五 三守の横顔

「允親殿ー」


軽やかな声に振り返ると、巻き上げられた御簾みす(カーテン)の下から、ひょいっと顔をのぞかせて手招きする姿が。


「みっ…、あ、と、藤大輔とうのたいふさまっ!」


慌てて部屋を飛び出て、簀子縁すのこえん(廊下)を小走りし、微笑む彼の元に駆け寄った。


「大輔様ーっ。いつ、こちらに?」

「ちょうど別当殿学長に用があってね。そのついでに立ち寄ったんだ。それで、首尾はいかがかい?允親殿」


尺を片手に、優雅な口調でゆったりと微笑むのは、そう、かの三守さま。

衣の色で官位が分かってしまうこの宮廷で、浅緋あさあけという五位を表す、黄色がかった紅色の衣を纏う彼。

その立ち姿は控え目だけれど、緑色や青色の衣の人がほとんどのここ大学寮で、恐ろしいほど悪目立ちをしてる。


「―大輔様にわざわざご足労いただき、恐悦至極に存じます。お蔭様で、大過なく過ごしております」


TPOは大事よね。

両手の袖を身体の前に高く合わせ、お作法通りに礼をする。

顔を上げて視線を戻すと、数秒の沈黙のあと、袖で口元を隠した三守様さまがクスッと笑った。


「…すっかり馴染んで、よろしいことだね」


含みのある視線を送りつつも、取り澄ました態度の彼に「恐縮でございます」と、こちらも慇懃な態度でとおす。


「そうそう。先程、文章博士とあなたの話をしてね」

「なんでしょう?」

「―さすが大輔様ご推挙の子弟。お若いのに漢籍にも通じて、素晴らしい―、とね。私も鼻が高いよ」


他の人からは見えない角度で、兄さまは悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。


「私は何も。全て大輔様のご指導のお蔭にございます」

「なにをおっしゃる。あなたの実力ですよ、允親殿」

「とんでもないことでございます。ひとえに大輔様のお力添えゆえ」


ふふふ。

なんだか、童の頃によくした『ごっこ遊び』みたい。

芝居がかったやりとりをひそかに楽しむ私たちの横を、通りがかる人が次々に足を止め、三守さまにうやうやしく頭を下げる。


式部大輔しきぶのたいふ様、ご機嫌麗しく」

「あぁ。お勤めご苦労様」


その度にニッコリと微笑む姿は、いかにも優雅な上流貴族という雰囲気で、いつものおちゃらけた姿はどこへやら。

でも、スッと背筋を伸ばして立つ彼の横顔は、とても凛々しくて、ほれぼれしてしまう。


「…とても新鮮です。三守さまのお仕事姿、すごくカッコよくて」


人少なになったのを見計らって、彼の横顔に向かって声をかけた。


「ほんとに?」


三守さまは大きな目をさらに大きくして、私のことをまじまじと見た。いつもだったら、つい顔をそらしてしまう距離だけど、今日は違う。


「はい。知らなかったお姿を拝見して、允親はつい、見惚れてしまいました」

「そうかい?」

「えぇ。凛々しいお姿、素敵です」


いつもなら間違っても、口に出せないセリフ。でも今、私は允親だから、面と向かって言えるんだ。

―まぁ、いわゆる、悪ノリってやつです。

ヘヘッと兄の真似をして笑うと、三守さまは「もしや、褒め殺しかな?」といぶかしがってみせた。

もう、今日だけ、だからね。


「いいえ、偽りなき本心にございます。允親は嘘は吐きませんから」

「ほんと…。嬉しいな、それは」


独り言のようにポツリ呟くと、彼は手にした尺を口元によせ、庭に視線を向けた。

そうしてしばらく、ふたり肩を並べて、花がほころぶ庭を静かに眺めていた。


「ときに、允親殿ー」


不意に、顔を庭に向けたままの三守さまが口を開いた。


「はい」

「琴子姫は、今は、いかがお過ごしだろうか」

「はい?」


意外過ぎて、頭のてっぺんから空気の抜けたような声が出ちゃったよ。

だって、琴子姫、って、わたしだよね?


