心のままに
「ヴィム、お二人はあなたのことを心配してくださっています」
ヘルミーネさまが優しく声をかけると、ヴィムはぎゅっと目を閉じた。
「シュトラールを裏切ったこと、お詫びいたします」
「裏切ったわけではないでしょう。アインホルンの手の者に騙されただけで」
「騙された?」
不穏な響きに、胸がざわめく。
「ええ。わたくしのために有望な職人を探してくれておりましたの。シュトラール出身で独立したばかりの職人がいるとのことで……」
「俺は最初、アインホルンの名前をまったく聞かされていなかったのです」
ヴィムが新天地に定めたのは、小さな男爵領。早くも領主に才を見出されたのはよかったものの、その男爵はアインホルン公爵家に従属していた。
アインホルンに取り入るため、その男爵はヴィムを「献上」したのだという。
「そのようなやり口で支援されたくなかったですし、ヴィム自身、事実上の主がアインホルンだと知って慌てて去ろうとしましたのよ。けれど、最終的にはわたくしが引き留めました」
ヘルミーネさまは昨年、バルドゥルの工房でヴィムの案をもとにした首飾りを発注している。その才能を高く評価していたのだ。
「仕立屋は専属になってくれる者を見つけましたが、宝飾品職人の確保に難儀しておりました。彼の力が欲しいのは事実でしたので、強く説得したのです」
「どのように?」
テオフリートさまの瞳に、かすかな好奇心が宿る。
ヴィムは一度ヘルミーネさまに視線をやると、自ら口を開いた。
「シュトラールは、斬新なドレスや宝飾品で世間を驚かせました。一方でヘルミーネさまは従来の装いをもとに、新しいものを生み出したい、と。この場合、よほど工夫しないと目新しさを感じさせられません」
ヴィムの眼差しは、夢に燃えたような輝きを放った。
「お話を聞いて、もっと難しい挑戦ができるのではないかと思ったのです」
「……シュトラールの職人としては正しい答えだ」
テオフリートさまの笑みに、ヘルミーネさまは眉を寄せる。
「余裕ですわね」
「シュトラールの初代も、最初は同じだった。現在アインホルンには困っているが、君やヴィムを咎める理由にはならない」
テオフリートさまはヴィムに向き直る。
「ヴィム、残念だがお前はシュトラールに戻れない。その分、彼女のもとでこれからも励むように。ただし、バルドゥルには今後なんらかの形で報いること」
ヴィムは大きく目を開き、唇を震わせる。そして声もなく、頭を垂れた。
ヘルミーネさまは彼を退出させると、ほんの少し視線を下げる。
「……度量が大きくて結構ですこと。わたくしはまだ職人を育てる術を身につけておりませんので、見習わせていただきましょう」
そこで表情を引き締めて、彼女はわたくしとテオフリートさまをしっかりと見つめた。
「自分の望みを優先して、アインホルンを好きにさせていたのは事実です。ただ、アリアドネさまを妬む気持ちはございません。嫌がらせで苦しめたかったわけでもありません」
彼女は綺麗に整えられた指先を自分の胸に当てる。
「……わたくしはただ、自分で自分の道を切り開きたかった。限られた時間の中で、自分なりの答えを見つけたかった。それだけは主張しておきますわ」
そう語るヘルミーネさまの声には、少しの屈託もなかった。ただまっすぐな気持ちだけが存在した。
わたくしがまだ得ることのできない、強い心と矜持。それが眩しく思えて仕方なかった。
「ヘルミーネさまは、やはりご立派ですね……」
ため息混じりに呟くと、テオフリートさまもヘルミーネさまも同時に渋い顔を作った。
「アリアドネさま。今のお言葉は、なかなかの嫌味になりますわよ」
「えっ」
「……ヘルミーネ嬢、流してくれるとありがたい」
こういうとき、社交に消極的だった過去が悔やまれる。まだまだ人の心をくみ取れないらしい。
「もちろん、そのような意図がないのはわかっております。ですが、あまりに素直すぎます」
わたくしが反応に困っていると、テオフリートさまが緩く首を振った。
「いや……彼女の素直さは美徳だと思っているのだが……」
「本当にご夫人にはお甘いこと。そのうち、本当に敵意を持った人に弱みとして突かれますわよ」
「胸に留めておこう」
「ぜひ、そうしてくださいませ」
