事のことなのでビジネスライクに解決したかった、たとえ非合法であっても。さらに、このことで裏の世界とのつながりが、彼の内側にあるアンダーグラウンドなものが、刺激されて表へ出て来ないか、もともと備わった制御できないヤクザな血が…。でもとりあえず、こう言うほかなかった。「ありがとう。こんなことに首を突っ込ませて…」。五十嵐が前を向いたまま、そう言うと理恵は首を横に振った。「そんなこと…。こんなわたしでも力になれるのなら」。タクシーは海岸沿いのハイウェイを、東へ向けて走っていた。陸側から夜景の微かな明かりが車窓へ差し込み、薄っすらと理恵の顔を映し出していた。海側に漂う、漆黒の闇がいまにも五十嵐をのみ込んでしまいそうだった。彼女は彼の左手に右手を重ねた、手の甲は硬くごつごつしていた、でも温かく感じられた。理恵は、五十嵐の手をぐっと引き寄せた。もし、果てがあるのならそこまで、二人して、ずっとそのままに。

               ◆

 理恵はこのところ、キッチンに立つ場面が増えていた。ダイニングには翔大と彩乃、幻でなく現実に。好き勝手に食べたいもの、冷蔵庫になくてもお構えなしに、言ってくる。「兄ちゃん、食べ方汚い、やめて!」。彩乃はそう言って笑っている。「うるさい、お前の方こそ…」。翔大が鼻をふくらませて言い返す。「もうやめなさい、早くしないと遅れるわよ」。理恵がふたりのあいだに割って入っていさめる、朝の光景が、戻っていた。

 いや、こんどもいつまで続くか、わからない、でも、そこで心配して、思い悩んでいても…。翔大が戻って半月が経っていた、彩乃はこの春、専門学校へ進んだ。彼は夜間の工事現場でアルバイトして、彼女は美容師をめざして。それもこれも、いつ放り出してしまうか、また家に寄り付かなくなるか、返事もろくにしなくなるか、また良からぬことを仕出かすか…。そんなこと、わからないけど、とりあえず、やって行くしか、流れのままに。

 いまも翔大のもとに、怪しい輩から連絡が入っている、でも表情からもう大丈夫のような、かりに完全に足を洗えてなくても、人を傷つけるようなこと、してないように見える、追われているふうもないし。何といっても、あのやさしい彼に戻っているし、やんちゃに変わりないけれど…。彩乃もたまに、夜中にこっそり出歩いて誰かに会っている、だからといって女の子として後悔するようなこと、しているふうでもないし、ほんとうにたまにだけど、机に向かっているときもあるし、相変わらずうわの空が多いけど…。二人とも、それぞれなりに、少しずつだけど、前へ進もうとしている? それを信じるしか。

 もしかして、翔大に彼女ができた? そうかもしれない、なんかそんな気がする、そう見える。どんな子であっても、うまくやってくれるのなら、彼を理解して…。出来の悪い、でも正直なやさしい子なんで、多少の苦労は目をつむって。彩乃も? いやそんなことより、初めて見つけた、ちょっとした可能性を、まだはっきりしたものじゃないようだけど、そこへ少しずつ近づき、つかもうとしている? 自己実現なんて言葉、知らないだろうけど。大学生になったばかりの男の子とたまに会っている? まあ、それは悪いことじゃないし。

 理恵は? このわたしは、めぐみママと相変わらず、妙なアイコンタクトを交わしながら、何となくホステス、続けてる。仲の良かった絵美さんは辞めたけど、新しく入って来た、彩乃とそれほど歳が変わらないユイちゃんがなついてくれてるし、まあ、お仕事はそれなりに、歳はとり過ぎてしまったけど、笑うしか…。

 最近、ママから旦那さんのこと、相談を受けるようになって、気軽に話してくれる、そのときの彼女の表情、眉間にしわを寄せながらもやさしい感じで、目が笑っているし。この前、気づいたんだけど、ママとわたし、ほとんど歳、変わらないようだし、ちょっとショックだけど、さらに近く感じて、うれしくなって。お互い、しわの数を数えれば、それもほとんど変わらないのかも、そんな気もして、思わず吹き出して、ひとりでにやにやして…。

 肝心な五十嵐さん? ぜんぜん変わらないし、いつも忙しそうだし、めったにラインして来ないし、会っても言葉少なにポーカーフェースで愛想なし。それでいて、本人気づいてないようだけど、本当は気のいいところ、少し天然なところ、隠せないし。後ろ姿にも、もともと哀愁ただようって感じだし、可哀そうに歳を感じさせるようになったし、お互い様だけど。まあ、それが可愛いところでもあるんだけど、クールで厳つい部分、うまく相殺して…。

 でも変わらず、月に一回同伴してくれるし、ホステスのりえでなく、理恵として食事にも誘ってくれる、きまったように。少しは回数増やそうとか、もっと会いたい、みたいなそんな思い、ないのかな、彼には。素振りにはぜったい見せないけど、内側でけっこう、思ってくれてる? 何となくわかるけど、伝わってくるけど、それなりに付き合い、長いんだから。そのあたり、五十嵐さんも、そこいらの男と変わらない? 鈍感なのか、わかっているけど照れ隠しで、うまく表現できなくて…。

 仕事のこと、何も言わないけど、あの大きなお節介、一瞬ぶすっとしたけど、それほど怒っていないようだし。あとですごく反省したんだよ、男の面子つぶしたかもって、堅気じゃないんだから、なおさら悪くて。あんなこと、もう絶対にしないから、ほんとうにごめんなさい、まだ会うたびに、心の中で思っている、もう二度と…。でも、あれから彼、近くに感じられて、手が届きそうな気がして、もしかしてわたしの…。そんなこと、思っちゃいけない、わかってるけど、でも…。

 「お母さん、今日も遅くなるから」。そろそろ出勤の時間が近づいていた。最近よく彩乃がやってくれる、夕食作ってくれる、冷凍食品のときもあるけど、仏頂面でたんたんと。「五十嵐さんと会うの?」。そんなことまで聞いてくる、ほんの一度か二度、話のなかで触れただけなのに、彼のこと、敏感に、女の子だから。わたしの表情を、素振りを見てる、反応を探ってる、いずれお父さんになる? そんなことあり得ないのに。

 「じゃあ、行ってくるね」。スマホに向かって、振り向いてくれないけど、それも面倒そうに、でも「行ってらっしゃい」。待たせていたタクシーに乗り込んで “さあ仕事”とスマホを開けると、五十嵐さんからライン。“同伴しようか”って、そんなところで気を遣って、ほかにあるでしょ、ほんとわかってないんだから。いまさら同伴の回数増やしたって、ママは喜ぶけど、ちょっと違う、いや全然違う、その方向性…。まあ、いいけど、永久にわからないってこと? わたしはずっとこのまま? 放置プレイのように、でも仕方ないか、そんな趣味ないけど。“ありがとうございます。いつも気を遣っていただいて”。ホステスのりえとしてラインを返した。まあ、それもいいけど。でも、違うか…。 (了)

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サンク・バリエテ オカザキコージ @sein1003

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