正体不明

@wildness

正体不明

真田学艇長の遺書


一九七五年 一二月二十五日 午前零時

私の判断力の不足によりこの艇を沈め部下を殺し、ローマに出現した生物の正体も不明のままである。

誠に申し訳ない。

されど艇員一同、死に至るまで誰もがよくその職を守り、沈着に命令を実行した。

我らは国民…いや、人類のため職に倒れ死といえども、ただただ遺憾とする所は、我々の作戦の失敗をもって『目標』に恐怖し、屈することにならないかという懸念のみである。

願わくば絶望することなく人類一丸となり、力の限りを尽くされん事を。

”さすれば我等一つも遺憾するところなし。”


我等、死を目前にし、互いに争うことなし。


午前零時十分

沈没の原因。

『目標』接近時、『目標』がレーダーから消失。その後全長一メートルほどの無数の何かに衝突。

以下破損箇所。

(中略)


午前零時四十五分

海水の侵入により乗員の体温低下。

凍えて持ち場を離れる活力もない。

前言に誤りはない。


午前一時十分

気圧上昇し鼓膜破れる。


午前一時二十分

何か声が聞こえる。

聞き取ることができない。

前言に誤りはない。

前言に誤りはない。


午前一時三十分

呼吸できない。

前言に誤りはない。

我等の誇りに誤りはない。

前言に誤りはない。

前言に誤りはない。

前言に誤


ー真田学艇長、並びに艇員十七名 殉職



侍女スピネの日記 I


AU九九九年 十二月二十三日

私たちが明後日、『禁忌』打倒のため出国することは度々書いてきましたが、その苦渋の旅に、新たに一人加わる事になりそうです。

彼はベネッツ殿に連れてこられました。

『聖女』様より一回り大きく、シェルの中で一番大きいマルタ殿よりは一回り小さい、若い見た目の男性で、甚だしく体力を消耗し、毒にあてられて意識朦朧としておられました。

『聖女』様の涙により回復しましたが、私は彼の事情を聞くよう命じられ、湿った森の奥の奥、聖女の洞窟にて彼と語らいました。


「ローマで奴に襲われて、とにかく逃げなくてはと思いました。不幸中の幸いで、僕はあの日、冷凍睡眠の人体実験に被験体として参加する予定でした。地下施設へ逃げ込んでそのまま──」


彼の供述は信じ難い内容でした。一九七五年、爆心地であるローマは完全に崩壊しただけでなく、人は住めなくなったはずであり、供述を信じるのであれば、そのローマで千年眠っていた事になります。


「しかし、そんなSF小説のような話を信じるわけにはいきません。」私は彼の狡猾そうな眼を睨みながら言いました。


「稀にいるのですよ。『聖女』様のような特権階級になるため、そのような嘘をつく者が。」


彼はこの時、眉を顰めて黙っていました。きっと彼は私の言っている意味が一片も理解できなかったに違いない。何故なら彼は、口元を手で覆い、思案を渦巻かせていたからです。この世界の常識を、本当に理解していなかったのです。

洞窟の中にはランプが三つほど置いてありますが、白っぽい石の壁に赤や黄色の光が点描され、絵画の中にいるような気分になります。


「あともう一つ、『聖女』様にいかがわしい気をお持ちなのではないかと。」

「ありえません。僕は彼女と初対面でしたし、あの時の記憶も曖昧で、顔もはっきり見えませんでした。」

「あなたが死の淵を彷徨ったのは事実でしょうが、他は嘘かもしれません。そうであれば罪人です。」

「……まだ小さいのに、随分と厳しい方ですね。」


彼は伏せた目を閉じ、額をおさえました。

私は少し苦笑し、「本当に千年眠っていたというのなら、証明していただきましょう。『聖女』様はお目覚めになった直後から魔法の如き力を扱えました。ならば、試すのみです。」


彼は顔を上げます。その目には困惑と恐怖の色が見えました。洞窟のランプも、燃料が切れてきたようです。

私は彼を外へ連れ出しました。

洞窟の外、鬱蒼と草木が茂っていますが、墓所の方向へと歩いて行きます。

視界は非常に暗く、手元のランプと、僅かな月明かりのみが頼りでした。


「どこへ……」彼は私に問いかけました。

「どこへ向かうのですか。」


私は答えませんでした。

私は彼を疑っていましたから、魔物の巣窟へ行くとなると、逃げ出すと思ったのです。

彼が三度目の問いかけをしようとした、その時でした。


「待ってください。猪です。」


私は気づかなかったのです。彼に片手を握られ、足を止めました。よくよく目を凝らすと、藪の中から白い玉がこちらを覗いていました。

先ほどまでの余裕は無くなり、一転、私が絵画のように固まってしまいました。


「ゆっくりと離れましょうか。とにかく、来た道を戻りましょう。」

「それは無理です。ランプの燃料が切れて、洞窟の目印がありません。この先の、試練の場所へ行かなければ……」

「試練……試すってこれの事ですか。」


獣の呼吸音が聞こえ、足がすくみました。一か八か、目を瞑って、逃げ出してしまおうかと思っていました。しかし足は動かない。


「仮面の少女さん。こいつを殺せたら僕を信じてくださいますか。」


絞り出すような声で肯定したのだと思います。恐怖で頭が回りませんでした。

猪が地面を踏み鳴らす。

だんだんと、意外とゆっくり近づいてきました。

でもそれは最初だけで、白玉は急速に膨張し、土が悲鳴をあげます。

獣の体躯が顕になり、突進に対峙する彼の顔も照らします。

今にも撥ねられそうな、その瞬間でした。

鈍い音が一つ、二つ。

まるで衝突事故のような音でした。


「……仮面の少女さん。」


危機は去ったというのに、私の体は張りついたままです。きっと、仮面からも驚きの表情が漏れ出て、肩上で切り揃えた髪は大いに乱れていた事でしょう。


「祝福はありますか。」


彼の右拳は、赤黒く彩られていました。



スピネの日記 Ⅱ


AU九九九年 十二月二十四日 

喜ばしいことが起こりました。昨晩の彼を、『禁忌』打倒のため、正式に『聖女』様のシェルとすることが決定されたのです。

今朝まで、旅の護衛は二人でした。食糧の問題もあり少数精鋭の方針だったので、素手で猪を殺せる剛腕は喉から手が出るほど欲しかったのです。

あと一つ。彼はやはり、千年眠っていたようでした。

昨晩から信じ始めてはいたのですが、人間から老いが消えたことを今朝初めて知ったようでしたし、何よりも、忌々しい千年の月日が、彼からは感じられないのです。まるで『聖女』様と話しているようでした。

