悲山
双葉 黄泉
第1話 悲山
紀藤達也と妻の美智子、一人息子の礼二は夏休みを利用して数カ月前から計画していた登山旅行を楽しんでいた。
その日は、登山客も少なくて少し雲行きが怪しい天候だった。
「雨、降りそうだね」
美智子は、やや不安そうにそう言って礼二の頭を軽くポンポンと叩いた。
「人気も少ないし、もう少し登ったら下りようか?」
達也も少しこの状況での登山は、乗り気がしなかった。
「パパ、ママ、川が綺麗だよ!」
礼二は、登山道の崖の下の渓流を見ながら三人の中では一人テンションが高かった。
時刻は、午前十一時ちょっと回ったくらいだった。
「お弁当、どこで食べようか?」
美智子は、朝早くに作ったお弁当をリュックサックに丁寧に詰めてなるべく弁当が崩れないようにバランスを取りながら登山道を歩いていた。
「う~ん、取り敢えずお弁当を食べられる場所を探そうか?」
達也も、礼二もそろそろお腹が空いてきていた。
登山道の脇に下の渓流まで降りられる下り道を発見した達也は、慎重にその下り道を三人で手をつないでゆっくりと降りて行った。
渓流まで辿り着くと、達也は渓流の水を手ですくって一気に飲み干した。
「あ~、うまいなぁ!」
達也の声につられるように美智子と礼二も渓流の水を手ですくって飲み干した。
「美味しいねぇ~!」
美智子も礼二も天候の不安など忘れて少し渇いていた喉を渓流の綺麗な水で潤した。
渓流脇の岩の上で三人は、お弁当を食べる事にした。
天候は、少しずつ確実に怪しげな模様に変わって来た。
三人は、お弁当を食べながら楽し気に会話をしていた。
お弁当を食べ終わった三人は、再び渓流の水を手ですくって飲み干した。
時刻は、ちょうど昼の十二時だった。
三人は、元来た道を戻って山の麓近くにある宿に向かって山を下り始めた。
山を下り始めて数分後、草陰からガサガサッという物音が不自然に聞こえた。
三人とも一瞬その草陰を見つめたが、特に気にせずにまた山を下り始めた。
しばらく歩いていると、先頭を歩いていた達也の後ろにいるはずの美智子と礼二の姿が消えていた。達也は、少し驚いて二人の名前を呼び続けた。
ひょっとしたら、自分を驚かそうとして二人で申し合わせて草陰に隠れているのでは?そう思った達也は、草陰を落ちていた木の棒で探り始めた。草陰の中に礼二に持たせていた子供用の携帯電話が落ちていた。達也は不思議に思いながらも礼二の携帯電話を手に取って美智子に電話をかけてみた。
呼び出し音は鳴ったけど美智子は電話に出なかった。
「まったく、どういうつもりだろう?」
達也は、急に姿を消した二人を探そうにも探せない状況下でその場に立ちつくしてしまう。今度は、達也の携帯電話からGPS機能を使って美智子の居場所を探し始めたが、何も反応が出なかった。途方に暮れてしまった達也は、さっき物音がした草陰に戻ってその草陰の中を覗いてみた。特に変わった所は見受けられず困惑していると急に背後から人の声がして達也は、ビクッとして振り向いた。
「どないしましたか?」
腰の曲がった老婆が一人、そう尋ねてきた。
「実は……」
事情を説明した達也は、少し頭が混乱してきていた。
「あんた、この山は初めてかい?」
「はい、子供の夏休みを利用して計画しまして」
老婆は、達也と視線を合わせずに遠くを見るような目でしばらく考え込んでから
「この山は、悪魔が住んでおるけぇ、やめといた方が良かったよ」
「悪魔?」
達也は、よく意味が分からずに聞き返した。
「どういうことですか?」
「昔は、この山は登山客でそりゃあ賑わったもんだよ」
「悪魔が、住み着いてから誰も来んようになってしもた」
達也は、その話を黙って聞いていた。
「奥さんと子供さんは、多分戻ってこないよ」
「どこにいるんですか!?」
達也の頭は、ますます混乱してきていた。
「あんたら、ひょっとして川の水を飲んだかい?」
老婆は、崖下の渓流を見つめながらそう尋ねてきた。
「はい、さっきお弁当を食べた時に飲みました」
老婆は、ぎゅっと目を瞑って話を続けた。
「この山と渓流の水は、わしら地元の村人でもよう近づかん」
「恐ろしや恐ろしや、悪魔が怒っておる」
そこまで話を聞いていた達也は、携帯電話を取り出して
「警察に電話します」
と言って警察に電話をかけ始めた。
「はい、警察署ですけど何か有りましたか?」
達也は、事の次第を全て警察官に説明した。
「そうでしたか~、何でまたその山を選んだんですか?」
警察官は、慣れた口調で達也と話を進めた。
「宿代が他の所より、半額以下でして……」
達也は、少しバツが悪そうにそう説明した。
「まぁ~、いわゆる訳あり物件と一緒で訳ありの山なんですよ!」
「妻と息子は、どこに連れて行かれたんですか?」
「とにかく、あなたも危険だからすぐに山を下りてください」
「山の麓までパトカーで迎えに行きます。署で詳しく説明します」
「分かりました」
達也は、電話を切って老婆に挨拶をしようとしたが老婆はいつの間にかいなくなっていた。
約一時間後、達也は山を下りて麓に止まっていたパトカーに向かって歩き出した。
「すみません、先程電話した紀藤です」
「あぁ、ご苦労様。乗ってください」
警察官は、そう言って深く溜息をついた。
車中で、達也はここでかつて何が起きたのか?何故美智子と礼二が消えてしまったのか?頭の中を整理できずにいた。
パトカーが警察署に着いた頃、天候が急変して大雨と雷が叩きつけるように落ちてきた。
「樫山と申します。まぁ、麦茶でも飲んで落ち着いてください」
署内の面談室に通された達也は、差し出された冷たい麦茶を一気に飲み干した。
「一体どういうことですか?」
達也は、この町と山にまつわる話を早く聞きたくて前のめりになって樫山という警察官に話を促した。
「ここは、昔は平和な場所でした。アイツが住み着くまでは」
「アイツって誰ですか?」
「う~ん、貝沢清吾という男なんですけど……」
「そいつは何物なんですか?」
「元々、この町の住民でねぇ。幼い頃から住んでいたんですよ」
「おとなしくて、礼儀正しい子供だった。実家は、町でも有名な地主さんだった」
達也は、そこまで聞いて切り出してみた。
「そいつが、悪魔の正体ですか?」
「清吾が、高校生の頃に両親が登山客に虐殺されて金品ほぼ全部さらわれたんですよ」
「酷い事件だった。ワシは今でも鮮明に覚えているよ」
「両親ともに顔が原型をとどめていないくらい滅多打ちにされていた」
「清吾は、その現場の第一発見者だった」
達也は、食い入るようにその話を聞いていた。
「その後、清吾は精神的におかしくなってしまって……」
「しばらく、隣町の精神病院に入院する事になった」
「茫然自失のような日々の中で清吾は完全に人間不信になってしまってね」
「ある日、突然病院を脱走して姿をくらませた」
「自殺したとか、色々な説が流れたがその後誰も清吾を見る事は無くなってしまった」
達也は、そこまで話を聞いて樫山に問いただした。
「結局、その後どうなったんですか?」
「うん、それから直ぐに最初の犠牲者が出た」
「登山客、ですか?」
「一家四人でゴールデンウイークに登山しに来た観光客だよ」
「殺された?のですか?」
「そう、一家四人とも。問題はその殺され方だった」
「と言いますと?どんな殺され方だったのですか?」
「清吾の両親と同じ様に顔面をグチャグチャにされて。そりゃあ酷かった」
「犯人は、貝沢清吾だったのですか?」
樫山は、冷蔵庫から水羊羹を出してきて達也に差し出した。
「それが、分からんのですよ」
「なんせ、清吾はどこで何をしているのか?生きているのかすら誰も知らなかった」
「他に、犯人の目星は?」
樫山は、水羊羹をツルンと口に放り込んで暫く黙って口をモグモグさせていた。
「結局、犯人は捕まらず清吾の行方も分からずですわ」
達也は、少し怒った様子で問い続けた。
「被害者は、その四人だけでは無いのですね?」
達也は、水羊羹には目もくれずに樫山に食い下がった。
「その後も、同じ殺害方法で十四人殺されてしまった」
「誰がどう考えても清吾の事を疑ったが、肝心の居場所が分からない」
「山の中。多分そうだと皆が認識するようになった」
「それ以降、ここは観光客が全く寄り付かなくなった」
達也は、そこまで話を聞いて深く溜息をついた。
「宿代が安すぎると思ったんです」
「変な婆さんに会わなかったですか?」
樫山は、タバコを取り出してライターで火をつけた。
「会いました」
達也も樫山につられるようにタバコを取り出して火をつけた。
「あれは、清吾の祖母ですよ」
「祖父は、とっくに亡くなったが祖母は今でも清吾を探しに毎日山に入っている」
「あの婆さんが少し怪しいとワシは思うとる」
達也と樫山は、お互いのタバコの煙を気にもせずに一本、二本とチェーンスモークを続けていた。
「怪しいと?」
「うん、あの婆さんが清吾を匿っているのではないか?そう思うとる」
「あの老婆は、どこに住んでいるのですか?」
「山の頂上に山小屋があります。そこにずっと住んでいます」
「山の頂上?」
「元々、登山客用の休憩所だったんですよ。食堂を兼ねた」
達也は、ようやく水羊羹に手を付けて少しずつ食べ始めた。
「そこには、樫山さんは?」
「何度か訪ねているけど、清吾が暮らしている気配は感じなかった」
「でも、徹底的に調べてはいないんですね?」
「ワシらもそこまでして清吾や婆さんを調べる気にはなれんのですわ」
「ただ、今日また被害が出ている以上ワシらも考えなければならないです」
「あいにく、今日はこの荒天です。明日以降頂上の山小屋にワシらと一緒に行きませんか?」
達也は、ニコチンと混じった甘い水羊羹の奇妙な味覚を麦茶で流し込んでから静かに答えた。
「是非、連れて行ってください!」
「では、また連絡します!」
樫山は、深々と頭を下げてから達也を宿まで送って行った。
宿に戻った達也は、持参していたタブレットで貝沢清吾とこの町について調べ始めた。しかし、検索してもそれらの情報は全くヒットしなかった。
「十八人も殺されていて何故、情報が皆無なんだ?」
達也は、いくら検索キーワードを変えても貝沢清吾とこの町に起こった事件が、開示されていない事に疑問を抱いた。
「町ぐるみで、何かを隠しているのか?」
達也は、少し嫌な予感がしながらその日は、早めの眠りについた。
あくる日、達也は携帯電話がけたたましく鳴る音で目が覚めた。
「もしもし?」
「あ~!朝早く申し訳ない!樫山です」
「樫山さん、随分早いですね」
達也は、寝ぼけ眼で時間を確認した。午前五時だった。
「天気も良さそうだし、少し足元悪いですけどこれからどうですか?」
「これからですか?分かりました。すぐ準備します」
達也は、少し期待と不安が入り混じった気持ちで外出の為の準備を始めた。
宿を五時半に出た達也は、宿の駐車場まで迎えに来ていた樫山の車に挨拶もそこそこに乗り込んだ。
樫山は、登山用に整えた身なりで車の運転席に座っていた。
「おはようございます」
樫山は、缶コーヒーを飲みながら達也に挨拶をして車をゆっくりと山の麓まで走らせた。
「今日は、天気が良さそうですね」
達也は、車の窓から外を見ながらそう言った。
「そうですね。足元が昨日の雨で悪いかも知れませんね」
樫山は、眉間にしわを寄せて少し緊張しているようにも見てとれた。
程なくして車が山の麓まで辿り着いた。
達也と樫山は、車から降りて早朝の爽やかな空を見上げた。
「じゃあ、行きますか!」
樫山は、そう言ってスタスタと登山道の入り口に向かって歩き出した。達也も無言でその後に続いて歩き出した。
やや、ぬかるんでいる登山道を二人は黙々と歩き続けた。達也は、樫山の後ろをしっかりとした足取りで歩いていた。山頂までは、午前中いっぱいかかりそうだった。
「清吾とこの山に関する事を調べましたか?」
