踊り子と太陽

かんなぎ

踊り子と太陽

砂漠の街に十年に一度の祭りの季節が来る。

太陽の神を讃え、太陽の民を慰め、鼓舞する祭り。

それは楽師も、歌い手も、踊り手も、何一つとして同じ人間を舞台に上げてはならない祭りだ。

故に技術の継承は慎重に行いながら後継を育てて行く必要があるのだが、しかし十年という歳月は長いようで短く、楽師が育ち切らなかった。


どんなに上手くあろうとも、最上でなければ神に捧げる音を奏でる事は許されない。

怒りでこの楽園を焼かれ、太陽の民が砂に帰る事となってしまうから。

それを言い伝えている街の人々は、最高の楽師の不在に対して口々に不安を訴え、太陽の祭りが近くなるにつれて街の中には沈んだ空気が漂った。


慌てる事はない。

今迄も幾度かあったのだ。


一般市民とは打って変わって落ち着き払った長老達は、慌てる皆をそう言って宥め、遠い国の楽師を呼び寄せた。

それは、白銀の髪を有する美しい男だった。

白銀の男は祭りが始まるまでという契約の元、当代一の踊り手と目される【ムィ・シェリス】という少女専属の楽師として雇われた。


――このムィ・シェリスという金色をその身に宿す美しい少女は、何処までも純粋な人間で、気紛れな太陽の神に従順な女だった。

どれ程辛い別れがあろうとも、どれ程悲しい出会いがあろうとも、その全ては神の慈悲だと信じていたのだ。


この砂漠は厳しい。

自分のような孤児が生き残れたのは、太陽の神がその気紛れな眼差しで彼女を焼かなかっただけ。

彼が怒ればこの湖も枯れ果て、自分は焼け死んで行くのだろう。


神に対する畏怖と、人間を焼かぬ慈悲に感謝する感情が、彼女を踊りの道へと邁進させた。

全てを舞に捧げる日々に痩せ細り、娘らしい感情も捨て、それでも体力が尽きるまで踊り続けた。

物心付いた頃から一心に神を讃え、神の為に踊る以外の事には何の関心も払わない程ひたすらに。


その想いは誰よりも直向きで、従順で、素直なものであるという事は街に住む誰もが知っていた。

故に、ムィ・シェリスは一番の踊り手と目されているのだ。

その巧みな技術と心根に報いる為に、一番の楽師である白銀の男がムィ・シェリスに充てがわれたのである。


少女はそんな長老達の好意に感謝をしながらも、契約が祭りの前までである事の意味をしっかりと理解していた。

他国からやってきた一番の楽師である男に見合う実力であり続けなければ、今度はムィ・シェリスが一番の踊り手ではなくなる。

少女の踊りはどこまでも美しく正確だが、どこまでも繊細なバランスの上に成り立っている美しさだったのだから。

怪我をしても、気持ちが折れても、神以外の何かに心を奪われる事になっても――、一番の称号は簡単に剥奪される。

その事に対して怯える気持ちが無かったとまでは言わないが、ムィ・シェリスはそれ以上に人生を捧げてきた自らの踊りに自信があった。


それは傲慢さの上に築かれた空虚な自信ではなく、彼女の信仰心そのものでさえある。

身寄りの無い彼女など誰も救ってなどくれはしない厳しい砂漠の街で、唯一人、慈悲を授け続ける不変の太陽の神を――彼女は、愛していた。

その無償の愛こそが、彼女の踊りの全てだった。


そう、だからこそ。

ひたすらに純粋で見返りを求めない、唯捧げる為だけにある愛は【誰よりも美しい舞】という形をしていた。





「ご覧、ムィ・シェリス」


面白いものが見れるよ。

そう言って踊りの稽古を終えたばかりで息を荒くしている彼女に、長老の一人であり、踊りの師である老女は窓の外を指し示した。

老女の稽古の間は一切の音が遮断される厚い硝子窓は閉ざされたままで、ムィ・シェリスの集中も意識が窓の外の世界に逸れる事を一切許さなかった為に、その先で起きている出来事には全くもって気づく事はなかったのだ。