それもあってか、我々愚民とは違い、『聖女』様は彼と意気投合していました。

身体年齢が近いのもあるのでしょうか。

『聖女』様が退屈しないためにも、彼を同行させるべきでしょう。

また彼は自分の名前を覚えていないのだそうです。名前だけ忘れるなんて、『聖女』様とは正反対ですね。


「スピネちゃん!スリーパー君とデートしてきてもいい?」


目覚めてから十七年。『聖女』様は毎日、外へ出る口実を新調されますが、それは旅立ちの前日まで続いたようです。

もちろん却下しました。


「明日出発なんだよ?スリーパー君はパース初めてなんだよ?観光できないんだよ?」

「それなら私が案内しましょう。丁度この後用事があります。」

「ちょっと!私は?」


私は『聖女』様をベネッツ殿とマルタ殿に任せ、彼を連れて羊の牧場へ向かいました。最後まで『聖女』様はゴネておられました。

道中、パース神聖国についてや、他の国々について、彼からの質問が絶えませんでした。


「だから『聖女』様を軟禁しているのですか……」


憐憫か落胆か。彼の声色は低く、遠くの小麦畑をぼんやり眺めていました。


「軟禁ではありません。民衆の前ではありのままでいられないのです。ですから縛っているのではなく、むしろ逆なのです。」


私はこの論を展開する時、いつもお婆さまの言葉を思い出します。「我の羔を牧せよ。」

彼は納得していない様子でした。 


「おお、スピネ先生。久しぶりじゃ。」

「お久しぶりです、サイモンさん。明日出航なので、あの子たちにお別れを。」


オーストラリアの羊は、素晴らしい。

青々と広がるパディックと白いふわふわだけの景色。

私の用事とは、この羊牧場に来ることでした。

この人間と自然の調和を目にすると、心が安らぎます。

彼も表情を柔らかくして、辺りを見回していました。

私は二人を連れて、いつものフィードロットへ向かいました。


「ここは変わりませんね。」


私は柔らかい子羊の体を撫でます。

数年ぶり、久々の感覚でした。

時の止まった人間と、循環し続ける動物。

彼らに触れていると、私もまだ生命なのだと感じるのです。


「そうとも言えんよ。魔物の侵食が進んどる。使い物にならんパディックも増えとるんじゃ。やはり、世界の終末かねぇ。」


老いた羊飼いは、その言葉とは裏腹に、清々しい顔つきをしていました。この一瞬一瞬を、だだっ広い緑の草原と白い羊たちの景色を、噛み締めているようでした。


「せめてこのまま、こんまま世界が『禁忌』に踏み潰されたらええのう。」


本当に満足しているのか、それとも、『禁忌』打倒などという不可能に、命を賭ける私たちを皮肉っているのか。

私には判断できませんでした。


「……『聖女』様の奇蹟を信じないと。」


私は老人の失言を、できるだけ優しく拾いました。

しかし私の善意は伝わることなく、老人は慌てて弁解しました。


「待ってくれ!そういうことじゃない!……人間が不老になってから新しい命は生まれず、奴のせいで山ほど死んだ。『禁忌』から歴史を取り戻すことこそ人類の使命じゃ。『聖女』様は人類の救世主じゃ。『聖女』様は死人の解放者じゃ!」


信仰心の揺らぎは、誰にでもあるのです。

心を強く持たなければならない。

私はその助けをするのです。

これも「我の羔を牧せよ。」なのです。


「『聖女』様はお元気でいらっしゃいますか。」


老人は話題を改めました。

『聖女』様は御公務の時とは違い、大聖堂の中では天真爛漫に振る舞っておられます。しかし、この国を支える神話のために、『聖女』様は相応の気品を民衆に見せなければならないのです。

スリーパーの彼は、人の子が生まれないことをこの時知ったようで、とても驚いていました。

老いと成長はコインの裏表。

『禁忌』はそれを壊しました。

奴を倒せば、人に時間が戻るのか、それとも一度に消えた千年が帰ってきて、全員灰になるのか。(それは私の理論ではあり得ませんが。)

ただ一つ、このままだと私は、十四の心と体で、奴に怯えて生き続けなければならないことは確かなのです。

そして『聖女』様は必ず奴を倒し、私をこの正体不明の不安から解放してくださるでしょう。


空に赤みが見えてきた頃、私と彼は帰路につきました。今は祈祷が終わったところで、自室でこれを書いています。ランプに私の歪んだ顔が映っていて、帰り道の会話を思い出したのです。


「スピネさんは、どうしていつも仮面を?」


私はいつものように、これが顔のようなものだと返しました。彼はまったく腑に落ちていませんでした。


「さっきのサイモンさんとの会話で思いましたけど──」そう一息に言った後、少し躊躇って、「それ、ちょっと怖いですよ……」


また私は、いつものように答えました。

そして皆同じ反応をします。

しかし彼は、少しだけ反論しました。


「人間の心はそんなものじゃないですよ。格闘家が打たれ弱くなっていくように、心も、"パンチに酔う"んです。逆はない。」


私は適当にあしらいました。

なに、時間だけはたっぷりあるのです。

彼もじきに理解することでしょう。

少し、胸の奥がズキズキします。

我の羔を牧せよ。



午後十時十五分

『聖女』様失踪。


午後十時三十分

シェル全員で大聖堂内を探しましたが、『聖女』様とスリーパーの彼が見つかりません。


午後十一時

洞窟にもいません。

ベネッツ殿とマルタ殿は墓場を探していますが、まだ発見の報告はありません。洞窟にランプをつけて、とりあえず二人を待っています。

もしかすると、彼はやはり『聖女』様をどうこうしようとして嘘をついていたのかもしれません。

あれも全て演技で、出航の直前を狙って来た、外国の刺客だったのかもしれません。

それなら早く港の警備を強化しないと。


午後十一時十分

やっぱり、私も他のところを探そうと思います。

墓場の近くを一人で動くのは少し怖いですが、周りを探すくらいなら大丈夫なはずです。

とりあえず港に向かいます。

我の羔を牧せよ。我の羔を牧せよ。我の羔を牧せよ。

主よ、私に勇気をください。


午前零時

お二方とも、ベネッツ殿とマルタ殿に無事発見されました。

『聖女』様が彼を連れ出し、月を見に丘まで行っていたそうです。今は『聖女』様の部屋で、気の抜けた寝顔を見ながらこれを書いています。

私も流石に、心身共に困憊して、怒る気にもなりませんでした。朝になったら説教ですね。

とにかく、何も無くてよかったです。

彼も一人で外へ出ようとする『聖女』様を心配してくれていたみたいで、あらぬ容疑をかけてしまいました。

私もまだまだ、信心が足らない。

願わくば、心だけでも老いてほしかったものです。

おやすみなさい。



スピネの日記Ⅲ

はじめまして。

十七年ぶりだね。

私のこと、覚えてない?