それまで黙って歩いていた樫山が、急に語りかけてきた。
「はい、持参していたタブレットで。でも、何も情報は……」
「出てこなかったでしょう?何も」
樫山は、そう言って振り返って達也を見つめた。
一瞬、達也はビクッとして足が止まってしまった。
振り返った樫山は、ニタ~と薄気味の悪い笑みを浮かべていた。
「アンタ、本気で山頂まで行く気かい?」
樫山は、少し周囲を気にしながら達也にそう尋ねた。
「樫山さん、急に何ですか?様子が変ですよ!」
達也は、この状況で笑みを浮かべて話しかけてきた樫山を警戒してそう言った。
「紀藤さん、この山もワシら町民も部外者は大嫌いでねぇ」
樫山は、完全に身体の向きを変えて達也と対峙した。
「悪いけど、死んでもらえますか?これから」
そう言って、樫山はズボンのポケットから拳銃を抜き取った。
「樫山さん、アンタ……」
達也は、身の危険を感じて身構えたがどう考えても不利な自分の状況にややパニック状態になってしまった。
「清吾と婆さんからもアンタを始末するようにと指示が有りましてねぇ」
そう言って樫山は、再び周囲を見渡して銃口を達也の心臓に向けて狙いを定めた。
達也は、身動きが取れない状況で黙って樫山を睨みつけた。
「樫山、お前何を知って何を隠してる?」
達也は、少し落ち着きを取り戻してまだ少しぬかるんでいる足元を気にしながら樫山に近づいた。
「開き直ったか?撃つぞ!」
「撃てるもんなら撃ってみろよ。貝沢静二さん」
達也は、樫山に向かって少し余裕を見せながらそう言った。
樫山は、一瞬顔を硬直させて達也に問いかけた。
「お前、どうやって俺の本名を調べた?」
「昨日、アンタの事を不審に思って宿から警察署に確認の電話を入れた。樫山という名前の警察官は居ないそうだ。アンタの本名は、貝沢清吾の実兄の貝沢静二。そうだろ?」
達也は、そこまで話して崖下の渓流を見つめながら左手を開いて貝沢静二を威圧しながら用意していた小さな笛を山中響き渡るように大きく吹き鳴らした。
次の瞬間、登山道の脇や下から大勢の警察官がぞろぞろと現れた。
「樫山、もとい貝沢静二。お前、一体何を……」
達也が、そう言いかけた次の瞬間、貝沢静二は銃口を自分の口の中に入れて銃の引き金を引いた。
大きな銃声が鳴り響いて樫山、いや貝沢静二は無残な姿でぬかるんだ登山道に仰向けになって倒れこんだ。即死だった。
「この度は、大変なご迷惑をおかけしました。署長としてお詫び申し上げます」
署長の飯山から事の次第の説明と確認の為に警察署の署長室に案内された達也は椅子にもたれるように座りながら空虚な表情を浮かべて宙を見つめながら黙ったままだった。
「どういうことなのか?最初からしっかり説明してもらえますか?」
ようやく口を開いた達也は、幾分不貞腐れた様子で署長の飯山に溜息混じりに全ての真相の説明を求めた。
「今日、自殺した貝沢静二こそが弟の清吾の唯一の理解者でした」
「静二は、つい最近まで休職していて精神病院に入院していました」
「ようやく復職して落ち着きを取り戻したと思っていましたが……」
「昨日の紀藤さんからの電話を受けたことが……」
「しばらく、情緒面を配慮して署の電話番をやらせていたんです」
「それが、裏目に出ました。静二は再び事件をフラッシュバックさせてしまった」
静かに黙って話を聞いていた達也は、軽く天井を見上げて飯山に尋ねた。
「タバコ、吸っていいですか?」
「どうぞどうぞ、今灰皿を持ってきますよ」
飯山は、そう言って一旦部屋を出て行った。
達也は、灰皿が来る前にタバコを取り出してライターで火をつけた。美智子と礼二が無事なのかどうかもここまでくると考える気力すら無くなってきていた。
「お待たせしました。思う存分吸ってください」
署長の飯山は、ガラス製の大きな灰皿を持ってきた。達也は、返事もせずにタバコを一本吸い切らないタイミングで火を消してから飯山の顔をみて、
「結局、この町とあの山で何が起こったのですか?」
達也の吸ったタバコの煙が部屋中に漂っているのを感じて飯山は、部屋の窓を半分開けてしばらく外の景色を眺めていた。五分くらい経って飯山は意を決したようにゆっくりと真剣な表情で達也の顔を見つめて、
「無礼を承知で申し上げますが、この事件は、出来れば闇の中に閉ざしたままで開示せずにしておきたいんです」
「貝沢清吾。この男にこの町は支配されているようなものなのです」
飯山は、ロッカーの中から分厚い資料を取り出してそれをテーブルの上に達也の読める向きに静かに置いた。
「事件の事が書いてあります。読んでいただいて構いませんが読めば少なくとも今日一日は食事が喉を通らないかも知れません。事件現場の写真も貼ってありますし。殺された十八人の写真です」
達也は、もう一本タバコに火をつけて少し前のめりになってその資料をしばらく見つめていた。タバコを持つ達也の手が細かく時に大きく震えている様子を飯山は黙って見ていた。タバコの灰が大きく震えた達也の手によって床に落ちた。
「十八人。ですか?」
達也は、飯山に問いかけた。
「正確には、清吾の両親も入れると二十人。それから今日自殺した静二を入れると二十一人。更に……」
飯山は、そこまで喋って申し訳なさそうに達也に頭を下げた。
「妻と息子。最悪二十三人死んでいるということですね?」
飯山は、また半分開いている窓から外の景色を眺めてもう一度達也に深々と頭を下げた。
達也は、タバコの煙と一緒に深く溜息を吐いて震える手で資料の表紙をめくった。事件が起こったのは今から約十二年前。当時高校三年生だった貝沢清吾が学校から帰宅すると家中が今まで見た事も無いようなくらいに荒らされていた。それを不審に思った清吾は家中を一つ一つ慎重に見て回った。最初に死体を発見したのは、お風呂場で顔面をぐちゃぐちゃにされた清吾の母親と思われる女性の遺体だった。あまりに酷い遺体の状態を見た清吾は、その場で吐き気を催したが二階から何か物音がしたのを聞いて少しふらつく足取りで二階に上がった。父親の書斎に入ると母親と同様に顔面を破壊された父親らしき遺体が天井から登山用の物と思われるロープで吊るされていた。清吾は、その場で発狂してパニック状態に陥った。
警察に清吾から通報があったのは、翌日の昼過ぎだった。警察官だった清吾の兄の静二も現場に駆け付けた。静二は、実家では無く隣町のアパートで一人暮らしをしていて清吾から通報があった時には、にわかに信じがたい心境だった。実際に事件現場となった実家の惨状を目の当たりにした静二もあまりの酷さにその場で嘔吐してしまった。金品や家財道具などが大量にさらわれていたことや、父親の遺体を吊るしていたロープが登山用の物だったことから強盗目的で忍び込んだ複数犯の登山客が犯人だろうと推測された。
その後、清吾は隣町の静二のアパートで同居生活を始める。静二にとって清吾は自分が二十歳の時に生まれた可愛い弟で兄弟仲もとても良かった。静二は、捜査課に頼み込んでこの事件の真相をたった一人で追求し始めた。清吾は、完全に精神的不安定状態となりその様子を見かねて兄の静二は、町で一番大きな精神病院へ清吾を入院させる手続きを取った。
それから約三年後、清吾は精神病院を脱走した。行方を探しても清吾の姿を見る者は町の中で誰一人いなかった。そして、最初の犠牲者が出てしまう。山の登山道から下の渓流に続く下りの坂道を下りた登山客の一家四人が恐らく川岸にある石で顔面を滅多打ちにされた状態で見つかった。遺体の横には凶器に使ったであろうこぶし大の石が鮮血で真っ赤に染まっていた。この時に最初に警察に通報したのは、警察官で清吾の兄の静二だった。
警察が現場に駆け付けた時に、静二はパンツ一丁で笑いながら川の中を泳いでいた。その後の警察の捜索で下流から血に染まったシャツとズボンが発見された。
資料を丁寧に読んでいった達也は、何度か首をかしげて飯山に質問した。
「最初の一家四人殺害は、貝沢静二が犯人だったのでは?」
それを聞いた飯山は、少し困ったような表情を浮かべて、
「そりゃあ、誰もがそう思いましたよ。あの時の静二は誰が見ても普通の様子じゃ無かったですから」
「一旦は、静二を容疑者として扱いましたが……」
達也は、歯切れの悪い飯山の話し方に少しイラつきながら問い直した。
「が、なんですか?」
「まさか、現職の警察官が登山客の一家四人を惨殺したとなれば……」
飯山は、少し湿りかけのインスタントコーヒーをスプーンで穿りだして電気ポットのお湯を注いで数回カップの中をかき混ぜた。
「確かに、状況的には静二以外怪しい人物はいなかった」
「そう思っていた矢先に次の事件が起きたんです」
飯山は、飲みかけたコーヒーがよほどまずかったのか?顔をしかめてカップの中に入ったコーヒーを窓から投げ捨てた。
達也は、次の事件の資料を見つけてまた丁寧に隅々まで読み進めていった。
「今度は、若いカップルでした」
飯山は、達也の元に近づいて資料に添付されていた写真を指差した。
「この時は、顔面だけでなく男女のカップル双方の性器もズタズタにされていました」
「それと、女性の方の乳首が両方とも切断されていました」
飯山は、それぞれの写真を指差しながら達也に事件の説明をしていた。
「この時は、貝沢静二は?」
「この警察署内にある留置場の中にいました」
達也は、タバコに火をつけてから飯山に問いただした。
「この件に関しては、貝沢静二には完全なアリバイがあったという事ですか?」
「そうなんです。事件の前後、静二は留置場に入っていましたので」
タバコの煙をしこたま吐き出しながら達也は、ある事を思い出して飯山に質問した。
「あの老婆は、何者なんですか?」
飯山は、タバコの煙にまくられながら質問に答えた。
「あの老婆?と言いますと?」
「清吾の祖母だと言う説明を昨日静二から聞きました」
飯山は、少し面食らったような表情を浮かべて、
「清吾の祖母は、もうとっくの昔に亡くなっていますよ」
達也の方も面食らった様子で、
「しかし、私も昨日実際に山中で怪しい老婆に出会っています」
飯山は、首をかしげながらロッカーから別の資料を取り出してきた。
「この写真に清吾の祖母が写っています。確認してください」
達也は、怪訝そうな表情でその写真を見てみた。
「これは……」
達也の顔が瞬間的に硬直して、手に持っていた写真を落としてしまった。
古い白黒写真の中には、背が低くて肩幅の広い男性と男性に寄り添うように佇んでいる小さな女性の姿が写っていた。達也は、もう一度床に落としてしまったその写真を拾って眉をしかめながらしっかりと見定めた。
「この女性が、清吾のおばあさんですか?」
「はい、貝沢静二から貰った写真です」
飯山も眉をしかめながら、下を見つめて居心地が悪そうに口先をずっと触っていた。
その写真に写っていた清吾の祖父と祖母の顔は、達也が知る限りある民族の特徴的な表情に見てとれた。アイヌ、蝦夷と呼ばれる人たちと同じような独特な容姿の特徴がはっきりと認識できた。とりわけ驚いたのは、祖母の方を見る限り手や口元にはっきりとした特徴的な刺青が入れてあったことだった。後に達也は、アイヌの伝統で成人した女性には口の周りや手に刺青を入れる習慣があったことを知る事になるが何も知らないこの時の達也にはその清吾の祖母が写っている写真の特に顔を見て何かを感じたような様子だった。
「北海道全域、今では本州にもアイヌの人々は生活しています。清吾の家系はアイヌの血が流れています。特徴的な容姿や刺青もアイヌの文化です」
飯山は、達也にそう説明してから机の引き出しの中からもう一枚の写真を達也の元に持ってきた。
「小学生の頃の清吾です。学校で酷いイジメにあっていたようです」
飯山から渡された写真を達也は、食い入るように見つめていた。物悲しいような表情のアイヌ独特の顔立ちの少年がそこに写っていた。