ムィ・シェリスが師の言葉の通りに窓に近寄って、稽古場のすぐ下に広がる街の広場を見下ろせば、そこには人だかりが出来ている。

芸で身を立てる者が多い街である為、それ自体は珍しい事ではなかったのだが、その中心の存在に少女は首を傾げた。


「御師様。あれは誰ですか」


人だかりの中心が人であるという事は分かったのだが、その顔に見覚えはない。

大層美しく、そして輝く月光のような髪色をした男。

遠目にも分かる程のあの美貌なら、一度でも目にしたら忘れる事はないだろう。

けれども、ムィ・シェリスはその職業上多くの人々の前で踊る事も、多くの権力者達に挨拶する事も多くあったのだが、記憶の中のどこにもその美しい貌は無かった。

この街の人間ではないのだろうか、と思わず気になって許しを得るよりも前に窓の戸を開ける背に、師は呆れたように今日が何の日かも忘れたか、と言った。


これで祭りが行える。

これで太陽の神を慰められる。

これで街が砂漠に飲み込まれる事はない。

ありがとう、旅の人。ありがとう。


ぶわ、と砂の匂いのする熱い風が音を運ぶ。

歓声交じりの人々の言葉を聞いたところで、ムィ・シェリスはようやく男の正体に思い至り、ああ、と気の抜けた声をあげた。

今日は楽師が街に到着する日だったのだ。

ならば、彼こそが今回の祭りの――今世代で最高の楽師、砂漠で一番の楽師。

街の誰もが待ち望んで、街の誰よりも自分が待ち侘びていた音の持ち主。

一番の踊り手の為に用意された男。


何度彼の奏でる音を夢想しただろうか。

何度彼の音に合わせて踊る舞を夢想しただろうか。

最高の音に誘われ、最高の舞を至高の存在に捧げるその時を。


「……ああ、」


けれども、そんな風に待ち望んでいた楽師だというのに、生真面目なムィ・シェリスにしては珍しく、彼の奏でる音を期待するよりも別の事に考えが逸れて行った。

硝子を隔てずに見る男の顔の造型に――ああ、なんと浮世離れして美しい男なのだろう、と。

漏れ出た吐息は、どこか熱を帯びているような気さえした。


ムィ・シェリスは自身の貌を讃えられる事は数多くあったが、自他の容姿の美醜にはこれまで何ら関心を抱かなかった。

勿論美しくある事を求められる職業だからこそ化粧はしていたが、それは最早生きていく為には服を着なければならないといったの最低限の義務のようなものだという意識だ。

そんなムィ・シェリスでも白銀の男の最上の芸術品のような貌に、どうしようもなく感嘆の溜息が出る。

純粋なまでの透明さと、何の穢れも抱かない、神の子であるかのような無垢な表情に、まるで最上の出来の舞を踊れた時のような陶酔さえ覚えたのだ。


けれど、少女はその感情にどんな名を付けたら良いのか知るはずもない。

だって、少女はこんな感情を抱いた事はない。

一度だってここまでの陶酔感を抱いた事はない。

一度だってこんなにも胸が波打った事はない。

少女の心と身体を突き動かすのは、いつだって太陽の神だけなのだから。


「私も一度だけ彼の音色を耳にした事があるが、あれは至高の音で間違いはあるまい。お前の舞に相応しい音を奏でる男だ」


さあ、舞を仕上げにかかろうか、と言った師にムィ・シェリスは心なしか頰が熱くなるのを感じながら頷く。

その拙い動作と頰の色に、弟子にしては珍しく興奮している事に気付いたのだろうか、師は、おや、と一言呟いて眉を顰めた。

けれども舞の為に姿勢を整える弟子の姿はいつもと変わらず、唯美しい。

微かに抱いた疑念を口にはせず、男とは近い内に共に稽古をする事になるだろうからその心構えをするように、と言って、師は窓を素早く閉じて部屋を再び世界と隔離する。


もう一度、と手を叩いて楽器が掻き鳴らされ始めると、ムィ・シェリスの心はすっと窓の外から視線を逸らし、踊る手先を見つめだす。

その所作はいつもと変わらずどこまでも正確で、どこまでも繊細で、どこまでも美しい。

表情にすら先程の興奮の色は見られない――けれども心臓は激しく音を刻み、常に舞に対して真っ直ぐなはずの心を小刻みに揺さぶっていた。

彼の弾く音色はきっとその貌と同じく神の如き美しさなのだろうか、とムィ・シェリスは期待したが、それは唇に乗せる事はなく、師の奏でる音色に合わせて再び脚を動かした。


跳ねる手足は、いつもと変わらず唯ひたすらに、神を慕って動き続けていた。





外の街からの新しい音楽や舞の話は、街の誰もが求める物だ。

芸事の発展の為には、より新しい風を入れる必要がある。

だからこそ異邦人たる白銀の男は、様々な人々に教えを請われた。

白銀の男は大層熱心な男だったようで、街の広場や公共の稽古場で修練を積む未熟な踊り手や楽師の元にも請われるままに赴き、指導を施した。

その為に自らが相棒となる踊り手であるムィ・シェリスの元に現れるのが大変遅くなったのだが、彼女はむしろ真摯に祭りに向き合おうとするまだ見ぬ男に好感を抱いた。


普段は人の噂話になど耳を貸さぬ彼女も、男の話だけには耳をそばだてた。

誰もが口々に褒め称えるその人柄を、その言動を、その情熱を、ただ一目だけ見る事の出来た彼の姿に落とし込む。

どこまでも美しい姿に、どこまでも気高いその気質――そして、どこまでも透き通るような天上の音色。

最早、自分の舞に相応しいのは彼の音色だけしかなく、神に捧げるに相応しいのは彼の音に乗って踊る自らの舞しかないのだと、少女は夢想した。


少女は蜜よりも明るい金色の瞳を伏せ、夜空に浮かぶ美しき白銀の月の如き男の姿を思い浮かべる。

美しいという言葉に当て嵌らぬ程の神の御姿さえ、束の間忘れてしまう程に――それが、どれ程異常な出来事であるのかを悟りもしないままに。




やがて街中の祭りの担い手達を一通り観ると、ようやく一番の踊り手と目されるムィ・シェリスの元を訪れた。

快く迎え入れた少女を前にして、白銀の男は自らの腕前を披露する。

それは、自らの音に相応しい舞を踊れるのかと問うかのように挑発的で、けれども最上の舞を躍らせてみせようと言うかのように優しく頼もしい音色だった。

静かに聞き入っていたムィ・シェリスは、感動のあまり涙を零した。


あまりにも透明で、純粋に生きる事を渇望する音色。

自分が夢想していた以上に美しい音色で、しかし力強く、神に捧げるに相応しいそれだ。


言葉を上手く纏められないまま、勢いに任せて口にする賛辞に照れたように笑い、男は彼女に一度合わせてみて欲しいと言った。

ムィ・シェリスは快諾し、自らの渾身の踊りを踊って見せた。


腕に通した幾重にも重なる腕輪が、手足を遠くへ伸ばす度に細く高い音を鳴らす。

