第9話

 帰宅した恭佳とトキを見て、出迎えてくれたシルキーはまず驚きに目を瞠り、次いで二人から漂う異臭に鼻をつまんだ。レンフナ語でなにかしら訴えているが、なんとなく「くさい」とか「なにがあったんですか」と聞いている気がする。トキは恭佳には分からない言葉で端的に説明すると、泥やゴミまみれになってしまった詰襟を脱ぎ捨てて浴室に飛び込んでいった。

 廊下に置き去りにされた服をつまみあげ、シルキーは恭佳に視線を寄こす。恭佳は水を吸って重たくなった袴を引きずるようにして歩きながら苦笑した。どうやらトキの説明では足りなかったらしい。

「ちょっと川に飛び込んだりしてきちゃって」

 言葉が通じないので、恭佳は身振り手振りを交えつつ話し始めた。

「色々あったし、どこから説明したらいいのかな……私とトキさんは物陰に隠れてたんだけど、私たちを隠してくれてた机が持ち上げられかけて。で、トキさんが――」

 もうだめだ、見つかると恭佳が諦めかけた瞬間、トキが円卓を思い切り突き飛ばしたのだ。

 タチカワも油断していたわけではなかったようで、円卓ごと弾き飛ばされることはなかったが、不意はつけたようだ。トキは動転している恭佳をカバンごと軽々と肩に担ぎ上げ、薄暗い中で足元になにが落ちているか分からないのに、俊敏に駆けた。

 当然タチカワから「待て!」と制されたが、言うことを聞くわけがない。トキが向かっている先に気づいて、恭佳も「ちょっと待ってください!」と叫んだが、こちらも聞き入れられなかった。

 トキはなんのためらいもなく窓に突撃したのだ。廃屋ゆえにそこまで頑丈さもなかった木製の格子窓は呆気なく破れ、二人はなんとか外に脱出した。

「けど、窓から飛び降りた先が川で……」

 家屋は川べりに建っていたらしく、恭佳たちが降りたったのは地面ではなく川底だった。これはトキも予想外だったのか、着水した瞬間に珍しく驚いていた。

 のんびりしている暇はない。トキは恭佳を担いだまま、水が膝ほどまであるというのにさっさと走り出した。タチカワは追ってくるかと思われたが、ぬっぺふほふを初めに見た辺りまで逃げても、彼は姿を見せなかった。

 知らぬ間に雨が降りだしていたからだろう。晴れていれば追跡されていたかもしれない。

 いったん安心したところで、恭佳はようやく荷物扱いから解放されたのだが、どうせなら川から上がったところで降ろしてくれたらよかったのにと思わずにはいられない。おかげで袴が悲惨なことになっている。

 まあ、もっとひどい状態なのはトキなのだが。なにせ水を弾きながら走っていたものだから、全身に貧民街の川のにおいが染みついてしまっている。

 全てシルキーに伝わったとは思えないが、ひとまずある程度は把握してくれたらしい。あまりの異臭に、トキが着ていた服は処分することにしたようだ。シルキーは詰襟を乱雑に丸めると、恭佳の袴を指さした。

「……洗ったら、また使えたりしない?」

 結構お気に入りなんだけど、と重ねて訴えたところで、伝わりはしなかった。



「窓から出る直前にざっと見ただけだが、ぬっぺふほふを作った奴らは三人とも、死んでた」

 まだ完全に乾ききっていない髪から時おりしずくを垂らしつつ、トキは書斎の机にもたれかかって、回収してきた〈核〉を観察している。ここ数日共に暮らして何となく感づいていたが、黒い詰襟を何着も持っているようだ。先ほど脱ぎ捨て、シルキーに処分されたものとよく似た別の詰襟を着用している。

 恭佳もトキのあとにシルキーによって浴室に押し込まれ、着替えさせられた。すぐに部屋に来いとの指示が下ったため、恭佳はシルキーの仕事着を借りている。着物などと違って頭からすっぽりと素早く着られるし、着心地も悪くない。ワンピースという代物らしい。

