第3話「たった一つの甘いクレープ」(後編)
「えっと、すいません、ご迷惑でしたよねっ……失礼します」
恥ずかしそうに走り去って行こうとした彼女を、
「ちょっと待った!」
勢いだけで呼び止めた俺の口は、彼女に誤解されないように必死に動いていた。
「急なことで驚いただけで、別に迷惑なんかじゃないんだ。貸すよ、もちろん貸す」
「あ、ありがとうございます」
「ただ……」
「……ただ?」
くそっ……なんだよ、ただって。
打算や下心があると思われたらどうする。いや、あるんだけど、けど……。
せっかくきっかけができたのに、無駄にしたくないと思った欲張りが、すべてを台無しにするかもしれない。
後悔することになるかもしれないんだ。
でも、もう言ってしまった言葉は取り消せない。
それなら……。
俺は、勢いよく頭を下げていた。
「一緒に……しっしょに勉強しませんか!」
噛んだ。なんだよ、しっしょにって。恥ずかしすぎだろ……つらい。
「ふふっ……」
おそらく真っ赤になっているだろうということがわかるほどに熱くなった顔を上げると、彼女は笑っていた。
それが、俺が初めて見た彼女の笑顔だった。
「天使だ……」
「え?」
「あ、いや、なんでもありません!」
そうして、俺は彼女と話すようになっていった。意外にも気が合うものも多く、話が盛り上がることも多い。
そうやって、日々を過ごしていくうちに、彼女もだんだんと俺に気を許すようになってくれていて、すごくうれしかった。
図書館で勉強し、二人で帰るというのが日課になっていた。そんなある日。
彼女はぽろっと本音を口にした。
「私、一人でいいと思ってたんです」
「え?」
日もだいぶ傾いていて薄暗かった。人通りもまばらな、特に何もない通学路を歩きつつ、彼女は続けた。
「お父さんの期待もあって、結構つらい時も多くって。私は本当に医者になりたいのかなって、思うこともあって。でも、ほかに何も道がなかったんです。私、要領悪いんで、人の何倍も努力をしなきゃいけなくて……」
「そんなこと……」
「いえ、あるんです。だから、他のことに目もくれず、勉強ばっかりやってたんです。そしたら……あの子は大病院の子だからって、邪魔しちゃ悪いって……そうやって距離をとられるようになっていきました。当然ですよね。だって私、すごく余裕ないって感じでしたし」
わかる気がする。最初に見た彼女の姿や雰囲気から、そんな彼女の学校での様子が想像できてしまった。
甘える先も、頼る先も見いだせず、ただ、我武者羅に努力をする道にのみ自分の居場所を求めるしかない。
俺だったら、耐えられるだろうか。
「それが私の進む道なんだって、そう思ってました。だから、きっと、楽しいこととか、友達との時間とか、諦めてて……。でも、先輩はいっつもまっすぐ私を見てくれました。大病院の跡取り娘の私じゃなくて……私という個人を見てくれました。すごく、感謝してるんです。本当に……」
「……」
俺は、単に自分の私利私欲のために彼女に近づいただけだ。そんな、たいそうな人間じゃない。
だから、欲望にまみれた自分の行動原理に後ろめたさを感じていた。
でも、それ以上に純粋に嬉しいと思った。
俺の存在が彼女にとって、何かプラスになれていたのだとしたら。少しでも彼女の中で、俺という存在が大きくなってくれているのだとしたら。
彼女のつらい気持ちを俺で中和できているのなら、うれしいと思った。
「先輩……」
そう言って彼女は立ち止まる。顔を耳まで赤く染め、何かを言い淀む彼女の姿に、俺は当然のように期待した。
「あの、先輩……」
「は、はいっ」
反射的に返事をしてしまう。
無意識に生唾を飲み込んだ。
心臓が早鐘を打っているのがわかる。
「先輩……。好き、です」
「は、ははっはいっ! 俺も好きです!」
バカみたいに答えてしまって、俺も彼女と同じくらいか、それ以上に顔を赤く染めてしまう。
「ふふっ……」
そんな俺を見た彼女の笑顔は、幸福感にあふれていて。
その笑顔を一生守っていきたい。
……本気で真剣にそう思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます