第8話
異様な光景を前にして反射的にトキの背中を掴んでしまってから、恭佳は違和感に首をひねった。
「人形……ですか? あれ」
近づいて確認したいのはやまやまだが、前に出るなと言われている。恭佳はじっと女を見つめ、やっぱりと頷いた。
「おかしいなと思ったんです。体が切られてるのに、全然血が出てないから」
「ここで殺されたわけじゃねえなら当然、血が流れてるわけはねえと思うが。けどまあ、あれは――」
「なにをごちゃごちゃ喋ってやがる!」
トキが何かしら言いかけたのを遮り、男の一人がぬらりと光るものを手にして歩み出てきた。出刃包丁だろうか。女の体を切るために使用していたのかも知れない。
ぼろぼろになった畳を踏みしめて近寄ってくる彼の手は、怒りのあまり細かく震えていた。
「お前ら何者だ。部外者ならさっさと出ていけ。今なら見逃してやる」
「部外者なのは認めるが、出ていくわけにはいかねえな」
切りつけられるかもしれないとは微塵も考えていないらしい。トキはゆっくり男と、行灯のそばの女に近づいていく。
「く、来るな!」
「喚くな、やかましい」
トキに睨まれでもしたのか、男が息をのんで立ち止まる。仲間であろう別の男二人も、恐ろしいものでも見たかのように、倒れて朽ちかけた大ぶりな箪笥を背にしてずるずると座り込んだまま、身動き一つしなくなった。
ぴんと張り詰めた空気が流れる中、トキは女の横にしゃがみこんだ。彼は恭佳を近くに呼び寄せると、「見ろ」と露わになった内臓を指し示す。
「なんですか?」
「この女、心臓が無い」
「……は? えぐり取られてるってことですか」
「逆だ。これから入れるところだったんだろ」
言っている意味が分からず困惑する恭佳をよそに、トキは壊れものに触るような慎重な手つきで、そっと女の閉じたまぶたを指で押し上げる。鮮やかな翡翠の瞳は虚空を見つめるばかりで、どこか作り物めいて見えた。
顔立ちもヨサカ人と違い、鼻が高いのが印象的だった。年頃は二十代だろうか。背中の下で扇状に広がる
トキは女の腕や足を触ったり持ち上げてみたり、くまなく確認してから、包丁を持ったまま立ち尽くしている男に目を向けた。
「ぬっぺふほふを作ったのはお前だな」
「な、なんだ、それは」
「誤魔化しても無駄だ。俺には分かる。ぬっぺふほふの〈核〉から感じた
「渡すはずがないだろう! あれにはレチアさまのご加護が詰まってるんだぞ!」
「おい、余計なことを」
包丁男の叫びには、どうやら彼らにとって不都合なことが含まれていたらしい。仲間の一人から指摘され、彼はぐっと口を噤んだ。これ以上トキが男たちを刺激して、襲いかかられでもしたらどうするのか、と恭佳は今にも口から心臓が飛び出そうなほどだったが、どういう訳か包丁男は近づいてこない。
まるで全身が石になってしまったかのように。
本人も己の身になにが起こっているのかよく分かっていないのだろう。何度か悪態をつきながら体を動かそうとしていたが、無駄な徒労に終わっているようだ。
「あの、トキさん。この人が幻獣って……人形じゃないんですか?」
「こんな本物そっくりな臓器が人形にあると思うか? 医療用でもこんな精巧なものはねえだろうよ」
そんなことを言われても、恭佳はなんとも言えなかった。姉の死体は腹が食いちぎられていたし、もしかしたらそこから内臓が覗いていたかも知れないけれど、当時は恐ろしくて見ることなど出来なかった。つまり本物などまじまじと見たことがないのだ。もちろん医療用の物だって見たことないし、存在していることすら知らなかった。
「でも幻獣って〈核〉を壊されたり、体から出されたりしたら、この前のぬっぺふほふみたいに崩れちゃうんですよね? どうしてこの人は〈核〉がないのに、綺麗な体のままなんですか」
「言ったろ。『これから入れるところ』ってな。要するにこの幻獣は未完成だ」
トキは立ち上がると包丁男を素通りし、その後ろで隠れている別の二人に近寄っていく。彼らもまた包丁男同様、相変わらず動けないでいる。トキはしばらく探るように二人を交互に見やっていたが、やがて薄墨色の着物をまとった男の方に手を伸ばした。
その懐から、光を放つ宝石が取り出される。
「女に入れるつもりだった〈核〉だな。けど、感じる神力がぬっぺふほふの時と違う。質が悪いことには変わりねえが」