「アイヌの人達への差別が有った事は確か中学校時代の社会科の授業で習ったような記憶があります。今でもそのような事は起こっているのですか?」
達也は、写真の中の清吾の物悲しい表情をずっと見つめながら飯山に現代社会においてまだアイヌへの差別が起こっているのか?かつての「旧土人」扱いされたアイヌと「和人」と呼ばれたアイヌ以外の日本人との争い、戦いの歴史が今、この土地で起こっている連続殺人事件と何らかの関連性があるのか?一人の人間としてその事を確かめる必要があると判断して問いただした。
飯山は、少し考え込んでから下唇を噛み締めて静かにゆっくりと達也の問いに答えた。
「正直に申し上げますとアイヌへの差別は、まだ残っています。清吾が少年時代にアイヌだからと言う理由だけで理不尽なイジメや差別を受け続けていた事や兄である静二は、こういう言い方は良くないですが見た目だけではさほどアイヌらしくない風貌と高い知性を持ち合わせておりましたので清吾とは違って優等生の様な人生を送っていた事。清吾が兄である静二に強い劣等感を抱いていた事は事実です」
飯山は、そう言ってからまたロッカーに向かってスタスタと歩き出してしばらくゴソゴソとロッカーの中を探って一冊のアルバムの様なものを取り出して、
「あった、あった」
そう言ってそのアルバムを達也の元へ持ってきた。
「貝沢静二が、結婚した時の記念写真です」
達也は、その言葉を聞いて少し驚いた様子で、
「静二は、結婚していたのですか?」
「はい、貝沢家は地元の大地主でしたし国立大学を卒業して警察官になった静二のエリート人生のピークのような盛大な素晴らしい結婚式でした。当然、上長の私も出席しました。ただ、気になった事がいくつかあります」
「何が?ですか?」
「結婚した時の静二は、三十三歳でした。二十離れていた当時中学生の清吾の姿がこの式にはありませんでした。体調不良での欠席と言う話は後に静二から聞きましたが、私は何となくそうではないような気がしました」
「お相手の女性は?」
達也は、その結婚写真に写っている綺麗な顔立ちをした若い女性を見ながら聞いてみた。
「大学時代の同窓だと聞いています。才色兼備とでも言いますか……ただ、」
「ただ、何ですか?」
「先程の資料の中の、え~と七番目の事件。開いてみてもらえますか?」
達也は、何か嫌な予感を感じながら言われた通り資料の七番目の事件のページをまた少し震える手で不器用に開いた。
「これは……」
達也の顔がこわばって思わず手を口に充ててそこに貼ってあった写真から目をそらした。
「顔面が例によってぐちゃぐちゃですが、さっきの静二の嫁の佳代さんです」
飯山は、少しだけ溜息をついて静かに立ち上がってまた窓の方に向かって外の景色を見ながら小さな声で呟くように歌を歌い始めた。
「何の歌ですか?」
達也は、まだ外の景色を見ながら歌っている飯山に尋ねた。しばらく反応が無かった飯山がゆっくりと振り向いて達也の顔を見返したときに達也は、飯山の目から静かにゆっくりと流れ落ちる悲しみに満ちたしずくを見て思わずハッとさせられた。
「ピリカピリカというアイヌ伝統のわらべうたです」
飯山は、まるでこの一連の事件の全てを知ってしまっている自分を隠そうとも隠し切れずに今の不思議な歌をわざと達也に聴かせたのではないか?そんな雰囲気だった。
「ピリカ ピリカ
タントシリ ピリカ
イナンクル ピリカ
ヌンケクスネ
ヌンケクスネ
ピリカ ピリカ
きょうはよい日だよ
よい子がいるよ
その子は誰よ
その子は誰よ
ピリカ ピリカ
あしたもよい日だよ
よい子がくるよ
その子は誰よ
その子は誰よ」
達也は、紙に走り書きのようにこの歌の歌詞を書いてくれた飯山のもう耐えられないような様子を感じ取ってしばらくこの歌の歌詞を見返して、
「今日は、もう疲れたので宿に戻ります。いろいろ教えていただいてありがとうございました」
宿に戻った達也は、風呂に入った後またタブレットで何かを検索し始めた。検索のキーワードは、「アイヌ 歌」だった。直ぐに目的の検索結果がヒットした。さっき飯山署長が歌っていたアイヌのわらべうたの「ピリカピリカ」達也は、動画投稿サイトでその歌を聴いてみた。
わらべうた独特のどこか切なげな悲し気なメロディーが達也の心の奥底に突き刺さるように響いてきた。この歌の歌詞のように今日も明日もいい日になるように。よい子がいるよ。よい子がくるよ。その子は誰よ。その子は誰よ。
達也は、思わず今どうしているのか分からない礼二と美智子の事を思い浮かべて一人でピリカピリカを聴きながら号泣してしまう。
「こんな事になるなんて……」
涙を拭くための宿のタオルを洗面所に取りに行った達也は、ユニットバスのようになっているそこのドアを開けて足を一歩踏み出した時に今まで生きてきた中で最も大きな声で、最も悲しい声で悲鳴を上げてその場に膝から崩れ落ちた。
「み、美智子?」
洗面所兼ユニットバスの空間の風呂の浴槽の中に張った記憶の無い浴槽いっぱいの水と両手と口元に刺青の様なものを入れられた女性の息絶えた裸の姿が浴槽の上の換気扇からロープで吊るされていた。口元以外の顔の大部分がもはや臓物のようにしか見えないくらいにグロテスクに破壊されていた。
警察が民宿まで辿り着くのに幾分時間が掛かり過ぎているような気がした。
達也は、放心状態のまま美智子と思われる恐ろしい姿に変わり果てた登山用ロープで吊るされた女性をもう何も手がつけられないまま畳の上でうつ伏せになって悲しみのどん底に突き落とされてしまい、ただただ心臓が締め付けられるような焼けた感覚だけがいつまでも消えずに残っていた。
「自殺ですね」
遅すぎた到着にも関わらず駆け付けた刑事や鑑識と思われる警察の人間達は、美智子の遺体を雑に扱った後、冷めた中にやや薄気味の悪い笑顔の様な表情を浮かべて達也に向かってそう言い放った。
「あんた達、何なんだ!自殺?ふざけんじゃねえよ!」
怒りに震えながら達也は、刑事に歩み寄って胸元を掴んで大声で泣き叫びながら
「何を隠している?この町に何があった?この町みんな普通じゃねえ!」
「ピリカ ピリカ
タントシリ ピリカ
イナンクル ピリカ
ヌンケクスネ
ヌンケクスネ
ピリカ ピリカ
きょうはよい日だよ
よい子がいるよ
その子は誰よ
その子は誰よ
ピリカ ピリカ
あしたもよい日だよ
よい子がくるよ
その子は誰よ
その子は誰よ」
達也は、心身ともに疲弊しきってしまい警察署内の署長室で飯山署長とソファーに向き合って座ると言うよりは、もたれかかるように全身に力なく空虚な表情で目の視点すら定まっていない様子だった。飯山は、そんな達也の様子を何か思いつめたような表情でしっかりと見つめ続けていた。
「お気の毒です」
飯山は、そう言って席を立ってきつく下唇を噛み締めながら両手で自らの顔を覆った。
「まさか、こんな事態になるとは……」
飯山は、ややオーバーにも見てとれる悲壮感を身体全体で表現している道化師のような気がしてただでさえ怒りを堪えて必死に平常心を保とうとしている達也の感情を逆なでさせた。
「鑑識の結果次第ですが、やはり自殺の可能性が高いと思います」
飯山は、部屋に置いてあった花瓶に差してある綺麗な紫青色の植物を眺めてから少し蔑んだような視線で力なくうなだれている達也を一瞥した。
「紀藤さん、この綺麗な紫青色の植物。何だか分かりますか?」
飯山は、この状況下でいきなり突飛な質問をしてきた。達也は、チラッとその植物に目をやって静かに目を閉じて黙って首を横に振った。
「エゾトリカブトと言います。綺麗でしょう?」
飯山は、ニタニタと笑いながら達也の元に近づいた。白い手袋をはめて一輪のエゾトリカブトという植物を花瓶から慎重に抜き取ってから。
「さぁ、これを奥様のご遺体に手向てあげてください」
飯山は、狂人のような気持ちの悪い笑みを浮かべて達也にエゾトリカブトの一輪を近づけた。その綺麗な花が達也の顔に近づいたその時、突然達也は身を翻して飯山と離れて距離を取って話し出した。
「この町が……」
「どうだろうが知ったこっちゃないが、お前ら完全に何かに洗脳されている。貝沢清吾など本当にこの世に存在しているのか?その猛毒性の花で俺を殺すつもりならこっちにだって覚悟がある!やれるもんならやってみろよ!」
「そうですか。分かりました。お望み通り今ここで私があなたを死刑にしますよ」
飯山は、そう言って手袋をはめた手でもう一輪エゾトリカブトを抜き取って静かに達也に近づいてきた。達也は、少し落ち着いた様子で飯山を凝視していた。
「紀藤さん、トリカブトの花言葉をご存知ですか?」
「さぁ、興味無いね」
「いくつかありますが、栄光、復讐、厭世家、そして人間嫌いですよ」
飯山は、自分の手に持ったエゾトリカブトの花を見ながらニタ~っと笑みを浮かべた。
笑った事で開かれた口元に目をやると前歯がお歯黒のように真っ黒だった。
「人間嫌い?復讐?誰のための?」
達也も少し笑みを浮かべながらそう問いただした。
「もういいでしょう?ゲームオーバーで~す!」
飯山がふざけた口調でエゾトリカブトを振りかぶった時、達也はポケットに入っていた携帯電話を操作してから身を倒して猛毒のエゾトリカブトを避けて躱した。次の瞬間携帯電話から聞き覚えのある歌が流れてきた。
「ピリカ ピリカ
タントシリ ピリカ
イナンクル ピリカ
ヌンケクスネ
ヌンケクスネ
ピリカ ピリカ
きょうはよい日だよ
よい子がいるよ
その子は誰よ
その子は誰よ
ピリカ ピリカ
あしたもよい日だよ
よい子がくるよ
その子は誰よ
その子は誰よ」
飯山は、その歌が部屋に鳴り響くと急に奇声を上げて頭を抱えてその場に座り込んでしまった。その時に不用意に手に持っていた猛毒性のエゾトリカブトの花が飯山の喉元から顔にかけて触れた上に茎の部分が飯山の左目を突き刺してしまう。
「ぐっ!」
飯山は、しばらく頭を床に叩きつけて苦悶の表情を浮かべて達也の顔を見上げながらその場にうつ伏せに倒れ込んだ。
達也は、飯山が倒れたのを見届けてから署長室のドアを開けて走りながら警察署を脱け出した。署を出ると一台の車が小さくクラクションを鳴らして達也が来るのを待っていたかのように近づいてきて達也も躊躇なくその車に乗り込んだ。
「大丈夫でしたか?」
車を運転している男は、まだ息遣いの荒い達也に心配そうに話しかけた。
「取り敢えず、この町を離れましょう」
男は、そう言って少し強めにアクセルを踏み込んだ。
「助かりました。あなたが亡くなられた佳代さんのお兄さんですね?」
達也は、車が町を抜けたタイミングで男に話しかけた。
「そうです。本当にあの町は、おかしくなってしまって」
「山辺さん、民宿に電話をくださった時に全てお見通しだったのですか?」
山辺というその男は、少し間をあけて、
「妹が、無残な殺され方をしてからずっとあの町を恨んできました。貝沢が精神病院を退院して復職したと聞いた時にまた次の犠牲者が出てしまうのでは?と不安になりました。なんせ、田舎なので噂が広まるのが早いんです。紀藤さんのご一家が何も知らずに民宿に泊まっている事やあの山に登山しに来ていた事も。ただ……私ももうちょっと早く気付いていれば……」
山辺は、美智子が惨殺された事も知っていた。数日前に達也の事を心配して民宿に電話をかけてきてお互いの携帯電話の番号を交換していた。
「いえ、何も調べずに宿代安さにあの町を選んだ私が悪いんです」
達也は、車の窓から外の景色を眺めながら小さな声で呟いた。
「妹の佳代が、貝沢と結婚して私も私の両親も何も不安なんて抱かずにただただ佳代の幸せを祝福していました。それが……」
山辺も少し気落ちした様子で二人ともしばらく黙り込んでしまった。
北海道白老町。二人を乗せた車は、この町に辿り着いた。山辺は達也と一緒にある場所を訪れようとしてこの町に立ち寄った。
「アイヌ民族博物館」