……仕方ないよね。

それほどあなたは変わってしまった。

昔はあれほど今日を待ち望んでいたのに。

これじゃ石の奴らと同じじゃない。

見ていて苛々してくる。

この日記もそうよ?

昨日の夜もそう。

羔はあなたのものなのに、あなたの食事なのに。

可哀想な人。

どうしてあの時、石を投げなかったの?

『聖女』を殺せたかもしれないのに。

つまらない人。

十七年前までは夢じゃなかった。

あなたが一番だったのよ?

ぽっと出の『聖女』なんかに奪われないで。

くだらない御飯事はやめてもっと私を喜ばせてよ。

もっと私を笑顔にしてよ。

「我の羔を牧せよ」



スピネの日記 Ⅳ

頭が痛い。

誰の悪戯でしょうか。

私の日記にどうやって書いたのでしょう。

『聖女』様の部屋です。場所を知ってる人間もほとんどいませんし、寝室の場所は毎日ランダムに変わっています。もちろん鍵もかけています。

この様子だと『聖女』様に恨みのある人間に見えますし、侵入までしてなぜ殺さなかったのでしょうか。

まあ置いておきましょう。

そんなことより今日は大事な日です。

正午までに頭痛を治しておかないと。


AU一〇〇〇年 十二月二十五日

メリークリスマス。

ですが、今日はいつものクリスマスではありません。

『禁忌』出現からちょうど千年。

聖教会の伝承にはこうあります。

「千年の時を経て人間は解放される。」

「『聖女』と呪文が悪神を滅ぼす。」

AU一〇〇〇年 十二月二十五日。

旅立ちの日に、今日ほどの日はないでしょう。

しかし順風満帆とは行かないようです。

外は大嵐。

海がこれまでにないほど荒れています。

私の頭痛も治りませんし、これも試練でしょうか。


空気がよくありません。

ギスギスとまではいきませんが、皆さん苛立ちや動揺を隠せずにいます。


「しかし、我等の遠征が、神のご加護によって成功しないとは限らないでしょう。」


そう言ったのはマルタ殿でした。

彼は私よりも信仰心の厚いお方です。だからこそ、『聖女』様のフォア・シェルなのです。誰よりも『聖女』様の奇蹟を信じていらっしゃるのです。

これに反論したのは彼だけでした。


「現実的な話をしているんです。この天気じゃ、死ぬ確率はほぼ百パーセントですよ。」


信じられないと言わんばかりに目を見開き、私たちを見回して、全身で訴えかけていました。

しかし、そんなことは皆分かっているのです。それでも私たち教徒にとっては重要なことなのです。

私も千年生きていなかったらこう反駁したのでしょうか。


「百パーセントではないのだろう?『聖女』様は十万、いや百万の命よりも尊いお方だ。そのような確率論におさまるお方ではない。」


マルタ殿は先よりも強く言い放ちました。

私とベネッツ殿、『聖女』様は黙ったままです。

彼だけがぼそりと声を漏らしました。


「なんだ。言いたいことがあるなら言ってみろ。ぽっと出の新人。」

「馬鹿げてるって言ってるんですよ。ああ、なんて非論理的な人間なんだ。」


マルタ殿の堪忍袋の緒が切れ、顔を真っ赤にされ、今にも殴り合いになりそうな様子でした。

彼に怒っても仕方ないのにとは思います。

ですが正直なところ、私はマルタ殿を止める気になれませんでした。今日はどこか無気力なのです。



スピネの日記 Ⅴ

どうしましょう。

記憶がありません。

何故か私は洞窟にいます。

あと何故かスリーパーの彼が横で寝ています。

何が起こったのでしょう。

周りを見て回りましたが、誰かいる気配もありません。

それに、また日記に悪戯書きがありました。

今度はとても人に見せられないような事ばかり書かれていて、非常に不快です。

ランプの蝋燭も、白い煙を残し消えています。

一体どれだけの時間が経ったのでしょうか。

外はまだ大雨ですし、ひとまず待機しようと思います。



オーストラリア大陸 パース神聖国。

西暦一九七五年の『禁忌』出現、その後の二週間戦争。その両者から被害を受けなかった平和の国。

その一方、国土面積、人口ともに少なく、経済的に滅亡の一途を辿る国であった。

十七年前までは。


AU九八二年 十月六日

空が真っ黒すぎて、眼前の業火が、贋物のようである。

突然の『禁忌』の進路変更に、パース国民は前代未聞の崩落を経験した。

建物は燃え散り、『禁忌』の溶解液で人間は異形と化し、血の匂いも刺激臭で掻き消されていた。

奴は透明である。主の顔を誰も知らないのと同じく、奴の顔も誰も知らない。

黒い霧だけが、その体躯の存在だけを予感させる。

人間で腹が埋まると吐き、あらゆる波を歪ませる性質は、生体的であり機械的であった。