ムィ・シェリスの踊りは歌であり、音楽である。

正確に決められた振りをなぞり、ヴェ―ルを風に揺らす。

繊細に計算された角度で揺れる腰は、神秘的ですらある。

伸ばされた手足は生の醜さを切り捨てるように空を裂き、跳ねる身体は誰よりも高く空を舞う。

人間離れした繊細さで、人間離れした美しさ。

誰よりも真摯に神の慈悲を請い、誰よりも切実に彼へ無償の愛を捧げる舞。

それは、誰もが溜息を吐き、美しいと絶賛する舞だった。


完成された音色に乗った舞は、どこまでもどこまでも美しく―――けれども旅人は弦を掻き鳴らすのを止め、彼女に何の舞をしているのかを問うた。


突然止められた音楽に戸惑いながらも、自分が何か粗相をしてしまったのかと少女は首を傾げ、問いに答える。

勿論、今のは神に捧げる舞だ。

それ以外の何に見えるのだとムィ・シェリスが逆に男に問うと、男は首を振ってそれを否定した。


「君の舞は美しいが、それだけだ。感情が全く込められていない」

「……それの何がいけないと言うの?」

「何の魅力もない」


その短い言葉の意図するところに合点がいった少女は眉を顰め、嘆息した。

それは、何度も負け惜しみと共に吐かれた言葉であり、少女の価値観にはそぐわない批評であり、この男の口からは最も聞きたくない言葉でもあった。

もっと情熱的に、もっと感情的に、もっと衝動的に――そんな言葉を吐いた踊り手は、沢山居た。

確かに正確でなくとも、感情の籠った舞は魅力的だろう。


ムィ・シェリスの舞は美しい。

誰もがそれを認めている。

けれど、それと同時にムィ・シェリスの舞は魅力に欠ける。

自身も含め、誰もがそれを認めている。


魅力的な舞を踊る者はこの街には掃いて捨てる程居る。

けれど、真に神に捧げる舞であるならば美しさを求めるべきだ。

感情に塗れた舞など不正確で波があり、更には信仰心に欠けている。

正しく神に捧げる為の舞ならば、そこに神に対する物以外の感情を籠めるのはあまりにも不敬だ。

人間らしさなど神を汚すだけの穢れで、そして神の怒りを買うものなのだから。


「美しくあるのが神の為の舞。この祭りは正しく神の為にある。他の地ではどのような物が求められるかは知らないが、お前のような部外者にとやかく言われる筋合いはない」


ムィ・シェリスの口を突いて出た低く鋭い言葉に、白銀の楽士はゆっくりと瞬きをして俯いた。


「今を生きる人間が、感情も込めずに一体何を舞うと言うのだ」

「神への供物の舞だ。私にはそれしか舞えない」


神を讃え、神の怒りを宥め、神の心を鎮める。

十年に一度の祭りは、人間がこの砂漠で生きていく為に慈悲を請う儀式だ。

間違っても生の楽しみを神に魅せる儀式ではない。

――それに、舞に込められる程の強い感情をそもそも持ち合わせていなかった。


そう返すと、男は楽器を見物客に預け、ムィ・シェリスの手を引いて歩き出した。

街を下り、中心部に位置する広場まで引きずられるように歩かされ、ムィ・シェリスはついに何をする、と抗議の声を上げた。

けれどそれを無視し、男があれを見るがいいと指差した先に居たのは蒼い鉱石の色に染められたヴェールを被った娘だった。


それは、二番手と目される娘。

幼い頃にムィ・シェリスと同じように頼る相手を失くし、舞に生きる事を強いられた女だった。

異邦人の血を引くという彼女は、それでもこの街で育ち、この街で踊り続ける。

ムィ・シェリスとは違い、師を一人に定めずに多くの者から舞を学んだ彼女の踊りは、正確さと荘厳さは欠けるが華やかだと評判だった。

神事としての舞はともかく、娯楽としての舞ならば彼女の舞こそが一番だと近隣の地域からも評される程に。


街の未熟な楽師が、二番手の娘の為に弦を掻き鳴らす。

音に合わせて舞う動きは生き生きと跳ね回るけれど、正確さには欠けている。

けれど速くなっていく音楽に合わせて加速する足先の動きから、目を離せない不思議な魅力があった。

きっと彼女の感情が込められているのだろう。

笑いながら、歌いながら、腰を揺らして生を謳歌するように跳ね回る身体。

扇情的で、肉感的な舞は、決して【美しく】はない。

けれども躍動的で、誰もが目を離せなくなる舞を踊る蒼の娘がそこに居た。


「見ろ。彼女の舞は醜いが、だからこそ魅力的だ」


自分には舞えないそれは、ある種の魅力に溢れている。

縁が無いからこそ、人間が求めるのはあの舞なのだとよく分かる。

人間は【美しさ】を求めていないのだと、知っている。

けれども、それでも、ムィ・シェリスの舞は神に捧げる為のものだから【美しさ】だけがあれば良い。

師も人々も、いつもそう言っていた。

自分もその言葉を信じている。


「君の舞は美しい。神を宥める最高の舞だ。だが、君のそれには生気がない」


ムィ・シェリスの舞はいつだって誉めたてられてきたし、彼女自身、自らの舞に誇りを持っていた。

この街の誰よりも真摯に学び、この街の誰よりも直向きに修練を積んだ。

それにも関わらず白銀の男は、誰より神に近しい音を奏でる男は、ムィ・シェリスの舞に魅力が無いと蔑むのだ。


「……貴方の求める舞は彼女のものなのでしょう」


分かり合えないのは悲しいが、価値観が違うのは仕方がない。

そう落胆しながら、低い声で言葉を紡ぐ。

ムィ・シェリスは誰よりも神を愛しているのだから、神を愛してやまない人でもなければ、その価値観を理解できまい。

それでも、何故か腹の奥底から灼けるような感情が沸き起こる。

神の如き音を奏でるこの男は、神に捧げるに相応しい美しさを――ムィ・シェリスの持つ唯一を拒絶する。

それが、何よりも耐え難かった。


「それでも、貴方は一番の踊り手の為に弦を弾かなくてはならない」


蒼の娘の踊りを食い入るように見詰める瞳に揺れる陰を見て、ムィ・シェリスは自らに言い聞かせるようにゆっくりと言葉を吐いた。


「彼女の舞は人の為の舞。私の舞は神の為の舞。そして、貴方は神に捧げる音を奏でる為に雇われた。――それを忘れるな」


神の如く美しい貌の男はその言葉に何も返さず、ただひたすらに蒼の娘を見つめ続ける。

この話は平行線を辿るだろう。

そうであるならばこれ以上話したところで無駄だ。

自分には無い魅力を振りまく彼女の舞から目を逸らし、早く彼女の舞が終わってしまえば良いのに、とゆっくりと腹の底から息を吐いた。





彼女の舞が終わるのを見届けると、男はふいにムィ・シェリスを振り返り、その全身をゆっくりと見詰めた。

