婚礼前夜
春が深まるにつれて、我が家の忙しさは増していた。
出席する社交の場は去年の三倍近く。加えて、お母さま主催のお茶会の手伝い、本縫いのドレスの試着と打ち合わせ。その合間に、テオフリートさまとの外出を口実に、ゲルデたちの挑戦作を世間にお披露目をする。
テオフリートさまは歌劇をよく観に行かれる。華やかな装いを披露する絶好の場なので、今年は覚悟を決めてなるべく同行するようにした。
そんな中、アレクシスとイレーネがフロイトからやってきた。彼らの姉……この家の一員でいられるのもあとわずか。あの田園風景に別れを告げたときも胸に寂しさが宿ったけれど、婚礼が近づくにつれて少しずつ現実感が増していく。
二人の到着を知ったテオフリートさまは、すぐにゲルデを伴ってやってきた。二人の衣装を前もって仕立ててくれたのだ。
「二人とも、ご挨拶できるかしら」
小さな背中をそっと押すと、まずはアレクシスが一礼する。
「公爵閣下にご挨拶申し上げます。フロイト侯爵の嫡男、アレクシスでございます」
彼を真似ながら、イレーネも小さな貴婦人の挨拶をする。見守っていたわたくしやお母さま、イーリスが揃って安堵の息を吐くと、テオフリートさまは苦笑した。
「君たちの姉君の夫となるテオフリートだ。新しい家族だと思って、気楽に接していい」
彼は屈んで、二人に視線を合わせてくださる。
「……では、お義兄さまと呼んでもよろしいですか?」
アレクシスの意外な発言に、わたくしやお母さまは慌てる。けれど、テオフリートさまは眩しそうな表情を浮かべる。
「私には兄がいたが、ずいぶん前に亡くなってしまった。結局二人きりの兄弟で……実は弟や妹が欲しいと思っていた。君たちさえよければ、そう呼んでくれ」
ゲルデはあらかじめ数段階の大きさの服を用意しており、アレクシスもイレーネも簡単な調整だけで済みそうだった。二人とも、華やかな装いに興奮を隠しきれない様子だった。
そのとき、お父さまが外出から帰ってきて、応接間に顔を出した。
「シュトラール公、ちょうどお話したいことがございました。イーリス、アレクシスとイレーネを連れて行きなさい」
お父さまの指示に従い、三人は退出する。イレーネだけ未練を残したような顔をしたものの、イーリスに容赦なく引きずられていった。
「二人とも、アリアドネから聞いたとおりの子たちだな。あの年代の子と触れ合う機会があまりないから、私としては嬉しい」
見送る笑みが、とても柔らかい。
子どもがお好きなのかしら――と考えて、わたくしはまた結婚後のことを意識してしまい、一人照れるのだった。
「それで、フロイト卿。話というのは?」
「昨年、うちの侍女たちがシュトラールから香油や美容のクリームの作り方を教わったでしょう。それが少しずつ領民にも影響を与えているようでして」
領地の屋敷に勤める使用人は、近隣に住まう家の出身者が多い。屋敷で覚えた作り方を家に持ち帰って、そこから口伝に広まっているようだ。
「だが……決して安価なものではないだろう? フロイトの領民はそれほど豊かなのか?」
「もちろん、シュトラールの製法に近いものを使えるのは富裕層に限られております。ただ、野山ばかりの土地ですから材料にする薬草自体は手に入りやすいのです」
そこで、お父さまはこうした植物をフロイトの名産にできないかと考えた。ただし、本格的に香油やクリームを生産するには施設や専用の畑が新たに必要だ。
「フロイトでは今、港の改築が最優先事項となっています。図々しいことを承知で言えば、シュトラールで扱っていただけるのならありがたいのですが」
テオフリートさまは考え込むように、顎に手を当てた。プラチナの髪がさらりと揺れる。
「……実物の質を見ないと判断がつかないな」
菫色の瞳がちらりとこちらに向けられた。
「今の社交期が終わったあとに、一度フロイトに足を運んでもいいだろうか。アリアドネと共に」
テオフリートさまの言葉に、自分の表情が明るくなっていくのを感じる。
「まあ、よろしいのですか?」
「アリアドネ、淑やかに」
お母さまが窘めるけれども、喜びが抑えきれない。
「ああ、テオフリートさまにいらしていただけるなんて。麦の収穫には間に合わないかもしれませんが、夏から秋にかけては綿の花が綺麗ですよ」
「綿……アリアドネから聞いたとき、それも気になっていた。昨年のものでいいから、採れたものを見せてもらえるとありがたい」
初めて二人で出かけた日に、食事をとったときのことを思い出す。ささいな話だったはずなのに……。
