第4話 英雄と王女と
エルトブールの中央に位置する王城。
その城内の一角にエリーゼの執務室は存在する。
決して華美とは言えないながらも、部屋の主に相応しいだけの装丁がなされ、その空間は静寂に包まれていた。
部屋の主は時折頭に手をやり、無意識の内に嘆くような声を何度も発してはいたが、それも周囲に人がおらぬが故であろうか。
エリーゼは目の前にうず高く積み上げられた決裁書類を、丁寧に一枚一枚目を通しながら、愚痴を呟きつつ順に処理をしていく。
以前ならば、執務中にこのような態度を彼女が示すことはなかった。そしてこのような彼女の変化は、とある男に影響を受けているのだと、彼女の侍女達は噂している。
そう、以前はガラス細工によって作られたナイフのように、鋭く透明ではあったものの脆さを周囲に感じさせることが少なくなかったエリーゼ。
そんな彼女が、今や無軌道王女の異名はそのままに、時として図太ささえ周囲に感じさせるようになりつつあった。
もちろんそんな周囲の論評を知る由もない当の本人は、ぼやきながらも今朝届けられた書類の三割程度が片付いたところで、一度大きく伸びをする。
すると、これまで彼女の嘆き声しか音が存在しなかった空間に、突然ドアをノックする音が響き渡った。
「何かしら?」
先ほどまで嘆き声を発していた人物の口から告げられたとは思えぬ、燐とした芯のある声。
それが部屋の外に待機する侍女の耳に届くと、彼女は待ち人の到着を告げる言葉を返した。
「エリーゼ様。たった今、ユイ・イスターツ様が到着されました」
「そう……では、通してください」
眉間に寄っていたしわを緩め、ほんの僅かに口角を吊り上げたエリーゼは、やや挑戦的な眼差しとなる。そしてドアが開けられ、黒髪の青年が室内に姿を現すや否や、彼女は待ちきれぬとばかりに唇を動かした。
「お久しぶりね、ユイ」
「どうもエリーゼ様。ただいま帰りました」
シンプルな返答を口にして、ユイはゆっくりと頭を掻く。
そんないつもの彼のらしい仕草を目にして、エリーゼは嬉しそうに微笑んだ。
「おかえりなさい。それで北の方はいかがでしたか?」
「そうですね。夏でも過ごしやすくて、とてもいいところでしたよ。もっとも、冬にあの地に滞在するのはごめんですが」
両手を左右に広げながら、ユイは首を左右に振る。
するとそんな彼の仕草を目にして、エリーゼは軽く笑い声をあげた。
「冬になれば、きっとあなたのことだからベットから出てこれないんじゃないかしら?」
目の前の青年の性格を踏まえ、エリーゼは彼の行動を予測してみせる。
図星を突かれたと言っても過言ではないその発言に対し、ユイはただ両腕を上げて降参のポーズをとった。
「はは、残念ながら否定材料がありませんね。まったく、ご明察恐れ入りますよ」
まだ暑いのでもう少しだけ北で過ごしたかったという本音を飲み込み、ユイは笑いながらそう返す。
もちろんそんな彼の内心など知る由も無いエリーゼは、額面通りに彼の言葉を受け止め、ニコリと微笑んだ。
「そう言えば、リュートから北での話は聞いたわ。いろいろ大変だったみたいね」
「予定していたことと、予定していなかったこと。その両方で苦労しましたよ」
「苦労……ね。そういえば貴方らしからず、それなりに勤勉に働いたと聞くけど」
「まあ、今回北に行かせて頂いたのは、私の個人的なワガママからですから」
軽く肩をすくめながらユイがそう口にすると、エリーゼはおかしそうに笑い声をあげた。
「ふふ、ワガママですか。それにしても、貴方が自主的に働くなんてね」
「私はいつも勤勉ですよ。もちろんあくまで私なりにですが」
悪びれもせず予防線を張りながらそう言い放つと、ユイは苦笑してみせる。
そんな仕草を何故か無性に好ましく感じたエリーゼは、それ以上彼を追求することはなかった。
「まあ、結果さえ出してくれればそれでいいわ。どうやら十分な結果を出してきたみたいですし」