二人は、アイヌの歴史や文化それ以外の全ての真実を少しでも知りたくてこの土地にやって来た。最初に車を停めたポロト湖周辺をしばらく散策してみた。何度かここを訪れている山辺に対して初めてやって来た達也は、ポロト湖の圧倒的な存在感と澄みきった美しい情景に感動というよりは、何か吸い込まれてしまいそうな荘厳な世界を感じて暫くの間は言葉が何一つ出てこなかった。
「この湖畔にある今から行く施設がポロトコタン、訳すと大きい湖の集落と言う道内でも随一のアイヌの伝統や文化を知る事の出来る場所です」
山辺は、湖畔に広がる光景を見慣れた様子で眺めながら言葉を失っていた達也に優しい口調で語りかけた。達也は、湖畔に点在する家並を見ながら静かに山辺に問いかけた。
「あれが、かつてアイヌの人々が住んでいた家ですか?」
「そうですね。私も詳しくは無いですがチセと呼ばれるアイヌの伝統的な住居建築のようです。この後行きますけどとても独創的で圧倒されると思いますよ」
山辺は、日照りの強い真夏の気候に敏感なのか?顔や首筋にかけて大量の汗をかいていた。着ていたグレーのTシャツも背中の部分が汗で変色してベタベタと皮膚に貼りついて離れないような感じに見えた。
その時、一台のパトカーが何の目的か分からないがポロトコタンの入場口近くに停まって数人の警察関係者らしき人達がポロトコタンの中に入っていった。その様子を眺めていた山辺は、腕時計に目をやって慌てた様子で達也の腕を掴んで急いで車の元に向かった。
「もう、警察が紀藤さんの事を追って来ています。せっかく連れてきたのに申し訳ありませんが博物館見学はやめておきましょう。また車に乗って私の実家がある室蘭まで行きましょう。紀藤さんの事は両親にも説明してあります。部屋も空いている部屋を使ってください。厳しい言い方になりますが、あの町の陰謀で紀藤さんは警察署長を殺めた殺人犯として追われる身になってしまいました。これから向かう私の実家で、しばらく静かに暮らすこと、外出は一切しない事。悔しいでしょうがそうするしかないと思います」
達也は、ここに来るまでの車中に署長室で何が起こってしまったのかをしっかり山辺に説明していた。
「はい、分かりました。確かに悔しいですが正直ここ数日色々有り過ぎて心身共に疲弊しきっています。礼二の事が心配ですが、山辺さんの言う通りにしたいと思います。本当にありがとうございます」
「じゃあ、行きましょう!一時間かからずに着くと思います」
山辺と達也は、再び車に乗り込んで山辺の実家があると言う室蘭市に向けて出発した。
室蘭に向かう車中、山辺はさっきとはうって変わって饒舌に喋り続けた。
「妹と貝沢が結婚した時、私は正直嫌な予感がしていました」
「何が?ですか?」
達也は、車のエアコンが効いてきて涼しくなった車内で幾分リラックスした様子で山辺に聞いてみた。
「DV。貝沢は妹にしょっちゅう暴力を振るっていたんです。妹にその事で何度も相談されていました。それと、もう一つ……」
「もう一つ。何ですか?」
達也は、タバコが吸いたくて仕方が無かったがさすがに初対面の人間の車の中でタバコを吸うのは我慢しようと自制心を働かせて山辺と会話を続けた。
「刺青です」
山辺は、一言不機嫌そうにそう答えた。
「あの、アイヌの?」
達也は、その瞬間美智子の死体の手と顔に刻まれていた刺青を思い出して全身にエアコンのせいでは無い寒気を感じて小さく痙攣したように震え始めた。
「貝沢は、妹の佳代に貝沢家に嫁いだ以上は、手と口元に刺青を入れろと何度も強要していました。佳代は、頑なにそれを拒みました。その度に貝沢から暴力を振るわれたそうです」
「貝沢と佳代さんは、その後離婚したと聞きましたが……」
達也は、飯山の署長室で見た事件の資料の中の佳代の名字が貝沢ではなく山辺だった事を見逃してはいなかった。
「約一年半で二人は離婚しました。実家に戻ってきた時の佳代は、憔悴しきった様子でした。顔や身体に痛々しい痣が沢山残っていました」
達也は、顔は正面に向けていたがチラッと横目で山辺の表情を確認すると山辺は、達也には聞き取れないほど或いは口の動きだけなのか?何かを口ずさんでいるように見えた。
山辺は、額から口周りに滴り落ちてくる汗を舌で舐めながらまた黙って運転を続けていた。
達也は、車中で一つだけ気になってしょうがない事があった。白老町を出てから助手席に座っていた達也と隣の運転席の山辺の距離が、さしてない事は当たり前のことだが問題は運転している山辺の尋常ではない汗のかき方と鼻をつくような独特の体臭が達也を幾分不快な気分にさせていた。とは言えこれからお世話になる命の恩人にそんな失礼な事を言える訳も無く達也は、少しだけ山辺に気付かれない様に車の窓を下ろして外気を入れた。
「さて、着きましたよ!紀藤さん」
白老町のアイヌ民族博物館、ポロトコタンを出発してから一時間弱で室蘭市の山辺の実家である豪邸と言っても過言ではない佇まいの家に辿り着いた。達也は、その想像以上の豪邸を見て少しだけ驚きながらしばらくはここで生活すると言う実感を感じながら車を降りた。
「さあ、どうぞ。家の中へご案内しますよ」
山辺は、汗びっしょりのTシャツを我慢出来ずに広い庭先で脱いで上半身裸の状態で汗にまみれたTシャツを両手で絞り始めた。たっぷりと汗を吸い込んだTシャツは、音を立てて庭の芝の上に汗を垂れ流した。達也は、再び山辺の汗から滲み出るような強烈な臭いに加えて真夏の日照りの中で上半身裸の山辺の姿を見た。
「あっ!」
達也は、山辺の上半身の見てとれる範囲で尋常ではない体毛が上半身の両腕意外に生えている事実を見てしまった。体毛くらい男なんだから、と言うレベルのものでは無くて例えていえば見てとれる上半身だけでも昔映画で見た狼男のような体毛だった。達也は、見てはいけない物を見てしまったような感覚に襲われて直ぐに山辺から目を逸らせて気付いていないふりをした。
「紀藤さん、凄いでしょう?僕の汗と体毛!」
山辺が、自分から達也が触れまいとしていた二つの個人的な身体的特徴を振ってきたのには達也も少しビックリしながらもう一度山辺の身体を正視してみた。
「いや、そんなには……」
達也もかなり気を使ってやんわりと否定したが、改めて見た山辺の体毛と体臭は野性味を通り越して野獣の様相を呈していてこの先にまだまだ達也の想像を超える何かが起こるような気がして無理矢理作った笑顔も引きつってしまう。
「じゃあ、中に入りましょう!両親も待っています」
山辺は、上半身裸のまま玄関に向かって歩き出した。達也は、少し距離を空けて後に続いた。後ろから見る山辺の背中は、真っ黒な体毛で覆われていて何度見ても異常な様相を醸し出していてやはり達也は、その姿を正視できなかった。
「ただいま~!」
山辺は、玄関のドアを開けると大きな声でそう叫んだ。達也は、初めて入る山辺の豪邸の玄関で姿勢を正して様子を伺っていた。しばらくすると、五十代半ばくらいのメイドと思われる女が現れた。女は、達也の方を見ながら笑顔で軽く頭を下げた後、
「いらっしゃいませ。紀藤様ですね?お待ちしておりました。私、この家の家政婦をしております桐生と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
達也は、黙って頭を下げてから、
「紀藤です。よろしくお願いいたします。何分急で手ぶらで申し訳ありません」
「いいえ、とんでもございません。暑かったでしょう?どうぞ、お上がりになって下さい。フェイロンさん!また淫らな格好で!また、ご主人様に怒られますよ!直ぐにシャワーを浴びてきてください!」
達也は、山辺の事を叱る家政婦の桐生と言う女の言葉で初めて山辺の下の名前を知る事になる。飛龍。フェイロンとは、中国人に多く見られる名前だった。詳しい事を何も知らない達也だったが恐らくこの家は在日中国人の家系でこれだけの豪邸に住んでいるのだから社会的に大きな成功を収めた事は間違いないだろうと勝手に推測した。しかし、その達也の推測は、山辺がシャワーを浴びに風呂場に入った後桐生と言う家政婦の口から聞かされたこの家の真実について知らされた事で間違っていたと認識させられてしまう。
「紀藤様。あの男の体臭、酷かったでしょう?私はもう慣れましたけどこの家に家政婦としてやってきた頃は、それはもう大変でした」
達也は、割と平然と初対面の自分にグイグイと話しかけてくるこの家政婦に驚きながら少しだけ関心のある項目を手短に聞いてみた。
「ここの家は、失礼ですが在日の方が?それと飛龍さんは、今どんなお仕事を?」
桐生は、耳元で囁くように達也の方へ体を寄せてきて話し始めた。
「この家は、元々地元でも有名な貿易商の家系です。在日?とんでもございません。今シャワーを浴びているフェイロンを除けば亡くなられた佳代様も含めて生粋の日本人です」
達也は、質問を一つに絞って話を続けた。
「フェイロン、飛龍さんは元々この家の人間では無いと?」
「はい、ご主人様が仕事で訪れた中国で初めて出会ってしばらくしてこの家に養子として受け入れられました。今よりももっと全身毛むくじゃらで野生動物の臭いが漂う私は、とても最初は受け入れられませんでした。ご主人様がお金に糸目をつけず有名なお医者様に頼んで顔と両腕、服で隠せない部分だけを手術して人並みの容姿になりましたけど」
二人がそんな会話を続けていると風呂場から飛龍が、素っ裸でバスタオルで髪の毛を拭きながら上がってきたので桐生は、慌てた様子で飛龍の元へ近づいて、
「フェイロンさん、デリカシーが足りませんよ!素っ裸で出てくるなんて!」
桐生の事には、目もくれずに飛龍は達也の元に近づいて、
「紀藤さんも、シャワーを浴びてきてください。サッパリしますよ!」
そう言って飛龍は、そのまま階段を上って二階に行ってしまった。桐生は、呆れた様子で達也に目配せをして達也の為のバスタオルと着替えを取りに二階に上がっていった。
暫く待っていると飛龍と桐生の二人が、同時に二階から降りてきた。達也は、その時何か二人の様子が少しおかしいと感じた。飛龍は新しいTシャツと短パンを履いていた。家政婦の桐生は、達也の為に新しいバスタオルを持ってきてくれていた。髭剃り用のカミソリや達也用の歯ブラシなども同時に持ってきてくれた。
「汗かいたでしょうから、シャワーを浴びてきてください。ご案内します」
桐生はそう言って達也を風呂場まで案内した。飛龍は、何も言わずに奥のリビングに入っていった。
「フェイロンには少し注意してくださいね。深く関わらないようにしてください」
桐生は、そう言って達也にバスタオルと普通のタオルを手渡した。不思議そうな顔でその言葉を聞いていた達也に、桐生は続けて、
「あの男は、野獣です。欲の塊と言うか……特に性欲が以上なんです。紀藤さんは、男性なので安心していますが性別が女なら誰でもいいと言うくらいです。いわゆるセックス依存症ですね。あまり大きな声では言えませんが亡くなられた佳代さんもフェイロンの性的奴隷でした。酷かったんです。そして、遂に家政婦である私まで……」
達也は、桐生の話を聞いて少しショックを受けたのか?黙り込んでその場に固まったように動けなくなってしまった。
「レイプ、だったんですか?」
ようやく口を開いて桐生にそう質問した達也は、何かの気配を感じてジェスチャーで桐生に静かにするよう促した。
「お~い、麗子!腹が減ったよ。何か作ってくれ!」
飛龍が、ドア越しにそう言って達也はその言葉を聞いて初めて桐生の下の名前が麗子だと知った。
「わかりました。今すぐ作りますよ!」
桐生麗子は、達也に目を配ってから脱衣所を出て行った。達也は、脱衣所で服を脱いで財布や携帯電話、タバコを衣類の下に隠して風呂場の中に入っていった。
「いや~、サッパリしました!身体も心も」
