第3話 ライン公
「局長、失礼します。実は、先ほどお客様が来られまして……」
それはユイ達がアーマッドの部屋を訪れてから幾ばくかの時間が流れた頃のこと、ノックとともに重厚な扉の外から、若い女性職員の少し慌てたような声が届く。
「こんな時間にお客さんかい。一体、誰かな?」
面談の予定など入れていなかったアーマッドは、突然の来客の報告に対し首をかしげる。
「それがですね……」
女性職員がやや落ち着きのない声で返事をしようとすると、「いいから」というやや低めの男性の声が聞こえ急に扉が開け放たれる。
開いた扉の先に立っていた男。
それは立派な身なりをした初老の男であった。
彼は躊躇なく部屋に入り込むと、ユイに向かって満面の笑みを浮かべる。
「おお、ユイ! ほんとに戻って来おったんじゃな。向こうでは元気にやっとったかね?」
「ライン公!」
四大大公の一人であり、この国における重鎮の中の重鎮。
そのライン公の突然の来訪にユイ達は驚くと、慌ててその場から立ち上がる。
しかしそんな彼らの驚きを知ってか知らずか、ライン公は笑いながら右の手のひらを二度上下に振り、彼らに向かってそのまま着席を勧めた。
「いや、本当に久しぶりだな。実はお前達がわしの家に来る前に、軍務庁舎に立ち寄ると聞いてな。ちょうど王城に行った帰りであったから、ついでに拾いに来てやったぞ」
「ライン公。過分なお気遣い、ありがとうございます」
「ユイよ……ライン公はやめろ。ジェナードと呼べと、いつも言っておるだろうが」
エインスの家庭教師を始めて幾ばくか過ぎた辺りから、ジェナードはユイを気に入り、自分を名前で呼べと言う様になっていた。
もっともユイ自身はさすがに遠慮もあり、ジェナードと呼びかけることはめったになかったわけではあるが。
ただそんな提案をする度に、ジェナードが満足げな表情を浮かべていたのは事実である。
さてジェナードがユイに対し、なぜこのように振る舞うようになったのか。
それについてはいくつかの理由が存在する。
もちろんユイの人柄と才能を気に入ったことは当然理由の一つであったが、最大の理由は彼の両親がすでに他界していることにあった。
ジェナードはユイの家族が既に誰も存在しないことを悲しむと、自然と彼の後見人を自認するようになっていく。
そうして時が経つにつれて、ユイをエインスと共に仕事に遊びにと連れ回すようになり、そしてますます彼を気に入るという循環に嵌っていった。
そんな懐かしい過去を思い出すと、ユイは不意に目頭が熱くなる。
しかし必死にその感傷を飲み込むと、ジェナードに向かってなんとか笑みを浮かべた。
「相変わらずご壮健のようで、何よりです」
「いやいや。家ではすっかりエインスと家内に年寄り扱いされとるよ」
「ルネさんもお元気ですか?」
物腰が柔らかく、そして清楚で美しいジェナードの妻の存在を思い出し、ユイは彼に向かってそう尋ねる。
「ああ、あいつは今だに若々しくてな。はっきり言って今も変わらず美人じゃぞ。お前達がうちに泊まるのは構わんが、わしの嫁には手を出すなよ。ははは」
「確かに、ルネさんが美人なことには異論ありません。ですが何かの間違いで、エインスの義父になるのは正直言って勘弁です」
「はっはっは、お前は相変わらずだな。ん……そこに居るのはアーマッドではないか。なんじゃ、お前もおったのか?」
ジェナードはこの部屋に入ってからその時点までユイのことにしか関心が向いていなかったため、その時点で始めてアーマッドの存在を認識する。
すると、アーマッドは呆れたような表情を浮かべ、窘めるように口を開いた。
「……ジェナードおじさん、ここは私の執務室ですよ。普通に考えれば、私がいるのは当然でしょう」
