婚約披露当日

 それから一ヶ月。我が家は嵐が巻き起こったかのように騒がしかった。

 代わる代わる、シュトラールの職人たちが訪ねてきては、婚約披露の席のドレスや装飾品の打ち合わせを行う。もちろん、テオフリートさまもできる限り同席した。

 婚約者となったからには、もう遠慮なんてしなくなったらしい。彼はわたくしの試着姿を真剣に見つめながら、ゲルデやバルドゥルたちに細かな指示を飛ばす。

 身体中をじっと見つめられるのはまだ気恥ずかしいけれど、彼が生き生きとしているのでいいのだと思うことにした。

 シュトラールの侍女たちの派遣は、快く叶えてもらえた。彼女たちの衣装の選び方や髪の結い方、化粧はどれも洗練されていて、わたくし付きの者はもちろん、イーリスやお母さまの付きの者たちまで熱心に話を聞いていた。

 そして、婚約披露宴の招待状を正式に出す前から、わたくし宛にお茶会のお誘いが数えきれないほど届いた。噂の広まりが想定以上に早い。やはり、公園での口づけはやりすぎだったのではないか。

 婚約披露当日までの予定は、ほぼテオフリートさまにまつわる用件で埋まってしまう。全てのお招きに応じることは到底できなかった。せっかくヘルミーネさまのご招待もあったというのに。

 代理を買って出てくれたのはイーリスで、適度にわたくしたちの恋話を脚色して広めた。その手腕にはテオフリートさまも感心するほどで。

「妹君はなかなか優秀だな。加減をきちんとわかったうえで、宣伝してくれてありがたい」

 いかにテオフリートさまが情熱的か、いかにわたくしを愛しているか。こちらとしては容赦してもらいたいところだけど、彼としては適度な恋物語に仕上がっているらしい。

 それでいて、婚約指輪やドレスのデザインは決して話を漏らさず、周囲の期待を膨らませている。我が妹ながら、立ち回りの上手さに感心してしまう。


 わたくしはと言えば、テオフリートさまの屋敷や互いの縁者、彼のご友人のもとを訪うついでに、少し散歩に出るくらいしかできなかった。歌劇に誘われたこともあったけれど、まだ腰が引けたのでご勘弁していただいた。

 それでも外出時のわたくしの装いを見た上流階級の婦女子から、各工房に注文が相次いでいるという。婚約の効果は、確実に表れているようだった。

 これに関しては喜ばしいものの、困った問題もある。時折、彼は突然唇を重ねてくるのだ。たいていは、人目のある場所で。

 これもシュトラール公爵の幸せな婚約者としての務めだ――そう自分に言い聞かせてはいるものの、そのたびに心がざわめいてしまう。これは、わたくしが彼への恋心を抱いているせいだろうか。

 わたくしが納得できるように、彼は自分の行動の理由をできるだけ丁寧に説明してくれる。

 テオフリートさまの優しさも情熱的な振る舞いも、わたくしとの婚約自体も、すべては領地を潤すため。人々の関心を集める演出に過ぎない。

 愛情が優先されないのは、貴族の結婚では当たり前のこと。両家の利益が一致してこそ、結ばれる意味がある。

 テオフリートさまは、わたくしを婚約者として充分大事にしてくださっている。戸惑いはあるけれども、ふと微笑みかけられたときや触れ合ったときに、感じたことのないほどの幸せで満たされてしまう。もう、この日々を手放せないほどに。