「そっちはダメだ!山火事に巻き込まれるぞ!」


怒号と慟哭が宙を舞って、火の粉と共に消えていく。


「スピネ様!立ち止まってはいけません!」


仮面の少女に、若い男から中年の男たち数人が、長い髪の毛のように取り巻いている。足の遅い彼女を、若い男が抱き抱えて進む。


「待って!お婆さまが!」

「もう助かりません!」


少女は振り返ろうとする。

若い男の腕の中でもがく。

その片目に、鶏ガラのような足が映り込んだ。


「お婆さま!」


暗闇を彩りながら消えていく。

少女は目を逸らした。

逸らした先で、護衛の男たちが次々と喰われている。


「もう嫌だ!下ろして!」


一人、また一人と消えていき、とうとう少女を抱えている男だけになった。

男は無言である。

目からは恐怖が滲み出て、既に光を失っていた。


「……どうしたの。」


男は立ち止まった。

縮こまったスピネを見る。


「ありがとうございました。聖女様。」


投げられた小柄な少女は、草木の中へ思い切り飛んでいった。

黒い霧が視界を覆う。

何か変なものが飛んできて、身体にかかる。

黒い霧が一瞬濃くなった。


「あ。」


最後に見えたのは、あの男と思われる有機物だった。


青くなった手から、死の匂いがする。

音もなく、林の中を這いずり進む。

頭の中は空っぽだった。

一頭の蝶が飛んでいて、何処かへ向かっている。

目で追うと、洞窟があった。 

少女は吸い込まれるように、中へと進む。

毒が回っていた。

先ほど飛んできた、溶解液の毒であった。


「たすけて。」


か細い声が、洞窟の壁に弱々しく響く。

伸ばした手は醜く爛れて、青い指先は震え、長袖に包まれた腕は、彼女に未知の恐怖と好奇心を同時に与えた。

捲った。

青紫色の斑点が浮き出ているのがわかる。

堪えきれずその場で吐いた。

死の足音が迫ってくる。


「し、ぬ・・・・・・しぬのは、こわい。」


少女には使命があった。

奴を倒さなければならなかった。

理不尽な世界、己の無力、当然の沈黙。

その全てに怒りと憎しみが湧き、拳を握りしめる。


「くそっ!」


石の床を拳で打つ。

無心で打つ。

痛さも、打撃音も感じなかった。

聞こえるのは躙り寄るような音のみである。

手の甲が冷たくなった。

ついに死に触れたのだ。

レテの聖水が流れていく。


「なに……」


瞼を一瞬持ち上げた。

青い手に、重たい雫が落ちていた。

涙だった。

『聖女』の涙だった。


暖かく固い床で、青年が目を覚ます。

瞼は重く、頭痛がする。

彼は上体を起こし、辺りを見回した。


「おはようございます。」


探し物は背後にあった。

白い仮面。

ホラー映画に出てきそうな、笑顔の仮面。

少女の目と口は見えない。


「僕、どれくらい寝てましたか。」

「分かりません。私も寝てしまっていたので。」


外はまだ豪雨が地面を叩きつけており、分厚い雲で朝なのか夕方なのかも分からない。

彼は自分の腹時計に聞いてみたが、まだ正午ではないと返答があった。


「これからどうするんですか。ここはじきに誰か来ると思いますよ。」


青年は顔色を伺う。

仮面のせいではっきり読み取れないが、返答に困っているのは確かのようだ。


「傘はどこに置きましたか。」


キョロキョロと辺りを見る彼を他所に、少女は正座したまま固まっている。

雷が鳴った。


「ごめんなさい。」少女は彼を呼び止めて、「私、何か変なことをしませんでしたか。」


薄暗い洞窟を、三つのランプが照らしている。


彼は眉を顰めて、「変なことしてるのは向こうの方ですよ。こんな日に出航なんて馬鹿げてる。」


青年は洞窟の奥を覗いたり、外を見回したり、ランプを観察したりしている。

少女は悴んだ指先を二の腕に沿わせて、落ち着きのない彼を見ていた。


「私は、どうしてここに居るのでしょうか。」


彼は手を止めた。

「どうしてって……スピネさんが僕を連れてきたんじゃないですか。」


仮面の奥から動揺が漏れ出ている。少女は青年から目を逸らして、足元のランプをじっと見つめた。

ふたたび閃光が、彼と少女の間を縫って、不安を煽りはじめる。


「ここに来るまでの記憶がないのです。」少女はさっきから言おうとしていたことを遂に口に出した。「どうして、ここに居るのでしょうか。」


彼は少し固まった後、体を低くして近づき、少女の顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか。もしかして、僕が寝てる間に何かあったとか。」