シャワーから上がった達也は、そう言いながらリビングで冷やし中華らしきものを食べている飛龍と何やら忙しそうに行ったり来たりしている麗子に向かって笑顔で近づいた。
飛龍は、大盛りの冷やし中華を美味そうに無言で、食べると言うよりは貪るような勢いで無心に食事をしていた。麗子は、達也に気付くとにこやかな笑顔で近づいてきて
「紀藤さん、冷やし中華作っておいたのでどうぞお食べ下さい!」
達也は、さっきから様子がおかしい飛龍の背中を見てから無言で頷いてから
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます!」
と元気よく言った後テーブルに向かおうとして振り返ると飛龍の姿は、消えていた。汚らしく食べたであろう汚れたお皿を見て達也は、そのお皿から直ぐに目を逸らせて自分の為に用意されていた冷やし中華の置いてある席に座った。
「ごちそうさまでした。美味しかったです。あの~」
飛龍の、汁や麺の切れ端や紅ショウガが飛び散った食べ方よりも余程きれいに完食した達也は、麗子に軽く一礼して静かに近づいて、
「少し、あなたの言っていることが分かるような気がします。粗雑と言うか、あの男は……」
「気にしないでください。直ぐに慣れますよ!」
麗子は、そう言って笑いながら後片付けを始めた。
「飛龍さんは?それとご両親にまだ挨拶をしていないのですが……」
達也は、洗い物をしている麗子にそう尋ねて玄関まで様子を見に行った。
「紀藤さん、フェイロンとご両親は車で病院に行っていて今は私と紀藤さんしかこの家に居ませんよ!」
麗子は、エプロンを外しながら玄関にいた達也に近づいてきた。達也は、麗子の首筋に何かキスマークの様な痕がいくつかある事にこの時初めて気付いた。
「病院、ですか?」
達也は、じっとりと汗をかいている麗子の様子を気にしながら静かにズボンのポケットの中を探り始めた。
「タバコは、換気扇の下で吸っていただけますか?」
麗子は、達也がタバコを吸いたそうな気配を敏感に感じ取って換気扇の下まで達也を連れて行った。
「私、さっき二階でフェイロンに乱暴されました。首筋に吸血鬼のように噛みついてきて、生き血を吸われる思いでした。ホントに野蛮な男ですわ!」
麗子は、そう言ってキッチンの引き出しの中からメンソールのタバコを取り出して達也より先にタバコに火を点けた。達也は、少し面食らって、
「そんなことが……」
フェイロンの事よりも麗子が喫煙者だと言う事の方に驚いていた達也だが、敢えてそこには触れずに自分もずっと我慢していたタバコに火を点けて生き返ったように煙を大きく吐き出した。何かこの家には因縁めいたものがあると感じながら達也は、黙って煙草を吸い続けた。
「紀藤さん、皆さんお戻りになりましたよ!」
麗子に大きな声で言われて少し疲れていた身体と心を休めていた達也は、ハッとして直ぐに目を覚まして初対面になる山辺夫妻に挨拶するために玄関まで麗子と一緒に向かった。
初対面となるこの豪邸の老夫婦に会うと言う事で達也は、やや緊張していた。麗子は、少し髪の毛の乱れを直す様な仕草を見せてふ~っと軽く息を吐いた。
「お帰りなさいませ!」
玄関のドアを開けて最初に入ってきたのは、飛龍だった。その後に続くようにとても清楚な気品漂う老夫婦が現れて達也の姿を見つけるや否や、
「紀藤達也さんですね?お待たせして申し訳ない。飛龍からいろいろ聞いています。この度は本当にお気の毒としか言いようの無い……」
山辺夫妻の主人から言葉をかけられた達也は、少し恐縮した様子で静かに頭を下げて
「こちらこそ、いろいろありがとうございます。佳代さんの事も聞いております。本当にお互いにやりきれないような辛い心境です。しばらくお世話になります。よろしくお願いいたします」
達也の丁寧な話しぶりを聞いていた夫人の方からも挨拶をされた。
「さあ、ここでは何ですから中に入りましょう。紀藤さん、何の気兼ねも無くここでゆっくりとお過ごしください。何か欲しい物や必要な事はいつでもおっしゃっていただければ、フェイロンがお手伝いしますので」
飛龍は、その話を聞きながら顔面を硬直させて少し不機嫌な様子だった。自分が使いッパシリにされるのが嫌だったのかと達也は勝手に推測した。
「今夜は、豪華な酒と料理を頼むよ、麗子さん!」
「かしこまりました。腕によりをかけて頑張りますわ!」
麗子は、そう言って腕まくりをしてやる気満々のポーズをとったので一同いやフェイロンを除いては、皆その場で大笑いして少しだけ場の空気が緩和された。相変わらずフェイロンだけが無言を貫いて一人でさっさと二階に上がって行ってしまった。
「まったく、アイツは。しょうもないなあ」
主人である山辺吉郎は、小さな声でそう呟いて無礼な態度のフェイロンの事を蔑んだ。
「本当にご無礼をお許しください。あの子も根は優しいんですけど。ちょっと気分にムラがある子なんです。特に佳代が亡くなってからは、すっかり変わってしまって……」
夫人の山辺ちさ子は、申し訳なさそうに達也の顔色を伺いながらフェイロンの事を擁護しているかのような表情を見せていた。
「いいんですよ。私は何も気に留めてませんから。お心遣いいただきありがとうございます」
夕刻六時過ぎ、山辺夫妻とフェイロン、達也は家政婦の桐生麗子が作った豪華な料理と酒を囲んで賑やかに談笑していた。フェイロンも年代物の赤ワインを好きなだけ飲んで機嫌が直って良く喋って良く笑っていた。とても、全員があんな悲劇を経験したとは思えない様子でそれぞれのディナータイムを楽しんでいた。
「紀藤さん、まだ息子さんの行方は分からずじまいですか?」
機嫌が直ったフェイロンが少し場の空気を湿らせる質問を達也に投げかけた。
「ええ、何も分からないんです。せめて、息子だけでも無事であると祈るばかりです」
達也も、酒の酔いが程よく回っていて、丁寧に穏やかにフェイロンの質問に答えた。
「麗子さん、君も一緒に仲間に加わりなさい。お腹も空いたろうし酒も好きなんだから、君は。今夜は、五人で夜中まで語り合おうではないか!」
吉郎も日本酒やワインを嗜んで気分が良くなったのか?気分良さそうに麗子をテーブルの空いている席に座らせてワインを差し出した。ちさ子は、あまり酒に強くないのか?殆ど飲まずに食事も軽めに済ませてひたすらウーロン茶を飲んでいた。
「ご主人様、私を酔わせてどうするおつもりですの?紀藤さん、こうなったら日付が変わるまで今夜は付き合ってもらいますよ!」
麗子は、そう言ってワインを男前に一気飲みして手酌で次のワインをグラスに注いで随分豪快な家政婦だなあと達也は、ちょっと驚いてしまった。フェイロンは、相変わらず食べ物や飲み物をやたらとこぼして汚らしいマナーの無い飲み食いを続けていた。
夜九時を回っても山辺家の宴は続いていたが、夫人のちさ子だけは眠くなってきてしまったようで最初に席を離れて二階の寝室に上がっていった。主の吉郎は、かなり酒に強かった。相当の量の酒を飲んでいたが顔色一つ変えずにまだまだ行ける様子だった。麗子は、途中から宴に参加した事も有るが、こちらも相当酒を飲んでいたのに酔っぱらっている様子は、あまり感じなかった。たまに席を外して達也を誘ってキッチンの換気扇の下でタバコを吸うシーンが何度かあった。フェイロンは、見た目によらずかなり酒に弱い様子でベロンベロンになってしまって途中、何度もトイレに行って、
「ウゲ~!ゲ~!」
と苦しそうに嘔吐する声がみんなの居るリビングまで響いてきて、吉郎と麗子は、顔を見合わせて嫌な表情をして達也に向かって、
「紀藤さん、本当に下品な男ですみません」
「初対面の紀藤さんに聞こえるような声で本当にけしからん奴だ!」
達也は。何となくこの家にはフェイロンの存在をあまり快く思っていない空気を感じて少し不安になってきてしまった。達也自身は。あまり酒そのものを浴びるほど飲まずに軽く嗜む程度に留めていたので失態をさらすような事にはならなかった。
夜十一時になってフェイロンは、グロッキー状態になりソファーの上で大きないびきをかいて寝てしまった。麗子と吉郎は、達也と三人で会話を止める事なく上機嫌であまり眠くなるような様子も見受けられなかった。
「ところで、達也君。君は、貝沢の事をどう考えているのかね?」
吉郎が、突然達也に事件の事を聞き始めた。
「貝沢静二と貝沢清吾の事ですか?静二は、私の目の前で自殺してしまいましたし清吾に関しては、存在そのものが謎なので。とにかく、あの山と町。そして貝沢家の存在が事件の鍵を握っていると思いますけど……」
達也は、かなり冷静に事件の事や貝沢家の事、何よりまだ謎のままの貝沢清吾の存在がどうしても知りたくても知り得ない、もどかしさでいっぱいのやや重苦しい表情を浮かべて話していた。
「佳代さまが、本当にあの優しくて美しい佳代様が貝沢のせいで。あんな姿になって帰ってくるとは……」
麗子は、少し潤んだように見える目でそう言って黙り込んでしまった。
「山辺家は、貝沢家によって一生悲しみのトラウマを抱えて生きていかなければならなくなってしまった。佳代が貝沢家の次男の清吾に殺された事。長男で元夫の静二は、佳代に執拗に暴力を繰り返していた。ワシらは、一生この恨みを忘れる事は出来ません」
吉郎は、やや唇を細かく震わせながら貝沢一家への憤りを露わにしてグラスに少し残っていた赤ワインを身体に流し込むように飲み干した。
夜が更けて日付が変わろうとした頃、フェイロンが突然眠りから覚めて歌を唄い出した。麗子と吉郎は、迷惑そうな表情で無視していたが達也は、その歌を興味深く聴いていた。
「佳代が好きだった曲ですよ。中島みゆきの”北の国の習い”と言う曲です。ワシは、あまり好きな歌ではありませんけど……」
達也は、フェイロンが口ずさんでいるその歌の歌詞が何かを物語っているようでしばらくの間聞き入ってしまう。
いつの間にか山辺家の宴は終わって、それぞれの寝室にそれぞれが入っていった。
達也は、さっきフェイロンが歌っていた”北の国の習い”という歌の歌詞が少しだけ気になっていた。
「北の国の女にゃ気をつけな」
この一フレーズが、達也の心の中でいつまでもリピートして達也は、眠れないまま仰向けにベッドに身を任せて天井を見つめていた。
「フェイロン、いやこの家の人間全員が何かを知っている。そして、何かを隠している。佳代さんの事なのか?貝沢家との確執は、本当に有ったのだろうか?」
達也は、その事ばかり考えてずっと動かなかった。
夏の遅い朝の日差しが、閉めきっていたカーテンの隙間から強く照り付けるような熱い感覚に襲われて達也は、ようやく目を覚ました。時間を確認すると午前十時半だった。
「やっべぇ、もうこんな時間かよ!」
達也は、慌ててベッドから起き上がって着替えを済ませてから一階に降りていった。
「すみません、おはようございます!寝坊しました!」
達也は、洗顔を手早く済ませた後大きな声で遅くなってしまった朝の挨拶をした。
しかし、家の中のどこからも返事は返ってこなかった。
「ひょとして、みんなまだ……」
達也は、二、三回ノックをしてから静かにドアを開けてリビングルームに入った。
「これは……」
リビングのソファーには、大量の血を流して息絶えているように見えるフェイロンと家政婦の桐生麗子が全裸で重なり合うようにして倒れていた。
達也は、直ぐに二階の吉郎とちさ子の寝室のドアを強めにノックしてみたが中からは、何もアクションが無かった。恐る恐る寝室のドアを開けて中に入ると達也は、思わず目を背けてその場に崩れ落ちるように座り込んでしまった。
寝室のダブルベッドの上で吉郎とちさ子の二人が、一階のリビングルームのフェイロンと麗子の様相そのままに全裸で重なっている状態で息絶えていた。
「何なんだ?一体?もう、わけが分からない……」