ヘルミーネさまは姿勢を正し、微笑みを作り直した。
「わたくし、アリアドネさまが思うほど立派ではございませんよ。一族を放っておいたのは、もうひとつ理由がありますもの。大きな制限を受けたお二人がどのように対応するのか、見てみたかったのです」
「うちの領民の生活に直結するような好奇心は出さないでもらいたい」
テオフリートさまの低い声にも、彼女は動じない。
「わたくしのお友達はそちらの工房に注文していますし、商人にも大口注文が入っているでしょう?」
「それは、ヘルミーネさまのご手配で……?」
「さあ。アリアドネさまを応援するお方は多いのですから、わざわざわたくしが手を回す必要などないのでは?」
ヘルミーネさまの面持ちに、ほろ苦さが混じる。
「わたくしが言うのもなんですけれど、こういう危機こそ利用するのですよ。今こそ、反アインホルンの貴族たちの同情をぞんぶんに引けるでしょうに」
「昨日の、君との話し合い次第ではそれも考えていた」
テオフリートさま……わたくしはまったく思いつきませんでした……。
ヘルミーネさまは、記憶をたどるように伏し目がちになる。
「昨日の、仕立て直したドレスには驚かされました。銀やプラチナのほうが似合うアリアドネさまに、あえて金を合わせる試みも」
「あれも、わたくしだけの力ではありませんわ。夫に実家に領民に友人……いつも誰かに助けられてばかりですもの」
自分の力で、と志を抱いたヘルミーネさまのほうが、わたくしには眩しく見える。
「アリアドネさまは、このお方の力になりたいと思わせる資質をお持ちですものね」
「君も力になってくれて構わないのだが?」
テオフリートさまの返しに、彼女はにこりと笑むものの、何も言わない。
シュトラールの皆は、テオフリートさまと一緒になって、わたくしに装う楽しさを教えてくれた。今ここで、彼らに報いたい。
わたくしは伸ばした背筋を意識しながら、空色の瞳を見据える。
「ヘルミーネさま。今、議会にあがっている案は、シュトラールの領民の生活を脅かします。保留の状態が長引くだけでも、冬を越せない人も出かねません」
彼女は視線を逸らすことなく、小首を傾げてみせる。
「あら、ツェーフィルさまから聞きませんでした? わたくしが得た猶予は一年。正確に言えば、今年の社交期の終わりです」
「……事前に彼が知らせてきたのは、君の差し金か?」
「まさか。あのお方が本家よりも友情を取るのを止めなかっただけです。それはともかく、アインホルンとしても、ほんの少しの間アリアドネさまの動きを封じるだけのつもりです」
「……アインホルンにとってはわずかな間でも、こちらの領民にとっては大きな打撃になるのです」
落ち着かなければ、と思いつつも急いてしまう。テオフリートさまは、親友の名を出されても平静なのに。
「もうひとつご忠告をいたしましょう。アインホルンは、貴族同士の力関係にしか興味を持ちません。領民の窮状を訴えられても無意味ですよ」
即座に切り返され、唇を噛みしめる。テオフリートさまが無言で、わたくしの肩に手を置いたけれど――。
「……では、わたくしからヘルミーネさまへの言葉なら、聞いてくださるでしょうか?」
「アリアドネさまから、わたくしに?」
彼女の眼差しに、ほのかな興味が宿った。わたくしは頷きながら、深呼吸をする。
テオフリートさまは心配そうな面持ちになっていたけれど、わたくしは視線で「大丈夫」と伝えた。彼は少し逡巡したあと、ゆっくりと頷いてくれた。
彼が傍にいてくれるだけでこの上なく心強く、この場で信頼して任せてもらえたのが嬉しかった
話術に長けたヘルミーネさまと社交下手なわたくしでは格が違う。対等な交渉どころか、心に寄り添おうとすること自体、きっとおこがましい。それなら、せめて自分の心はお伝えしたかった。
「わたくし自身、まだまだ夫や領民の力を借りなければなりません。ただ……どうせなら、ヘルミーネさまにはこちらが総力をあげて挑んでも敵わぬ存在であってほしいのです」
彼女はいつも、理想の貴族令嬢を体現していた。社交下手なわたくしが会話に入れないときも気を配ってくれた。公爵夫人になる自覚が足りないと指摘してくれたこともあった。