「十分かどうかはわかりませんが、これでしばらくの間は北への備えは不要でしょう」
「あなたを北に行かせただけで、数百人以上の兵士を他の方面に回すことができるようになった。これがどれだけこの国の防衛構想に寄与しているのか、軍事の専門家じゃない私でもわかりますわ」
「はは。でも、あくまで結果論ですよ。うまくいかない可能性も十分にあった。たまたまサイコロの出目が良かっただけです。まあ、少し苦言を呈させてもらうならば、もう少し向こうでのんびり過ごしたかったですけどね」
さすがに夏の間はという言葉は呑み込んだものの、ユイはエリーゼに向けて間接的に今回の帰還要請の真意を問いただす。
すると、その意図を理解したエリーゼは、わずかに下唇をかみながら一枚の手紙を差し出した。
「こんなものが私のところに届けられました。身に覚えは?」
「ユイ・イスターツに対し、ラインドルによる引き抜き工作の疑いがある……ですか。ふむ、別に隠すようなことでもないですが事実ですよ」
「えっ、ええ!?」
あまりになんでもないことのようにユイが引き抜きの事実を認めたため、エリーゼは動揺を隠すことが出来なかった。
「ああ、勘違いしないで下さい。引き抜きに同意したというわけではなくて、ラインドルで働かないかと言われたことが事実だと言っているだけです。というか、外交時の軽い社交辞令として、その程度のことを口にされるのはそんなに不思議な話ではありませんよ」
「ふぅ……そう。良かったわ、あなたの口からその言葉が聞けて」
「もしかして、その確認がしたくて私を呼び戻したんですか?」
やや困ったような表情を浮かべながら、頭を掻きつつユイはそう口にする。
すると、わずかに罰が悪そうな表情を浮かべたエリーゼは、とっさに視線を逸らした。
「そうよ、悪いかしら? でも、うちの国にとっては一大事よ。国を救った英雄を奪われることはね」
「私が英雄と呼ばれるに値するかに関しては、一考の余地がありますが……ともかくエリーゼ様の御意向はわかりました。しかしそうなると、私が今現在ここにいることは、一体どなたかの思惑によるものでしょうかね」
顔をわずかに赤くしたエリーゼの心境に配慮し、ユイは論点をわずかにずらす。
「思惑? どういうことかしら」
「いやぁ、この国に戻る際に見知らぬ男たちに襲われましてね。私を嫌う人は少なくないので、それ自体はどうということはないのですが……ただこの手紙を拝見させて頂いて、いくつかの点と点がようやく繋がりましたよ」
「襲われたって……ユイ、あなたが?」
報告にない初めて耳にした事件に対し、エリーゼは目を見開きながら詳細を尋ねる。
一方、ユイはそこで初めて誰にも報告を行っていないことに気がつき、鼻の頭をポリポリと掻いた。
「ええ。ラインドルとの国境を越えてすぐのあたりでのはなしですがね、商人に化けた人たちに襲われるという貴重な体験をしましたよ」
「それで?」
「はは、ご覧のとおりです。こうして無事に何事も無く生きながらえております。ただ、一つだけ気になることがありましてね。その連中なんですが、最後に自ら自決したんです。こう、頸動脈に私の刃を突き立てる形で」
そう口にしたユイは、自らの掌を刃に見立てて、そのまま首に当ててみせる。
エリーゼはつばをごくりと飲み込むと、確認するように言葉を吐き出した。
「自決……ですか」
「おそらくご記憶にあることと思いますが、エリーゼ様がカーリンに来られた際に、近衛に化けていた賊が一人おりましたよね。つまり彼と同じことをやってのけたのですよ」
「つまり同じ連中だと?」
ユイの伝えたいことを理解したエリーゼは、端的に要点を問いかける。
「さすがにこれだけの共通点では、とても断定できませんがね。でも、その可能性は考えておいてしかるべきかと」
「で、誰が黒幕なのかしら?」