達也は、しばらくの間何もする気力がなくなって自分に用意されていた部屋に戻って黙ったまま目を閉じて昨夜の宴の事を思い返していた。
フェイロンが歌っていた歌。吉郎と麗子の様子。先に寝室に上がっていったちさ子。それら全ての記憶をビデオテープを巻き戻すかのように達也は、記憶のページを遡って一時停止、巻き戻し、早送り、再生を繰り返した。
「そう言う事だったのか!」
達也は、何かの答えに辿り着いた様子で立ち上がってタブレット端末を使って検索を始めた。何かのキーワードを入力して出てきた検索結果を真剣な表情で調べていた達也は、その目的のサイトのリンクを見つけて静かにタップしてサイトを開いて長い間閲覧していた。
「これが、貝沢清吾の正体なのか?」
達也は、そう言った後直ぐにこの家から逃げ出す準備を始めた。
答えは、もうすぐに見つかるに違いない。達也は、そう思っていた。
山辺家を出た達也は、フェイロンの癖なのか?キーを差しっ放しにしている車に乗り込んで手早くエンジンをかけて、どこかに向かって走り出した。
「やっぱり、あの山が……」
達也は、何かを確信しながら再びあの山のある町に向かってアクセルを強めに踏み込んだ。
達也の運転する車が、再びあの町に辿り着いた頃、達也は、自らの携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。
「もしもし?清吾か?」
達也は、電話をかけながら器用にタバコに火を点して少し笑みを浮かべて、山の麓に停めた車の中から、山の頂上と空を見上げた。
「はい、達也様。清吾です」
「事態が、めんどくさくなってきた。山辺家の人間は、家政婦も含めて全員殺してきたよ。そっちは?礼二とばあちゃんは、元気か?」
達也は、車から降りて、ロックをかけた後、登山道へ向かってしっかりとした足取りで歩き出した。
「あの、達也様……」
「ん、何だよ!」
「もう、これ以上人を殺し続ける事は……」
「あ~ん?お前、俺に指図する気か?」
「いえ、決してそういう訳では。達也様は、私にとっての神様です」
「もうすぐ、全てが終わる。俺の長年の計画が実現するんだ。そしたら、お前も人並みの生活が送れるように上手くやってやるよ!」
「はい、達也様。ありがとうございます。お待ちしております」
「オッケー!」
達也は、そう言った後、山を慣れた足取りで登り始めた。
「紀藤達也を、連続猟奇殺人犯として手配した。恐らく、あの山の一般人が入れない裏登山道から紀藤は、頂上の手前の廃墟になっているペンションに向かっているはずだ。これ以上、犠牲者を出すわけにはいかない!」
警察署内の会議室に集められた刑事や、警官が署長の飯山の指示を神妙な面持ちで聞いていた。その中には、清吾の兄、貝沢静二の姿もあった。
中学生の貝沢清吾は、アイヌ独特の顔立ちや体毛の濃さ程度の理由で、同級生から卑劣極まりない差別とイジメを受け続けていた。イジメっ子グループのリーダー的存在で、清吾へのイジメを指図していたのが、当時十四歳の紀藤達也だった。
清吾の両親は、我が子への卑劣なイジメの主犯格だった達也を、マークしていた。町で一番の大地主だった貝沢家。清吾の両親は、貧乏な暮らしをしていた達也の家族、達也の両親に強力な圧力をかけて、今度は、町全体が、紀藤家を追い詰めていった。貝沢家の圧力によって紀藤達也の両親は、わずかな収入しかなかった仕事を奪われ、日々の暮らしを立てていく術を失った。
達也の両親が、自宅で首をつって自殺しているのを最初に発見したのは、学校から帰宅した達也だった。達也は、変わり果てた両親の死体をしばらく茫然と眺めていたが、五分もたたないうちに平然とした顔で、鼻歌を歌い始めた。
達也は、祖母の家に預けられ、その頃から虚言癖や、まるで人格が変わったように人間性が豹変する解離性同一性障害の症状を見せ始めた。
達也は、祖母によって隣町の精神病院に入院させられてしまう。何かをきっかけに、複数の人格が達也の体を支配して、その度に達也は、全く違う人間を演じ分けているかのようだった。
清吾の両親が、殺された時、達也は、病院の中に居て、医者や看護士もそれを確認していた。この時点で、達也のアリバイは、完全に成立していた。
誰が、清吾の両親を、殺害したのか?
町の中では、しばらくの間、その話題で持ちきりとなる。
達也の病状は、かなり悪化していて、時に暴れ出す事もあったので、ベッドの上で拘束衣を付けられてしまう事も珍しくなかった。清吾の両親が殺された前後の数日間は、達也は、正にその状態で、病院を脱け出して隣町の貝沢家まで行くことは、有り得なかった。
達也のアリバイが完全に成立している中、他に貝沢家の両親を殺したとすれば、警察の当初の見方通り、金品目当ての登山客の犯行だったのか?
第一発見者だった清吾が、何故、直ぐに警察に連絡せずに一日間を空けたのか?
そして、清吾も精神状態が混乱を極めて達也の入院していた病院と同じ病院に入院させられる事になる。
達也は、同じ病院に清吾が、入院してきたことを数日後に知る事になるが、二人が病院内で接触する事は、無かった。
清吾は、解離性同一性障害となってしまった達也の身を案じ、その原因が自分の両親からの圧力による達也の両親の自殺だと言う真実を町の誰もが知っていたのと同じく周知していたので、達也の病状が安定した時には、しっかりと謝罪するつもりだった。
町内で、様々な憶測が流れていく中、貝沢家の両親を殺害した真犯人は、誰なのか?事件は、一年という時が過ぎても解決しなかった。
事件から、一年以上経って町内でも貝沢家の不幸が忘れ去られて風化しかけていた時に、真犯人は、意外な形で警察の捜査上に浮き上がってきた。
「弘瀬 美智子」
達也や、清吾と中学校で同じクラスに在籍していた顔立ちの整った美少女だった。美智子は、達也のガールフレンドだった。美智子は、達也の両親が貝沢家によって首つり自殺に追い込まれてしまった事や、それ以降、達也が解離性同一性障害で精神病院に入院してしまった事も、この町内に住んでいる以上は、知らないはずが無かった。
貝沢家の清吾の両親を殺害したのは、美智子だったのか?それは、少し無理の有る話だった。犯行に使われた登山用のロープや、死体を吊り上げるだけの体力が、か細い美少女の美智子に出来るはずも無かった。
警察は、美智子本人ではなく、美智子の指示に従って誰かが貝沢家の殺人事件を起こしたのだろうとの見方を強めていた。
「貝沢家の殺人事件の真犯人は、次男の貝沢清吾」
警察は、その事実を明るみに出すべきか?どうか?迷っているようだった。
殺害された、地元の大地主の貝沢夫妻。その真犯人が、実の息子で次男の貝沢清吾。それに加えて、貝沢家の長男の静二は、現役の警察官。警察は、この事件を時の流れと共に風化させようと考えた。
達也と清吾は、お互いに病状が安定期に入り、いじめっ子といじめられっ子とは言え、元クラスメイトだった事もあり、病院内で交流を深め合っていた。
弘瀬美智子は、後に紀藤達也の妻となる。美智子は、度々病院へ面談に訪れて、限られた時間内で達也と何かを話し合っていた。
達也から毎回渡されたメモ用紙には、意味不明のカタカナ言語が並んでいた。恐らくは、何かしらの解読方でしか読めない暗号文だったのだろう。美智子は、達也からの指示通りに、貝沢清吾を洗脳して、両親を殺害するように言い聞かせた。
清吾は、言われるがままに行動して、達也と美智子に忠誠を誓うようになる。
「この、薄汚い病院から脱出して俺は、またあの町に戻る。そして、あの町を支配する。その為には、多少の犠牲者が必要なんだ。犠牲者?いや、
そして、更に数ヶ月が過ぎた時に、達也と清吾は、精神病院を脱出することに成功する。達也も清吾も、そして美智子も十八歳になり、この三人を主軸にした物語は、町全体を巻き込みながら、達也の計画通りに、まるでシナリオ通りに展開していった。
達也は、自分自身が表に出ない様に美智子と一緒に、清吾をコントロールして、登山客の虐殺を続けた。
「清吾、お前は、俺にとっての将棋の駒だ。俺の言う通りに動けばいい」
数年間の、山の頂上付近の廃墟ペンションでの生活を終えた達也と美智子は、達也の祖母のミツと貝沢清吾の二人を残して、町を離れた。
数年後、達也と美智子は、結婚した。長男の礼二が産まれて、三人は、幸せな時間を共有した。
その間に、達也と美智子は、清吾に持たせた携帯電話を通して、警察を攪乱させるべく登山客の虐殺を清吾に課した。清吾は、達也の事を「達也様」と崇拝して、指示されるがままに殺人を続けた。
達也の解離性同一性障害は、本人の意識とは、関係なく様々な人格を併せ持ち、その中のある一人格が、清吾やあの町を支配する「教祖様」として静かにゆっくりと確実に恐怖に満ちた「罪」を重ねていた。
ある時は、優しい父親として一人息子の礼二に無償の愛情を注ぎ、印刷工場で真面目に働く好青年であった。いつからか、達也は、自らの多数の人格が、切り替わるタイミングとして「短く深い眠り」と「喫煙」「飲酒」といった脳に何かしらの変化が起こった時に起こりやすいと感じていたが、達也自身、その人格のコントロールに関しては、何も治療を施していない以上、困難を極めた。
幻想のような、自分一人の心の中で起こった出来事を、現実に起こった出来事のように感じてしまい、その上、人格が変貌する度に記憶が変わっていくので、実際には、起こっていない出来事が達也の心の中に住み続けていた。
貝沢清吾は、山頂付近の廃ペンションで、達也の祖母と暮らしていた。もっともここ数日は、達也の一人息子の礼二も同居人として暮らしており、携帯電話からの指示がない限りは、平穏な生活を続けていた。
「達也、達也が……」
祖母のミツは、両親が自殺してから人が変わってしまった達也の犯している罪を清吾を通して聞いていた。この山と麓にある小さな平凡な町が、惨劇の舞台に変わってしまった事をミツは、嘆き悲しんでいた。
「ミツばあちゃん、達也様は、この山と町を守って下さっているのですよ」
清吾は、それでも達也を崇拝して、その純粋な心と優しさで礼二に対しても父親代わりにとばかりに、穏やかに優しく接していた。
清吾が、達也によってマインドコントロールされている事実を突き止めた清吾の兄の貝沢静二は、全ての真実を明らかにして、達也に自首するように何度も何度も説得を繰り返していた。達也にとって、兄の静二は、目の上のたん瘤のような厄介な存在となり、言い争いをしばらくの期間、続けていた。達也は、「教祖様」の人格の時に新婚生活を送っていた静二の新妻の佳代を手にかけてしまう。あくまでも、全ての殺人を貝沢清吾の犯行に見せかけるために、清吾にやらせていたやり方と同じ殺害方法を使った。
山辺一家と家政婦の桐生麗子の殺害は、「喫煙」「アルコール」「短く深い眠り」全てが揃った宴の翌朝、「教祖様」と化した達也の手によって本人が酔いしれるくらいに完璧な「芸術殺人」として執行された。
美智子は、この一連の事件の犠牲者が余りにも増え過ぎた事を恐ろしく思い、達也を治療する選択肢を模索した。全ての元凶は、あの町とあの山にある。そう考えた美智子は、危険を承知で、礼二の夏休みを利用して登山を理由に一家三人で再びあの町へ向かった。
「教祖様」が宿っていない期間が長かった事もあり、達也も屈託のない笑顔で楽しそうに車を運転して、町に向かった。登山を始めてから、数時間後、お昼のお弁当を渓流沿いの河原で食べていた時に、数ヶ月もの間姿を現す事の無かった「教祖様」が出現した。目つきが変わってわけのわからない事を言い出した達也に身の危険を感じた美智子は、礼二と下山の途中で達也から逃げるように姿をくらませた。