少女は首を振る。「私がおかしいのは分かってます。ごめんなさい。私も混乱し──」


突然、視界がぐわんと揺れた。


「スピネさん?」


顔面蒼白で、冷たい汗が流れているのに、目は大きく見開かれ、頭を抱えて唸っている。

ぶつぶつと何かを唱えている。


「我の羔を牧せよ。我の羔を牧せよ。我の羔を牧せよ。」


「大丈夫ですか。一体どうしたんですか。救急車……なんて無いよな。」青年は少女の尋常でない様子に慌てふためく。「とにかく誰か呼んできます。」


青年は振り返り、立ち上がろうとした。

それを阻止する、何かに引っ張られる感触。

彼の袖が掴まれていた。


「もう、大丈夫なんですか。」


少女は立ち上がっていた。

「はい。もう大丈夫です。」


彼女は乱れた髪を整えている。先ほどまでの様子が嘘だったかのようである。

洞窟の奥から、雫の落ちる音が聞こえてきた。


「雨が少し弱くなったようですね。今のうちに目的地へ向かいましょうか。」


少女は外へ向かって歩き出す。

汚く濡れた草木の中へ入っていく。


「記憶も……」

「ええ。」少女は笑っているようだった。仮面の奥から漏れ出る声音が優しい。


青年は安堵した。

「目的地は何処なんですか。」


洞窟を抜け出して、青年は少女の後を追う。

見上げた空は、すっかり雨が上がってしまっていて、天使の梯子まで降りている。

これなら船を出せそうなものだ。


「墓場です。」



AU九九九年 十二月二十四日

午後十時三十分頃

月当たりのよい丘。

名前以外を忘れた『聖女』と、名前だけ忘れた青年が座っていた。

深緑の森、木々の間の暗闇が彼らを取り囲み、見つめている。


「本当によかったんですか。結構遠くまできた気がしますけど。」


青年は、丘というより崖に近い急斜面を覗き込んでいた。

斜面の先の深淵、手前に蝶々がひらひらと飛んでおり、見つめていると命が吸われてしまいそうである。


「大丈夫だって。ここ、たまに一人で来てるもん。」


『聖女』は月を見上げて、忙しなく足を上下させていた。彼女の二つに分けた青い髪は、月光色と親和していて、彼の目を奪う。

その視界に、青くて大きい目が映り込んだ。


「うん。やっぱり運命だ。」

「運命?」


「そう。運命。」何か珍しい動物を愛でるように、青年をじろじろと見る。

人差し指にはさっきの蝶がちょこんと座っている。


「だって千年だよ。私が目覚めたのが十七年前。君が起きたのがつい先日。そして明日は宿命の日。」


『聖女』は、落っこちそうな勢いで蟄伏の月を指差した。ひらひらと蝶が去る。彼女の言葉に祝福を齎すように、雲がはけて銀朱の月が輝く。


「きっと私たちは前世で、この月を一緒に見ようって約束したんだよ。」

「アニメと漫画の見過ぎじゃないですかね。」


彼女は目を丸くしている。青年の皮肉に対し、さっぱり理解を示していなかった。

青年は戸惑った。


「もしかしてそれ、千年前のやつ。」

口をとんがらせて、目を細めて言う。


青年は首を縦に振ろうとして「あ。」と声を漏らした。


「まぁた私だけ仲間はずれ。」


彼女はぐちゃっと顔を潰したが、青年には十分整った顔に見えた。


「でも僕は生まれ変わりとか信じませんよ。そういう類は因果律主義に陥りやすい。」


不機嫌な顔を一変、心底残念そうな顔に切り替えて、また青年に視線を戻した。


「瀕死の君を治療したの、私なんだけど?」


彼女は自分の目玉を指差し、次は自慢気な顔に切り替わった。


「この世界では私しかできないんだけど?」


しかし実際、青年は『聖女』の涙によって治療されたことを、ぼんやりとしか覚えていなかった。

半信半疑の彼を横目に、『聖女』が大きな鳥を指差す。


「ならばご覧にいれよう我が魔術。この指先で、ちょちょいとあの鳥を討ち取って見せようぞ。」


勢いよく立ち上がる。

彼は魔術どうこうより、この崖から落ちてしまわないかの方が心配だった。

目線を下にやりながら、やはり少し、上も気になる。


「えいっ。」


『聖女』の人差し指から、小さい、丁度月光色くらいの青白い光が飛び出し、一羽の鳥に直撃した。

唖然とする青年の目には、月ほどの大きさに肥大化した妖光と、地の底に墜落していく鳥があった。


「うぃ〜。」


彼女は満面の笑みで、彼に感想を求める。


「これで信じてくれた?」

「とにかく、まず座って下さい。危ないです。」

「空だって飛べるよ?」


ごとん。


「……!」

二人の背後。林の中で物音がした。


「ファインマン線をこうやってここをこうしてちょちょいのちょ──」

「ちょっと待って下さい!」


語気を強めた。


「まあそれは嘘なんだけどね。あははは。」

「静かに。早く座って」


怪訝な顔をする『聖女』に、再三呼びかける。

彼女も渋々腰を下ろし、崖から離れた。

石のような静寂が聖域を包んでいた。


「さっき、何かが落ちるような音がしませんでしたか。」

彼女は首を横に振る。「でさ、信じてくれたかな。」


青年は暗闇をしばらく睨みつけた後、最初の位置に戻って、「信じますよ。これで奴も倒すんですか。」


「違うよ。『禁忌』は呪文じゃなきゃ倒せないんだよ。墓場にその一部があるんだって。明日それを手に入れて、それから残りを探しにいくの。それが聖女の旅ってやつ。」


青年は顔を顰める。「呪文って、なんでそんなものがあって奴を倒せないんですか。」


「そりゃあ、普通は呪文見たら発狂して死んじゃうからだよ。こう、どろどろって、呪文が体に移っちゃうらしいよ。」


さっきの物音のことなど忘れて、彼は『聖女』の話を聞いていた。


「でも私は大丈夫。何せ正真正銘の、天・才、だからねっ。天才で救世主な私の運命の人になれて幸せだな。君は。」


見た目とは裏腹に豪快に笑う。

彼女が明るすぎて、かえって闇が深く見えた。

夜風が冷たくなってきた。


「どうしても僕を運命の人にしたいそうですね。」

「だっておんなじくらいの歳の子いないもん。みんなリタイアしちゃってるもん。」


リタイア。青年は聞きなれない言葉を聞き返す。


「リタイアってのは非晶質化睡眠のことだよ。ほら、私はずっと眠ってたって言ったでしょ。あの洞窟の壁に埋まってたんだよ、私。」


彼女は目を伏せ、崖下の暗闇を見つめた。夜風が、二人を押し流そうとしている。


「心も体もずっと子供ってさ。多分色々キツイんだよね。私にはわっかんないけど。『禁忌』が現れてから変な機械がちょこちょこ出現したみたいでさ、その中にそんなもんがあったわけさ。」


彼女はその装置のある、大きな洞窟を指差す。

ちょうど、物音がした方角だった。

火山の噴火か何かでできたらしいが、おおよその形さえも、今は暗くて見えない。


「ダメになっちゃった人たちはみんなあそこに駆け込むんだ。世界の終末まで眠って過ごそうってわけ。石のように静かにね。でも結構怖い話もあってさ、夜になるとあそこから唸り声が聞こえるんだって。一体どんな夢見てるんだろねぇ。」