華美な装飾を排し、舞うのに支障が無い程度に鍛えた薄い身体は、同年代の蒼のヴェ―ルの彼女と比べると頼りない。

彼女の舞を見ていた影響か、不意にそんな考えが頭を過ぎり、身を居心地悪さに捩った。

男は一つ溜息を吐くと、美しい瞳を少しだけ伏せた。


「時間はあるか?」


内心首を傾げながらも頷くと、男は飯を食おうと言った。

けれど既に昼食のス―プは食べた後だったのでそれを断ろうとすると、男は首を横に振る。


「君は痩せ過ぎだ」


彼女と比べれば、ムィ・シェリスの身体は貧相と言って良いだろう。

けれども御師様も身体つきは完璧だと言ってくれていたし、踊る時も誰より高く跳べる。

特別痩せていたいという願望は無かったが、踊りにくくなるのは嫌だった。

だからこそ御師様が与えてくださる以上の食事を口にする事は滅多に無かった。


「踊れて二曲か三曲。そんなところだろう」


けれど、体力の無さについて言及されてしまうと何も言えない。

一曲を完璧に仕上げればそれで十分だという反論は、男の眼差しに黙らされた。

問答無用で手を引かれて市場に繰り出せば、常ならば屋台通りなど素通りするはずのムィ・シェリスの姿に皆が目を瞠る。

けれどもその細腕を引く男の姿を見ると、屋台の男達は笑いながら声を掛けた。


息抜きも大事だ、美味いもん食わせてやるからこっちに来い、黙ってれば老師にも分かりゃしねえ。


今まで殆ど言葉を交わした事のない男達の好意の声に、ムィ・シェリスは戸惑った。

人々は賑やかな屋台から顔を覗かせ、一番手と目される秘蔵の踊り子に対して声を掛ける。

殆どの時間を神への祈りと踊りに捧げるばかりの彼女の生活では、有り得ない程の音の量だ。

音の一つ一つの元に、人々が生きていて、笑って、泣いている。

かつては自分もその中で生きていたのだとは知りながらも、永い間そんな生活から遠ざかっていた。


ムィ・シェリスの世界は、ずっとずっと狭くて小さくて美しかった。

たから、世界の外にこれ程までに人が居るとは思いもしなかった。


あまりの不規則な音の量に圧倒されながらも歩き続けると、いつの間にか男は屋台で幾つかの商品を受け取り、ムィ・シェリスの手にその串を握らせた。

物心が付いてからは初めての屋台の味は、あまりに味覚に刺激が強く、満足に食べ切る事も出来なかったし、美味しいとは到底思えなかった。

それでも眼前の美しい男が美味しそうにそれを頬張るのを見て、ムィ・シェリスは無言で口に含み続けた。


「人の為に舞や音を捧げるのは、大変そうだ」


ぽつりと零した言葉に、男はちらりと視線を上げた。

御師様の元で舞い始めてから随分と経つが、いつだって観客は片手で足りる程度にしか居なかった。

更には誰もがムィ・シェリスの舞を食い入るように見詰めるのだから、聞こえるのは自分の呼吸音と足を踏み締める音、それから音楽程度だった。

静かな空間で踊るのとは訳が違うのだろう。

舞を愉しむのは神だけという空間ではない。

二番手の踊り子は、多くの人々の祈りと願い、そして愉しみの為に踊るのだ。


「大変だ。それでも俺は応えぬ神に捧ぐより、歌い、騒ぐ者達に捧ぐ方が好きだ」


神に愛されし音を奏でる男は、それでも人間を愛しているのだろう。

けれど、刹那的な人間よりも、応えぬ神の方が余程愛を捧げる対象に相応しい。

人間は誰もがムィ・シェリスを置き去りに何処かへ行ってしまう。

けれど、願いに応えぬ無慈悲な太陽の神は、一人ぼっちの彼女を容赦なく照り付けながらもその死を見届けるまで消え去りはしないのだから。



ムィ・シェリスは神を愛している。

狭く小さな自分の世界の、唯一無二。

いつでも自分を見捨てずに照らし、粗相をすればその気まぐれな怒りで焼き払う――その理不尽な神だけが不変なのだと知っているから。






神の如き音色に合わせ、ムィ・シェリスの舞は磨かれていく。

日々の稽古を通し、舞に対するひたむきな姿勢を評価し、自身の価値観との違いを認め、そして男はムィ・シェリスの舞を【美しい】と言い続けた。

その言葉は何よりも求め続けている評価にもかかわらず、どうしてか男の口からは聞きたくなかった。

一体なぜそんなにも嫌だったのか、自身の心に説明出来ない。

けれどもそれがどうしてなのか、それがどういう感情なのか、ムィ・シェリスが答えを見つけるよりも早くその日は来てしまった。


【その日】、配役が発表される時を待ち望んでいたムィ・シェリスの前に、白銀の男と連れ立って現れた師は重々しく口を開いた。



「悪い知らせだよ、ムィ・シェリス――お前は人の舞を踊る事が決まった」

「――え?」

「お前が二番手の踊り子となった」



師に今年の祭りの配役を告げられ、ムィ・シェリスは呆然と何故、と一言呟いた。

誰がどう見てもムィ・シェリスの舞は誰よりも美しく、誰よりも正確で、神に捧げるに相応しいものだ。

説明を求めるように自らに舞を指導した老女を見ると、老女は困ったようにお前が悪かったのではない、と言って【一番の踊り子】の元へと去って行った。


その背に縋り付けなかったのは、側に白銀の男が居たからだろう。

師はムィ・シェリスを大事に育ててくれた。

頼るべき親もなく、唯泣き喚くだけの子供を、一番の踊り子になるべき娘だと全身全霊で育ててくれた。

けれどもそこに愛情などありはしない。

彼女もまた、神にその人生を捧げた女だ。

だからこそ、【一番の踊り子】になり損なったムィ・シェリスを見捨てない訳は、無い。

誇り高い彼女は惨めに見捨てられて打ち拉がれる姿なんて、この男にだけは見せたくなかった。

一番の踊り子に相応しいだけの実力を持ち、誰よりも美しく舞い、誰よりも神に従順な女――ムィ・シェリスの価値をこれ以上損なう様など、見せたくなかった。


「あの娘は手段を選ばなかった」


唇を噛みしめて立ち尽くすムィ・シェリスを慰めるでもなく、白銀の男は遠くを見据える。

そしてぽつりぽつりと彼の口から零される配役決めの経緯を語った。

長老たちによる投票によって決められるそれでは、ムィ・シェリスに入れられた票は僅かに蒼のヴェ―ルの踊り子に及ばなかったのだという。

それがどんなに不服であろうとも、どんなに理不尽であろうとも受け入れざるを得ない事だ。

踊り手を決めるのは長老達であり、一介の踊り子がその決定に逆らう事は許されない。


「契約は今日で終わりだ。私は今日からあの娘の楽師として楽器を奏でる」

「……どうして」


理由が分からなかった。

ムィ・シェリスは今も変わらず、街で一番の踊り子だ。