エリーゼはユイに対してシンプルにそう問いかけると、彼の瞳を覗きこむ。
その視線の圧力を受けながらも、ユイはあえて曖昧な返答を口にした。
「ははは、何も証言が得られませんでしたから、その回答は困難を極めますね」
「では聞き方を少し改めましょう。どなたが黒幕である可能性が一番高いと、あなたは考えているのですか?」
エリーゼは意味ありげな表情を浮かべ、ユイに向かって改めてそう尋ねる。
その言い回しの変化を耳にしたユイは、途端に渋い表情となると、頭をクシャクシャと掻いた。
「そんな尋ね方は誰に吹きこまれたんですか、まったく。しかしその問いかけに対する回答は、貴族院と答えるべきでしょうね。何らの証拠はありませんが、彼らの描きたい未来を考えるに、私やあなたに退場頂きたいでしょうから」
渋い表情を浮かべながらも、ユイは目の前の女性の成長を感じとった。だからこそ彼は、自らの考える仮説を彼女に提示する。
一方、そのユイの見解を受け取ったエリーゼは眉間にしわを寄せると、端正な唇から小さな吐息を吐き出した。
「そうでしょうね。他には考えられないわ」
「わかっておいでだったのですね。にも関わらず、本気で例の件を進められるおつもりですか?」
「例の件?」
ユイの言葉の意味するところを理解しながらも、あえてエリーゼは首を傾げてみせる。
しかし彼女の前に立つ黒髪の男は、エリーゼの顔から一切視線を外すことなく、更に言葉を重ねた。
「……お分かりでしょう? 女王に就任なされるという件ですよ」
ユイの直接的な言及を受けて、エリーゼは薄く笑う。そして目の前の青年の見解を肯定した。
「そのことね。ええ、本気よ。あなたがラインドルに行く前に言ったでしょ。責任を取るものがいない無責任な状態に、いつまでもこの国を置いておけないって」
「そのお考え自体はわかります。ただ……」
ユイ軽く下唇を噛むと、言葉をそこで途切れさせる。
そんな彼の心境をエリーゼは理解するも、毅然とした表情で自らの考えを口にした。
「わかっているわ、ユイ。あなたが危惧していることは。でも、止まってしまったこの国の時間を、そろそろ進めないといけないの」
「止まった時間……ですか」
エリーゼの言葉を反芻するように、ユイは小さくそう呟く。
すると、エリーゼは一つ頷き、改めて口を開いた。
「あなたも直接ラインドルでその目にしたんじゃないかしら。国王が倒れ宙ぶらりんとなってしまった国家が、まさに迷走している姿を」
「もちろん、言わんとされていることは理解できます。ですが、あれは少し事情が違いますよ」
宰相が実権を握り独裁を敷こうと試みたラインドルと、現在のこの国の状況は別物であるとユイは主張する。
しかしエリーゼは首を左右に振ると、そんなユイの見解を否定した。
「違わないわ。宰相が実権を握り誰にも邪魔することの出来ない独裁体制を築くことと、貴族院が自らの都合で国政に介入しようとすること。規模や程度は違っていても、その本質は一緒よ。国の頂点に立つものは、自己の利益だけを追求することがあってはならないの。逆にその覚悟がなければ、上に立つべきではないわ」
ただの上辺で口にした綺麗事ではないことはユイにも分かった。しかしながら、エリーゼがあまりに理想を追い求めすぎているように感じ、彼はどう語りかけるべきか若干の迷いを見せる。
するとそんなユイの表情を見て取ったエリーゼは、彼が口を開くより早く、自らが口にした言葉の甘さに言及した。
「理想論すぎるって表情ね、ユイ。もちろんわかっているわ、私が口にしているのは甘い夢だって。実際に現実は、こんなにもままならないものなのだからね。でも、だからこそ私は自らの理想を追いかけたいの」
「甘い夢を追いかけ続けることは、苦い現実に妥協することより、遥かに険しい道のりですよ」
「構わないわ。既にその覚悟はできています」
