第42話 だまされないぞ
「急ぎましょう。まだ間に合うわ」
木掛さんはカナコの危機を知ると、俺より先に里山に向かって走り出した。
「待ってくださいっ」
「私、カナコさんにも伝えたいことがあるんです」
真っ暗な山道をぜえはあと息を切らせて、必死な形相で走り続ける。互いに革靴、パンプスで時折躓きそうになる。
「はあ、はあ、カナコに伝えたいこと?」
「はい、まだ、私の想いは、はあ、終わってないの」
俺は焦っていた。
焦って、汗かいて、ひたすら里山を上へ上へと走っていた。
クワミさんから告げられた一言一言を噛みしめる。
――エイジくんがカナコちゃんと出会って、一か月以上経つんじゃないの?
あの日、何にもない俺の部屋、俺の人生に、カナコはいきなり現れた。
――カナブンって大人になって一か月もたないのよ。
今でもその設定。
カナコがカナブンの妖精だって設定。
てゆうか、あれって嘘だろ?
いや、嘘じゃないか。
お前にとっては本当なんだよな。
でもさ――
だいたい虫の妖精ってなんだよ。今時、そんなの子供でも信じないだろ。もう二十歳を超えた社会人なんだぞ。
だって、あの時、俺は確かに感じていた。カナコと触れ合って、その肌のぬくもり、熱い胸の鼓動を。
――人間だと思ったの? 私たちは人の命の速度ではないの。
でも、どうしてだ。なんでこんなにも胸が締め付けられるんだ。まさか、いなくなるなんて。
――今夜が最後だと思うわ。
なあ嘘だろ。たった一か月ちょっとだけど、俺たちは濃密な時間を共に過ごしてきたよな。最後あんな感じで終わってしまうなんて、絶対に嫌だ。
ぐっと目を閉じると、カナコの笑顔が浮かぶ。いや、笑顔だけではない、怒った顔、すねた顔、白けた顔、そして、寂しそうにうつむいた横顔。
俺も木掛さんと気持ちは同じなんだ。
カナコにずっと伝えたい想いがあったんだ……。
カナコ、おまえは――
カナブンの妖精なんかじゃない。
人間だ。
れっきとした、紛れもないひとりの人間なんだぞ。
あのとき、カナコに抱きしめられて、はっきりと思い出したんだ。
覚えていないか? サンサン薬局での事故を。
正直、見た目が180度変わっていたから、全く気が付かなかったよ。
あの日、俺は商品メンテナンスに店舗を訪れていた。店長から頼まれた、商品のラッピングをするためバックヤードで作業をしていた時だった。
最初、外から、ずがががあんってものすごい音がしたから、なにか隕石でも落ちたのかと慌てて搬入口に飛び出した。
そこは、店長が心配していた悪夢そのものだった。カゴ車に積み上げられた大量の販促物、什器が崩れており、その販促物のなだれから、白い手が見えた。
直感的に、誰かが下敷きになったと理解して、すぐに駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
返事はなかった。まずいぞ。どこか頭をぶつけたんじゃ。最悪なケースに怯えて、 ひとつひとつ販促物を取り除き、徐々にその姿が露わになる。
そこにはひとりの女の子がいた。ショートボブの黒髪がきれいな、高校生ぐらいの女の子。身に付けたエプロンからして、この店のバイトの子だろう。幸い、外傷と呼ばれるものは見当たらない。段ボールが、うまいことクッションになっていたようだ。
「平気? 起き上がれる?」
その子はそのまま仰向けの状態で、ぼうっと一点を見つめている。
照り付ける太陽の下、ぴくりとも動かない。
まずいな。外傷はなくても強い脳震盪を起こしたのかも。
こういう時はどうすればいいんだ。
「聞こえる? 気持ち悪い?」
ああ、どうしよう。
そうだ。脈拍と呼吸だ。
俺は緊張しながらも彼女の手をとり、脈を確認した。
どくんどくん。強くもなく、かといって弱くもない、正常な脈拍が確認できた。
次は呼吸。
ごくりと唾を飲み、恐る恐る、その顔に近づいた時。
きらりと、強い光が目を射した。うっと目を瞬かせ、その光を追う。
カナブンだ。彼女に隠れるようにして、もぞもぞと這い出て、大空へ羽ばたいていったのだ。こいつも無事だったのか。そう思った次の瞬間。
ぱちぱちと何度も瞬きをして、彼女は覚醒。
「よかった無事で――」
ほっとすると同時に、いきなり彼女から抱きしめられた。
勢いよく伸びた両手で。
抱え込まれるように。
むぎゅっと力強く。
洋服越しに汗ばむ素肌が密着する。
「だ、だいじょうぶ」
「……」
「怖かったよね」
「……」
「もう大丈夫だよ」
彼女は、俺はぎゅっと抱きしめたまま、何も言わなかった。
彼女は最近、この店で働き出した女の子だった。あれから、店長も真っ青な顔ですっ飛んできて、すぐに病院にいくことになった。
幸い何もなかったそうだが、暫くしてから彼女はこの店を辞めていた。
辞めた理由は、特にこの事故が原因ではなかった。店長曰く、もともと、彼女は大人しく、目立たたない性格だったようだ。詳しい理由はわからないが、不登校によって高校を中退しており、ずっと引きこもっていたらしい。自分を変えようと、この店で働き出したのだが、店長をはじめ、職場の皆ともあまり打ち解けられず、いつも一人だった。
接客業に向いていなかった、結論から言えばそうなるのだが。
でも、店長は後日その子を見かけたらしい。
その日、たまたま家族で水族館に遊びにきており、ひとりのド派手な女の子を見かけて驚いたようだ。
目にも鮮やかな金髪に、紙の色以外、全て緑色。まるで、某有名な妖精のような格好。店長の子供が、あのテーマパークが好きらしく、指を差してはしゃいだって。店長だけではなく、店でバイトをしていた男の子も見かけたらしい。なんでも、アシカショーで黒い変な女に席を横取りされたとか……
なあ。
もしかして、おまえは――自分をカナブンの妖精だと思い込んでいるんじゃないか?
あの日、たまたま、ひっくりかえったカナブンを助けようとしたら販促物でなだれが起きてしまい、強く頭を打ったせいで、自分をカナブンだと思い込んでしまったんじゃないか?
見た目も、口調も、性格も、何もかも生まれ変わったように。
もともと、自分を変えたいと思っていた、それがゆえに――。
そうして俺のもとにやってきたんじゃないのか?
見た目が全然違うからわからなかったけど、さっきカナコから抱きしめられた時、あの感触で思い出した。この年まで女性と触れ合ったこともない俺に、恋愛経験値1を与えた、あの抱擁によって。
おかしいと思ったんだよな。
だって、なんでおまえが俺のフルネームや、
普段、店長が俺をグローブ製薬さんじゃなくてエイジさんって呼んでいるもんな。 店長と他の従業員のやりとりだって当然聞いているよな。なんか、怪しいと思ってたんだよ。
やっぱり俺はだまされないぞ。
それが、おまえの本当の名前だ。
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