魅力に欠けるかもしれないが、神に捧げる舞としては至上のものだと誰もが認める。

天上の神に必ずや満足して頂ける舞を踊れるのは、この街ではムィ・シェリス唯ひとりだ。

それは傲慢故の妄想ではなく、純然たる公然の事実だ。

それなのに、どうして。


「あの娘にあって、君に無いものは何だと思う」


男の問いに分からない、と首を振る。

私に何が足りないと言うのか。

誰よりも才があり、誰よりも努力を重ねた。

魅力的ではないが完成された美しい舞だと誰もが讃える。

神に相応しい舞だと誰もが涙する。


「欲だ」


その言葉に、ムィ・シェリスは嘲るように息を吐いた。

食欲、睡眠欲、性欲。

そのどれもがこの砂漠には溢れ返ってる。

ムィ・シェリスもそれ無しには生きていけない――だからこそ、敬遠していたのに。

より神に近づく為、神に醜い面を見せない為に。

痩せた身体は清貧の証で、身体に鞭打ち踊り続ける心は信心の証。

そして誰にも気持ちを向けずに只管に神に捧げる無償の愛は――無垢の証。


「あの娘の舞の魅力は、自らの欲を叶える為ならばどんな物を犠牲にしても、どんな手を使ってでも、どんなに自らを貶めても諦めない醜さだ」


白銀の男は、遠くで長老達に話しかけられて歓声を上げる蒼の娘を眺めながらそう言った。

その言葉に込められた意味を反芻し――はっとしてその視線の先を見遣ると、嬉しそうに長老の手を握りながら、とろりとした【女の欲】の浮かぶ表情で長老達に妖艶な微笑みをばら撒く蒼の娘がいた。

唯一の女長老である師は、視線を伏せたままその輪には加わる事無く押し黙っている。


そんな、まさか。


これは神を祭る儀式で、人の欲が介在して良いものではない。

そう教わってきたし、事実、不正を犯せば神の怒りに触れるのだと歴史書は何度も忠告をしている。

のろのろと白銀の男を見上げると、呆然と立ち尽くすムィ・シェリスには少したりとも時間を割くのが惜しいと言わんばかりに、感情の籠った視線を注いでいた。


「勘違いしないで欲しいが、私は彼女には指一本触れてない」


唯、見ていたのだと、そう言った。

女が一人ずつ一人ずつ、長老達に取り入り、自らへの票を呼びかけ立ち回る様を。

一人ずつ、一人ずつ、彼女の魅力に、身体に、堕ちていく様を。

ムィ・シェリスの舞の為に音を奏でながら、誰よりも美しい舞を間近で見ながら。

唯ひたすらに。

ムィ・シェリスには向けた事の無い熱い眼差しで。


「貴方はあの子を、」


愛しているのか。

問うた言葉は唇の上で頼りなく響くばかりで、男の耳にはきっと届かなかった。

それでも、白銀の男は口元だけに笑みを浮かべ、愛おしい存在を見る眼差しで――まるで、男の音に乗って神の前で踊る日を夢見ていた頃の自分と同じような眼差しで、女を見詰めていた。

だから、きっとそれが答えだったのだろう。


「君の言葉通り、この祭りは神の為。だが――祭るのは人だ」


人は誰もがムィ・シェリスを置き去りにする。

愛しても、愛されても、いつだってムィ・シェリスの元から永遠に去って行く。

どれだけ求められるように踊って見せても、どれだけ素直に願いを聞き入れても。

誰も振り向いてはくれないし、手を差し伸べて抱きしめてはくれない。


「君は敬虔で、清廉で、神の眷属かと思う程に美しい。だからこそ人の醜さを受け入れられない」


それでも美しくさえあれば、そこに在り続ける神だけはムィ・シェリスを愛してくれる。

ムィ・シェリスの行き場のない愛を受け止めてくれる。

彼は気まぐれで残忍な神様だが、向けられる愛にだけは優しい。


「汚れているのは私達で、謗られるべきも私達だ。神に捧げられべきなのは正しく君の舞だった。だが、彼女はそんな道理さえも覆してしまいたくなる程に、人間らしい」


けれど、そんな不変の神を讃える人間は、人間を求めていく。

神を求めたムィ・シェリスを否定し、自らの欲望に忠実に。

美しい舞だと讃えながら、醜いものに手を伸ばす。

――ならば何故、ムィ・シェリスに【美しさ】など押し付けたのか。

何故、神へ愛を捧げる機会を与えないのか。


「あの娘の舞は、醜い」


悪し様に罵るように、男は愛を紡いだ。

美しいと褒め称えながら、男は私を見ない。

醜ければ愛されると言うのか。

美しくなければ愛されると言うのか。

神に愛を捧ぐ事も、男の眼差しを受け止める事も許されたと言うのか。

それなら――私も。私だって。


「もう、黙って」


一番の名を取り返せるのなら、最高の楽師を手に入れられるのなら、どんな手段を使ってでも――それこそ、【醜く】なってしまおうとも。

それがどんな感情かも分からずに男の襟を掴んで深く口付ると、その言葉の続きを聞く事はなかった。




そして、ムィ・シェリスは一番にはなれなかった。

神様に捧げる舞は一番の踊り子が舞う。

人間に捧げる舞は二番の踊り子が舞う。

だから、ムィ・シェリスの無償の愛は、神様に受け止めて貰えずに地に打ち捨てられた。






一番の踊り子になり損なったムィ・シェリスには、最早何も残されていない。

舞をどれだけ磨こうとも、どれだけ長老達に詰め寄ろうとも、どれだけ人々に訴えてみせても、ムィ・シェリスは神に舞を捧げる手段を喪った。

だから彼女は、神に捧げる無償の愛を諦め、目の前に現れた美しき男の愛を求め始めた。


それは、ムィ・シェリスの小さな世界に紛れ込んだ異物だ。

醜く、人間臭く、ムィ・シェリスを否定する感情。

そんな人間らしい感情など持ち合わせていなかった少女にとってはどこまでも厄介で、どうしようもなく重くて、どうしようもなく苦痛なそれを、何故か不要な物だと切り捨てる事は出来なかった。

愛しい神ではなく、異物を中心に回りだす世界に変わってしまっていた。


自らの浮世離れしたと称される【美しさ】を削りながら、男の愛する【醜さ】を手に入れる為に、ムィ・シェリスは何でもした。

慣れない肉料理を頬張り、街を歩き回り、美しい装飾品で着飾り、男の耳元で睦言を囁いた。

あまりの濃い味付けに身体を壊す事もあれば、多くの人々に声を掛けられて気を張り過ぎて寝込む日もあった。

一度も買った事の無いような豪奢な首飾りを付け、片恋に焦がれる男の耳元で独占欲に塗れた汚い愛を囁く。

そのどれもが、純粋無垢で誰よりも神に近しかった存在に泥を塗り、貶めていく。

一つ一つの穢れが身体に馴染み、少しずつムィ・シェリスの心身は人間らしく色付いて行く――あの蒼のヴェールの娘のように【醜く】、魅力的に、男の心を震わす事を夢見ながら。

