第24話 Ωの誓い
旧コニーク邸。
それは西方会議時にラインドル王国が借り上げた邸宅であり、そして今一人の男性が自らのためだけに使用する邸宅でもある。
「無理はしないように言ったつもりだけど……もういいのかい」
三階の最奥にある図書室の扉が開いたタイミングで、室内で黒いカバーの書物へと目を走らせていたユイは、足音を立てることなく部屋に入ってきた女性に向かい声をかける。
すると冷たい声が、彼に向かって返された。
「のんびりと休んでいられる状況では無いでしょう。それは貴方もわかっていると思うのだけど?」
「確かにね。でもさ、トルメニアもさるものというべきか、次の一手が封じられてしまった。だからもう少しクラリスでゆっくりしていても変わらなかったよ」
「それは貴方が勝ちすぎたせいでしょ」
「まあ……ね」
溜め息混じりにユイはそう答える。そして彼は肩を落としながら疲れたように言葉を続けた。
「しかしこうなると、また西方のバランスを取るのが難しくなるな」
「拮抗状態を作る。それが貴方の狙いだったわけよね」
「サイン一つでかわされた約束なんて、すぐに……そう百年もしないうちに破られるものさ。それは歴史が証明している。もちろん存在しないよりはマシだとは思うけどね」
知りうる限りの歴史的事実を思いながら、ユイは小さく頭を振りつつそう答える。
それに対しクレハはやや冷ややかな言葉を浴びせた。
「こんな時にまで人の心配をしているの、貴方に似合わないわよ」
「そうかな。これでも私はクラリス王国の一地方領主、つまり俗世にまみれた人間さ。となれば正常極まりない思考だと思うけどね」
軽く頭を掻きながら、ユイは苦笑交じりにそう告げる。
それに対しクレハは、真剣な表情で一つの問いを口にした。
「本気で独立……いえ、西方のバランサーになるつもりなの?」
「私ではなくレムリアックがね。何しろ私がいなくなって破綻するようなら、まだ紙切れ一つの方がマシさ。それに……」
「それに?」
ユイの顔を見つめながら、クレハは先を促すようにそう問いかける。
するとユイは、正直な願望をその口にした。
「ずっとバランサーとして走り回らされるのはゴメンだからね。状況が膠着したら、さっさと面倒なポストからは降りて隠遁するつもりさ。その為にできることは全部やっておこうと思ってね」
「好きにすればいいわ。もしそこまでたどり着けるのならね。何れにせよ、差し迫った問題は貴方にしか解決できない。そうでしょ?」
「そうだね。そして問題は彼らが自由を得たことさ。正直言って、まだ国に縛られていてくれた方が良かった」
国家解散が交渉材料に含まれた時点で、ユイは彼らの正確な狙いを見抜いていた。
だからこそ彼は、白紙とせざるを得なかった未来図を思いその肩を落とす。
「だから結局のところ、すべては貴方が勝ちすぎたことに行き着くわけね」
「いや、彼らが思った以上にしぶとかったと言うだけさ。負けか引き分けよりはマシだったことは事実だしね。結局のところ、もう一度機会があったとしてもやり直すつもりはないってことさ」
「彼らのようには?」
「ああ、彼らのようには」
クレハの問いかけに対し、ユイは迷わず首を縦に振る。
それを受けて、クレハは小さく嘆息すると、黒髪の男に向かい今後のことを問い直した。
「で、本当のところどうするつもり?」
「動くさ。たぶん今動かなきゃ、一生後悔するだろうからね」
「そう……だと思ったから、手間が減るように呼んでおいたわ」
クレハがそう口にした瞬間、一人の老人がその姿を現す。
そう長い顎髭を生やした、某国の引きこもりと揶揄される教授が。
「アズウェル……先生」
「二度とこの国に来ることはあるまいと思っておったが、人生わからんもんじゃな」
アズウェルはそう口にすると、わずかに遠い目となる。
だがすぐに首を左右に振ると、ユイとクレハにその視線を向けた。
「勘違いするな、お前の為じゃない。それよりクレハ、流石にここに来るまでに疲れてしまってのう、茶を入れてきてくれんか?」
「私がいない間に余計なことをするつもりじゃないでしょうね?」
「面倒事をするつもりはないさ。ここに来ただけで十分以上に面倒な話じゃったからのう」
「……わかったわ」
アズウェルの頼みを受けて、クレハは渋々と言った体で動き出す。