「ふん。どちらにせよ、お前のことなどどうでも良いわ。それよりそっちの大きいのが、ユイの手紙に書いてあったカインス君かな? 先日は君にもうちのエインスがお世話になったようで、本当に感謝している。ありがとう」
あっさりとアーマッドから興味を失うと、ジェナードはカインスへと視線を移し、真剣な表情を浮かべてその頭を下げた。
「い、いえ、私なんかはそんな大したことはしていません。どうか、どうか頭を上げてください」
いくら田舎育ちとはいえ、ライン公の地位や立場くらいはさすがにカインスも知ってる。
その為、そのように身分の高い者が自分のような階級の低いものに頭を下げるという事実に、彼は動揺し急にオロオロし始めた。
ユイはそんな光景を目にして、この貴族らしからぬ大貴族のジェナードが、昔と全く変わっていないことを再確認する。
そして胸の内でジェナードに対する安堵と喜びの気持ちが膨れ上がると、彼は思わず笑みをこぼした。
「さて、まだまだ積もる話はあるがの。とりあえずそれは後で聞くとして、まずはわしの家に向かうとしようか。アーマッド、もう二人を連れて行ってもいいんじゃろ?」
「……ええ、結構ですよ。ユイ君、また君の予定や辞令が決まり次第、おじさんの家の方に連絡をするよ。とりあえずしばらくは、のんびりしておきなさい」
好き勝手に振る舞うジェナードに疲れたのか、アーマッドは肩を落としながらそう告げる。
その許可を耳にした途端、ジェナードはユイ達を急かすと、彼らはアーマッドに礼を言った上で局長室を後にした。
「しかしわざわざお迎え頂き、申し訳ありません」
「ふふふ、お前とは長年の付き合いじゃからな。放っておけば、いつまでもアーマッドの所に居座りかねんから連れに来たんじゃよ。さて、わしは少し事務手続きがあるでの、正面玄関に馬車を停めておるので、先に行っておいてくれ。すぐに向かうでな」
「わかりました。ではカインス、先に行こうか」
そう言って局長室前で二手にわかれると、ユイ達はそのまま一階まで降りて玄関を出る。
そしてそこで彼らが目にしたものは、軍務庁舎のまさに目の前に堂々と横付けされた豪奢な馬車であった。
「隊長……まさかあれですかね」
「ああ、あれだね。あんなにフランクな方だが、一応この国でも片手で数えられるくらいの有力者なんだよ」
カインスへと視線を向けながら、ユイは馬車に向かおうと足を踏み出す。
するとそのタイミングで、彼は正面から歩いてきた男と不意に肩がぶつかった。
「おっと、失礼」
相手に視線を向けることなく、ユイは一言謝罪を口にする。
そしてそのまま気にせず馬車に向かおうとすると、何者かがユイの腕を突然強い力で掴んできた。
「ふざけるなよ! 貴様、私を誰だと思っている?」
怒りを隠さぬその声を耳にして、ユイは厄介そうな表情を浮かべるとゆっくりと振り返る。
その彼の視線の先には、ウェーブ気味の銀髪パーマの男が目を吊り上げながら立っていた。
「貴様ぁ……落ちこぼれのユイ・イスターツじゃないか。貴様、左遷されたにも関わらず、いまだ図々しくも軍に残っていたのか」
「ああ、ムルティナか。いやぁ、久しぶりじゃないか」
見覚えのあるその男の姿を認めて、ユイは懐かしさとともに目元を緩める。
しかし一方のムルティナは更に苛立ちを募らせると、ますます目を吊り上げユイを強く睨みつけた。
「ムッ、ムルティナだと! この私を呼び捨てにするとは……やはり貴様は身分をわきまえるということを知らんようだな。左遷のお情けで六位になったようだが、この私は五位だ。そこに這いつくばって謝罪をしろ」
「へぇ、もう五位なんだ。なるほど出世したんだね、ムルティナ」
微妙に噛み合わない会話を行いながら、かつてのムルティナの記憶をユイは脳内から引っ張り出してくる。