いつか男に捧げただけの愛を返される事を願いながら。


それは、神への直向きな愛を捨て、唯一人の人間の愛を得る為の只の求愛行動に違いない。

それでも、最早その行為を止める事は出来なかった。


こうしてムィ・シェリスが喪ったのは純粋な愛で、手に入れたのは醜い心。

神に捧げる舞としては醜悪で、人に魅せる舞としては完璧だ。

想う相手は神ではない。

捧げる相手は神ではない。

踏み出す脚一つ、揺らす腰一つ、流す目一つ、全てが尊き彼の為ではない。

最早、ムィ・シェリスの舞は唯一つの存在に捧げる為のものではない。

彼の眼差しを自らに引き止める為のものであり、彼に手を伸ばさせる為のものであり、彼に愛を囁かせる為だけの――醜悪な求愛の踊りに成り下がってしまっていた。


「育ててやった恩を忘れたか、ムィ・シェリス。ならばお前は何もかもを失うが良い」


そんな人の領域に落ちぶれた少女を、厳しく育てた師は見限った。

不正な舞を捧げる祭りに悲観し、堕落してしまった弟子に悲観し、そして清く正しい師は少女の前から去って行った。

一番でなく、そして庇護する者も居ない、美しいだけが取り柄だった少女は自らの行いを嘆き悲しむ。

けれども最早彼女の堕落を止められる者は居らず、決められた役割は絶対だった。


残された【二番手の踊り子】に出来るのは、かつて【醜い】と切り捨てた物に向き合い、多くの欲望達を前にして踊る事だけだ。

それがどれ程恐ろしくとも、どれ程望まぬ事であろうとも。

たった一人の神の為でもなく、たった一人の男の為でもなく、少女は踊らなくてはならなかった。





誰もが首を傾げる配役で始まった祭りは、それでも長老達の強い意志で異を唱える事は許されない。

疑念が疑念を呼び、勘の良い者は神の怒りを買うのではないかと怯え、そうでない者も選ばれなかったムィ・シェリスを憐れんだ。


街に住まう誰もがムィ・シェリスの境遇を知っている。

親を亡くし、親類を亡くし、頼るべき存在を何一つ持たない彼女を奴隷商から買った元踊り子の女は、そんな彼女を狂ったように何からも隔離して育てた。

舞う事以外に興味を抱く事を許されず、最低限の食事しか与えられず、娘らしい事を許されず、ただ理想の舞を踊るだけの人形として育てられたムィ・シェリスは、それ故にひたすらに神に忠実だった。

自らが自由だった幼い時分を覚えていない訳ではない。

愛され、愛した者達を神の怒りによって喪った彼女は、だからこそ神を宥める舞を踊りたいと自ら言い続けていたのだ。


哀れなムィ・シェリスは、強制された道の上を歩いてはいたが、自らの道を自らの意志で選び――【一番の踊り子】であり続けていたのだ。

それなのにどうして。

口にはしないまでも、誰もがそう心の奥底では考えていた。


けれど、神殿に舞を奉納しに向かう一行の姿に人々は納得した。


ずっと二番手と目され続けていた娘は、疑念の眼差しに臆する事なく胸を張り、口元には微笑を浮かべてえ歩み行く。

しゃらり、と歩を進める度に鳴る足環はどこまでも軽やかに。

風に揺らめくヴェールは精霊の乙女のような涼やかさに溢れ。

腰に流れる豪奢に結わえられた髪からは、ふわりと花弁が舞い落ちる。

自らが選ばれた正当性を疑う事は許されないと言わんばかりの、その威風堂々とした様は、どこかの王族の姫君であるかのような錯覚まで覚えさせられる。


誰も彼女を疑ってはならない。

誰も彼女を貶めてはならない。

誰も彼女を蔑んではならない。

誰よりも人間らしく、誰よりも堂々と、前を向く彼女こそ――【人間】の踊り子だと人々は認めた。

【一番手の踊り子】、白銀の男、歌い手、そして続く【二番手】のムィ・シェリスの行進に、誰もが拍手と歓声を贈る。

輝かしい行進の中、ヴェールで顔を隠して泣いているのは誰よりも美しかった少女だけだった。



どれだけ涙を落とそうとも、祭は恙無く進行する。

神事に携わる者しか見ることの出来ない舞は、密やかに行われる。

【二番手】のムィ・シェリスは同席こそ許されているが、それはむしろ苦痛でしかない。

奪われた役目は、誰よりも彼女が憧れたものだ。

無償の愛を喪った事が辛い。

努力の全てが瓦解した事が辛い。

――けれど何より、あの娘の隣に座る楽師がムィ・シェリスを見ようともしない事が辛かった。


白銀の男が蒼のヴェールの娘に微笑みかけ、ゆっくりと弦を弾きはじめる。

歌い手の声が音に乗り、娘の手足を誘う。

掻き鳴らす音は高く低く、流れるような声に合わせて跳ねる足先は、何処までも型破りな動きを魅せる。

どこまでも蠱惑的に、何処までも扇情的に――【美しくない】舞を、女は嘲笑を浮かべながら踊り続ける。

それはなんて不敬な舞なのだろうか、とムィ・シェリスは愕然とした。


舞の全てが荒く、感情的で、適当なのだ。

確かに魅力的だ。確かに扇情的だ。人間らしいとも言えるだろう。

けれど、その舞には神を敬う気持ちなど欠片も篭っていない。

どうして、何故こんな舞が神に捧げる舞として許されたのか!