「わたくしにとってヘルミーネさまは憧れで……一点の陰もあってほしくないのです」
俯かず、視線を逸らさず、まっすぐ彼女を見つめて告げる。
「……今言ったでしょう、わたくしはそう立派ではないと。理想を押しつけられても困ります」
やはり、押しつけがましかっただろうか……。心が曇りかけたときに、やわらかな吐息がわたくしの耳に届いた。
「とはいえ……テオフリートさまはともかく、あのアリアドネさまがここまで主張してくるとは想定しておりませんでした。そのお気持ちには報いましょう。長老に話をつけてみますわ」
「ヘルミーネさま、ありがとうございます!」
声に熱が入ってしまうわたくしに、ヘルミーネさまは表情を崩した。
「素直に感謝してよいのですか? あなたがたの領民を弄んだ側の者に?」
「あ……」
「本当に面白いお方。テオフリートさまがあれこれと構ってしまうお気持ちはよくわかりますわ」
彼女は涼やかな笑い声をあげる。
「君に言われてもな」
テオフリートさまは呆れた声を出しつつ、わたくしの手を握った。その様子を見て、ヘルミーネさまは目を細める。
「アリアドネさま……わたくしにとって一番の自信作となる首飾りを、この夏に間に合うよう今仕上げているところですの。そのころには、アインホルンも手を引いているはずです。出来上がったら、見ていただけますか?」
一度テオフリートさまに視線を送ると、菫色の穏やかな眼差しが返ってきた。
「……ぜひ。楽しみにしておりますわ」
そう答えると、ヘルミーネさまは嬉しさを滲ませるように笑った。心からの美しい笑顔だった。
アインホルン公爵邸から帰ると、夜を徹して話し合っていたフィリスたちはみんな疲れ果てて眠っていた。
待機していたロルフに、大まかな顛末だけ伝えた。気を張っていたのだろう、彼はその場で座り込みかけた。そのあとすぐに我に返って姿勢を正し、思わず二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
皆が起きてくる前にひと息つこうと、テオフリートさまの部屋へ移動する。長椅子に座った途端、一気に力が抜けてしまった。
「……ヘルミーネさまがどれだけの思いを抱えていたか、まったく気づけませんでした」
今日のやりとりを思い出して、わたくしは目を伏せる。
「もしも、わたくしがご相談に足る相手でしたら、もっと早い段階で話し合えて、皆を巻き込むこともなかったでしょうか」
「向こうは歴史のある大貴族、そう簡単に胸の内は明かさない。昨年のお茶会で決意を固めたと言ったものの、彼女も昨日まではずっと何もなかったように振る舞っていただろう?」
シュトラール公爵家が弱みを見せないのと同じだという。
「わたくしは、胸の内を明かしてばかりですわね。公爵夫人として、まだまだです」
「だが……」
テオフリートさまは、優しく抱きしめてくる。
「私は、今の君が好きだ。他人を思いやり、感服するところがあれば素直に口にし、ときに勇気を持って言葉を紡ぐ……」
額を重ねながら、困ったように彼は微笑んだ。
「アリアドネ。そういう君を、私はどうしようもなく愛してしまっているんだ」
どちらからともなく二人の唇が重なる。
「テオフリートさま、わたくしも……あなたを愛しています」
かつて、わたくしは自分のことばかりに悩んで、自分のこともまったく好きになれなかった。周囲から距離を取って、なかなか自分の考えを口に出せなかった。
そんなわたくしが今日、ヘルミーネさま相手に心を伝えられたのは、テオフリートさまのおかげだ。ドレスや宝飾品だけではなく、彼はいつも優しい言葉で励ましてくれて、今日もわたくしの盾になろうとしてくれた。
だからこそ、わたくしはいつも、勇気を出せるのだ。
ふと、抱きしめてくるテオフリートさまの力が強くなって、わたくしは完全に彼の腕の中に閉じ込められてしまう。
そしてまた、唇が触れ合う。繰り返すごとにそれは深くなっていき、互いの吐息が混ざり合っていくのを感じた。
このお方の妻として、ずっと傍で支え合っていきたい――安らぎに満たされながら、わたくしは彼の背に腕を回した。
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