ムルティナ・フォン・メニエル。
彼はユイ達の士官学校時代に魔法科に所属していた同期生であり、そして四大大公の一人であるメニエル公爵の次男。更に付け加えるならば、彼こそがユイ達の世代の学年首席であった。
もっとも士官学校の主席は入学時及び卒業時に学年代表として挨拶を行う慣例があり、四大大公家の子息が入学した際は、立場的に彼らが挨拶を行わなければならない。
そのため彼らの試験結果に関しては、ある程度の配慮が加えられることが暗黙の了解となっていた。
もちろん四大大公家出身の全ての者が、そのような配慮を必要とするわけではない。
例えばライン大公の長子であるエインスは、そのような配慮を微塵も必要とせず自らの実力だけで学年首席の座を手に入れている。
しかし不幸にもムルティナに関しては、同期に優秀すぎる三人の士官候補生が存在した。
だからこそその結果として、彼を首席とするには十分以上の配慮を必要とし、そのことが周囲の嘲笑や冷笑を招くこととなる。
そのような忌まわしき事実。
それが今でも許しがたき三人に対しムルティナが、強いコンプレックスを持ち続けている理由であった。
「ムルティナ・フォン・メニエル様だ! 呼称を訂正し早く頭を下げろ!」
「はは、いいじゃないか。別に知らない仲じゃないんだし、階位なんかどうであろうとさ。それより馬車の準備をしなくてはいけなくてね、申し訳ないけど失礼させてもらうよ」
そう口にしてニコリと笑うと、ユイは用が済んだとばかりに踵を返して歩き出す。
しかしそれが自分を軽んじる態度であると受け取ったムルティナは、怒りを抑えきれず突然ユイに掴みかかった。
「ふざけるな!」
怒声とともに背後から全力で掴みにかかられたユイは、反射的に全身を脱力させる。
そして掴みに来たムルティナの手首を捕まえて固定すると、体位を入れ替えて体を捻り、ムルティナの腕をねじり上げながら彼の体を組み伏せた。
「あ……ごめん。反射的につい……」
後ろからの殺気に反応して無意識に組み伏せたことを苦笑い混じりに謝罪し、ユイは慌てて彼を開放する。
一方、突然地面へとキスする形となったムルティナは全身に怒気を漲らせると、立ち上がるなり腰に備えた剣の柄へと手を掛けた。
「貴様……貴様ァ! 許さんぞ!」
ムルティナが剣を抜く仕草をみせたことで、それまではただの小競り合いと高をくくっていた警備兵達が慌てて二人を止めにくる。
しかし実際に彼らの諍いを収めたのは、そのタイミングで玄関口から発せられた豪快な笑い声であった。
「ははは、メニエルの息子も元気なようじゃな。軍人はそうでなくてはいかん。ただここがどこかをわきまえる分別を持つことも、必要なことじゃろうて」
「誰だ、おま……こ、これはライン公。し、失礼いたしました」
ムルティナは自分を笑い飛ばして自重を求めた男に対し、一瞬怒りの矛先を向けかける。
しかし相手がライン公であることを把握するや否や、バツの悪そうな表情を浮かべてその口をつぐんだ。
「ふふ、元気があることは非常によろしい。あとは元気の使い方じゃな。それで一体何を揉めておったんじゃ?」
「はい……この六位の左遷男が階位もわきまえずに、上位者である私を蔑ろにしたのです。それ故、少し指導を行おうとした次第でして」
ムルティナの弁明にわずかに眉を吊り上げると、ジェナードは軽く首を傾げた。
「ん、ユイがか? ムルティナ、お前は何位じゃ?」
「五位でありますが……」
その返答を聞いてジェナードは溜め息を吐くと、彼は首を左右に振る。
「そうか……残念じゃがムルティナ。ユイは既に四位に階位を進めておる。むしろ階位を無視しておるのは貴様の方じゃな」
「なっ! 馬鹿な、こんな穀潰しが四位ですと……」