愕然として腰を半分浮かせて立ち上がりかけたムィ・シェリスを、蒼の娘がその鋭い眼差しでだけで制し――挑むように、勝ち誇るように微笑んだ娘の舞は、楽師が爪弾いた音と共に終わった。


ざわつく楽師や歌い手達の様子からも、きっとこんな風に適当に舞ったのは初めてなのだろうと察した。

戸惑いながらも、そうか、とムィ・シェリスは唐突に娘の舞の本質に気付いた。

この娘は神を煽っていたのだ。神を憎んでいたのだ。

何という不敬。だからこそのあの舞。

どんなに私が彼女を真似ようとも、私には生涯踊れまい――あんな魅力的で【醜い】舞を。


愕然とする私を横目に、あまりの出来事に青ざめた楽師があの娘の前に跪く。

真剣な瞳で女を見詰め、その美しい唇から愛の言葉を囁いて――ああ、もうこれ以上はどうかやめて。

視界を歪める涙の膜の向こう側で、娘は嫣然と笑いながら首を振っていた。

少女の欲した物を全て奪い、少女の欲した物全てを価値が無いと切り捨てる。


最早そこに抱く感情は、妬みや憧れですらなく、敗北感だ。


神へ捧げた崇高なる愛を、醜い熱情にまで堕とした彼女の最初の恋は、至高の舞を犠牲にしてもなお実りはしない。

けれどもあの娘は何一つ喪わずに男の愛を得て、そしてそれを蹴り落とし、自らの怒りを神に捧げる。

信仰心も無償の愛も、何一つとして娘の激情には勝てなかったのだ。

だからこれは敗北だった。

はらはらと頬を零れ落ちる涙は後悔のそれか、懺悔のそれか、最早ムィ・シェリスには分からない。

それでも確かに一番【美しい】彼女は、【醜い】彼女に全てにおいて敗北したのだ。





神に捧げる舞が終わると同時に、街は夜に入る。

太陽の神が一晩眠っている間、太陽の神の子供達たる砂漠の民を鼓舞し続けるのが【二番手の踊り子】の役目だ。

神の為に踊り終えた【一番手の踊り子】から、民の為に踊る【二番手の踊り子】に、身に着けていた聖なる鈴を受け渡す。

最上の舞の礼として神の祝福が宿るというそれを身に着けて、【二番手の踊り子】は人々の魂を鼓舞する為に祝福を振りまく――けれど、彼女の舞は神の怒りを買った。

手渡された聖なる鈴は、美しかったはずの表面を黒く汚し、鈍い音しか立てない。

この鈴に宿るのは、きっと神の怒りだ。


「神を穢してまで、貴女は何を望んだの」


鈴を掌で転がしながら、目前に立つ娘の昏い瞳を真っ直ぐに見詰める。

敗北は認めた。

けれど、彼女がこんな行動に出た理由だけは本当に分からなかった。

神に舞を捧げる栄誉が欲しかったのかと考えた事もあったが、あの舞からはそれも考えにくい。

ならば、何故。

娘の蒼い鉱石の色に染め上げられたショールが、風を含んだように翻った。


「死を」


簡潔に返されたその答えは、どこまでも神を冒涜する答えだった。

この女は不正を犯し、神の為の祭りで、神の為の舞で、自らの昏い願いを叩きつけたのだ。

誰の死を望むのか――誰の死を願っているのだとしても、きっとこの娘はその報いを受ける事となるだろう。

女の舞は【美しさ】や信仰心からは程遠い。

こんな舞が至高の舞だとはあの無慈悲な神は認めず、怒り、縁者に至るまで全て焼き尽くすだろう。

けれども女はそれが狙いだったのだと晴れやかに笑った。


「私には、王都に生きる一族の血が流れてるの」


元々この都市で生まれ育った人間ではないと知っていたが、それはつまり、焼き尽くしたいのは王都にいる縁者だという事だ。

この厳しく辛く、雑多で無情な砂漠の街の者ではなく、誰もが夢見る王都に生きる縁者を焼き尽くしたいのだと、女は言う。

足が擦り切れ、血を吐くまで踊らされ、女という性を強要されたのはこの街だけれど、地獄を見たのは王都でだと女は微笑んだ。


「あの場所に今ものうのうと生き続ける裏切り者が、私の家族に……私にした仕打ちを忘れるものか」


低く昏い声には、まるで何年もの恨みが詰まっているかのような重みがある。

けれども恨みを口にする彼女は、何処までも真っ直ぐに背を伸ばし、湛える微笑は何処までも優雅だった。

これは、一体誰だろうか。


「貴女は誰?」


その問いに、唯の大罪人だと彼女は言い放つ。

けれどその晴れやかな笑みはどこまでも尊大で、どこまでも誇り高い。

明るく朗らかに舞い踊っていた彼女の姿を、ムィ・シェリスは覚えている。

親しみ易く、馴染み易く、誰からも好かれる女ではあったが、こんなにも気圧されるような人間ではなかった。

自分はこんな人を知っていただろうか。


「神は不敬を赦しはしないでしょう。私を含め、私の縁者全てを焼き殺す。……貴女も、貴女を見捨てた者達へその鈴を使って復讐すると良い」


貴女の手で私を殺してくれても良いけれど、と微笑んで。

それが罪だと知りながら、多くの死を招く行為だと知りながら、胸を張る。

見捨てた者達を燃やしてしまえと嗤う女に、ムィ・シェリスは怯えながらも首を振った。


妬む感情はこの数か月で痛い程に味わったが、誰かの死を望む程恨んだ事など無い。

裏切られたとは感じたが、それでも皆【人間】なのだから仕方がない。

その返答に、だからこそムィ・シェリスという踊り子を心の底から尊敬していたのだと女は満足気に言い放つ。

その唐突な言葉に眉を顰めると、女はころころと鈴を転がすように無邪気に笑った。


「多くの者が焼き殺される。そんな光景を創り出したくなくて、踊り子の道を選んだのでしょう?貴女は昔から高潔で美しく、そして誰よりも優しい。――だから、私は汚れた手段で貴女を引きずり落とした」