ユイからの窘めるような確認。
それを真正面から受け止め、それでいてなお自らの理想に向かい前進するというエリーゼの言葉に、おぼろげながらユイは薄氷の上に立つ美しいこの国の未来を見た。
だからこそ彼は、険しい表情を浮かべたまま自らの意志を彼女へと伝える。
「分かりました。そこまで言われるのでしたら、もうこれ以上何も言いません。以前も口にした通り、女王陛下とこの国の人々が私を必要とする限りはお手伝い致しますよ」
「ありがとう……ユイ。あなたの決意に感謝致します。そしてそんなあなたに、一つ告げておかなければならないことがあります」
「告げておかなければならないこと? はて、一体何でしょうか?」
女王に就任する事以外、なんら告げられるべき内容が思い当たらず、ユイは首を傾げる。
だが次の瞬間、エリーゼの口から告げられた言葉によって、彼の表情は凍りつくこととなった。
「私の女王就任にともなって、あなたを貴族の一員に叙する事となります。そのための準備を整えておいて下さい」
「貴族? この私がですか?」
自らを指さしながら、何かの間違いではないかと、念を押すようにユイは問いかける。
そんな彼の疑念に対し、エリーゼは二度首を横に振る。そし、改めてユイに向かい、彼女は真っ直ぐな視線を向けた。
「ええ、あなたが。そうユイ・イスターツがです」
「……ご存知だとは思いますが、私にはまったくこの国の貴族の血は入っていませんよ。そんなことをすれば、より一層彼らを刺激することになると思いますが」
先ほどまで貴族院を仮想敵とした会話を繰り広げていたにも関わらず、更に彼らを刺激することになる話を受け、彼は困惑極まりない表情を見せる。
だがそんな彼の懸念は、エリーゼがあまりに予想外の人物名を口にすることで、あっさり霧散することとなった。
「残念ながら、ユイ。この件は既に貴族院の長であるブラウ大公とも確認済みよ。むしろ先方の方から持ちかけてきたの。おそらく彼等の本音は、あなたを二位にしたくないということなんでしょうけどね」
「二位にしない……か。なるほど」
そのエリーゼの説明を受けて、ようやくユイはこの話が事実であることを理解する。
つまり結局のところ、貴族院は軍においての実質的な権限を与えるよりも、名誉職的な貴族の称号を与えることの方が望ましいと考えたのだと、ユイは解釈した。
「昇進ではなくて不満かしら?」
「いえ、そういうわけではないですが……」
貴族の優越性と絶対性を信じる彼らが、たとえ実権を与えないためとはいえ、すんなりとユイを貴族に叙しようとするだろうか。
そんな疑念を抱いた瞬間、何故か妙な引っ掛かりをユイは覚える。
だがそんな彼の胸中を知る由もないエリーゼは、目の前の男の表情が冴えぬことに純粋な違和感を覚えた。
「どうしたの、ユイ?」
「いえ、気にしないでください。少しばかり過分な話で、少しめまいがしただけですよ」
頭の中で鳴り続けているある種の警報をどうにか抑えこみ、ユイはあえて当り障りのない回答を口にする。
エリーゼはそんなユイの反応に軽い疑念を抱いたものの、それ以上追求することなく軽く頷いた。
「そう……だったらいいのだけど」
「まあ私の話はともかく、まずはエリーゼ様の女王就任式典が素晴らしいものになるよう努めるとしましょう。もっとも私にできることは、エインスの尻を叩いて働かせることぐらいですけどね」
やや心配そうなエリーゼの表情に気がついたユイは、そう口にして軽く笑い声を上げる。
こうしてユイは、自らに迫る危機の匂いを感じ取りながらも、最終的には彼へと向けられた悪意を回避しえなかった。
そして彼は無防備のまま、その日を迎えることになる。
そう、エリーゼの女王就任と伴に、自らが貴族へと叙される事となる日を。
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