自分とは関係ないからか、青年を怖がらせようとしているのか、楽しそうに話す。


「『聖女』様はどんな夢を見ていたんですか。」

「ローザでいいよ。私はなんも覚えてなかったから分かんない。起きたばっかりの時は"ママ"すらもいえなかったんだよ。」


彼は、ドラマや映画で見る記憶喪失をイメージしていた。想像が、現実の小さな背中を追いかけている。


「でもそう考えるとスピネちゃんすっごいよね。十四のまんま、千年間ずっと聖職者やってんだよ。しかも普通にやってるだけじゃなくてさ、学つけて指導者になっちゃった。」


スピネがどれだけ凄いのか。

スピネにどれだけ助けられたのか。

ローザの口から止め処なく溢れ出てくる。

青年はそれを余すことなく聞いて、一つの仮説を着想した。


「スピネさんなら、呪文、読み取れたりしませんかね。」


夜風が冷たい。

青年の見つめていた暗闇が、ペリペリと捲れていく。

月を見た。

一羽の鳥が飛んでいる。

悠々と飛んでいる。


「えいっ。」


また堕ちた。


「スピネちゃんは無理だよ。天才は一人だけだからね。」



パースの大地は赤い血を舐めるように啜り、何食わぬ顔で朝日が昇る。


「素晴らしいじゃない。」

「……しかしお姉さま。あんな非現実的な力、恐ろしいとは思いませんか。」


泣き疲れた、大きな赤ん坊が側で寝ていた。

仮面の少女は、痺れの残る指をゆっくりと動かし、それを見つめる。


「そんなもの、『禁忌』も不老も魔法よ。転移装置もそう。それに、あなたが今生きているのはこの方のお陰でしょう。」


スピネが"お姉さま"と呼ぶ、モニカという女性は、長く下ろした栗色の髪の毛に、力強くも幼い目をしていた。 

彼女はスピネの仮面の奥を覗こうとするが、それは叶わない。それを推察できる十分な頭を持ち合わせていなかったからである。


「あーうー!」

「『聖女』様!お目覚めになられましたか!」


ローザはこくりと頷く。

意思疎通に成功できたのは、ひとえにモニカのお陰だろう。天性の柔らかな笑顔と声音で、ローザに名前を聞こうとしていた。

その時、外が騒がしくなっていることに気づいたのだ。


「『聖女』が現れたというのはここかね。」


大きな顔をした男が、三人のテントに入ってきた。

スピネとモニカは頭を下げ、床に手をついた。

ローザはキョトンとしている。


「ほぉ。もっとババアだと思っていたぞ。なあマルタ。」


無表情で相槌をうつ彼を一瞥し、もう一度ローザを凝視する。国王として君臨するにふさわしくない目つきであった。


「どれ、今から宮殿に……」

「通してくれ!」


国王を押し退けて、とんでもない勢いで中年の男が入ってきた。

その異常な形相に、垂れた首も起立する。


「友人が!……その、転んで血を、浴びてしまって──」

「貴様、私が誰か分かっておるのか。」


国王は不届き者を威圧する。

動転に狼狽が重ねうちされ、男の体は動力を絶たれた。目だけが泳ぐ。

支配者の恐ろしい目が、男の魂を掴んで離さない。

モニカとスピネは沈黙を保っていた。


「おーけーおーけー!」


緊張を割って、高い声が響いた。

ローザが国王の高い肩を叩く。

炯々とした眼光が向けられたが、怯むことなく男の方へ寄っていった。


「おい!待て貴様!」


男は水を与えられた草花のように、項垂れた首をぴんと立てて、一目散に友人の元へと向かう。

ローザはもちろん彼についていった。


「許さん。絶対に許さん。」

「陛下。今のパースを守るためには、一人でも多くの国民が必要です。どうか、ご容赦ください。」


進言したのはモニカであった。それを聞くと、国王は表情を崩して、「そうじゃのう。モニカが言うなら仕方ないのう!」


こういう時、スピネの仮面は便利であった。

軽蔑の目も簒奪の牙も悟られないから。


「助かりました!なんとお礼を申し上げて良いものか。」

「おーけーおーけー!」

「私らにできることなら何でもいたします。」


ローザはポカンとしていたが、男たちがパンやお金をくれるので、彼らの言っていることを半分理解した。

すると、空を指差した。


「あー!あー!」

「鳥、ですか。」


手をバタバタさせてジャンプ。手をバタバタさせてジャンプを繰り返す。

男たちは朗らかに笑い出した。

りんご色に染まった頬で、彼らの方を向く。


「そりゃ無理だよ。」

「昔は飛行機ってのがあったんだけどなぁ。」

「気球ならどうだ。スピネ先生なら作れるのでは。」

「でも上の方は乱気流がどうとかいってなかったか。」


飛ぶことができないと分かると、ローザは不機嫌になり、鳥を指差して言葉でない声で喚いた。

鳥は弾けるように撃たれ、音もなく墜落する。

驚愕する男たちをよそに、『聖女』はすっきりした顔で手を振り、宮殿に目を輝かせてそちらへ行ってしまった。


パース宮殿。

世界の終末を、欲と享楽で迎えるための城。

敷地内に入ることはおろか、その高慢な体躯を拝むことすら普通の国民は叶わない。

しかし―


「何これ、門が。」


庶民の羨望を妨げる貧富の壁は、斜陽に焼かれ、その威厳を放棄していた。

兵士が何人か死んでおり、新しい血の匂いがする。


「お姉さま。危険です。魔物かもしれません。」

「こんなでかいのいるのかな。まるで爆撃されたみたい。」


モニカは警戒のひとつもせず、崩落した門の中へと入っていく。

目の前には中央広場に続く一本道が伸びている。

中央広場の噴水の周りは、通路がぐるりと囲んでおり、四方八方死角である。


スピネは語気を強めて、「ベネッツ殿を呼びに行きましょう。私たちだけでは危険です。」


その訴えを半分聞いたのか、少し速度を下げて前に進んだ。

路傍にも死体が転がっている。

モニカは兵士の死体に、追悼の意を示し、体液の匂いや皮膚の様子を確認した。


「溶解液の独特の刺激臭がしない。『禁忌』じゃないみたい。機構虫かな。」


また駆け出した。


「待って下さい。機構虫でこんなことにはならないでしょう。」

「あ。」


突然足音が消失した。

中央広場のど真ん中、噴水の側。

驚くモニカの目の前にいたのは、ローザだった。

二頭の蝶と戯れている。


「『聖女』様!」

「うー。もーにー。」


無垢な瞳をこちらへ向け、覚えたての名前を呼ぶ。

彼女の無事を確認したモニカは、胸を撫で下ろした。

走って近づこうとする。


「待って下さい!」


鋭い剣幕に、色付き髪の二人はたじろいだ。


「……この女の仕業かもしれません。」


太陽は人の言葉を解さず、すっかりと沈んでしまっている。月のみが噴水とローザの青を光り輝かせていた。

スピネはゆっくりとローザに近づく。

おでこで彼女を睨みながら、表情の揺れのひとつも見逃そうとしない。


「あー!」

「な、なんですか。」


ローザはスピネの手を取り、噴水の裏側へと引っ張る。

直後、彼女の背後で轟音がした。

思わず振り返った。

人の頭を下敷きにして、大岩の下から血が湧いていた。そこから伸びる、栗色の髪。


「モニカ、さん・・・・・・?」

「あー!」


目線が夜空の方へと吸い込まれる。

蛙だ。

巨大な蛙が、目の前にあった。

長く長く伸びた舌から、唾液と石礫が落ちてくる。