「死んでたって……殺されてたってことですか」

「タチカワとかいう男にやられたんだろう。おかげであれ以上の情報を聞けずじまいだ、くそっ」

「でもなにも分からなかったってわけでもないですよね? その〈核〉とか、未完成の幻獣の女の人とか」

「あとは訳の分からねえ祭壇な」

 机の上には、廃屋から持ってきた謎の木像が置かれている。

 像は杖を持つ女をかたどっているようだ。陽輪教で信仰されているのは男神おがみだし、トキがレンフナで見たという闇の神は女だそうだが、こちらは杖を携えていないという。

 祭壇も、恭佳にもトキにも見慣れないものだった。まったく新しい宗教なのか、それとも二人が知らないだけで以前からあった宗教なのか、現時点ではどちらとも判断できないとトキは言う。

「とりあえず幻獣事典にぬっぺふほふのことは書けそうだが、初めからこいつを作るって決めて作られたわけじゃなく、〈核〉の質があまりにも悪すぎたせいで生まれた偶然の産物ってのは拍子抜けだな。ヨサカ独自の幻獣と言っていいもんかどうか、微妙なところだ」

「その〈核〉のことも、あの人たち何か言ってませんでしたっけ。『レチアさまのご加護が』なんとかって」

「ああ。あの女の素材もどこから持ち込まれたのかさっぱりだし、分からねえことが分かった・・・・・・・・・・・・って感じだな。……良質な〈核〉が使われてりゃ、あのぬっぺふほふだって素晴らしい幻獣になったかも知れなかったのに」

 雨に降られて体が冷えていると考えたのか、シルキーが温かい緑茶を二人分、持ってきてくれた。少し大ぶりな湯飲みを両手で支えるようにして一口すすると、柔らかな渋みとほのかな甘みが舌から全身に伝わり、ようやく一息つけたような気分になる。

 緑茶と一緒に用意してくれた豆大福を味わったところで、恭佳は「そういえば」と吐息をつくように呟いた。

「私てっきりトキさんは魔術師の人たちを嫌ってるのかと思ったんですけど、ぬっぺふほふを作った人たちを捕まえるって言ったのは、条件を守って暮らしてる魔術師を守るためだったんですね」

「当たり前だろ」と答えたトキの眉間にしわが寄る。恭佳の一言は心外だったようだ。「魔術師を嫌ってたら、そもそも幻獣事典作るとか言い出してねえよ」

「でも『あそこの店主は嫌いだけど、料理はおいしい』みたいなお店ってあるじゃないですか。そういうことかと思ったんです。『魔術師は嫌いだけど、幻獣は好き』なのかなと。その幻獣も、ぬっぺふほふみたいに記録したら〈核〉を取っちゃうんですね」

「お前、絶対になにか勘違いしてるな。ぬっぺふほふはむしろ例外だぞ。人に危害を加える危険性があったら壊しただけだ。片っ端から摘出してたんじゃ、やってることは〈機関〉と変わらねえだろうが」

「……えーっと……?」

 トキの言葉には分からないものが多すぎる。恭佳は首を傾げたが、ひとまず幻獣の〈核〉は必ず摘出するというわけではない、ということだけ理解した。彼の話から察するに、人に危害を加えそうになければ、これといって手を出したりしないのだろう。

 分からないことで思い出したことがあり、恭佳は忘れないうちに聞いてみることにした。

「ずっと気になってたんですけど〝神力イラ〟ってなんなんですか?」

「魔術師の説明をした時に話さなかったか? 神の力の欠片って」

 ――あっちの方の宗教では、人間は神が土をこねたことで出来たって伝えられてんだ。その時に神の力の欠片が宿り、不可思議な力が使えるようになった連中のことを主に魔術師という。