「いやぁ、色々あってね……まあ私には過分な地位だから、すぐに逆転すると思うよ。それじゃあね」
ユイはそれだけを口にして、ムルティナの肩をポンと叩く。
そしてそのまま彼は、ジェナードを先導する形で馬車へと乗り込んだ。
そんなユイの背を睨みつけながら、ムルティナはその顔を真っ赤に染め上げていた。
だが階位が明らかになった今、彼は恨みがましい目でユイを睨みつけることしかできず、ユイたちを乗せた馬車は彼を置き去りにその場から離れていく。
「本当に助かりました。彼もそこまで悪い奴ではないんですが、私やリュートあたりが相手の場合、どうにも融通が効かなくなるようで」
御者に指示を出してゆっくりと進み始めた馬車の中で、ユイはジェナードに頭を下げる。
「困ったものじゃな。あやつもいい歳なんじゃから、その辺を割り切らんといかんというのに……ああも成長が見えんのは、メニエルのやつが甘やかし過ぎなんじゃろうて」
ジェナードは呆れたようにそう口にすると、強く鼻から息を吐きだす
「メニエル公爵は、素晴らしい人格者であると伺っていますが……」
「あやつが個人的に良い男なのはわしも認めるがな、親としては別ということじゃ。まあそんなどうでも良いことより、我が家での夕食を楽しみにしようかの」
ジェナードはそう言葉を発すると、馬車の窓の外へその視線を移す。
次第に薄暗くなり始めたエルトブールの街並み。
そんな夜の帳が下り始めた街路の脇では、魔石を利用して明かりを灯す魔石灯にぼんやりとした光が灯り始めていた。
ユイ達を乗せたジェナードの馬車は、わずかに残る空の光とその魔石灯の明かりを頼りに、ゆるやかにジェナードの邸宅へ向けて進んでいく。
宿場と商店が立ち並ぶ商業区画を通り過ぎ、街の中心部へと向かい出した頃には、周囲の街並みは急速に貴族の邸宅街へと変貌していった。
明らかに絢爛豪華な建築物の集合地。
その一帯の中で、一際大きな邸宅が彼らの視線の先に存在した。
「まさか、あれが公爵のご邸宅ですか。すごい!」
建物の大きさはもちろんであるが、その庭を含めた面積はなんとカーリン市庁舎の半分程度の規模がある。
そんな豪奢な屋敷を目にするのが初めてであったカインスは、馬車のガラスに張り付きながら興奮して歓声を上げた。
カインスの純粋な反応。
それに喜んだジェナードは、嬉々として自らの邸宅内の作りを彼に説明し、気がつけば馬車は彼の邸宅前へと到着していた。
御者が馬車のドアを開け、一行が馬車から降りる。
すると、老齢の執事を従えた四十代前後の美しい貴婦人が彼等を待っていた。
「みなさん、お待ちしていましたわ」
「ルネさん、どうもお久しぶりです。この度はしばらくですが、御厄介になります。それとこちらが私の連れのカインスと言います」
「はじめまして。カインスと申します」
ユイは隣に立つカインスを紹介すると、彼は優しげな笑みを浮かべるルネに向かい深々と一礼する。
「カインスさんですね、ふふ、お待ちしておりましたよ。たぶんまだ夕食を食べていらっしゃらないのじゃないかと思って、食事の用意をしておいたのだけど、如何ですか?」
「ありがとうございます。でも、よろしいんですか?」
ユイは喜びを顔に出しつつも、ルネに向かって一応遠慮がちにそう確認をする。
「ふふ、昔はいつも家で食べていたじゃない。どうせしばらくうちに泊まるのでしょ? 遠慮はいりませんよ」
「そうですか。それではお言葉に甘えて、遠慮無く頂きます」
ユイの返事を聞いてルネは笑顔を浮かべると、隣に待機していた執事に向かって一つ頷く。
それを合図に執事は入り口の扉を開けると、皆を屋敷の中へと迎え入れた。
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