第12話 左手に黒い羽根

 リリスはふと閃いた。

 カンナの魔法陣を見たのがきっかけなのかは分からない。でも思い出したのだ、全ての危険を取り除くまじないを。

 目を閉じて、深呼吸をする。

 まずは心を落ち着かせなければ。

「お前、何者だ……」

 一方、カンナと向かい合っている男は、かみ殺したような声を出してカンナを睨みつけていた。

 足元の魔法陣はどの魔法の種類でもない、見たことのないものなのだ。しかも攻撃から逃げつつ、小さな石を置くだけでかたどられる簡単なもの。

 しかし、どの魔法陣よりも強力だった。

 そんな未知の力を前に男が怯えないわけがなかった。そんな彼の質問にカンナは答えない。

「あまり力を使いたくないからな。……一発で仕留める」

 そう言うと大きく息を吸った。次の瞬間。

 ふわり。

 白い羽根が現れた。

「!」

 男はさらに目を丸くした。

 カンナの背後に現れたのは、紛れもない白く大きな羽根だった。

「天使の、羽根……?」

 無意識のうちに後じさる。

 悪魔にとって天使は天敵だ。それは、悪魔に魂を売ったこの男にとっても同じことだった。

 男はちらりと背後を見た。その様子にカンナは眉をひそめる。

「逃げるのか?」

「出来ればネ」

 男は冷や汗を流しながら力なく笑う。昨日魔力を補充したばかりだ、全力を出せばここから脱出できる自信はある。

 しかし走り出そうとした次の瞬間、男はがくんと膝を曲げて崩れ落ちた。

「な、なんだ?!」

 彼自身、自分の身になにが起きているのか分からず声を荒げる。

 カンナも何が起こったのかわからず、訝しげに男を見下ろしていたが、ふとその耳に静かな歌声が聞こえてきた。

「……?」

 声のする方を見れば、聖堂の片隅でリリスが目を閉じて歌っている。その腕に父親をしかと抱いたまま、ぶっきらぼうに。

 しかしその不器用な歌い方が、不思議と辺りの気配を落ち着かせた。そう、精霊が騒ぐのをやめたかのような静寂だった。

 カンナが改めて周囲を見ると、たくさんの精霊たちの姿が見えた。彼らはリリスの父親の傷の手当をはじめ、また別の者はカンナの目の前の男の身体を押さえつけている。リリスの歌声に精霊たちが応えている。

 この男を仕留めるには、今しかなかった。

「ちょうどいい、覚悟するんだな」

 カンナはそう告げると、男の方に向き直る。

 それから最初に男がポーズをとったように、弓を射るかのごとく身を構えた。

 男と違うのは、眩しいほどの白く輝く球体が現れたことだ。それはそのまま弓へと姿を変える。

「観念しろ」

 一言そう言うと、動けないでいる男めがけてその矢を放った。

「ぐあああああああっ」

「!」

 男の乾いた叫び声にリリスはハッとまぶたを上げた。

 カンナと対峙していた男は、その矢に耐えきれず絶叫していた。男を射貫いた矢はそのまま白く燃える炎へと姿を変え、男を灰へと還した。

 そんなことよりも、驚くべきものがリリスの目の前にあった。

「カンナ……その羽根」

 目を閉じて歌っていたからリリスは今まで気がつかなかったのだ。

「ああ。驚かせてすまない」

 リリスの元へ近寄りながらカンナが謝ると、リリスは驚いたままようやくうなずく。

 その姿にカンナは小さく微笑むと、リリスの前に座り込んだ。

「親父さんの容態は」

 その台詞にリリスは力なくかぶりを振る。父親の周りで精霊たちがまだ必死に傷の手当てをしているのがカンナに見える。

「そうか……」

 カンナは父親の手をそっと手に取ると、腕の前で組ませてやった。すると、その父がゆるゆると目を開けた。

「天使……さま、でしたか」

「父さん!」

「しゃべっては駄目だ」

 リリスとカンナの言葉に、父親は微かに笑いながら首を横に振る。

「天使さま、うちのバカ息子が……世話ばかり、かけて」

「いや、助けてもらったのは俺の方で」

「天使さま。この子は……リリスは、左手に黒い羽根を、持っているん、です」

「!」

 父親の言葉に、カンナは目を見開いた。

 リリスを見やれば、言葉の意味が分からず首をかしげている。

「だから、これから、迷惑を……かける、でしょう。天使さまの、いかように、でも……」

「心配しないで」

 カンナがそう声をかけると、父親は安心したようだった。微笑んだまま、静かに目を伏せる。

「リリス、動けるか。神官を呼んできてくれないか」

 羽根をしまうのに時間がかかるんだ、とカンナは苦笑した。わかった、とリリスはうなずくと、父親をカンナに預けて走り出す。

 そんな彼の後ろ姿を見据えながら、カンナは眉をひそめた。

 左手に黒い羽根。

 この世界から魔法という力はほとんど無くなっているが、世の中には『マホト』と呼ばれる人種がいた。天性の魔力を持ち、神に最も近い人間。天使にも悪魔にもなれる存在、そしてそれをしのいで神にもなれる存在。

 しかし彼らのほとんどは力を悪用し悪魔へと変遷してしまうことが多く、お陰で「左手に黒い羽根を持っている」と隠喩された。

 だからマホトが発覚した者は、その力を発揮する前に狩られてしまうのが常だった。

 今しがた神官を呼びに行っているリリスはまだ力が覚醒していない状態だが、周囲にばれてしまえば狩られることは間違いない。

 あの少年の先の未来には、どんなに目を凝らしたところで幸せなど見えないのだ。

(天使は人を幸せにするんじゃないのか……)

 カンナは眉をひそめた。

 リリスの歌で呼び寄せられた精霊のお陰もあって、目の前の父親の背中の傷はだいぶ治まっていた。カンナもそれに手助けしてやりたいが、昨日リリスの傷を治し、且つ悪魔の男と対峙したのであまり体力が残っていないのが実状だ。あとはリリスの精霊頼みだ。

 カンナの羽根がすっかり消えかかった頃、リリスが神官を連れてきた。

 盗賊のアジトの件、そしてその盗賊をなんとか倒したことを手短に説明し、大きな傷を負った父親を神官にあずけた。

「リリス、気になることがある」

 カンナが神妙な面持ちで切り出した。

「どうした?」

「お前の親父さん、村がどうとか言ってなかったか?」

「そういえば……イヤな感じがする」

 それから勢いよくカンナを見上げた。

「父さんは、母さんと逃げろって言ってた」

「まさかあいつ、お前の母親にまで?!」

 カンナの台詞にリリスは力強く頷いた。

「俺、村に戻る!」

「おい待てっ」

 走り出したリリスの後を追って、カンナも駆けだした。

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