彼女

いぷしろん

彼女


 ――風鈴のがする。


 ある日、彼と会った。彼は「彼」としか表現できなくて、「君」でも「あいつ」でも「俺」でもなかった。

 雑踏の中、彼と見つめ合うことしばし。ひとりの通行人が舌打ちをしながらすれすれを歩き去っていく。ぼやき声も浴びせられた気がした。


「あの、すみません」


 声をかけてきたのは彼の方だった。あるいは、そのような「役割」が彼にはあったのかもしれない。


「はいなんでしょう」


「『彼女』……ですよね?」


 私は断じて「彼女」などという名前ではなかったが、この時ばかりは頷いた。……頷く必要があった。


「少し、話でもしませんか?」


 と、彼は近くのカフェを手で示す。

 それは唐突な誘いで、ともすればナンパなるものに似ていたが、そうではない。結末は全て決まっているのだ。


「ええ、よろこんで」


 言い終わる前に彼は動き出していた。

 それでも私は最後まで言い切って、その背中を追いかける。


 街に喧騒はなかった。あるのは雑踏のみ。それすらも歩調が合っていて、脳に浸透してくる。


 とあるビルの一階でカフェはちんまりと開いていた。


 ――そこはとても静かな空間であった。


ちりん、ちりん


 彼の後に続いて入った私を、風鈴のが迎える。それすらも静寂の中に溶け去って、響くような感慨を私にもたらす。

 客の姿はなく、従業員と店主の姿も見当たらない。いるのは「」と「彼」だけで、まるで必要なことのみを取り出したような様相を呈していた。


 向かい合わせのテーブル席に座る。

 そこには既に二つのコップが置かれていた。


「さて、何を話しましょうか」


 彼がそんなことを訊いてくる。

 私はコップを見つめていた。吸い込まれそうなほどに渦巻いているのは、ミルクティーだ。頼もうとしていたものでもある。

 そのことについて思案するよりも早く、私の口は動き出していた。


「さぁ? 世界の滅亡でも語りますか?」


「……なるほど。それはいいですね。では、僕の方からひとつ質問をさせていただきましょう。――世界は滅亡していると思いますか?」


 まるで、返事を予期していたような質問。

 この質問に意味があるのかは分からない。いや、本質的なところではきっと意味などないはずだ。

 彼は自分のコップを傾ける。中には黒色の液体。ブラックコーヒーだろうか。そういえばここはカフェだった。


 世界が滅亡しているか否か、という問いに対する私の……「彼女」の回答は、


「世界はともかく、文明は滅亡しているんじゃないですかねぇ」


 意外、だった。

 これもまた、ひとつのパターンなのか、それとも私の思いが「彼女」を狂わせたのか。いずれにせよ、それは私が考えていたことと一致していた。


「文明、ですか。僕はそうは思いませんね。人類全員が自分のやるべきことをなし、こんなにも世界はうまく回っているじゃないですか。もそうは思いませんか?」


 ……なるほど、と思う。これは「彼女」ではなく自我の目覚めた私への語りかけ。

 どうやってそれを察知したのかは知らないが、私たちの中に巣食う奴ら――「管理者」も知的対話というものが可能らしい。もっとも、私目線では彼が一方的に話しているだけだが。


「ええ、そう思いますよ」


 開いた口から出たのは先程とは矛盾した言葉。やはり、あれは彼のいたずらでしかなかったのか。


 彼はにこりともせずに薄く笑う。

 その機械的で、こちらを見下すような笑みに、私ははらわたが煮えくり返るようなものを感じた。

 でもどうすることもできなくて、私は私の手が動いてアイスティーが口に運ばれるのを見るしかない。


 彼が席を立った。もう「管理者」ではないだろう。


「…………」


 無言で去っていく。

 私はその背中を見ているとどうしても悲しくなってしまって、また頭が熱くなる。

 「管理者」どもを見返してやりたい。「彼」を救ってやりたい。


 アイスティーがのどを下り、冷静になる。


 開いた扉から夏風が吹き込んだ。


ちりん、ちりんちりん


 風鈴のおとがする。うるさい。


 私は立ち上がった。身体はゆっくりと動き、気持ちだけが先走る。

 カフェを出た私は、意思と反し彼が見える方向とは逆に行こうとした。


 彼と離れる。二度と会えなくなる。


 そうはさせるものか――!


 私は吼えた。

 声にならない叫び声で殻を破ろうとする。


 身体が止まった。

 私の意志で身体がぎこちなく動き始める。

 少しずつ、少しずつ身体が回転する。

 そして、ふと思った。


 彼になんと呼びかければいいのか。


 再び身体が静止する。


 「彼」でいいはずがない。でも、私は彼の名前を知らない。名前に限らず、彼について知っていることがない。


 定められた運命へと引き戻すように、縛るように身体が言うことを聞かなくなる。


 これはいけない。ここで負けたらもう戻れなくなる。そんな予感がする。


 私は迷うまま、何とも分からない覚悟だけを決めた。


 一息に振り返り、


「――私は生きているぞ!!」


 の声が響き渡り、ビルにぶつかり、木霊する。

 全身全霊の心からの叫びだった。


 私は勝ったと思った。この文明なき世界に反逆できたと思ったのだ。

 満面の笑みを浮かべて辺りを見渡す。


 笑顔が固まった。


 ……誰ひとりとして私に顔を向けている者はいなかった。

 足音はひとつに重なり、「彼」のもそれと一体になっていることだろう。

 肌が粟立つ。


 孤独から抜け出した今、私はまた孤独となっていた。


 ――諦めてなるものか。


 まだ希望はある。あの時、私にぶつかりそうになり、舌打ちをし、罵っていった男性。必ずしも必要ではなかったあの人なら……あるいは。


 夏の風が凪いだ。風鈴のは、おとは、もう聞こえない。


 私は、の足で、の身体で、初めての一歩を踏み出した。

 彼が「通行人」ではなかったことを、「彼」でないことを願いながら。


 私が「私」でないことを、信じながら。







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ノートに後書き的なのがありますのでよかったらどうぞ

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彼女 いぷしろん @kuma77mon

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