「アリアドネがフロイトの田園風景を話すときは、とても朗らかな表情になる。一度行ってみたかった」
そう言ってくれる彼の心が何よりも嬉しかった。
ただ、幸せに浸るわたくしとは対照的に、お母さまは渋い顔をしていた。
そしてテオフリートさまとゲルデが帰ったあと、公爵夫妻を客人として迎える大変さについて懇々と説かれた。
その後も、我が家は婚礼の支度で慌ただしく日々を過ごした。
「慣習上、新郎新婦は別々に前日を過ごすことになるが……」
婚礼二日前、外出の帰りにテオフリートさまは離れがたそうに呟く。
「既にいろいろな慣習を破っているとはいえ、前日くらいは家族でゆっくり過ごすといい」
「……そうですね」
都に来てからもたびたび会えない日があったというのに、なんだか今日は寂しくなってしまう。
「婚儀を済ませたら、私たちは毎日一緒にいられる。家族との時間を大切にしてほしい」
「毎日……」
婚約以降、意識していたことだけど、改めて言われると胸が幸せに満たされていく。
「当日、楽しみにしている」
そっとわたくしのまぶたに唇を落とし、テオフリートさまは行ってしまった。触れられたところの温もりは長く残っていた。
前日くらいはゆっくりと言っても、特にお母さまは気を張った様子で最後の確認に追われていた。お父さまもお母さまに急かされて、いろいろと忙しく動いていた。
結局、家族全員で落ち着いて語らえたのは、晩餐になってからだった。
「とうとうアリアドネが嫁ぐのね……長かったわ……」
約一年に渡って、婚礼の手配に追われたお母さまがしみじみと呟いた。対して、お父さまはにこやかだ。
「今から楽しみだな」
けれども、同意する素振りを見せたのはイーリスだけだった。アレクシスもイレーネもなんだか表情が暗い。朝からずっとそうだった。
「二人とも、これでお別れではないのよ。社交期が終わったら閣下とフロイトへ赴くし、その後も会おうと思えばすぐ会えるわ」
「でも……」
「明日はそんな顔していられないわよ。とても素敵な婚儀になるのだから」
イーリスの変わらなさが、食卓を明るくしてくれる。
そんな彼女が、晩餐後にわたくしの部屋を訪ねてきた。
「お姉さま、今夜は一緒に寝てもよろしくて? 小さいころのように」
アレクシスが生まれる前、社交で両親が屋敷を空ける際はよく姉妹二人で一緒に眠っていた。懐かしい記憶だ。
「いいわよ。最後だから」
言いながら、複雑な気分になる。明日の楽しみと、一緒に暮らすのは今日で最後という寂しさが、じわりと混ざり合った。
イーリスは部屋を見渡しながら、感慨深げにため息をつく。
「このお部屋で過ごすと、いろいろと思い出すわ。お姉さまが舞踏会に行きたくないと抵抗したり、テオフリートさまと初めてお出かけするのに大騒ぎしたり」
どんなときも、この妹はいつも一緒にいてくれた。胸がいっぱいになって、わたくしは彼女を抱きしめる。
「イーリス。今までずっと、わたくしの味方でいてくれてありがとう」
「嫌だわ、お姉さま。明日も明後日も、ずっとずっとわたくしはお姉さまの味方よ」
イーリスはなだめるように、背中を軽く叩いてくれる。この期に及んでも、どちらが姉なのかわからない状態だ。こんなに出来た妹を羨んでしまっていたことすら、もはや遠い記憶だ。
「……本当はね、わたくしもお姉さまが嫁がれると思うと少し寂しいのよ」
イーリスはわたくしに寄りかかるようにしながら、ぽつりと漏らす。
「ふふ、覚えていらっしゃる? いつか、わたくしが言ったこと」
――堂々とするのですよ。そうすれば、皆が魅了されますから。
「そういえば……そんなこと、言ってくれていたわね」
「もう、お姉さまったら」
その口調があまりにいつもと一緒で、なんだか泣きたくなってしまう。
「わたくしの言ったとおりになったでしょう? きっと亡きお祖母さまも喜んでくださっているわ」
「堂々としていられるようになったのは、わたくしだけの力ではないわ」
イーリスはもちろん、テオフリートさま、お父さまとお母さま、シュトラールの人々に我が家の使用人……いろいろな人々に支えられて、今の自分がある。
「お姉さまは泣いてはいけませんよ。明日は最高に綺麗な花嫁になるのですから」
「あなたもね、イーリス。花嫁付添人の筆頭なのだから」
その晩、わたくしたちは子どもに返ったように手をつないで眠った。フロイト侯爵家での最後の夜は、そうして穏やかに過ぎていった。
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