女のその認識は間違っているのだと、ムィ・シェリスは嘲笑を浮かべた。

幼い頃に神の怒りによって家族を失くした。

あんな光景を二度と見たくなかった。

だからムィ・シェリスは、神を愛した。

手に届く範囲の誰をも死なせたくなかっただけで、そこに高潔さも優しさもありはしない。

だからこそ遠い王都に住まう、自分には何の関係もない人々が灼かれるという近い未来に対しても、何の感慨も抱きはしない。


「高潔であった事もないし、美しくあったのは過去の事。今はもう何処にでもいる唯の女。何も出来ない、唯の、」


声が震えて、言葉を紡げない。

ムィ・シェリスはもう、神に代わる唯一を見つけてしまった。

最早かつてのように神の為に、誰かの命を請う為には踊れない。

ムィ・シェリスは、一番の踊り子だった彼女は、最早どうしようもない程に穢れたのだから。


「……知っての通り私は汚れた女だ。これしか手段が無かったから、自身の行いを悔いてはいない。貴女に謝罪する気も、許しを請う気も無い」


震えるムィ・シェリスを前に、女は肉感的な身体に手を当てて、口元に不遜な笑みを浮かべる。

自らの行いを否としながらも、それでも胸を張るその姿はどんな高貴な姫君にも劣らない。


「だからこそ、敢えて私は貴女に言おう」


煌めく瞳には欲の色など影すら見えず、誇りと輝かんばかりの自信に溢れていた。

自ら光り輝くその身に穢れなど付くはずもない。


「踊れ、ムィ・シェリス。神や老いた者達が認めずとも、正統なる王の血を引くこの私が認めよう――どこで何を想って舞おうとも、貴女は紛う事無き一番の踊り手だ」


朗々と命じられたその言葉は、失意の底にいる少女に仄かな希望を灯す。

小さな世界から全てを奪い去った女が、新しい世界を見ろと声を張る。

生ける誰もが認めなくとも、不変の神が受け入れなくとも、死に行く彼女が認めると。


「貴女の舞はとても美しくて、魅力的だ。だからこそ、多くの民が貴女を求めるだろう」

「――あなたよりも?」


脆くなった誇りの殻を破り、零した本音の問い掛けに、女は一瞬だけ目を丸くして豪快に笑った。


「今までもこれからも、貴女の舞が一番だ。だから、私はあんな汚い手を使わなければこの場に立てなかった」

「……でも、私は、もう」

「気付いていないかもしれないが、貴女の舞は前よりもずっとずっと素敵だ。最早、誰も貴女を貶められまい」


誰にも認められる事のなかったムィ・シェリスの舞を認めるのは、この地に生きる全ての民だと女は鼓舞する。

今のムィ・シェリスなら、民の為に舞い、民の為に祈れると。

師に見捨てられようとも、愛した男に省みられずとも、一番になれずとも――神への愛を失っていようとも。

ムィ・シェリスならば人の為に踊れると、女だけは信じてくれた。


「あんな傲慢な神の為だけに舞うなんて勿体無い。今の貴女なら、きっと誰もの心に希望を灯す舞を踊れる。恐ろしい夜を退ける太陽を希望と称するならば――砂漠の太陽は、貴女の舞だ」


私に勇気をくれたように、きっと皆にも勇気を渡せるだろうと女は晴れやかに笑った。

女を想う男の愛を羨んだ。

神を想う自分の愛は何処かに捨てた。

受け入れられる事のない愛は、何の価値もありはしない。

一番の踊り子ですらなくなった私には、何の価値もありはしない。

ムィ・シェリスのそんな風に狭く小さな世界では、最早何の価値も持たない彼女は唯の塵芥だった。

けれど、一人でもムィ・シェリスの舞を認めてくれる人がいるのなら――新しい世界は彼女を受け入れてくれるのだと信じられる。


黒く汚れた聖なる鈴を投げ捨て、ムィ・シェリスは女に抱き着き、声をあげて泣いた。





隣に立つのが未熟な楽師であっても、二番手、三番手の歌い手であっても、不完全である事こそが人間には相応しい。

何事も最上のものは神に捧げられるべきものだから。

だからこそ、人々を前にして舞うのは【二番手の踊り子】なのだ。


太陽の神を模したという赤い鉱石の色に染められたヴェール越しに、ムィ・シェリスの登場に沸き立つ人々を見渡す。

ここにいる誰もが不完全で、強欲で、美しくなどない。

かつての自分が忌避した場所であり、けれど今の自分に相応しい場所。

これから舞うのは、多くの欲望を満たし、多くの嘆きを受け入れ、多くの希望を振りまく舞だ。

かつて踊れるはずがないと心底怯えたそこで、ムィ・シェリスは今ならばきっと踊れると笑みを浮かべる。

――愛する事を知って、敗北を知って、人間らしく感情に塗れて【醜く】なった今ならば、きっと。



身体を揺する度に金細工が高い音を立てる。

リズムが魂を揺さぶる。

舞え、舞え、もっと高く。もっとしなやかに。

汗が脚を伝って地に落ちる前に、楽器が次の音を奏でる前に。

徐々に激しく速くなる音が、心音を高める。

風のように火のように。

弦を弾く音が動きと一つになる。


歌い手の高く滑らかな声と低く追いすがる声が、燃え上がる恋を謳う。

生命の営みを、未来を紡ぐ感情を。

肌を舐めるような熱さが、視線が、歌声が、私の身体を撫でて行く。

決して美しくなどない舞だ。

かつての自分からは程遠い舞だ。

それでも多くの民は歓喜の声を挙げ、私の舞を心から賛美する――【生き生きとしている】と。


祭が終われば偽りの【一番の踊り手】は燃え果てて、骨一つ残さず姿を消されてしまっている事だろう。

姿を消した蒼の女の消息を知るのは、自分一人だけだ。

ならばこそ、今も何処かでムィ・シェリスの舞を見ているはずの――愛した女が世界から消え去った事を知るはずもない男の元に走り、彼を抱き締めてこの醜い愛を告げよう。

貴方を想って踊ったのだと、告白しに。

私を愛してはくれないかと、懇願しに。

きっと受け入れられはしないだろう。

きっと拒絶されてしまうだろう。

それでもこの愛を捧げ、失い、前に進もう。

狭く静かな平穏に満ちた世界を捨て、騒々しくて先の見えない世界へと。


何もかもを喪う為に長い時間を過ごした――けれど舞に捧げたこの短い半生は、無駄にはならない。

太陽の神に捧げる舞は踊れなくとも、私は太陽の民の為に舞える。

天に君臨する偉大な彼の神ではなく、地を這い、一瞬の生を燃え尽きて行く、愛しい紛い物の小さな太陽達の為にこの一時を舞えるのだ。

怯える太陽達を慰める舞を、神の怒りに染まる美しき荒野を背負いながら。



共に同じ時を生きよう。

共に今を刻もう。

共に生命を刹那に燃やそう。

共に生き、愛し、死のう。

喩えこの命が明日に干からびようとも、喩え――この愛を失おうとも。

共に、前に進もう。



はらり、と零れ落ちる涙に、朝焼けの光が差し込んだ





頼るべき者も居らず、特別な才を喪ってまで求めた男には生涯省みられる事はない。

ムィ・シェリスはそんな踊り子だ。

太陽の民を讃える踊り子で、最上の舞を舞えない、誰かの特別になれない踊り子。


自身の舞を、誰より美しいと蔑んだあの口から、【お前は醜い】と、唯その一言だけが欲しいと踊る――それだけの、唯の踊り子だった。

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踊り子と太陽 かんなぎ @kannagi

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