六 夜の天狗

眠れない…。

大学寮にある寄宿舎の一室。ふとんの中でゴロゴロしていたら、もう子の刻(深夜)。


こういう時は、すこし風に当たろうかな…。

書物を片手に、夜着の上に衣を羽織って部屋を出た。

人気のない池に面した廊下の端まで来たところで柱を背に腰を下ろす。

顔を上げると、夜風が前髪を揺らした。


「…キレイな月」


上弦の月がすまし顔で、ひとり夜空に浮かんでいる。

月を見ていると、無性にさみしくなるのはなんでだろう。


「もう、わかんないや…」


水面に跳ねた光が楽しげに小さな舞を踊って、膝を抱えた私の横を通り過ぎる。


「なぐさめてくれるの?ありがとう」


辺りに誰もいないから。

つぶやいて、また、空を見上げる。

そのまましばらく、ただぼーっと月を眺めていた。


「ウサギは見つかったか?」

「ん?」


声に振り返ると、月明かりの下、袖をたなびかせた影が床板にスーッとのびた。


「…天狗だね、まさに」


色素が薄いせいで、金色に透けてみえる髪と瞳。この世のものとは思えない妖しさをはらんだ高群が、柱の影から顔をのぞかせた。


「そういうあなたは月天子だね」


目を細めて言うと、天狗は音もなくその場に腰を下ろした。


「それ、褒めてないよ」


月天子は見た目は良いけど、周りに天女を侍らせて享楽にふける、月の王様。

しかも我儘し放題ときた。


「すまん。男としては羨ましいがな」

「…憧れの存在、なんだ」

「健全な青少年はそういんもんだ」

「そっか」


彼なりの誉め言葉だってことは、わかってる。

そういう気遣いをするのが、高群だから。


「寝れないのか?」

「…ん…」


柱にもたれたまま、小さくうなずく。


「…麗しきお顔は、月夜に映える―。どうぞ今宵は我と共に、琴をかき鳴らしては下さいませぬか」

「ブッ」


芝居がかったセリフに、つい吹き出しちゃった。


「…天狗って、口説き文句もお手のものなんだね」

「まだ本気出してないがな」

「私の知ったことではないけどね」

「どうして?」

「どうしてって…、そりゃぁ…」


あなたが誰を口説いても、誰を好きでも、関係ない事だし。


「オレの事なんて、何の興味もないって顔だな」

「…バレたか」


わざとらしく低い声で笑うと、天狗が眉を上げた。


「―で、何を悩んでるんだ?」

「わかんない」


重く湧き上がる、夏の雨雲みたいな色の不安。

胸の底にうごめく、言葉にできない気持ち悪さに、自分でもとまどう。


「恋煩いとか?」

「まさか」

「じゃ、なんだ?この試験か」

「なのかなぁ…」


そうじゃない。ただ、なんとなく、息をしても胸まで入らない感じで―。

うまい言葉が出てこなくて、そのままふたりでしばらく空を眺めていた。


「ここも、明日で最後だな」

「うん…」


ポツリと呟いた彼の言葉に、胸にズキンと痛みが走った。

そうなんだ。

明日で、私は允親じゃなくなる。

琴子に戻る。

元の私に。

ただのひとりの、十五歳の女の子に。


「やだな…」


コロンと落ちた言葉に、高群が肩が揺れたのがわかった。


「あー、試験ね。苦手なんだ、問答考えるの。自信はソコソコあるんだけどね」


慌てて誤魔化してみたけど、高群の顔は笑ってない。


「天狗に嘘は、よくないな」

「嘘じゃないって」

「取り繕うのは、允親らしくない」

「…」


たしかに、親兄ならこんな時でもきっと、思った事を言えるよね。

それが、顔だけ同じな私と彼との、大きな違い。

追いつけない差なんだ。


「允親」

「ん」

「天狗の術は、この夜ごと消し去ることが出来るんだ」

「は?」


唐突な空言。彼をまじまじと見ると、ニヤリと悪そうな顔をした。


「知ってるだろう?允親は」

「…あぁ。人を驚かせるのは、天狗の専売特許だったね」


初めて会ったあの日、天狗は空を飛んでたんだ。ソレを見た私は驚いて―。

くくっと笑った私が、琥珀色の瞳に映る。


「月夜に天狗にたぶらかされるのも、また一興だろう?」


目尻のシワを重ねて、竹群が悪戯っぽく微笑んだ。