 確かにそう説明されたが、肝心の神力イラとやらについてはまともに聞いていないも同然だ。不可思議な力というのが神力のことだろうが、それ以上はさっぱりである。

「神力ってのは『なんでも出来る力』だ。不治の病を治したり、空を飛んだり、幻獣を作ったりな。だが、なんでも出来るわけじゃない」

「? 言葉がおかしくないですか? さっきはなんでも出来る力って言ったのに」

「個人によって得手不得手があるし、使える能力も千差万別だし、体のうちに蓄える量にいたっては生まれつきのものだ。後天的にどうにかなるものじゃねえ」

「そうなんですね、勉強になります」

 ぬっぺふほふを作った彼らは、先天的に神力を保有していたからこそ、幻獣を作ることが出来たのだろう。トキ曰く「あの三人のうち、神力を持ってたのは二人だけだった。あと一人からはなにも感じなかった」とのことなので、常吉の店で幻獣の作り方云々を訊ねたのは、神力を宿していなかった男と思われる。

 ――トキさんも、もしかして神力があるのかな。

 他人の神力を感じ取ったりしているのだし、ヨサカ人らしからぬ黄金の瞳も神力を宿すためなのかと考えると、我ながらなかなか浪漫のある説な気がする。

「あ、あと」

 まだあるのか、と言いたげな視線をあえて無視して、恭佳は言葉を続けた。

「ぬっぺふほふを調べてたときに『刻印』がどうとか言ってませんでしたっけ。あれは?」

「十家が作った幻獣には、それぞれの家を表す刻印がどこかしらにあるんだよ。ただ十家のうち八家は処刑あるいは離散してるし、残りの二家も二百年前を境に幻獣は作ってねえ。つまり刻印がない幻獣ってのは、十家に属さない魔術師、または二百年以内に作られたって証拠なんだよ。刻印が入ってたら、これまで誰にも危害を加えずに過ごしてきた証にもなる」

「なるほど……」

「で? 他に聞きたいことは?」

「正直に言うとまだありますけど、一度に聞いても頭が混乱しそうなので、今は大丈夫です。教えてくださってありがとうございます」

 素直に感謝の意を伝えて頭を下げ、恭佳は残っていた緑茶を飲み干した。

 明日からは本来の目標であるヨサカ独自の幻獣事典作成と、レンフナから持ち帰ってきた事典の翻訳作業を行うという。また、数日間は外出を控えるようにとも命じられた。

 どうしてですかと訊ねた恭佳に、トキは心の底から面倒くさそうにため息をついた。一瞬、恭佳に向けてのため息かと思ったが、続く言葉にそうではないと悟った。

「タチカワとかいう男が、俺たちを捜してるかもしれねえだろ。どういう経緯かは知らねえが、あいつらはあの廃屋で幻獣が作られてたのを知って突入してきたみたいだった。その場から強引に逃げ出した俺たちのことを追ってないわけがない」

「……あ。共犯だと思われてるかもしれないってことですか」

 トキがこっくりと頷く。

 廃屋にいた男たちは殺されていたようだと聞かされたばかりだ。共犯だと思われているであろう恭佳たちが今、タチカワに出会えばどうなるか、想像に難くない。

「家にこもってる間に、溜まってた事典の翻訳と編纂をする。祭壇だの女の幻獣だの、その辺りは常吉に文を出して、俺の代わりに調べるように言っておくしかねえな」

「悔しそうですね。そういえば祭壇があった部屋で『不愉快だ』って仰ってましたよね。あれって陽輪教の掛け軸が潰されてたからですよね。意外でした。トキさんって見かけによらず熱心に神様を信じてるんだなあって」

「馬鹿にされてるような気がするのは気のせいか?」

 そんなことはないですと首を振るが、トキの唇はへの字に曲がったままだ。

「別に熱心な教徒ってわけじゃねえよ。俺の場合は……」

「場合は?」

「……まあ、自分が信じてる宗教をあからさまに否定されてたら、多少はイラつくだろ。そういうことだ」

「はぐらかしました? 今、はぐらかしましたよね?」

 うるせえ、と呟いたトキの顔に、どことなく悲しげな色が浮かんでいた。


 宣言通り、トキは翌日から翻訳と編纂の作業に没頭した。恭佳も助手として採用された意味を発揮し、トキが次々に翻訳していく異国の事典を頁の番号順に並び替えたり、トキが綴ったヨサカ独自の事典を丁寧に清書したりと、時間を忘れるほど働いた。