「なんだと!」
「こんな状態の〈核〉を突っ込んでみろ。いかに美しい幻獣でも、瞬く間にクソみてえな仕上がりになる。この間のぬっぺふほふも、元はあそこの女みたいな見た目――出来のいい素材だったんじゃねえのか」
「素材……」
恭佳は眠る女の幻獣に目を落とした。
トキの言葉から察するに、先日のぬっぺふほふは質の悪い〈核〉を入れられたせいで、ああなってしまったということだろうか。
ということは。
「え、じゃああれって、偶然の産物……?」
「その可能性が高くなってきた」
男から奪い取った〈核〉を片手で弄びながら、トキが恭佳の前に戻ってくる。
「お前らに聞きたいことは色々とあるが、まずはこれだけ言っておく。幻獣作成が禁忌なのは知ってんだよな? 知った上で幻獣を作ってやがったのか?」
「ヨサカでは違法じゃないんだから、作っても問題ないだろう!」
「違法じゃないからやってもいいと? 阿呆。寝言は寝るときに言うから寝言だって分かってるか?」
――もしかしてトキさん、かなり怒ってるんじゃ……。
採用試験で一週間、助手に任命されてからまだ二日という短期間しかトキと過ごしていないが、それでも分かるほど、トキの声は地の底から響くほど低く、冷たい怒気が含まれていた。
この怒りを向けられているのが自分でなくて良かったと思えるほどだ。
「確かにヨサカで幻獣を作るのは違法じゃあない。だからといって好き放題させて、幻獣が溢れかえったらどうなる? それもお前らが作ったような無残な幻獣が
ぬっぺふほふに突撃されたことを思い出して、恭佳の背筋に冷たいものが流れる。
あんなものがあちこちにいて、何の前触れもなく襲ってきたら、恐ろしい以外のなにものでもない。
「当然、民の生活を脅かすような幻獣は討伐される。それだけならまだいい。そんな幻獣を作った奴ら――魔術師まで危険だと判断されたら? 懲罰を受けるだけで済めばいいが、二百年前みたいに『魔術師は滅びるべし』という風潮がこれをきっかけに再び生まれたら。どうなるか、頭の悪そうなお前らでも分かるな?」
持ってろ、とトキから〈核〉を託される。ぬっぺふほふの〈核〉とよく似ているが、こちらは青みが強いように感じた。表面は荒く削られ、持つ場所によっては尖っているためちくちくと手のひらに刺さる。
なくさないようにしまっておこうとカバンのふたを開けたと同時に、ぱん、と甲高い音が恭佳の耳に入った。顔を上げると、トキが包丁男の頬を再度、平手打ちするところだった。両頬を張られた彼は、体はいまだに動かないようだが、恨めしげにトキを睨みつけている。
「お前らは興味本位で幻獣作成に手を出したのかも知れねえけどな、軽はずみな行動は全世界の魔術師を危険にさらすって覚えておけ! もし魔術師たちが問答無用で捕らわれはじめてみろ。真っ先に処刑されるのは、幻獣作成の永久禁止を条件に続いている二家だぞ」
そんな、どうしてと呟いた恭佳の声を、トキはきちんと拾ってくれたらしい。
「見せしめだ。どんなに大人しく暮らしている魔術師でもこうなるんだっていうな。そんなこと、俺が絶対に許さねえ」
最後にもう一度だけ包丁男の頬を打ち、トキは彼の手から包丁を抜き取って床に放り投げた。続いて他の男二人も順に殴りつけ、満足した風ではなかったものの、トキは一仕事終えたと言いたげに彼らの頬を打った手をぶらぶらと揺らしていた。
これからどうするのだろう。女の幻獣を放置しておくわけにもいかないだろうが、〈核〉を入れようものなら幻獣を作成したことになってしまう。
そもそも彼女は、どこから運び込まれたのだろうか。
トキは〝素材〟と言っていた。あとは〈核〉を入れるだけで完成するはずの。けれど〈核〉の作り手であった男たちは質の悪いそれしか作れなかったようだし、そんな彼らに人形のように美しい素材を作れるとは思えない。となると、どこからか用意してきたと考えるのが良さげだが。
「……トキさん?」
幻獣になるはずだった女のことを訊ねようと顔を上げて、恭佳は首を傾げた。
トキの眉間に深いしわが刻まれ、ぼそりとなにか呟いていたからだ。
「どうしたんですか」
「物音がした」
彼が言った通り、恭佳も小さな音を拾った。隙間から入り込んできた小動物でも歩いているのかと思ったが、そんな軽い音ではない。