「…実はね、前々から一度、伺ってみたかったんだ。姫に」

「何を、ですか?」


庭先に向けられていた視線が伏目がちに戻されると、私の水色の直衣が、彼の黒い瞳を染めた。


「允親殿はいつもてらいなく、まっすぐに、私に思った事を伝えてくれる」

「それが允親ですから…。まぁ、流石に遠慮しなさいって思いますけどね」


眉をひそめた私に、三守さまはふふっと小さな笑みをこぼす。


「いいんだよ、私は『子守りの三守』なんだから。遠慮なんぞしなくても」

「いいえ。もう大人なんですから、これ以上、甘やかしてはなりませぬ。調子に乗るだけです」

「でもね、允親殿。私はね、甘やかしたいんだ、お二人を。そして、琴子姫を、もっとね」

「…?」


どういうことだろう…。

允親に向けられる少し熱っぽい眼差しを、しげしげと見入る。大きな瞳に映った少年は不思議そうな顔をして、次の言葉を待っていた。

三守さまはそんな私にフッと眉をよせ、困ったように笑うと、また視線を庭に流した。


「…昔は私を見ると『もりにぃ』って笑顔で走ってきた子も、裳着を過ぎたら、すっかり大人びてしまって。今なんて『三守さま』って、もう他人行儀でさ。淋しくてね」

「それは…」


そこはね、大人になったんだから、ケジメみたいなもので。


「これでさ、他所にオトコが出来たなんて言われたら、発狂するね」

「…えと…」


いや、それはやり過ぎですって。落ち着いて。


「ホント、年頃の娘を持つ父親の気分だよ。僕、娘いないけど」

「…ですよね」


って、なんか、変な方向に話が進んでるよ?


「おかしなことを言うって思うだろ。でもね、ずっと見てきたからこそ、私は知ってるんだ」

「なにを、で、しょう…?」


急に変わった声のトーンに、嫌な予感がする。


「姫はね、お辛いとき、皆が寝静まってからひとり泣くんだ。夜、月を見ながらね」

「な…っ」


なんで知ってるのっ?!

驚きのあまり、目も口も開いたままで見つめ返す私に

「何年見てきたと思ってるの。生まれてからずっとだよ?当然でしょう?」

と、たいそう勝ち誇った顔でおっしゃった。


「くっぅ…っ」


恥ずかしさのあまりうつむく私を、三守さまは楽しそうな顔して覗き込んでくる。


「泣いてるの?大丈夫?って声をかけても、違うって言い張ってね」

「…止めましょう、その話は」


ツライ。心当たりがあり過ぎる。

あれはそう、そうなのよ。でもね、そんなこと、思い出したくないの。


「可愛いんだよ、そのお顔も。真っ赤になったお目めで口だけで強がって。ホントに、昔から変わらないんだ」

「…」


恥ずかし過ぎて、死にそう。

もう、どうしてこんな話になったんだろう。ねぇ?


「…そうやって、姫はいつも、何でも自分で済ませようとするんだ。ひとりで抱えないで、頼ってくれればいいのに。それとも、信用ないのかな、私って」

「そんなつもりは」


あわてて否定するけど、耳に入っていならしく、彼は遠くを見ながら、しみじみとため息をついた。


「私はね、允親殿」

「…はい」

「もっと我儘わがままを言って欲しいんだよ」

「我儘、ですか?」

「うん。どんなことでもいい」


こちらに身体を向けた三守さまの、いつもと違った真剣な表情にドキッと心臓がなる。


「―今だって、きっと慣れない環境で本当はお辛いこともあると思うんだ。でも、姫は心配かけまいと、明るく笑ってみせるんだろう」


もしや、絡まれてたのをどこかで見ていたのかな…。


「だから、姫に伝えて欲しんだ。何かあったら、遠慮なんかせずに、すぐに私を呼んでくださいっ、て」


気持ちはありがたいよ。でも。


「式部大輔様をお呼び立てするなんて、恐れ多くて出来ません」


ここは『官位がすべて』の宮中。いくら本人が良いといえど、良くないと思うの。


「男はね、允親殿。尽くすと決めた姫君には、我儘を言われたいのだよ」


そう言うと、いつもと違う、少しくもったような笑顔を作った。


「…」


なんと返していいのか、わからなくて。

黙ってしまった私の肩に、温かい手が触れる。


「面と向かってだと、気後れしてしまってね」


童顔に似合わない、ゴツゴツした指先がキュッと肩を掴んだ。


「琴子姫に、伝えて―。頼みましたよ、允親殿」

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