そして彼女の姿が部屋の中から消えたタイミングで、ユイは目の前の老人に向かい口を開いた。
「で、彼女に知られたくない話はなんでしょうか?」
「命を……命をかけるつもりはあるか?」
「なんですか、藪から棒に」
突然のアズウェルの問いかけに、ユイは苦笑を浮かべる。
しかしアズウェルは真剣な表情を崩すことなく、ユイに向かい回答を求め直した。
「ふん、時間が惜しい。だから今すぐ返答をよこせ」
「はぁ……イエス。イエスですよ。私にも色々と守らなければいけないものが出来てしまいましたので」
脳裏をよぎる様々な人物の顔。
それは両親とともにすべてを失ったと思ったあの日から、彼が出会ってきた人々の顔であった。
一方、そんな彼の回答を耳にしたアズウェルは、彼にとってもっとも大事な問いをその口にした。
「それはクレハのことか?」
「もちろん彼女もその一人です」
「ならば良し」
アズウェルはそう口にすると、満足したように一つ頷いた。そして彼は懐から一つの論文を取り出す。
「ようやく
「エレンタム将軍と内戦を戦い、アーマッド先生が腕を失い、更には帝国と公国の魔法戦争直後に、キスレチンがクラリスに向かい宣戦布告……ですか」
アズウェルの書いた論文の要約をユイはそのまま読み上げる。
「ああ。しかしだ、マスタープログラムに近いゼスの堕天が遅れたからこそ、あの世界は比較的長期間維持されていた。少なくともお主が死ぬまでの間はな」
「そして私がいなくなり、彼らは世界のリカバリーを行ったと?」
「そうだ。唯一残された復元点、つまり貴様の両親が失われた日までな」
ユイの言葉にうなずきながら、アズウェルは彼が盗み見た事実をその口にする。
それを耳にして、ユイは端的な感想をその口にした。
「まさに無限地獄ですね」
「そうでもない。失われたはずの断片は確実に我らに可能性を与えている。まっとうでやる気のある英雄だった貴様が、奴らと正面から対峙した
「そんなこと言われても、正直別の自分ですからね。言うならば、赤の他人の出来事ですよ。結局のところ、私が行うべきはこの世界を維持して楽隠居を果たすことだけですから」
どれだけ状況が変わろうとも、そして自らの立ち位置が変わろうとも、ブレること無い到達地。
ユイは改めてそれをアズウェルへと告げる。
するとアズウェルは、はっきりと彼になすべきことを告げた。
「ならば貴様のやるべきは一つ。
「つまりリカバリーを阻止した上で、彼らが行っている世界の修復を代わって行えと?」
「修復など間に合うわけがない。既にこの世界の法則は矛盾だらけなのだ。わしらが修正したあの時以上にな。だからこそこの世界を救う方法は一つ」
「ユニバーサルコードを根本から書き換える」
アズウェルの求めるところを理解したユイは、苦い表情を浮かべながらそう口にした。
「ああ、その通りだ。他に方法はない」
「神様の所業を求められるとは……この身に過ぎたる労働もここに極まれりですね。でも残念なことに、他に手はない……か」
そう口にすると、ユイはゆっくりと部屋の窓に向かい歩み出す。
そして窓を大きく開けると虚空に向かい大きくため息を吐き出した。
一方、そんなユイの姿をその目にしながら、アズウェルは彼の背に向けて言葉を発する。
「我が盟友たるアンフィニと剣の巫女の息子。お前なら出来なくもないさ。但し非常に分の悪い戦いではあろうがな」
「修正者と戦い、そして世界と戦う。たぶん私は最高の悪役なのでしょうね。この世界を創り出した存在からしてみれば」
「だが貴様の代わりはいない」
それは短くもはっきりとした言葉だった。
そしてそれを理解しているからこそ、ユイは外へと視線を向けたまま小さく頷く。
「わかっています。そのためにも講和会議が行われるホスヘルへと向かうとしましょうか。この世界を歪める悪として、なすべきことをなすために」
ユイはそう口にすると再び虚空に向かって溜め息を吐き出す。
既に空には無数の星が瞬いていた。
彼はそんな夜空を眺めながら、長い旅路の果てとなりうる地に向かいその視線を向ける。
クレメア教団と修正者が待つ地、ホスヘル公国の方角を。
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