 朝晩の食事の用意や、入浴や就寝時間を知らせるのはシルキーがやってくれた。放っておいたら二人とも飲まず食わず、睡眠も惜しんで徹夜で作業し続けると分かっていたのだろう。

 出歩くことを控える二人に代わり、シルキーは買い物にも出かけてくれた。ヨサカ語が分からないのに買い物が出来るのかと思ったが、トキが同行できない時は常吉が一緒に店を回って通訳をしてくれるらしい。当然、対価は発生しているようだが。

「ソレイユ、――――」

「――、――――――。――――」

 出先から帰ってきたシルキーが、トキの机に封筒と間食を置いて去っていく。

 最近、辛うじてトキに対する呼称らしき言葉だけは分かるようになったが、相変わらず彼女の言葉は通じないものだらけだ。だが、分からないまでも、状況によって多少察せられるようにはなりつつある。

 今は恐らく「常吉さんから返事を預かってきました」とでも言ったのだろう。休憩がてらトキが封筒を開けると、便せんが一枚だけ入っていた。

「〈機関〉がうろついてる、か。フィオーレって呼ばれ方からもしかしてとは思ったが、やっぱりな」

 面倒くさそうに呟き、トキは色濃い隈が残る目元をこすり、大きく欠伸をした。

「この前も言ってましたけど、〈機関〉ってなんなんです?」

「幻獣や魔術師とかを片っ端からぶっ殺していく集団のことだ。いつ発足したのか知らねえが、巨大な組織であることは確かだ。幻獣や魔術師と同じように、今までヨサカで見かけることはなかったんだが……これも時代の流れか」

「追いかけて入って来たってことですかね」

「確実に。面倒くせぇことになった」

 シルキーが置いていった焼きたてのクッキーをかじりつつ、恭佳は机の上に広げられた便箋を覗き込んだ。書いてあるのは〈機関〉に気を付けろということだけで、トキが依頼していた女の幻獣の出どころなどは、まだ調査中とある。ついでに追加の料金を、五日以内に支払えという催促も。

「〈機関〉の奴ら、無害だろうがなんだろうが、幻獣だと判断した瞬間に襲い掛かってくるからな。シルキーもうかつに敷地外に出せなくなった」

「そろそろ私やトキさんが外に出てもいい頃合いってことじゃないですか? もう二週間もとじこもってますよ。いい加減、外をのびのび出歩きたいです」

「……まあ、そうだな。注意は必要だろうが、もういいか」

 ひとまず常吉に料金を支払いに行くのを第一目標に、トキは編纂に必要な幻獣捜しに出掛けることにしたようだ。翻訳はかなり進んだのだが、ヨサカ独自の幻獣をまとめるための情報が不足しがちになってきたのだ。

 じゃあ明日にでも行きましょうか、と恭佳が提案すると、それまで緩みきった顔でクッキーと紅茶を楽しんでいたトキの目が険しくなった。

「どうしたんですか?」

「明日……今からじゃ駄目か」

「だって出かけるにはもう遅い時間帯ですよ。お金を払いに行くならなるべく早い方がいいでしょうし、明日が最適かと思ったんですけど」

「……分かっちゃいるんだが、明日か……」

 しばらく悩んだあと、トキは渋々といった風に「そうするか」と恭佳の提案を飲みこんだ。

 今日の仕上げとしてこれまで翻訳した分を読み返し、間違っている部分がないか確認してから、恭佳は書斎を辞して部屋に戻った。

 トキがなぜ明日の外出を渋っていたのかは、のちのち知ることになるのだった。

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