あぁ。この顔―。

あの時も、こんな顔して、木の上から見てたよね。


「天狗って、ほんとに何でもお見通し、だね―」


千里眼の彼に、隠し事は無用だね。

泣いても笑っても、明日が最終日。ここに来るのも、これが最後。

だから、今夜くらい、いいよね。


「…せっかくだから、術中にはまろうかな」

「そうこなくちゃ」


月明かりに白い歯がほころんで、そこに星がまたたいたみたい。


「これは、独り言、だから」


でも、やっぱり、ちょっとだけ恥ずかしいから。


「あぁ。ここに人はひとりもいない」


穏やかに言う彼にうなづいて、私は組んでいた足を白い床に伸ばした。


「―初めてじゃないんだ。允親になるの」


視線の先、池の向こうの、白壁の奥の空をほのかに照らすのは、衛士が夜通し守る内裏(皇居)のかがり火。


「まだ、八、九つくらいの頃。後宮で暮らしてた時に」


お仕事が忙しくて、『屋敷に帰る時間がもったいないから』と、超合理主義の大ばば様は一時期、私たちを連れて、女官たちと同じ殿舎に住んでいた。


「そこでも允親は人気で、いつでも女官に囲まれてるの。あれは、生まれ持った才能だよね」

「そうだな」


落ち着いた声で打つ相槌に、私の唇もなめらかに答える。


「で、やることない私は、田村のおじさまに剣術を教わったの。允親のフリして」


当時兵部卿(軍のトップ)だった田村のおじさまは、幼い私にも厳しく、でもとても親切に教えてくれた。


「すごい楽しかった。たくさん褒めてもらって。『立派な武官になれるぞ』って」

「あのオヤジ、言いそうだな」


毘沙門天の生まれ変わりと称された彼は、今は都の南東に眠っている。


「それで、調子に乗って、みんな寝静まった夜に局(部屋)を抜け出して、大内裏の探検に行ったんだ」

「大胆だな」

「女の子だと門で止められるのに、允親の衣着てると、通してくれるんだよ。頑張れよって」


剣を腰に佩いて人少ない夜の大内裏を歩いていると、なんだかちょっと、大人になれた気がして。

そんな夜のお忍びも、長くは続かなかった。

秋の気配が庭先に見え始めた頃。ある日突然、私たちは三守さまに連れられ、都を出た。

その時に何があったか、後になって知ったけど。


「昔から、私って変わらないんだね」


あの時も、兄の真似事が楽しくて、そればっかり。

今も、允親のフリして、こんなところに座ってる。

そして、同じことを思ってる。


「允親に、なれたら良かったのにな…」


ずっとうらやましかったんだ、親兄が。

明るくて、器用で、誰からも好かれて、やさしくて―。

なんの取り柄もない私には、彼の笑顔はまぶしくて、あこがれで、くるしくて。

イチバン近くて、イチバン遠い。

それが允親。


「…十五はまだ、サナギみたいなもんだ」


しばらく黙っていた天狗が、静かに口を開いた。


「どろどろに溶けて、新しい姿に変わる途中」


風に波打つ湖面を見る横顔は、私の知らない大人の顔をしていて、鼻の奥がツンとなる。


「今はなにも、焦ることはない」


あと何年かしたら、変わるのかな。

少しは大人に、なれるのかな。


「もう少しの辛抱だ」

「…うん」


素直にうなずけるのは、天狗の術のせい。


「少し、ラクになったよ。ありがとう、付き合ってくれて」


向き直り、姿勢を正して頭を下げる。

竹群といると、なぜか心のモヤモヤが少し軽くなるんだ。


「いつでも呼んでくれていい」

「そんなこと」

「遠慮なんていらない」

「ん…」

「約束は違えない。これはオレの役だから」

「…そんなに三守さまが怖いの?」

「いや。ん、まぁ、食えない男だな」

「そう」


あのお茶目な人が苦手とは、天狗にも可愛い弱点があるのね。

フフッと笑った私に、穏やかだった竹群の顔が真剣な表情に変わった。


「いいか。何かあったら、真っ先にオレを呼ぶんだ。どんな時でも、かならず、すぐに飛んでいくから」


そう言った蜜色の瞳は、夜空のようにどこまでも深く澄み切っていた。

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