その後の出来事は、達也の幻想と現実が交互に交錯して、警察署に行って話した事や、樫山と名乗っていた警察官の静二の自殺、警察署の署長である飯山とのやり取りの末のエゾトリカブト、逃げ出した先で飛龍、フェイロンの運転する車に乗り込んでの逃亡、達也に全ての現実を認識させて自首を促しに宿に戻ってきた美智子をいつもの通りに惨殺した事、目まぐるしく変わる達也の心理と現実と妄想が、複雑に絡み合って事態は、悪化の一途を辿ってしまった。
「ピリカ ピリカ
タントシリ ピリカ
イナンクル ピリカ
ヌンケクスネ
ヌンケクスネ
ピリカ ピリカ
きょうはよい日だよ
よい子がいるよ
その子は誰よ
その子は誰よ
ピリカ ピリカ
あしたもよい日だよ
よい子がくるよ
その子は誰よ
その子は誰よ」
アイヌの家系の貝沢家と貝沢家に追い詰められた紀藤家。達也は、山の裏道を慣れた様子で登りながら、アイヌのわらべ歌を口ずさんでいた。
若干の知的障害を伴う発達障害の傾向が見られた貝沢清吾は、自らが達也の
「礼くん、ご飯が出来たよ!」
清吾は、山の幸が沢山詰まった味噌汁と山菜のおにぎりを礼二の為に大きめに握って準備した。
「お兄さん、いつもありがとう!」
礼二は、毎日三食欠かさずに美味しい料理を作ってくれる清吾の事が大好きだった。
「礼くん、お昼ご飯の前に一つだけニュースがあるよ!」
「ん、何?教えてよ!」
礼二は、食べかけた山菜おにぎりを一旦皿の上に置いて、清吾に話を促した。
「何と、もう少しで礼くんのパパがここに来るよ!」
その話を、具合が悪くてここ数日寝込んでいた達也の祖母のミツは、これから起ころうとする何かを感じて、恐怖で全身が大きく震え出した。
「あ、悪魔が……あの悪魔が……」
ミツの様子を見た清吾は、優しくミツの身体に毛布を掛けてあげてしばらくの間、ミツの背中をポンポンと叩いて落ち着かせようとしていた。
「ミツばあちゃん、達也様が、お久しぶりに来てくださいます。あのお方は、私達だけでなく日本中、いや、世界中を幸せにしてくださいます。安心しましょうね」
ミツは、首を激しく横に振りながら、何かを訴えようとして声にならないうめきみたいなものを吐き出していた。
「パパが、来てくれるの?今までどうして僕を放っておいたの?」
礼二は、美味しそうに山菜おにぎりを頬張りながら、清吾に問いかけた。
「パパはね、お仕事で遠くの国へ出張していたんだよ!」
清吾は、そう説明した。
「あな、あな恐ろしや……南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」
ミツの恐怖は、もう限界を超えそうだった。
達也は、険しい山の裏道を少し疲れた様子で登り続けていた。
「相変わらずだなぁ、この道の険しさは……」
タバコをふかして、時折山からの景色を目を細めながら眺めていた達也は、急に激しい頭痛に襲われてしまう。しばらく、山の草陰の中でもだえるように苦しんでいた達也は、遠い記憶の中に吸い込まれていくような不思議な感覚に陥り、自らが手をかけて殺してしまった美智子との日々を回想し始めた。
警察の捜査一課の総勢二十人が、この悲しみに包まれた山の最後のピリオドを打つべく、達也の後を追うように、正規の登山道ではなく、かなり危険な裏道を慎重に登っていた。
「美智子、お前は何故、俺を選んだ?」
「貝沢清吾、お前は何故、俺に創られた?」
達也は、そう言った後、一人静かに両方の目から大粒の涙を流していた。
清吾の兄の貝沢静二は、険しい山道を、同じ様に険しい表情で、鋭い目付きをぎらつかせながら意気揚々と登り続けていた。
「紀藤達也、お前がこの山と町を支配してから、全てが変わってしまった……」
「お前は、何を目的に多くの人々を葬ってきたんだ?」
静二は、小さな声で達也への感情を少しずつ吐き出しながら、もうすぐこの長い虚構に満ちた悪夢が終焉を迎える事を信じて一旦立ち止まって山頂を見上げた。
幻想と現実が、交錯して複雑に絡み合いながら、紀藤達也は、この町と山を支配してきた。
「もう、終わりにしてもいいのかな?」
再び歩き出した達也は、そんな事を独りで考えながら今日という日が、多くの意味を含めての最終章なのだと感じていた。
「貝沢家と俺の長い戦いのようなものだったのか?」
「多くの無関係の人間まで巻き込んで……」
達也は、自分の身体が、山頂に近づくにつれて脳の中、つまり思考がクリアに、清らかになっていく感覚に包まれて今まで、自分が行ってきた罪を初めて客観的に冷静に一人の人間として認識していった。
「ピリカ ピリカ
タントシリ ピリカ
イナンクル ピリカ
ヌンケクスネ
ヌンケクスネ
ピリカ ピリカ
きょうはよい日だよ
よい子がいるよ
その子は誰よ
その子は誰よ
ピリカ ピリカ
あしたもよい日だよ
よい子がくるよ
その子は誰よ
その子は誰よ」
達也の頭の中でアイヌのわらべ歌が、繰り返し繰り返し流れていた。
「その子は誰よ。その子は誰よ……」
達也の身体に一瞬電流の様な軽い刺激が、
「礼二~!」
その声は、廃ペンションの中にいた三人にも、達也に遅れて山を登っていた静二にも聞こえるやまびこのように澄みきって綺麗に響き渡った。
「パパ?」
礼二は、思わず窓の外を見つめた。
「達也様……」
貝沢清吾も、その声に敏感に反応した。
「今日で、今日で全てが、終わるのじゃろう……」
ミツが、ようやく起き上がってそう呟いた。
「今、聴こえたのが、紀藤達也の声か?」
「はい、間違いありません。奴は、山頂付近にいるはずです!」
静二は、気を引き締めて、力強い足取りで先頭に立ってグイグイ山を登って行った。
達也の入院していた隣町の精神病院に、清吾が入院してきた時、二人は、お互いに精神状態が、かなり不安定だったので全ての身の回りの出来事を認識できていなかった。
この病院では、月に一度、患者さん同士と看護士、医師らが集まって皆で一緒に歌を歌ったり、手作りのお菓子を食べたりしてコミュニケーション能力のリハビリの様な催しが有った。
無表情のまま、形だけの参加をしていた達也は、その集団の中に自分の方ばかり見ている気味の悪い男を見つける。清吾?いや、違った。この時、清吾は、集いに参加することなく病室に閉じこもっていた。
「すみません。江藤さん」
達也は、日頃からの担当看護士の江藤に質問した。
「さっきから、僕の事をずっと見ている彼は、誰ですか?」
達也から、そう質問された男性看護士の江藤は、その視線の先の人物を凝視した。
「あぁ、あの方は、確か……」
江藤は、恐らくその男の担当だろう看護士に事情を説明して話を聞いた。
達也の元に戻ってきた江藤は、達也にこう告げた。
「日本人では、無いようです。確か、山辺……」
「山辺飛龍。フェイロンさんと呼ばれていますね」
「ふ~ん、フェイロン。気持ち悪い奴だな……」
達也は、その後、気分が悪くなり病室に戻った。
後に、奇妙な形で再会する事になる達也とフェイロン。そして、貝沢清吾。ところで、先程江藤が確認を取っていた綺麗な顔立ちをした女性の看護士は?誰なのか?
桐生麗子。その名前の女性とも達也は、無関係では無くなる。
この病院内で、奇妙な人間関係が、何か?いや、誰かの陰謀によって密やかに構築されていたとしたら……
もうすぐ、目的地の廃ペンションに辿り着きそうだった達也は、持ってきていたペットボトルの水を美味しそうにゴクゴクと飲み干した。
空は、急に曇り始めて霧雨の様な雨が、少し降り続いた後、濃霧に変わっていった。
「マジか?前が全然見えない……」
完全に視界を、遮られた達也は、しばらくの間、その場を動かない様に自分に言い聞かせてタバコに火を点けた。
「えっ!紀藤達也の両親が働いていた会社?」
警察署長の飯山は、署長室の電話口から突飛な質問をされて少し面喰ってしまう。
「え~と、室蘭市の貿易関係の雑用のような仕事を夫婦でしていたらしいが……」
電話口の相手は、貝沢静二だった。
「会社名は、分かりますか?」
「山辺商会。それしか分からん!」
「ありがとうございます!」
静二は、携帯電話を切ったあと、タバコに火を点けて大きく煙を吐いた。
「山辺……」
山の天候は、ますます悪くなり、とても身動きできない程、濃霧が立ち込めて皆が足止めを食らっていた。
署長の飯山は、さっきの静二からの電話から、今までの捜査上に浮かびきらなかった全く違う事件の全貌が、あるかもしれません。と言われていた。
「山辺……」
「もしかして、私たちは、完全に騙されていたのか?」
飯山は、達也への指名手配を一旦解除しようとしたが、事態は、もうすでに動いていた。
「紀藤達也は、誰一人として殺しては、いないのか?」
事態は、山の天候同様、深い霧に包まれたように真相が見えなくなってきていた。
達也らが、かつて入院していた隣町の精神病院は、約五年前に閉院していた。
飯山は、室蘭市の貿易商、山辺吉郎と妻のちさ子、養子として迎え入れていた飛龍。
そして、後に貝沢静二と結婚する一人娘の佳代、元看護士で家政婦として雇われる桐生麗子の資料を探しまくった。
「なにか、何か手がかりが……」
立ち込める濃霧の中、微かに見えるタブレット端末を操作していた達也は、自らの検索履歴をもう一度確認していた。濃霧に反するかのように思考がクリアになっていた達也は、かつて両親が勤めていた室蘭市の貿易商社が、山辺吉郎のものだという事。そこで、何かしらのトラブルに巻き込まれてしまい、自殺に追い込まれた事を、思い出した。
「山辺家と紀藤家、そして貝沢家……」
「養子に迎え入れられた飛龍。家政婦として雇われた桐生麗子……」
達也は、少しずつ落ち着きを取り戻しながら、断片的に残っている記憶を紐解くように辿って行った。
「一体、誰が真犯人で、全ての事件の鍵を握っているのは、誰なんだ?」
飯山は、署長室で資料や、パソコンを使って念入りにすべての事件を調べていたが、肝心のあと一歩の決め手が欠けていた。
「山辺一家の惨殺は、達也以外に犯行者が見つからない……」
「山辺夫妻、家政婦の桐生麗子、そして……」
飯山は、そこまで推理して何かに気付いたように、再び資料とパソコンを使って何かを調べ出した。
「山辺の養子、フェイロン……」
「フェイロンを良く知っている人物は……」
飯山は、再び頭を抱えて考え込んでしまう。その時、署長室の電話の受信音が室内に鳴り響いた。
「はい、署長の飯山です」
「飯山さん、お久し振りです。紀藤です」
「紀藤、達也さん?」
「はい、そうです。閉ざされていた記憶が甦ってきました」
「と、言いますと?」
「この山と町の忌まわしい事件全ての事実です」
飯山は、解離性同一性障害の達也の話がどこまで信用できるのか?それでも、少しだけでも情報が欲しかった。
「結論から、言うと誰が……」
「はい、もう無くなった精神病院の中に真犯人が……」
「えっ?と言うと?」
「あの当時、あの病院に入院していたのは、私と貝沢清吾、そして山辺飛龍、それに看護士として働いていた桐生麗子」
「そこまでは、私共も突き止めております。しかし……」
「もう一人、あの病院の中にキーパーソンが居ました!」
「だ、誰、ですか?」
話が核心に迫った所で、達也からの電話が突然切れた。
「もしもし?紀藤さん!紀藤さん!」
飯山は、直ぐに部下に指示を出して、あの精神病院の当時の入院患者及び看護師や医師の名前を、リストアップするように命令した。
「もう一人……誰だ?」
「北の国の女にゃ気を付けな……」
フェイロンが、歌っていた中島みゆきの「北の国の習い」の一節を口ずさんでは、微笑んでいるショートカットの髪の女が山頂の食堂兼休憩所だった場所で、ストーブにあたりながら、その歌を繰り返し繰り返し歌っていた。
「女から口火を切ってひとりぼっちの道を選ぶよ……」
「それで?フフッアッハッハッハ!」
女は、一人で笑い転げて板の間の上で楽しそうに舌を出して見せた。
飯山の元に届いたリストの中に、その名前は、確かに存在した。
「弘瀬美智子。当時入院中の紀藤達也に毎日のように面会に訪れていた……」