「あー!」


もう一度手を引っ張る。

人一人分ずれた位置に、国王の肉塊が降り注いだ。


「へ、陛下」


そのまま、張力に任せて宮殿内へと傾れ込む。

大きく舌をしならせ、瞬く間に壁を攻撃した。

ぼろぼろと崩れ落ちる石片の合間から、魔物の太った腹が動いているのが見える。

両手もふんだんに使って立ち上がり、上へと逃げた。

逃げ場所はそこしかなかった。


「あれ、開かない」


二人の身長よりも、二回り大きい木の門が閉ざされていた。押しても引いても、スピネにはどうすることもできない。


「開けてください!誰か!」


門を何度も叩くが、僅かな反応すらも寄越さず、地響きと破壊音だけが彼女たちを脅迫する。

焦るスピネをよそに、ローザはふらりと門の前へ立った。

動揺の漏れ出ている白い仮面は、後ろにある恐怖の塊を透視していて、『聖女』の方を見ていない。

ピキピキと音がした。

驚いて振り返ると、木の門が一瞬で崩落して、さらに目を疑った。

そのままローザは彼女の手を取り、宮殿内部へと進む。

二人を出迎えたのは、怯えて固まった王宮の兵士たちの、罵声と悲鳴だった。

走る二人を避けるようにして人塊を作り、憎しみの目で彼女らを非難する。


「来た!」


一際大きい轟音と、砂塵が舞った。

砂埃の中に、怪物の姿を予期させた。

赤い舌が飛び出て、まず一人。

それが上から落ちてきて、また一人。

最後の勇気を振り絞った兵士たちは、雄叫びをあげて斬りかかり、武器のない者、こころのない者は悲鳴を上げる。

兵士を飲み込んだり、投げ飛ばしたりしながら、その体躯が現れる。

蝦蟇の腹がさっきより膨らみ、丁度スピネの仮面のような、白面の顔が浮き出ていている。


「ちょっと!どこ行くんですか!」


絶望の最中、ローザは突然脇の通路へ逃げ出した。

その先には、半径数メートルほどの展望台しかない。

袋小路である。

怪物はそちらを向き、彼女を追う。


「目的は、あの子なんですか。」


化け物の背後をついていく。

好奇心なのか、それとも合理的な他の理由があるのかは分からない。

スピネは、螺旋階段を駆け上がり、違う展望台から二体を注視した。

予想通りローザは追い詰められ、魔物の長い舌が宙を揺れている。

対峙する二人。

決着は一瞬であった。

強靭な舌が『聖女』の体を巻き、上へ掲げた時、二体の足場である展望台が崩落した。

「『聖女』様!」

スピネも思わず叫んでしまった。

大きな影が落ちていく。

その中の白い光が、彼女の目にもはっきりと見えた。

指先から飛び出した光は、化け物の体をびくんと弾ませた後、舌の力を奪い、『聖女』だけを宙に残す。

蝦蟇は異常な加速度で墜落し、『聖女』はまるで月へ降り立つ時のように、ふわりと地面に落ちていった。


「うー!」


スピネを呼んでいる。

笑顔で、どうだどうだと、子供のようにはしゃいでいた。

蛙の死骸は、落下の衝撃で生物の形を残していない。

スピネはゆっくりと螺旋階段を堕りた。ローザの元へ向かう。

彼女の周りにはもう、人だかりができていて、天然のスポットライトを浴びていた。

歓喜する市民、感涙する市民、畏敬する市民、反応は様々であった。


「すー!」


人混みを割って、スピネの元へ抱きついてくる。

公園で遊び終わった後のように、土埃と擦り傷で汚れた笑顔で、スピネを見下ろす。

震える手で頭を撫でて応える。

スピネの服の、背中あたりが大きく汚れ、頭からは砂屑が落ちていた。


血溜まりは陽光を美しく反射する。

少女はふと「アルベド」を思い出した。

どうして「白さ」という意味の言葉が、入射光に対する反射光の比に使われているのか、はじめはまったく理解し難かった。

だがこの朝は、ひとりの少女にその真意を惜しげもなく植え付けてくれた。


「すー、うーあー」

「そうですね。行きましょう。まだ機構虫に苦しんでいる人がいるかもしれません」


大きな赤ん坊の手を繋ぎ、パースの黎明を踏みしめて行く。

人々の営みが見える。

白い輝きに照らされて、人々の黒い影も居心地が良さそうであった。


「美しいですね。あなたが救った世界ですよ」


十センチの差分、顔を少し上げて、呼びかけた。

形容し難い声、純白の笑顔で返事をする。


「……『聖女』様」



太陽が高く登り、墓標の影を短くしている。

大嵐の残穢は跡形もなく消え去り、湿った土の匂いと、心地よい陽気だけが漂っていた。


「これは何ですか」


仮面の少女について来た青年は、一際大きい棺を指差して言った。

その棺は黒く、一見西洋式に見えるが、少し祖国の匂いが漂っていた。


「呪文の棺です。この中の遺体は千年間一切傷むこともなく、その背中に刻まれた呪文は『禁忌』を討つと言われています」

「でも誰も見れないんでしょう。どうやって確かめたんですか」


少女は辺りをぐるりと見回し、小さな墓標を一つ一つ指差した。


「これは百年目。その隣は二百年目。」優しい声音で続ける。「あれは七百年目、それは九百年目」


意味不明な言葉の詠唱に、青年は固まった。


「全部、十二月二十五日、呪文を見て死んだ人のお墓。聖教会はちゃんとこういうこともしているんですよ」


淡々と述べられた事実に、固唾を飲んだ。

その時だ。二人が来た反対側から、数人の男女が墓場へやって来た。


「あ、『聖女』様」


陽の光に祝福された『聖女』は、目を見開いて明らかに狼狽していた。

親衛隊長マルタ、副隊長ベネッツも同じくであった。


「・・・・・・スピネちゃん、ここにいたの」

「良い天気になりましたね。『聖女』様」


少女は空を見上げて、陽の光をめいいっぱい浴びながら、棺の方へ向き直した。


「スリーパー君!スピネちゃんを止めて!!」


状況を読めていないのは彼だけだった。

スピネは棺に手をかける。

やっと、体が動き出した。


「ずっと、ずっと待っていた」


時間はゆっくりと流れ、悍ましいミイラが陽光の元にさらされる。

気化した液体が、控えめに足元を隠す。


「千年!千年苦しみ続けて、この呪いが祝福でなくて何だと言うのだ!」


彼女の目に神の賜物が映り、青年の目に彼女の右手が映る。


「主よ!真の聖女に祝福を!」


棺は完全に開いた。

呪いが目の中に入り、次々と伝播していく。

少女は狂乱した。

青年に突き飛ばされ、抱え込まれる。

墓所は悲鳴で揺れた。


「痛い、痛い!痛いぃぃぃ!」


叫び声とも、唸り声とも言える、人間のものではないような声が鳴り響いた。

青年は必死に彼女を抑え込んでいるが、彼女の手が黒く変色し始めたのを見て、力が抜けてくる。

まだ、化け物の声は聞こえたままだった。


「ベネッツ殿。棺を」

「ダメ。私が今やる」


暴れている。

体の中に何か別のものが入り込んだようだった。

苦しんでいる。

青年は震える心を表に出さまいとした。

感情が湧き上がる隙もない。

地獄は、『聖女』が呪文を読み終えるまで続いた。



「少しだけ、躊躇してしまいました」


また洞窟にいた。

青年と、『聖女』と、スピネだけだ。

医者の所とは違い、ここに民衆の目は無い。

スピネはまだ目を覚ましていなかった。


「飛べない鳥もいるってことだよ」


『聖女』は何なく呪文を読み終えた。