 だからこそ、もしも本当にお慕いしていると打ち明けたら……想像するたびに怖くなる。そんなつもりはなかったテオフリートさまを困らせてしまうのは嫌だった。

 シュトラール公の婚約者という役割を演じることに集中して、わたくしは臆病な心を隠しつづけた。


 そうして日々を送るうちに、あっという間に婚約披露の日がやってきた。会場となる我が家は大騒ぎ。

 普段は人がまばらな、社交期の終わり。しかも、我が家は主催者としての人気はさほどない。

 それにもかかわらず出席の返事があまりにも多くて、驚いたお父さまが倒れてしまいそうになるくらいだった。

 シュトラール公爵家の縁者となることが、今まで凪のような日々を送ってきた我が家を大渦に巻き込んでいる。

 わたくしは午後の宴に向けて、早い時間から大勢の使用人に囲まれて支度に追われる。準備を進めるうちに、シュトラールの侍女たちとはすっかり打ち解けてしまった。

「アリアドネさま、お肌の調子があまり良くないですね。眠れませんでしたか?」

「緊張してしまって……」

 侍女たちは、わたくしの顔を覗き込みながら眉間にしわを寄せて考え込んだ。シュトラールの人々は皆、距離が近くなると遠慮がなくなる性分らしい。

「予定よりも白粉を多めに使いましょうか」

「そうすると、目元に使う色も少し変えたほうがいいかもしれないわね」

「いえ、宝飾品と合わせているのだから、むしろ陰影を調整したほうがいいわ」

 完璧な計画を練っていたのに、わたくしの体調管理の不備で狂わせて申し訳ない。

 そう、全て完璧に計算されているのだ。わたくしは着せられたドレスを見下ろす。

 深みのある青の生地は、婚約指輪のサファイアに合わせたものだ。あの日の赤いドレスとはまた違ったデザインではあるものの、体の輪郭に合わせた裁断は共通している。

 昼間なので露出は控えめにしつつ、肩や腕の輪郭はきちんとわかるようになっている。けれども、もう鏡を覗くのにためらいは生まれなかった。

 背が高いのは相変わらずで、棒のような腕もそのまま。変わったのは、わたくしの佇まいと表情だ。

「さすがゲルデね、素敵な出来だわ。今回も大変だったでしょう?」

 最後の調整をしているゲルデに声をかけると、彼女は針から目を離さずに答える。

「いえ、仮縫いも本縫いもアリアドネさまのご協力を得られましたし、お時間も前回より頂けたので。その分、細かな部分まできちんと手を入れることができました」

 彼女の言うように、出来上がったドレスには目がくらむような刺繍が施されていた。テオフリートさまが言うには、前回よりもさらに気合いを入れていたらしい。

「さあ、最後の仕上げですよ」

 侍女たちは張り切って櫛を取り出した。一部の髪は下ろしたままで、残りを結い上げる。今の流行からは少し外れた髪型ではあるものの、洗練して見えるように仕上げてもらう。

 プラチナ細工の髪飾りを添えれば、本日の主役にふさわしい装いが完成した。

 首飾りも耳飾りも靴も、全て指輪に合わせてもらい、完璧な仕上がりだ。シュトラールの持つ力の全てを注ぎ込んだという。新しい試みも取り入れているのだとか。

「まるで、魔法をかけられたような気分だわ」

 鏡を見つめて感嘆するわたくしに、せせらぎのような笑い声があがる。

「新たな公爵夫人となられるお方を飾れるのですから、つい張り切ってしまって」

「皆、アリアドネさまが嫁がれてくるのを楽しみにしております」

 心から寿いでいる声音に、嬉しさが湧いてくる。

 正直、まだ彼女たちの主人になれる器量は持ち合わせていない。せめて喜んでもらえるような存在になりたいと思えた。


 軽やかなノックの後に、テオフリートさまが部屋に入ってきた。

「支度はどうだ?」

「先ほど終えたところです」

 言いながら振り向くと、テオフリートさまが足を止めた。

「テオフリートさま?」

「……つい、見とれてしまった」

 彼はわたくしの何倍も美しい笑みを作る。

 今さらそんなことを仰らなくてもいいのに。ドレスが完成するまで、テオフリートさまご自身が都度試着に立ち会って、ゲルデに指示をしたのだから。

 我が家の侍女たちは微笑ましそうな表情で控えている。その横でゲルデが大きなため息をつき、シュトラールの侍女たちは苦笑している。反応がくっきりと分かれていた。

「ありがとうございます。皆のおかげで、今回も素晴らしい仕上がりになりました」

「どれも君あってこそ、だ。それは心にとどめてくれ」

 窘めるような口調で言われ、苦笑いを返す。

「早く披露したい……君が私の婚約者だと」

 表向きは、公的な手続きを経て正式な披露目を行うまで、互いを婚約者とは呼べない。

 わたくしよりもよほど待ち遠しく感じていたような言葉に、思わず頬が緩む。シュトラールの技術の結晶ともいえるこの装いで、今日もお役に立てるとよいのだけど。

「今日で、私も堂々と君をこう呼べる――アリアドネ」

 不意を突かれて、息をのんだ。敬称もなく、ただの名前で呼ばれるなんて……。

 とっさに顔に手を当ててしまって、駆け寄った侍女たちに即刻化粧を直されることになった。

 申し訳なくて落ち込むわたくしを、テオフリートさまはにこやかに見つめていた。

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