飯山は、混乱してきた頭の中を整理するかのように、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。
「旧姓、弘瀬美智子。紀藤達也の妻。達也が体験した幻想の中で民宿の部屋のユニットバス内で首を吊った状態で見つかったが、現実に起こった事件ではなく、当時解離性同一性障害の症状が強く出ていた紀藤達也の妄想の一部に過ぎなかった事が確認されている」
飯山は、そこまで整理した後、今までの全ての事件に強く関わった人物として紀藤美智子を指名手配した。
「勇み足……結局、この一連の事件の真相は?」
濃霧に包まれた悲しき山が、緞帳がひかれるようにスーッと煌びやかな舞台を映し出して、視界は、開かれた。
「誰が?何のために……」
貝沢静二は、混乱する頭の中に様々な記憶や、映像が映し出されては、消える動作を繰り返す壊れた映写機の様な自らの思考を一旦止めるために、携帯電話を取り出して、どこかに電話をかけ始めた。
美智子は、窓の外の景色を眺めていた。
「霧が、晴れた……」
「礼二、礼ちゃん。あ、逢いたい……」
美智子は、帽子を目深にかぶり、黒いシャツにジーンズを履いてラフなスタイルで、山頂の小屋を飛び出した。
霧が晴れた山の反対側では、達也も意を決したかのように再び山頂へ向けて歩き出した。
「記憶が……やっとあの時からの記憶が、甦った……」
その時、達也の携帯電話が鳴り響いた。
「もしもし?紀藤です」
「ああ、達也さん、貝沢静二です!」
「静二さん、僕は……」
「ええ、さっき飯山署長から電話がありました。安心してください。我々は、美智子のいる反対側の山頂へ行き先を変えました。達也さん……」
「はい?」
「……本当に、辛かったですね。お互いに。もうすぐ全てが……」
静二は、そこまで言って溢れ出る涙を堪えきれず、号泣した。
「僕は、大丈夫です。まさか、こんな事になるなんて。でも、もう少しで永かったこの事件も、さっきの霧のように晴れます!」
「申し訳ない……我々は、ずっと、あなたを……」
そう言って、静かに頭を垂れた静二の首筋辺りに強烈な衝撃が走った。
「だっ!ぐっ!」
静二の首筋に数発の銃弾が、寸分の狂いもなく命中した。
「もしもし?静二さん!どうしました?」
達也は、電話口の遠くから微かに聞こえた銃声を聞き逃してはいなかった。そして、電話を切って進路をあの小屋に切り替えた。
静二を射殺した美智子は、顔色一つ変えずに銃弾を撃った数だけ補充していた。警察隊は、先頭を歩いていた静二が目の前で射殺された事でパニックに陥る。
「ピリカ ピリカ
タントシリ ピリカ
イナンクル ピリカ
ヌンケクスネ
ヌンケクスネ
ピリカ ピリカ
きょうはよい日だよ
よい子がいるよ
その子は誰よ
その子は誰よ
ピリカ ピリカ
あしたもよい日だよ
よい子がくるよ
その子は誰よ
その子は誰よ」
美智子は、笑いながらアイヌのわらべ歌を楽しそうに口ずさんでいた。
「その子は誰よ、その子は誰よ?」
「礼二、あなたの父親は……」
貝沢清吾は、ようやく晴れてきた山の景色を礼二と二人で眺めて談笑していた。
「礼ちゃん、もうすぐパパが来るよ……」
「うんっ!パ~パッ!早く来ないかな~!」
弘瀬美智子は、最初の殺人事件となった貝沢家の両親を事もあろうに、息子である清吾を洗脳して、共同実行した。
「あなた、私を抱きたい?」
「う、うん!したいしたいっ!」
清吾は、興奮して美智子の言う通りに両親を殺した。
初めて経験する目の前での、殺人行為を美智子は、何かの芸術作品を見るように恍惚としていた。
「さぁ、清吾ちゃん。ご褒美よ。私を好きにして……」
「み、美智子様っ!」
両親を殺したその手で、清吾は、初めて女の身体を知った。
「北の国の女にゃ気をつけな……」
「待っても春など来るもんか……」
「見捨てて歩き出すのが習わしさ……」
美智子は、頭の中で「北の国の習い」の歌詞を思い浮かべながら清吾との「儀式」に興じて、微かに笑っていた。
その後、美智子は、隣町の精神病院内で知り合った山辺飛龍、看護士をしていた桐生麗子を誘って、達也の解離性同一性障害を利用して、あの町と山を支配する計画を立てた。
何も知らない達也は、ガールフレンドだった美智子にこう言っていた。
「清吾には……貝沢家には、申し訳ない事をした。本当に……」
やがて、多くの人々を巻き込みながら事件は、美智子の計画通りに進んだ。実行犯は、清吾か、飛龍。山辺家のあの宴の夜に、かつて看護士として病院で働いていた桐生麗子を実行犯として、達也以外の全員が毒を盛られて息絶えた。桐生麗子にとっては、美智子と言う「教祖様」の教えに忠実に従った自害も含めた盛大な「儀式」となった。
「弘瀬美智子が、紀藤達也を罠にはめて……でも、何故?」
飯山は、そこだけは、合点がいかない様子で苛立ちを隠せずにいた。
「弘瀬家に、特に他家との争い、確執は無かった……」
「美智子が、達也を憎んだのは?」
飯山の署長室の電話が鳴り響いた。
「もしもし?署長の飯山です」
「あなた、今私の事を考えていたでしょう?フフッ……」
「美智子、弘瀬美智子か?」
「違うわよ。私の名前は、き・と・う・み・ち・こ!」
「余りにも頭の悪い警察の代表格。署長さんに私からヒントを与えるわ!」
「お前、ふざけるな!」
「ふざけてないわ!ふざけているのは、達也だけ……」
「お前たち二人の間に、何があった?」
飯山は、自ら録音機能の付いた電話を操作して、なるべく長く美智子との会話を録音しようとした。
「達也……あの男だけは、許せない……」
「何があった?」
「フフッ、もうゲームオーバーよ!さようなら。おバカ署長さん!」
そう言い終わった美智子は、即座に電話を切った。
「おいっ!待てっ!話は、まだ……」
飯山は、怒りからか?かなり興奮していた。
達也が、進路を変えて小屋に辿り着いた。中に入るとまるで人の気配は、感じられなかった。
「ここには、いない……」
達也は、小屋を飛び出して、あの廃ペンションに急いで向かった。
静二は、ほぼ即死だった。
現場に居合わせた、警察隊は、道端に咲いていた花を静二に手向けて手を合わせた後、全員が背筋を伸ばして、敬礼した。
廃ペンションのドアを叩く音が聞こえた。
「パパ!」
「達也様!」
礼二と清吾は、待ちかねた達也の到着を喜んだ。
「ただいま!」
ドアを開けて、入ってきたのは、達也ではなかった。
「ママ!」
「み、美智子様……」
貝沢清吾は、現れた意外な人物にただただ、茫然と立ち尽くしていた。
「お利口にしてた?二人とも。あっ!もう一人いたっけ?ハハッ!」
美智子は、短く切った髪を軽く整えながら。静かに部屋に入ってきた。
「美智子!」
美智子が、廃ペンションに到着してから直ぐに、達也が現れて、美智子の名を叫んだ。
「あ~ら、あなた生きてたのね。お久しぶりです」
美智子は、そう言ってまだ息遣いの荒い達也に向かって、持っていた拳銃の銃口を静かに焦点を合わせるように構えた。
「美智子様、おやめください!」
清吾が、後ろからそう叫んだ。
「うるさい!黙ってろ!」
美智子が、急変した事で息子の礼二は、恐怖からか?泣き始めた。
「撃てよ。その代り全て終わりだ。美智子、自首しろ!」
覚悟を決めたように、達也は、美智子を鋭い眼光で睨みつけた。
「あなた、まだ私に謝罪していないわ。ちゃんと謝ってちょうだい」
美智子は、一旦銃口を下げて達也に土下座を命じた。
「一体、俺がお前に何をした?多くの人達を巻き添えにして……」
美智子は、周囲を牽制しながら傍にあった椅子に座って、脚を組んで大きな溜息をついた。
「北の国の女にゃ気をつけな……」
「待っても春など来るもんか……」
「見捨てて歩き出すのが習わしさ……」
美智子が、皆に聴こえるように歌い出した。
「達也、あなたが入院していた病院にさぁ……」
「私は、ほぼ毎日あなたに会いに通ったわ」
「あぁ、覚えている。ありがたかったよ」
「へ?ありがたい?よくそんな口がきけるわね!」
「季節は、二月。私は、あなたのために一晩掛かってあなたに作ってあげたわ」
「二月?俺の誕生月。何を?」
達也の声を美智子は、最後まで聞かずに天井に向かって銃の引き金を引いた。
「ママー!パパをいじめないで!」
礼二は、精一杯勇気を振り絞ってそう叫んだ。足がガクガクと震えていた。
「私の手作りのガトーショコラ。美味しかった?」
「ガトーショコラ?」
しばらくの間、達也は、記憶を辿って考え込んだ。
「あの、俺の誕生日とバレンタインの時期に持ってきてくれた……」
「そうよ!やっと思い出したのね!」
月に一度開かれていた病院内での催し。皆で楽しく交流しながらジュースを飲んだり、お菓子を食べ合ったりしていた。達也と清吾、飛龍と桐生麗子の姿もあった。
「紀藤さん、それでは、何か一言お願いします!」
司会進行役は、看護士の桐生麗子だった。
「あの~、このチョコレートケーキなんですけど……」
「僕一人じゃ、食べきれないんで皆さんも良かったら食べてください!」
達也は、そう言って美智子から貰ったガトーショコラを桐生麗子に手渡して、麗子は、そのケーキにナイフを入れて十二等分にした。
「みなさ~ん、ケーキですよ~!」
麗子が、そう呼びかけると、患者や看護士、医師らが、こぞって
「うまそ~!いっただきま~す!」
「紀藤さんは?」
桐生麗子が、ケーキに手を付けない達也にそう問いただした。
「いや、実は、僕チョコレート嫌いなんですよ。皆さんで食べてください!」
弘瀬美智子は、病院の柱の陰から、その様子を見ていた。
「私の……私のケーキを……」
美智子は、涙を流しながら病院の外に出た。
「そ、それだけの理由なのか?」
達也が、呆気にとられた表情で美智子に尋ねた。
「そうよ!あの日から私は、あなたとあなた以外の人間全てを信用しなくなったわ!」
そう言って、美智子は再び立ち上がって銃口を達也の頭に向けた。
「ピリカ ピリカ
タントシリ ピリカ
イナンクル ピリカ
ヌンケクスネ
ヌンケクスネ
ピリカ ピリカ
きょうはよい日だよ
よい子がいるよ
その子は誰よ
その子は誰よ
ピリカ ピリカ
あしたもよい日だよ
よい子がくるよ
その子は誰よ
その子は誰よ」
大きな声で、大粒の涙を流しながら貝沢清吾は、アイヌのわらべ歌を歌い出した。
「礼二は、あなたの子では、無い」
美智子の告白に、達也は、さして驚く様子もなく
「そんな事、最初から分かっていたよ……」
「達也様!申し訳ございません!」
礼二の実の父親である貝沢清吾は、目を瞑って天井を見上げた。
「北の国の女にゃ気をつけな……」
「待っても春など来るもんか……」
「見捨てて歩き出すのが習わしさ……」
美智子は、持っていた拳銃をポケットにしまった。そして、ポケットの中から一本の口紅を取り出して、自分の口周りに、あのアイヌの刺青のように紅を引いた。
「美智子!」
達也が、叫んだ瞬間、口周りに、しっかりと紅を引いた美智子は、笑いながら銃口を自らの頭に向けて引き金を引いた。
警察隊が、到着したのは、既に美智子が息絶えた後だった。
泣きじゃくる礼二を、達也と清吾は、懸命になだめていた。
一年の月日が流れて、あの山と町にまた、夏がやってきた。、
共犯者として、清吾が自首したことで、一連の事件は、後味の悪い形で幕を閉じた。
達也と礼二は、実際には、血が繋がっていないものの祖母のミツと共に暮らし、清吾が戻って来るまで達也が、礼二を育てる事になった。
悲しみの山は、事件が解決したとあって少しだけ登山客の姿も見られるようになっていた。
再び、この町と山に平穏な日々が訪れる事を、皆が願っていた。
悲山 双葉 黄泉 @tankin6345
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