他の二人は船の出航準備にあたっている。


「私も、もうそろそろ行かなきゃ」『聖女』は立ち上がり、「君はどうするの」


青年はスピネの側に座ったまま動かない。

ごつごつとした手に、彼女の日記を抱えていた。


「僕はもう少し待ってみます」


目は伏せられたまま、仮面の少女を見つめている。


「そっか。じゃあまた後でね」


ゆっくりと洞窟から出ていく。

また二人になった。

陽の光にも染まらない、洞窟の白い壁は病室のようだった。

カーテンヴェールが、忌々しく二人の間を縫う。

ベッドの柵を、握りしめた手が汗ばんでいる。


「声が、聞こえたんです」

……

「声が、昔の私の声が」

……

「お婆さまは、お前の親だというのです。お前は親を裏切るのかと、信心を失う怖さも辛さも、お前は知っているはずだというのです」

……

「努力しろと、意志を持てと、信仰を示せと、我の羔を牧せと、いうのです」

……

「でなければ、絶望に追いつかれてしまう」


窓からは青い空が見えていた。

どこまでも広かった。

青年は柵から身を乗り出し、硬くなった下唇を開く。


「何か、欲しいものは」

……

「そうですね──」


真っ白な裏と真っ白な表が、二人の間を忌々しく縫っている。


……


「祝福は、ありますか」


彼女は、青年と同じ肌色をしていた。



吸い込まれそうな暗闇が美しい。

そこにあるはずの海と、あるはずの水平線を想像させ、星々の僅かな光も、雲に遮られてこちらまで届かない。

もしここに夜光虫がいたり、綺麗な満月が輝いていたら、この美しさは失われてしまうのだろう。

船に揺られながら、スピネは思った。


「名前、考えたんです」

「僕のですか」


言ってしまったことを少し後悔して、躊躇が肯定のサインとなった。

感傷的になっていた彼女の心に、白い糸がピンと張ってしまい、未来への不安と自身への不満とに引き千切れそうである。


「やっぱり、考えてないです」

「そりゃないですよ。気になって眠れそうにありません」


青年は少女の方に顔を向けたようである。

船の淵を握りしめている手が、汗ばんで彼女を離さない。

少女と鉄の塊は一緒になって、夜の海を揺れていた。


「笑ったりしないですから」


むしろ笑ってくれた方がいい。

天邪鬼に揺れる。

沈黙が一番いやだ。

理屈で固まって離れない。


「まあ、いいですけどね。『聖女』様もずっと考えてらっしゃいますし」


硬くなった下唇を開けては閉じ、仮面の中から覗いては逸らす。

最後にはどちらもぎゅっと閉じてしまった。


「今のところ全部却下ですけど」

「あの!」


嫌な沈黙が流れる。


「言います。言いますよ」


相槌か何かをした青年の声は、鼓動音に遮られ、胸から熱いものが脳天まで上がってきて何も考えられない。


「言いますから」


スピネは覚悟を決めた。


「・・・・・・?」


……ところがどっこい、肝心の名前が思い出せない。

全身の至る所から汗が出てくる。

心配する青年を片手で制し、オーバーヒートした頭で無理やり思い出そうとする。

思い出せない。

涙が出てきた。


「ど、どうしたんですか」


情けない自分への怒りで泣けてくる。

仮面をとって涙を拭う。

人間は、無力感に涙するのかもしれないと、必要のない考察が頭に纏わりついた。


「……るた」


ぼそりとこぼした声は、風にかき消された。

雲が大きく動き始め、月の光が迫ってくる。


「ヴォルタ」


怖くて青年の方を見れない。

ぼろぼろ涙が出てきて、腹に力が入ってしまう。


「ヴォルタさん。どうやろか」


弱弱しい声なのに、怒っているように聞こえる。

沸騰した思考の粒子は、彼女の母語で構成されていた。


「どうやろか。時間って意味なんやけど」


青年は多すぎる情報量に戸惑っていた。

月光が彼女の肌色を照らし出して、赤くなった目も鼻も見えた。


「どうやろか」

「すごく!すごくいいですね!それ!採用しましょう!」

「……ありがとうございます」


彼女が泣き止むまで、変な間ができてしまった。

暗闇が広がっている。

今夜はずっと穏やかな海だった。

突然、青年の肩にずっしりと重いものが寄りかかってきて、全身が固まる。

驚いて首を捻ろうとすると、静かな寝息が聞こえてきた。


「……落ちたらどうするんですか」


先ほどまで見つめていた暗闇にぞっとする。

身を捩っただけでも落ちてしまいそうで動けない。

まるで自分の魂が、深い深い海の底に縛り付けられているかのようであった。



XIII

残酷な朝日が、海上を照りつける。

船内は騒然としていた。

船長の焦りを隠しきれない声が響き、悲鳴と怒号でかき消される。

旅の一行は一人を除き、甲板へ出ていた。


「『聖女』様、ちゃんと海に落としてください!」

「分かってるよ!」


空には黒い点々が風のように渦巻いては、こちらへ落ちてくる。

それらの一部は小さな妖光によって海へ落ちていくが、多くは甲板に降り立ち、奇妙な姿を顕わにする。


「どこへ行く」


無口な男、スピネがベネッツ殿と呼ぶ男が、青年を呼び止めた。

機構虫が増えていく。

血の気の失せた顔で、青年は答えた。


「まだ、厨房にスピネさんが」



突如として発生した『禁忌』は、順風満帆だった航海を粉砕し、その正体を海中に隠している。

厨房の中はあらゆる道具が散乱しており、機構虫が三匹ほど侵入してしまっていた。

その部屋の端に、フライパンを振り回す少女がいた。


「スピネさん!」


いつぞやの猪の時のように、機構虫の気味悪い顔を潰し、彼女をおぶって船の先頭へ向かう。


「ごめんなさい。また」

「それはいいんですけど、この気持ち悪い人面虫はなんなんですか」

「機構虫です。『禁忌』が近づくと、まずこの虫が現れます」


道中にもその機構虫がいたが、無視して進む。

甲板に出ると、船の前方はほとんど綺麗になっていた。

他の三人が、既に殲滅したようであった。


「次は後方だ」

「どうどうヴォルタ!すごいでしょ!」

「『聖女』様!そんなガキに構わず早くいきましょう」


スピネを下ろし、彼も向かおうとする。

その時、船体が大きく揺れた。

黒い霧が立ち昇っている。

ヴォルタは唖然と見上げていた。


「あれが……」

「お前ら伏せろ!」


後方の爆発だった。

爆発の瞬間、自分でも驚くほど速く体を畳んだ。

少しの間があった。

自分の頭のすぐ上を、金属片が掠める。

風切り音と衝撃音とが交互に鳴った。

目を開けると、三人は青年を見下ろしていた。


「よかった。皆さん無事だったんですね。」


まだ沈黙している。


「奴の軌道から逸れます!このまま旧スマトラ島に……」


乗員の声が響く。

安堵の溜息を漏らしたのはヴォルタだけだった。

三人は一点を見つめている。

意識しなくても、首が勝手にそちらを向く。

目が痛くなるほど明るい。


「……スピネ、さん?」


母なる海は慟哭を飲み込む。

人々は訪れた奇蹟に歓喜する。

彼女の裾、白く広がる。

ああ。

血だまりが、全力で陽光を反射している。


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