人が、極力音を殺して歩こうとしているような、重く軋んだ音だった。
男たちの仲間だろうか。実際、彼らもそう感じたのか、意気消沈していた三人の顔が希望を見出したように少しだけ明るくなる。反対にトキは不信感が増しているらしく、恭佳の肩を掴んでこっちに来いと耳元で指示してきた。
恭佳とトキは、行灯の光が届かない部屋のすみで身を縮まらせた。近くに転がっていた脚の短い小さな円卓をひきよせ、盾のように向きを変えてからじっと息を殺す。
廊下から聞こえていた音は、部屋の前でひときわ大きく軋んで、ぴたりと止んだ。耳が痛いほどの静寂がしばし流れ、それを断ち切ったのは〈核〉を取り上げられた薄墨色の着物の男だった。
「そこにいるのは誰だ?」
「なっ……!」
どかっと派手で耳障りな音を立てて、扉が室内に向かって吹き飛んできた。何ごとが起きたのかと円卓から顔を出しかけて、「伏せてろ」とトキに思いきり頭を掴まれ、勢い余って恭佳の顔が畳に激突した。
加減を考えてくださいと文句をつけたかったが、それどころではない雰囲気を察し、恭佳は鼻の痛みを堪え、トキを横目で睨みつけるだけに留めた。
「な、なんだお前――ぎゃっ」
包丁男が戸惑ったような声を上げ、語尾が醜く潰れたのを最後に、床に倒れる音が続く。
ようやく体が動くようになったのか、別の男二人が走り出す気配がする。包丁男に駆け寄ったのだろうか。
「なんなんだ、なんだよお前ら!」
「おい、しっかりしろ、おい! くそ、なんだって今日はこんな……!」
「幻獣を作っていただろう」
感情のこもっていない、平坦かつ重く低い男の声がした。この部屋にいた三人とは別の声だ。
「幻獣は人を襲う。善も悪もなく、ただ己の本能のままに」
ぐぎゃ、と聞くに堪えない、叫び声ともいえない叫びをあげたのはどちらの男だろう。間をおかずにもう一人も似たような声を上げ、それ以降、三人の声は全く聞こえなくなった。
一体なにが起こったのだろう。恭佳たちが息を殺す中、部屋に突撃してきた何者かは室内の物色を始めたようだ。見つかるとなにをされるか分かったものではなく、恭佳はひたすら見つかりませんようにと内心で祈るしかない。
行灯の火はまだ灯っているが、窓は閉ざされたままで部屋は薄暗い。おかげで恭佳たちも隠れることが出来ているが、窓から明かりを取り込まれれば瞬く間に発見されるだろう。
「フィオーレ・タチカワ。ここで幻獣が作られていたのでしょうか」
「恐らく」と答えたのは、幻獣は人を襲うと語っていた男だ。「この部屋だけでなく、家全体に証拠が残っているかも知れない。探しだして押収しろ」
「はっ、ただちに」
「僕はここを探す」
二人分の足音が去るのを待って、タチカワと呼ばれた男が動き始める気配がした。
何秒、何分が過ぎたのか分からない。淡々と探し物をする音だけが聞こえ、幸い恭佳たちが潜む方向に男はやってこなかった。
ぼそりと訝しげに呟いたのは、恭佳ほど緊張していなさそうなトキだった。
「……なんだ、この気配」
「なにかおかしなことでもあるんですか」
極限まで声を潜めたせいで、ほとんど言葉らしい言葉になっていない問いだったが、聞きとってくれたようだ。トキが無言で頷いた。だがここで話し続けると見つかってしまいかねない。口の動きだけで何かしら言ったようだが、暗すぎてわからなかった。詳しくはあとで、とかだろうか。
分かりましたと頷きかけて、恭佳は唇に違和感を覚えた。ぬるりとした液体が唇の上を滑ったのだ。指で触れて、その出所が鼻であると勘付く。畳に激突してからずっと鼻が痛いとは思っていたが、鼻血まで出てくるとは思わなかった。
慌てて鼻をつまんで血を止めようとしたところで、部屋の物色音も止む。探し物が見つかったのか、見つからなかったのか定かではないが、とにかくこのままタチカワが去ってくれればありがたい。
「誰かいるのか」
ただでさえ身を硬くしていた恭佳とトキが、さらにかたまる。
馬鹿正直に答えるわけもなく、二人はさらに息を殺した。けれど足音はこちらに近づいてくる。間もなく、恭佳たちを精一杯隠してくれていた円卓が、ゆっくりと持ち上げられた。
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